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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

養老先生 2/2  

2021-06-02 08:03:11 | 文化

 

>「意味がない」と勝手に思うな    

> この状態に慣れ切った人たちは、意味がない(と自分が思う)ものの存在を許さないようになってくる。>これが極端な形であらわれたのが、相模原市で生じた19人殺害事件だ。 > 問題は、自分にとって「意味がわからない」ものに接したときの姿勢だ、と養老先生は指摘する。 >「私にはそういうものの存在意義はわかりません」と思うのが当然なのに、自分がわからないことを「意味がない」と勝手に結論づけてしまう。>ここに現代人の大きな勘違い、問題があるというのだ。

 

そうですね。‘意味がない’ ‘自分にとって意味不明’ という事でしょうね。各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy.  意味は個人が勝手につけるものです。 全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。矛盾を含まない文章は、全て正しい考えを示している。考えは人によりまちまちである。ですから、正解は一つではない。幾らでもある。   

 

>「なぜそうなるかというと、すべてのものに意味があるという、都市と呼ばれる世界を作ってしまい、その中で暮らすようにしたからである。 >意味のあるものしか経験したことがない。そういってもいい。 >山に行って、虫でも見ていれば、世界は意味に満ちているなんて誤解をするわけがない」

 

そうですね。自然に親しむことは意味を発見する好機ですね。   

 

> そう、実のところ世界にあるもののほとんどの「意味」をヒトはわかっていない。

 

'私は、私が何も知らないということを知っている'。 (ソクラテス)     [無知の知] 'I know that I know nothing'.

 

>すべての「意味」を理解できると勘違いすれば、好奇心なんか生まれるはずもない。

 

そうですね。すぐに退屈男・退屈女になりますね。わが国の大学の中にも退屈な人間は沢山いるようですね。てすから、無哲学・能天気の世の中になる。          

 

>だからこそ普段から自然に接するべきだ、というのである。 >「それができなければ、せめてオフィスに意味のないものを置いてみる。 >それだけでも随分違いますよ」 

 

自然に接して良い考えができたら、科学雑誌 ‘NATURE’ (自然) に発表したら良いでしょうね。’NATURE’ は英国の雑誌 (週刊誌) です。      

 

> 養老先生は、最近、取材ではしきりにこんなアドバイスも口にしている。 >もちろん、「そんなことでどうなるというのか」と疑うのも、「自然を見たらどうなるのか、もっと具体的に説明しろ」と「意味」を求めるのも自由。  

 

自然に接したら科学哲学が生まれますね。だが、日本人は手つかずの自然を観察するよりも、整えられた自然を鑑賞する傾向が強いですね。トレッキング・キャンプ・探検などよりも日本庭園・岩風呂などの鑑賞の方を好みます。すると日本人は科学者にはならずして歌詠みになる。

フランク・ギブニー氏の著書 <人は城、人は石垣> には、以下のような指摘がされています。

日本語は英語のように、キチンとしたアリストテレス的文法に閉じこめられていない。言語として、日本語は「いま、ここ」に根ざしている。判断より気分に興味をもつ。意味より感受性に関心がある。英語を使うのは絶えず理論的な価値判断を行なう言語を使っていることであり、英語が価値判断を行わせる。一方、日本語は論理的、法的ないし哲学的判断を敬遠する。たとえば、日本語には to be に当る適当な動詞がない。”being とか“reality のような概念は明治時代、漢字から人工的につくらねばならなかった。「概念」 (concept) でさえ人工的につくらねばならなかった。 (引用終り) 

 

> ただし、常に自然と接している養老先生が今年80歳になってなお知的好奇心を持ち続け、新著を一気に書き下ろせるだけの丈夫な脳を持っているのは事実である。

 

そうですね。彼は大した人物ですね。   

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

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養老先生 1/2  

2021-06-02 02:55:25 | 文化

 

>367479        「どうしたら頭が良くなるのか」――養老先生はこう答えた >真実一路 ( 30代 会社員 )         21/05/31 PM00

>リンクより

>1日10分自然のものを見よ    

>「どうすれば頭が良くなるのでしょうか」 > こんな素朴すぎる問いに、どう答えればいいのか。 >「とにかく勉強しろ」「遺伝だから諦めろ」等々、色々な回答が想定されるが、『バカの壁』でお馴染みの養老孟司先生は、講演先などでよくこう答えている。>1日に10分でいいから、自然のものを見るといいですよ」 

 

そうですね。日本人は自然を直視することに興味を持っていませんね。これは残念なことですね。      

 

> なぜ自然のものを見るといいのか? 「緑が目に優しい」→「目が良くなる」→「本を読むようになる」→「頭が良くなる」といった「風が吹けば桶屋が儲かる」式の理屈なのか? > 新著『遺言。』では、その真意を次のように説明している。>ちょっと込み入った理屈だけれども、同書より抜粋・引用しながら解説してみよう。 

 

お願いします。   

 

> この本の中で、養老先生は「感覚所与」と「意識」に関する問題を論じている。 >「感覚所与」とは哲学用語で、ものすごく簡単にいえば、人の感覚器(目や耳や口など)に入ってくる第1次印象のことだ。 >代表的な例として目に入る光、耳に入る音のことだと思っておいてもいい。> 一方、「意識」はこういう感覚器から入って来た情報を、脳内で「意味」に変える。>たとえば「焦げ臭い」と鼻で感じた場合、「火事じゃないの」と判断するのが「意識」の役割である。 

 

他の動物でもやっていますね。力の弱い動物は小心でなくてはならない。     

 

> 往々にしてヒトの「意識」は、このような「意味」が感じられない情報を無視する癖を持つ。  

 

小心者はストレスを多く感じますからね。ストレスの軽減は生き物の願いですね。飼い猫と野良猫の境遇の違いですね。         

 

>それどころか、現代生活はなるべく感覚が働かないように努める傾向が強い。>養老先生は、ここに問題があると指摘する。 

 

極楽な世界にはそれ相当な問題もありますね。   

 

>「たとえば丸の内のオフィスにいたとする。 >風は吹かない。 >雨が降らない。 >エアコンがあるから、温度は一定。 >床は平坦で、堅さはどこも同じ。 

 

オフィスは実験動物のための飼育箱のようなものですね。刺激がない。   

 

> 代わりにオフィスではなく、山の中を歩いてごらんなさい。 >地面はデコボコ、木の根や草がある。 >雨が降ったらぬかるむ。 >風が吹き、いつの間にか日が傾き、明るさが変化する。 >小鳥がさえずり、小川が流れ、それが森に反響して、じつにさまざまな音がする」  

 

自然の探求は興味津々ですね。野生動物の世界ですね。危険がいっぱいです。        

 

>世界を意味で満たす意識    

> 都市の生活は、このような感覚からの情報をできるだけ遮断するつくりになっている     

 

そうですね。不安材料はストレスになりますからね。      

 

>「感覚所与を意味のあるものに限定し、いわば最小限にして、世界を意味で満たす。  

 

未知の世界をなくすることは我々が安心を無くすることですね。   

 

>それがヒトの世界、文明世界、都市社会である。> すべてのものに意味がある。  

 

文明開化ということになりますかね。  

 

>都会人が暗黙にそう思うのは当然である。>なぜなら周囲に意味のあるものしか置かないからである。>しかもそれを日がな一日、見続けているのだから。>世界は意味で満たされてしまう」

 

意味は個人が勝手につけるものですね。思考停止をしている人は、他人の付けた意味を暗記して覚えること精力を注いでいますね。すると、良くしゃべる受け売り専門の人が増えて来ることになりますね。     

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)     

 

 

 

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