そうですね。欧米人には意思がある。だから、意思決定をする。
日本人には意思がない。だから、意思決定が必要なときには事の次第と成り行き任せでその決着を辛抱強く待っている。
フランク・ギブニー (Frank Gibney) 氏の著書 <人は城、人は石垣> には、日本人の意思決定に関して次のようなことが書かれています。
ペリー提督は、日本人はアメリカ人のように敏速に行動しないと注意された。それは、このように説明された。数人の日本人が黒船を訪れたいと思って集まったとする。一人が「いい日だな」という。これに二人目が「なんという気持ちのいい日だ」と調子を合わせる。三人目が「波も見えないぞ」という。最後に四人目が「船に行ってみようじゃないか」と提案する。 ニューヨーク・デイリー・ニューズ (1854年6月13日) (引用終り)
>その中の一つとして、「私」とか「私の大事にしたいこと」もあるんですけど、過度にそこが強いとか大事というよりも、「それも一つとしてあるよね」っていう感覚で全部動いている、というのがすごく自然(じねん)的だなと思っています。
そうですね。完全な無意思の状態ですね。
>さらに、今は「私」っていうことを言ったんですけど、それをそのまんまちょっと広げて、「組織」って言ったときにも結構近いものだと思っていて、組織には絶対に1個正しいもの、例えば「ミッション」とか「ビジョン」とか「絶対やる目標」とかがあるっていうよりは、組織っていうものも、色んなものがある中の一つとして動的に存在してるものなので、この組織は「これだけをするために、これを達成するために存在してるんだ」って決めつけるのではなく、色んなことがあっていいよねっていう中で、組織自体も動的に漂って存在している、みたいな感じがすごく自然経営ぽいかなというふうにも思っています。
処世術があって教養 (哲学) がない。我が国では英米流の高等教育が成り立たない。つまり、大人になる為の教育 (哲学) が成り立たない。それは日本語の特性によるものでしょうね。これを民族性というのかな。ずる賢い人間という印象ではないのかな。野良猫の姿勢では個人的な信頼関係を築くことも難しい。
非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。
世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。
自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。
意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。進歩が期待できる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' ということになり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の比較はこれである。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。
非現実 (考え) の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。
わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。
>=引用終わり=
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