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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

自然 2/2  

2021-06-10 23:05:14 | 文化

 

そうですね。欧米人には意思がある。だから、意思決定をする。  

日本人には意思がない。だから、意思決定が必要なときには事の次第と成り行き任せでその決着を辛抱強く待っている。   

フランク・ギブニー (Frank Gibney)  氏の著書 <人は城、人は石垣> には、日本人の意思決定に関して次のようなことが書かれています。

 ペリー提督は、日本人はアメリカ人のように敏速に行動しないと注意された。それは、このように説明された。数人の日本人が黒船を訪れたいと思って集まったとする。一人が「いい日だな」という。これに二人目が「なんという気持ちのいい日だ」と調子を合わせる。三人目が「波も見えないぞ」という。最後に四人目が「船に行ってみようじゃないか」と提案する。  ニューヨーク・デイリー・ニューズ (1854年6月13日) (引用終り)

 

>その中の一つとして、「私」とか「私の大事にしたいこと」もあるんですけど、過度にそこが強いとか大事というよりも、「それも一つとしてあるよね」っていう感覚で全部動いている、というのがすごく自然(じねん)的だなと思っています。

 

そうですね。完全な無意思の状態ですね。    

 

>さらに、今は「私」っていうことを言ったんですけど、それをそのまんまちょっと広げて、「組織」って言ったときにも結構近いものだと思っていて、組織には絶対に1個正しいもの、例えば「ミッション」とか「ビジョン」とか「絶対やる目標」とかがあるっていうよりは、組織っていうものも、色んなものがある中の一つとして動的に存在してるものなので、この組織は「これだけをするために、これを達成するために存在してるんだ」って決めつけるのではなく、色んなことがあっていいよねっていう中で、組織自体も動的に漂って存在している、みたいな感じがすごく自然経営ぽいかなというふうにも思っています。

 

処世術があって教養 (哲学) がない。我が国では英米流の高等教育が成り立たない。つまり、大人になる為の教育 (哲学) が成り立たない。それは日本語の特性によるものでしょうね。これを民族性というのかな。ずる賢い人間という印象ではないのかな。野良猫の姿勢では個人的な信頼関係を築くことも難しい。                

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。進歩が期待できる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' ということになり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の比較はこれである。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実 (考え) の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。      

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。   

 

>=引用終わり=

 

 

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自然 1/2  

2021-06-10 22:48:06 | 文化

 

>367749        西洋の自然(しぜん)と東洋の自然(じねん)>向陽 ( 29 会社員 )           21/06/10 PM08

>同じ「自然」にも2つの読み方がある。>「しぜん」と「じねん」。>ほとんどの人が、「しぜん」としか読めなかったのではないだろうか。>実はこの2つの読みには、西洋と東洋の思考の大きな違いが表れている。>以下、リンク より引用    

>>もともと自然(しぜん)と自然(じねん)って何が違うんだということを調べると、1800年頃に、当時オランダ語かな、natuurっていう言葉を日本語に訳したときに「自然」という言葉を付けたのが、もともとの自然(しぜん)と自然(じねん)という言葉の意味が違ってきた頃なんじゃないかなと思っています。>自然(しぜん)つまりnatureって何なんだっていうと、人間が含まれているというよりも、人間の世界の外にある自然界、山とか川とか海とか、そういう外にあるものとして捉えているのがnatureの意味に含まれる。

 

そうですね。人間だけは特別扱いですね。   

 

>一方もともと日本語による自然(しぜん)・自然(じねん)という言葉は、すごく重なってるんだと思うんですけど、自分とか人間も全部含まれているある状態の中で捉えている言葉だった。  

 

それは日本風ですね。  

 

>そこにnatureという入ってきた言葉と、自然(しぜん)・自然(じねん)という言葉の違いになったらしいと。

>もっと辿っていくと、自然(しぜん)って日本語の中では「自然な」とか、形容詞や副詞で使うことも多いんですけど、natureって基本的に名詞。   

 

そうですね。Nature は名詞、形容詞はnatural ですね。   

 

>そこにある何かっていう「もの」と、「自然な流れ」とか「自然な状態」とかっていう副詞とか形容詞みたいな、違いがある。

>自然(じねん)というか日本のもともとあった自然(しぜん)という感覚と、nature、対象となっている「何か」みたいなことが、もともとすごく違ったんだなっていうのが、どうやら言葉が大分重なってきたらしい。

>一方でどっちの言葉にも共通しているのは、「人為的なもの」「人が何かをするもの」ではない、ということ。  

 

自然には意思が働きませんね。もし意思が働いているとしたら、それは神の意思でしょうね。  

 

>それがどっちも共通して根底にある。>これを、「なんでこの違いが出て来るのか?」みたいなことをどんどん掘り下げていくと、その先に見えてくるのは、西洋と東洋、この区分けも多分いろいろあるって話なんですけど、どうやら「西洋的な捉え方」と「東洋的な捉え方」、そこがそもそもだいぶ違うみたいなことになります。

 

そうですね。意思の無い日本人と、意思のある西洋人の違いでしょうね。        

[意思について] 日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。戦時中は玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)        

 

>西洋の捉え方ってもともとでいくと、基本的には世界は固定的なものだし、要素還元して分けていくと、神の作ったすごいシンプルな法則が最後そこにあって、それを理解すると世界はわかるんだ、という捉え方になっていきます。 

 

神と人間は通じているのですね。   

 

>東洋的な捉え方って、もっと世界が流動的で全て複雑で、関係性で絡み合ってる世界の中にあって、色んなものが複雑に絡み合って関わり合っているので、どこかだけを取り出したら分かるみたいな世界じゃなくて、全部続いている連続的なもの。>さっきちょっと言った「自然な」とか、動詞とか形容詞とかで取られるみたいに、世界が動詞でどう体系化しようかみたいな捉え方が、どうやら東洋的な方に近いらしい。  

 

現実の世界は千変万化してとどまる所を知りませんね。    

 

>そのnatureという言葉と、自然(じねん)っていう言葉で言ってるような、世界を分けてもらいたい的な世界と、それから全部動いていてその中をともに進んでいる、その中に自分もいるものとして世界を捉えてるみたいなことが、すごく自然(じねん)という言葉だったのかなということが、ベースとして大きな違いではないかなというふうに、だんだん見えてきました。

>この辺を、言葉で語れば語るほど難しくなってくるんですけど、「分けて捉えてる」的なものと、「動きながらそこに一緒にいる」ことだよね、という感覚の違いが、すごく自然経営と言っている空気感とか合わせたいことの >>自然(じねん)とは何か、前の回でも言った「あるがままに委ねる」にすごい近い感じがしていて、そこに私っていうものが強くいるというよりも、全部が流れの中で本当に動いているっていう感覚を持っていることだと思っています。

 

 

 

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エリート 4/4

2021-06-10 01:44:41 | 文化

 

>役人の世界ではいまだに大学卒業時点でエリートと非エリートの選別が行われているし、医療界もまた医学部を出た人間(すなわち医者)のみが医療を取り仕切るエリートとして遇されている。>しかしこの二つの世界も今後はグローバルスタンダードの波にもまれて徐々に変わらざるを得なくなっていくであろう。

 

我が国には処世術があって教養 (哲学) がない。だから我が国では英米流の高等教育が成り立たない。つまり、大人になる為の教育 (哲学) が存在しない。それは日本語の特性によるものでしょうね。これを民族性というのかな。ずる賢い人間という印象ではないのかな。野良猫の姿勢では個人的な信頼関係を築くことも難しい。                

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。だから独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、それは批判精神 (critical thinking) である。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。だから全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。進歩が期待できる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' ということになり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の比較はこれである。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実 (考え) の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。      

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

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