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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

現世主義 2/2  

2021-06-28 16:58:20 | 文化

 

(1/2からの続き)

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。これは序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。   

 

>言い方を変えれば数値に遮られ内容を見なくなった。

 

そうですね。価値を数値で即断できる世の中になりましたね。   

 

>安全、信用、そういった一見して価値の置き所が心の中にありそうなものも例外ではない。>たとえば建設現場や工場で取られている安全対策は人の命の尊さや後に残される家族を思ってのことではない。 >信用を失うことでこうむる損益や支払うべき賠償と安全管理への投資の比較(=損得勘定)である。 

 

安全・信用も法による強制によるものですね。   

 

>補償制度が整った先進国ほど作業場の安全への投資が余儀なくされ、それは信用の指標として商品の単価に跳ね返る。 >逆に途上国では労働者に泣き寝入りを強いることで安価な製品を製造できる。  

 

そうですね。途上国では必要経費が少ないですね。安全の格差ですね。         

 

>だから先進国は途上国で製造したものを輸入する。 >が、資源の輸入にしろ、現地生産にしろ、「投資」の一言が先進国による途上国からの搾取に正当性を与えている。

 

そうですね。投資があれば雇用が生じ、人々の生活が安定しますからね。   

 

>途上国の産業がどのような環境下にあるかを見て見ぬ振りをせざるを得なくなる。  

 

途上国は何としてでも雇用が欲しいからでしょうね。    

 

>おなじ搾取を国内の移民に、被差別集団に、後ろ盾のない弱者たちに強いるようになる。  

 

そうですね。人は誰でも雇用が欲しいからですね。雇用があれば人々はその地に定着する。雇用が無ければ人々は流浪の民となる。   

 

>が、いつのまにか自らも搾取される側に置かれることになる。  

 

雇用があれば搾取には目をつぶることになりますね。ピンハネされても雇用を拒否することはできませんね。      

 

>第三に、理論と数量により生まれた信用や価値というものに一人歩きを許し、それを「権威」や「知名度」に成長させてしまう。 >人はこれに出くわすことで事象の吟味を怠る。 >思考停止状態のまま社会との関係を続ける。 

 

人々の頭脳は楽ちんの方に流れますね。   

 

>多くの人々の皮膚感覚がここで麻痺を起こす。   

 

そうですね。皮膚感覚も頭脳の働きによるものですからね。    

 

>こうなれば内容は置き去りで権威と知名度だけを追いかけさえすれれば価値にも信用にも接することができる。

 

詐欺でなければ良いですがね。内容のないものは空しいですね。       

 

>その指針としての貨幣が活躍し、科学者、知識人、企業、報道、教育という権威の売り手と、買い手である民衆の双方がひたすら市場を膨らませ続ける。

 

バブル経済のようなものですね。    

 

>しかしそれは貨幣を注ぎ込み、高く売り、高く買わされ、負債を抱え、日々の糧のためとは別の無意味な労働に日の殆どを費やし、頭を悩ませ、気づけば精も魂も尽き果てることを意味する。   

 

残念なことに人々の生活はシンプル・ライフとはかけ離れたものになりましたね。   

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

 

 

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現世主義 1/2  

2021-06-28 16:41:33 | 文化

 

>368017        左脳偏重=現世主義の弊害  >匿名希望    21/06/20 PM07

>リンク より引用

>厄介なことに現世主義は自覚症状のない病によく似ている。 >「あなたは病んでいる」と説いたとしても当人が認めないことには治療の余地がなく、しかも当人は至って元気に生きてゆける。 >しかしそれは社会全体を確実に蝕み壊死へと導く。 

 

困ったことですね。わが国の国民病ですかね。    

 

>ではその過程を書いてみるとする。>現世主義が浸透した社会とそこに生きる人々はどうなるか。 

 

日本人には現実 (技術) があって、非現実 (考え) がないということではないでしょうか。無哲学・能天気ということですかね。      

 

>第一に、理論で整理された判断にのみ理解を示す。 >数式や統計に表すことができ、さらにそこから予測可能な事象つまり「目に見えるもの」はその存在と価値を認めることができるが、そうでないものには口先で敬意を表することはあっても認めはせず、精神論、感情論などと名づけて価値判断の対象から外す。 

 

 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)    

‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)

 ‘日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。’   (ウスビ・サコ)   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。進歩が期待できる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' ということになり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の比較はこれである。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。      

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。 

 

>第二に、凡そ数量による裏付けがあるものを価値として認め信用することができる。 >物を価格で評価し、職業を収入でえらび、学歴とは獲得した点数の総量、学校は偏差値と倍率、刑罰は量、保障は額、世相を指数化し、企業を実績で格付けし、多くの著作が流通していれば知識人と認め、多数の受賞があれば権威と呼び、多額の寄付があれば篤志家となる。得票が多ければ与党になる。つまり、価値を比較検討するためには数量で具体化することが必要となった。  

 

日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。 (2/2へ続く) 

 

 

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