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報道の自由  

2021-06-24 23:32:02 | 文化

 

>朝日新聞デジタル  >「報道の自由、免罪符でない」 中国が香港対応を正当化  > 朝日新聞社 2021/06/24 21:14

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> 中国への厳しい論調で知られる香港の日刊紙「リンゴ日報」の廃刊をめぐり、中国外務省の趙立堅副報道局長は24日の定例会見で「香港は法治社会だ。報道の自由は免罪符ではない」と語った。  

 

そうですね。中国は権威主義者の作った法治国家ですね。個人の価値観を示す機会は失われつつありますね。      

 

>同紙創業者らの逮捕や会社の資産凍結で同紙を廃刊に追い込んだ、香港当局の対応を正当化した形だ。  

 

立憲主義、人権、民主主義といった近代憲法の諸概念は欧米由来のものであり、こうした諸原理自体は、多様な個人の共生を可能にする基礎であります。普遍的なものとして受け入れなければならない。   

 

> 趙氏の発言は、加藤勝信官房長官が同日の会見で同紙の廃刊について「重大な懸念を強めている」と述べたことに関する質問に答えたもの。 

 

加藤勝信官房長官の発言には重みがあったのですかね。

 

>趙氏は加藤氏の発言について「でたらめな理屈は絶対に受け入れない」などとして、「日本の政治家が公然と中国内政に干渉することに対し、強烈な不満と断固とした反対を表明する」と語った。

 

加藤氏の発言は出鱈目な理屈ですかね。もしそうであるならば内政干渉は良くないですね。我々日本人には真理や法則、概念や倫理がありますかね。      

 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)    

‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)

 ‘日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。’    (ウスビ・サコ)      

 

>(北京=高田正幸) 

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)    

 

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。進歩が期待できる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' ということになり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の比較はこれである。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。      

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

 

 

 

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報道統制 2/2  

2021-06-24 20:14:12 | 文化

 

> 蘋果日報は24日、過去最高となる100万部を発行。 >香港の人口は約750万人で、7~8人に1人に行き渡る分量だ。 >それでも多くの市民が各地の新聞スタンド前に列をつくり、入荷するそばから売り切れる状態となった。 >他の主要紙もほとんどが蘋果日報の廃刊をトップニュースに掲げ、明報は「香港メディアの多様性を弱め、市民の選択肢を減らす」事態だとする識者見解を載せた。 

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ に関して以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)    

 

> 民主派支持者が蘋果日報に寄せる信頼は厚かったが、中国政府や親中派は、同紙や創業者である黎智英氏を「香港社会を乱す極悪人」「毒リンゴ」などとたびたび名指しで批判してきた。 >習近平政権の意を酌んだ香港当局は、同紙への締め付けを強化。 >特に今月17日以降、国安法違反容疑での幹部逮捕や関連企業の資産凍結といった強硬手段を連発してきた。 >30日の国安法施行1年の節目と、7月の中国共産党創立100年という重要イベントを前に、香港側が目に見える「成果」を急いだ可能性もある。 

 

この調子だと中国は、権威主義者と裏切者ばかりの住みかとなるでしょうね。日常的に粛正が繰り返される国になるでしょう。不幸な国の始まりですね。アジアの友人たちはどうしているのでしょう。            

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。戦時中は玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

 

日本人には意思がない。だから意思決定はできない。意思決定が必要な時は、恣意決定に頼ることになる。つまり、事の次第・自然の成り行きで決着をはかる。このやり方は、アニマルも同じである。

恣意 (私意・我儘・身勝手) はバラバラな単語のままで存在するから文章にならない。だから、意味はない。行為・言動の本人に説明責任はとれない。  

日本人には、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) があって、意思疎通 (相互理解) がない。恣意 (腹) の探り合い (談合) があって、意見の交換 (議論・対話) がない。恣意決定 (盲目の判断) があって、意思決定 (理性判断) がない。だから、日本人の責任者は説明責任が取れない。未来時制の文章がないから未来の内容もない。未来は一寸先が闇である。危険が一杯である。お変わりのないことが何よりなことである。    

 '為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり'  上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)     

日本人には意思がない。受動ばかりで能動がなくては事は始まりませんね。

 

 

 

 

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報道統制 1/2  

2021-06-24 18:24:46 | 文化

 

>香港のリンゴ日報、26年の歴史に幕=当局圧力で廃刊―「報道の自由」危機的  >時事通信社2021年6月24日 16:09

(略)

> 【香港時事】中国共産党や政府への批判的姿勢で知られる香港紙、蘋果日報(リンゴ日報)は24日、最後の朝刊を発行し、26年の歴史に幕を下ろした。 >香港主要紙で唯一、民主派支持を堅持し続けた同紙の存続は「一国二制度のバロメーター」と見なされてきたが、当局の度重なる圧力を受け、廃刊に追い込まれた。 >異論排除の動きは加速し、中国本土的な報道統制が実現しつつある。 

 

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。進歩が期待できる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' ということになり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の比較はこれである。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。      

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。著者本人の個人の価値判断が抜け落ちている。その上現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

 

> 24日付1面には、香港市民から届いた「リンゴを支持する」との言葉を大きく掲載。 >23日夜に雨の中を同紙のビル前に集まり、最後の編集作業を応援する香港市民の写真を載せた。 > また、「香港人への告別」と題した社説で「報道の自由は暴政の犠牲となる」と無念さをにじませるとともに、読者への謝意を表明。 >土に埋められたリンゴの種が芽吹き、一層大きく美しい果実を実らせる例えを挙げ、「永遠に皆さんを、香港を愛します」と結んだ。 > 蘋果日報読者の30代女性は「昨年6月末に国家安全維持法(国安法)が施行されてから多くの事件があったが、蘋果日報がなくなることが最もつらい。 >蘋果日報は、香港に報道や出版の自由がまだ残っている証しだった。 >本当にとても、とても悲しい」と強調した。 

 

フランク・ギブニー氏の著書 <人は城、人は石垣> には、以下のような指摘があります。

日本語は英語のように、キチンとしたアリストテレス的文法に閉じこめられていない。言語として、日本語は「いま、ここ」に根ざしている。判断より気分に興味をもつ。意味より感受性に関心がある。英語を使うのは絶えず理論的な価値判断を行なう言語を使っていることであり、英語が価値判断を行わせる。一方、日本語は論理的、法的ないし哲学的判断を敬遠する。たとえば、日本語には “to beに当る適当な動詞がない。”beingとか“realityのような概念は明治時代、漢字から人工的につくらねばならなかった。「概念」 (concept) でさえ人工的につくらねばならなかった。   

 

 

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風間晋氏  

2021-06-24 01:34:24 | 文化

 

>香港の新聞「リンゴ日報」が、[2021年6月] 24日の新聞を最後に発行を停止すると発表した。>政府の弾圧により、営業の停止を余儀なくされたとしている。>香港で民主勢力の象徴とされた新聞の発行停止だが、中国にはどんな思惑があるのだろうか。> 風間晋解説委員に話を聞く。

>風間解説委員「愛国者と認定されなければ、選挙に出られなくしたのと同じで、愛国メディアでなければ、もはや香港に居場所はないということを見せ付けました。>ジャーナリスト個人の自由と民主主義への信念や専制政治への抵抗をくじくことは時間が掛かるので、会社の銀行口座を凍結し、早々と発行停止に追い込みました。>6月末の香港国家安全維持法施行1年と71日の中国共産党成立100周年を見据えてのことと思います。>特に100周年では、共産党が中華民族の偉大な復興の実現を進めてきた唯一無二の存在であることをアピールすることでしょう。>古今東西、為政者は、自らに都合のよい歴史を書いてきましたが、香港などについていったいどう描くのか、しっかり見極めなければならないと思います」

 

しっかり見極めた暁には香港にはどのようなことが起こるのでしょうかね。   

 

>香港では民主勢力の象徴とされてきただけに、市民にもそしてメディア業界全体にも大きな衝撃と危機感を与えそう。

 

メディア業界は市民と世界にいかなる行動を訴えかけるのですかね。  

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。進歩が期待できる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' ということになり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の比較はこれである。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。      

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。

 

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。戦時中は玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。

意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。

‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

‘兎角、この世は無責任’ という事か。

自己の意思を表せば当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思表示の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって、世界に属していない蚊帳の外。  

 

 

 

 

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