聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ヘブル書9章1~14節「キリストを示す幕屋 聖書の全体像21」

2019-07-28 06:22:01 | 聖書の物語の全体像

2019/7/21 ヘブル書9章1~14節「キリストを示す幕屋 聖書の全体像21」

 聖書の物語の全体像をお話しして、しばらく「モーセ契約」を見ています。神は、エジプトで虐げられていたイスラエル人を救い出し、神の祝福を受け継ぐ民としてくださいました。それは、イスラエルだけを救うためではなくて、全世界に対する祝福を現す模範としてでした[1]

 神はイスラエルに、新しい生き方を示す「十の言葉(十戒)」を初めとする律法だけでなく、「幕屋」という建物を下さいました。それは、間口4m半、奥行き13m、高さ4m半の聖所(この会堂だと、礼拝堂の長椅子の両端ぐらいと、奥行きが礼拝堂より少し長いくらいです)。そして、その聖所の前に洗い場の水溜(洗盤)と生贄を焼く祭壇があり、周りを44m×22mの幕で覆って庭としている構造でした(鳴門教会の敷地があるブロックの三分の二ぐらい)。

  出エジプト記は、この幕屋の設計図や建設のことが詳しく記されています[2]。エジプトを脱出するまでの経緯や、十の言葉のような律法(規則)よりも詳しく、丁寧にたっぷりと書いているのです。それぐらい、幕屋はモーセ契約にとって大事ですし、今日のヘブル書によれば、新約の時代の私たちにとっても、幕屋は大切なことを教えてくれるのです。

 何よりも、モーセ契約は、神が戒めを与えるだけでなく、幕屋(そして大祭司)を与える契約でした。御言葉を守れない人間の限界も十分に弁(わきま)えて汲(く)み取る契約でした。勿論、律法そのものが人間の間違いや社会のいざこざを想定しています。決して規則だけで縛ってはいません。聖書は、神の民がユートピアであるとは思わず、イスラエルも教会も、人の集まりである以上、いつも問題に対処しなければならない現実を前提としています。幕屋は祭司たちが生贄を捧げて、人が罪を犯したらそこにいって決められた償いをして、主の赦しを得るようにしていました。罪を犯した時だけでなく、朝晩、生贄が捧げられ、毎週、毎月、毎年と折々に儀式や記念のお祭りがありました。また、秋には「贖いの日」という大きな祭りがあり、すべての罪の赦しのために、大祭司が聖所の奥にまで入ることになっていました。こうして、主の大きな恵みの中に自分たちが支えられている。主の憐れみがあって、今ここにある事実を、幕屋の儀式を通して、目で見るように思い起こしていたのです。

 幕屋で大祭司が生贄を捧げることは、自分たちに罪があることを認めさせるものでした。そして、その罪は適当に解決して済ませるのではなく、神の前に持って行くことが必要だとも幕屋は示していました。そして、幕屋の中の「第二の垂れ幕」の後ろの至聖所には、大祭司でさえ一年に一度しか入れなかったのです。それは人間の罪が、聖なる神の前に相応しくないからですし、幕屋そのものが持っている限界をも示していました。先のヘブル書にこうありました。

ヘブル9:7…第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入ります。そのとき、自分のため、また民が知らずに犯した罪のために献げる血を携えずに、そこに入るようなことはありません。

聖霊は、次のことを示しておられます。すなわち、第一の幕屋が存続しているかぎり、聖所への道がまだ明らかにされていないということです。

 当時の大祭司は、自分も罪がありましたから自分のためにも生贄が必要でしたし、その生贄もまた動物の生贄で、神の前に完全な生贄ではあり得なかったので、至聖所に入るには中途半端でしかなかったのです。ですから、繰り返して動物の生贄が捧げられ、大祭司も年に一度しか奥の至聖所にまで入ることは出来ませんでした。それでも幕屋は、人々に対して、神が私たちに罪があるにもかかわらず、私たちを受け入れてくださること、私たちの罪を怒って罰するのではなく、赦しや解決、和解を備えてくださることを確かに示していました。手続きはいろいろあるにせよ、主は赦そうと待っていてくださる。悔い改めるなら、受け入れてくださる。その事を、モーセ契約は幕屋を通して語っていました。モーセ契約の結び、申命記には、

申命記33:27いにしえよりの神は、住まう家。下には永遠の腕がある。…

 神は私たちの家となってくださり、私たちの下に永遠の腕があって、何があっても私たちを支えてくださる。そんな安心を告白することに、幕屋は繋がったのです。「幕屋」という言葉自体が「住む」から来た言葉です[3]。神が私たちの内に住んでくださる、私たちの中に幕屋を張って、ともにいてくださる。まだ神と私たちとの間には解決しなければならない罪や様々な問題があるけれども、それでも神が私たちと一緒にいてくださる。そう示されたのです。

出25:8「彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。」

 幕屋は神の「家」でした。神がご自分の家を、私たちの中に造れと言われたとは、驚くべきことですね。特に、その至聖所の手前の幕には、ケルビムという御使いの模様が織り込まれていました。それは、エデンの園でアダムとエバが神との約束を破って追放された時、エデンへの道をケルビムが塞いだことを思い起こさせます。神がこの世界を造られた時のエデンの園、神と親しく交わり、罪がなかったエデンの園を思い起こさせる幕屋は、聖書の最初の天地創造へと記憶を呼び覚まして、将来には、再び神との親しい交わりが、エデンの園が現していたこの世界の姿が完成される日が来ることを待ち望ませるものでもあったのです。

 この幕屋は、後に神殿という立派な建物にとって変わられますが、それ自体は主から命じられた事ではなく、ダビデやソロモンの思いつきで、功罪両面がありました。主のために立派な神殿を建てたい、という動機は純粋であっても、やがて建物そのものが偶像になりかねませんし、実際、イエスがおいでになった時には建物が誇られていましたし、初代教会は、神殿を冒涜したという罪状で捕らえられたり殉教に至ったりしたのです。しかし、本来の幕屋は、キリストがおいでになることを示していました。祭壇の犠牲や「第一の幕屋」での儀式は、イエスがご自分をおささげになったことによって完了しました。イエスが、十字架に架けられて、息を引き取った時、神殿の幕が裂けたとあります。幕屋の覆い、隔ての垂れ幕が裂けたのです。

マタイ27:50しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。51すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。地が揺れ動き、岩が裂け、…

 大祭司も年に一度しか入れなかった、神との間を仕切る聖所の幕が裂けて、私たちは今イエスによって神のおられるところに近づくことが出来るのです。神殿や幕屋は、イエスの十字架によって、その役割を果たし終えたのです。しかし、幕屋のイメージは新約でも続いています。

ヨハネ1:14ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た…[4]

 この「住まわれた」は「幕屋を張る」という言葉なのです。イエスのおいでが、私たちの間に幕屋を張って住まわれる、イエスご自身が私たちの幕屋というイメージなのです。また、

ヨハネの黙示録7:15「それゆえ、彼らは神の御座の前にあって、昼も夜もその神殿で神に仕えている。御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られる。」

21:3…「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。」[5]

と幕屋のイメージで、神が私たちとともにいることが語られます。幕屋はエデンの園を振り返らせもし、将来の黙示録の描く終末にまで広がる、神がともにおられる事のシンボルです[6]。思い描いてください。イエスが来て私たちの上に幕屋を広げて、一緒に過ごそうと仰る。神は私たちといてくださる。私たちの問題や、神や自分をどう考えていようと、神は私たちとともにいたい。天の御殿や宮殿にデーンと住まうよりも、私たちとともにテント暮らしをしたい神。私たちに色々問題はあっても、神の子イエスが命を捧げて、その問題の片を付けて、私たちが幕屋の奥まで入れるようにしてくださった。そういう願いを、主イエスが来る一千五百年も前から、幕屋に託して伝えておられました。ここにも、主の贖いの物語が見事に現されています。

「主よ、幕屋において示された、あなたの臨在、罪の赦しの必要、そして将来の約束を有難うございます。あなたは私たちとともに住まうことを喜ばれ、約束してくださいました。今ここでも、主が私たちと旅を共にしてくださっています。下には永遠の腕があることに励まされ、御言葉に従い、神の民として歩ませてください。あなたの愛によって日々新しくしてください」



[1] 出エジプト記19章3~6節「モーセが神のみもとに上って行くと、主が山から彼を呼んで言われた。「あなたは、こうヤコブの家に言い、イスラエルの子らに告げよ。4『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。5今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。6あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」」

[2] 出エジプト記が、1~15章「エジプト脱出」、16~23章「律法付与」、そして24章から40章までを「幕屋建設」に当てている構造、とも読めます。この読み方ですと、32~34章の「金の子牛」の出来事さえ、「幕屋」との関係の中で見ることになります。興味深い視座です。

[3] ヘブル語「ミシュカン」の語根は「シャーカン(住む)」です。申命記34:27の「住む家」は違うヘブル語ですが、33:28「こうしてイスラエルは安らかに住まい、ヤコブの泉だけが穀物と新しいぶどう酒の地を満たす。天も露を滴らす。」は、シャーカンです。

[4] ヨハネ1:14「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

[5] その他、ヨハネの黙示録12:12「それゆえ、天とそこに住む者たちよ、喜べ。しかし、地と海はわざわいだ。悪魔が自分の時が短いことを知って激しく憤り、おまえたちのところへ下ったからだ。」」、13:6「獣は神を冒瀆するために口を開いて、神の御名と神の幕屋、また天に住む者たちを冒瀆した。」、

[6] ヨハネの黙示録では、21:22-23「私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。23都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。」と、神殿も太陽も、神と子羊(イエス)とがおられることで無用となると言われています。それを援用すれば、「幕屋」も神がともにいますことの表現に他ならないでしょう。

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出エジプト記20章1~17節「十のことばに生かされる 聖書の全体像20」

2019-07-14 15:20:47 | 聖書の物語の全体像

2019/7/14 出エジプト記20章1~17節「十のことばに生かされる 聖書の全体像20」

 聖書の物語の全体像をお話しして来て、今日は

「十のことば」

を取り上げます。神はこの世界に大きくて深いご計画を持っています。神に背いた人間を回復するために、神は一つの民族を選びました。それがアブラハムの一族であり、その子孫のイスラエルの民でした。今から三千五百年ほど前、エジプトで奴隷のように扱われていたイスラエル人を、神は救い出してくださって、エジプトから海を渡って、約束の地へと旅立たせました。その時に与えられたのが、今日読みました「十のことば」(十戒)です[1]。この「十戒」は契約そのものと言われます。

申命記4:13主はご自分の契約をあなたがたに告げて、それを行うように命じられた。十のことばである。主はそれを二枚の石の板に書き記された。[2]

 二枚の石の板にかき込まれた「十のことば」がそのまま「主…の契約」と言われています。ここには、主がイスラエルの民に与えられた新しい関係、契約のエッセンスがあるのです。

 これはただの戒めや規則ではありません。「この言葉を守らなければ救われない、一つでも破れば神の怒りを買う」というような規則ではありません。何しろこの言葉が与えられたのはエジプトでの苦しみから解放された後です。エジプト軍が追いかけてきても、神は海に道を開いて、彼らを救って、エジプト軍を海に投げ込んでしまう、大いなる救出が行われた後でした。既に彼らは自由にされて、神のものとなっていたのです。ですから、2節の序文が肝心です。

「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。

 主が先に奴隷の家から導き出してくださり、「あなたの神、主」となってくださった。この恵みの出来事が土台となって、その上で生き方が語られていきます。「人が律法を守ることが土台となって、神の恵みが約束される-人の生き方が揺らげば、神の恵みも取り上げられる」ではないのです。神の一方的な恵みによる解放が先にありました。そして、それに続く十の約束も、規則や禁止という以上に解放の言葉、驚くべき主の宣言でもあるのです。例えば、

あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない

はどうでしょう。人を奴隷とする社会から連れ出された神、主。この方は、ご自分の他に神はいないと強く言われます。翻って、エジプトでは、ファラオや高官たちが神の名を借りて、イスラエルや外国人を働かせていました。その苦しみの叫びを封じ込めていました。神である主はそのようなエジプトで用いられる「神々」が無力であることを、あの葦の海の奇蹟で示しました。そして、これからもイスラエルの民の中には、ご自分以外に神があってはならないと言われます。国家や集団の指導者が、神のように振る舞って、人を奴隷のように従わせることはよく起こります。神はそのような在り方を厳重に禁じます。王や大祭司も、牧師や長老も、親や教師も、神の名を騙って人を踏みつけることが厳しく禁じられるのです。

 またこの「十の言葉」の中で一番長いのは、8節から11節の

「安息日」

です。六日は働いて、週に一度は休むことが言われます。あれをせよ、役に立て、怠けるな、より「休みなさい」が一番強調されています。それも自分が何もしない、というだけでなく、奴隷や家畜や外国人もともに休んで息をつき、解放感を味わい、神が造られた世界を全身で喜ぶ。これも、「十の言葉」の持っているメッセージが、人間社会の陥る思考やシステムを引っ繰り返す事実です。

 12節以下の

「父と母を敬え。殺してはならない」

も無条件です。エジプトでは、親子の関係にファラオの命令が介入して、生まれた子どもをナイルに捨てよと言われていました。主は、そういう関係を禁じます。父と母との関係を重んじる。勿論、父母を神だと思って従え、ではありませんが、父と母より神を敬え、とも言われません。主は親子関係に尊敬を回復させます。殺してはならない、も革命的です。日本の士農工商、インドのカースト制度、身分が低ければ、命の重みなどないも同然という中で、神は殺人を無条件に禁じました。また、

姦淫してはならない

と言われて、結婚を聖別しました。引いては、一切の性的虐待や性の商品化を禁止します。

 こうして少し考えただけでも、「十のことば」が束縛どころか、人間が本当に人間らしく生きる国を示していると分かります。ただの道徳ではなく、神が神である国、人を解放してくださる神だけが神とされる国のビジョンです。言い換えれば、これが神の契約なのです。

 「十のことば」は「してはならない」というより、元々は「○○しない」と言い切る文です。

他の神がない。
偶像を造らない。
御名をみだりに口にしない。
安息日を覚える。
父と母を敬う。
殺さない。
姦淫しない。
盗まない。
偽りの証言をしない。
隣人の家を欲しがらない

 そういう神の国の自由な生き方を神は示して下さいました。だからといって、イスラエルの民はこれに従えず、逆らいました。欲に流されて、奴隷やバベルの塔を再建するような生き方をしてしまいました。私たちも今、主の愛を戴いて、それに憧れながら、まだ見えるものに流されたり、見慣れない人や出来事に脅威を抱いたりして、恵みとは真逆の言葉を言ってしまうものです。律法が束縛なのでは無くて、罪が私たちの心も考えも縛って、神の恵みから遠ざけているのです。そういう私たちに、御言葉は正反対の生き方を照らします。ですから、ダビデは詩篇で、度々、御言葉を賛美すると言います。御言葉、つまり十戒が私を生かすと言います。

詩119:50これこそ悩みのときの私の慰め。まことに あなたのみことばは私を生かします。

 主の言葉は、灯火、光[3]、金銀や蜂蜜[4]と歌うのです。私たちが神の戒めを守らなければならない、という以上に、神の言葉が私たちを守って、誘惑や絶望から、罪や愚かさから救い出してくれる。本来は、それが「十の言葉」という契約の祝福だったのです。

 この時から一千五百年ほど後、イエス・キリストがおいでになった頃、当時のユダヤ教社会では律法が丸きり逆の規則として扱われていました。それを守れば永遠のいのちをもらえる、という苦行やエリートだけが守れる規則だと考えられていました。ですから民衆はイエスに、律法を廃棄することを期待しました。しかしイエスはご自分が律法を「廃棄するためではなく成就するために来た」と仰いました。そして、律法の中で一番大事な戒めを問われて、

『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』

『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』[5]

 律法の肝が愛することなら、それは、救われるためにとか神に認められるためにの手段ではありえません。救いは、最初から神の一方的な恵みでした。そして、それは私たちが神を愛し、隣人を自分自身のように愛する生き方への救いでした。やがて御子イエスを地上に人として遣わす予定でした。最初から、神の契約はイエスによる新しい生き方を目標としていたのです。

律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。[6]

 新改訳第三版では「キリストが律法を終わらせられたので」でした。この「テロス」はゴールという意味での終わりなのです。十戒の序言が「わたしはあなたを奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主」という土台であるように、キリストは律法の目指すもの、ゴールです。イエスは私たちを愛し、ご自分のいのちをもって私たちを救ってくださいました。その恵みが目指す新しい生き方を「十のことば」や御言葉が豊かに教えてくれます。それは私たちの努力とか頭の中での作業ではありません。イエスが、私たちのうちに神の国を造り、導いて、今ここでも、神を愛し、互いに愛し合う生き方を造っておられる。そのために、私たちが御言葉を開いたり、互いに教え合ったり、失敗しては傲慢に気づかされて謙虚にさせられて、それをも包む主の恵みを戴いて、ますますイエスを仰がせてくださっている。そして、やがては必ず、神だけが神とされて、お互いが上下も嘘偽りもなく、一切妬むことのない御国を来たらせてくださる。そう信じて今ここでも、御言葉に守られて、神の国の民として歩んでいるのです。

「世界の王なる主よ。あなたが一方的な恵みによって私たちを救い、戒めによっても私たちを守って、教え諭してくださることを感謝します。あなたの恵みの力で、私たちを新しくしてください。御言葉により私たちを守り、あなただけを心から崇め、人も自分も同じように愛する心をお恵みください。私たちを通して、あなたの祝福を、希望を、この地に表してください」



[1] 聖書には「十戒」という言葉ではなく「十のことば」という表現が出て来ます。出エジプト記34:28「モーセはそこに四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、石の板に契約のことば、十のことばを書き記した。」、申命記10:4「主はそれらの板に、あの集まりの日に、山で火の中からあなたがたに告げた十のことばを、前と同じ文で書き記された。主はそれを私に与えられた。」

[2] 他に、申命記9:9、11「私が石の板、すなわち、主があなたがたと結んだ契約の板を受け取るために山に登ったとき、私は四十日四十夜、山にとどまり、パンも食べず水も飲まなかった。…11こうして四十日四十夜の終わりに、主はその二枚の石の板、すなわち契約の板を私に授けてくださった。」

[3] 詩篇119:105「あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。」

[4] 詩篇19:10「それらは 金よりも  多くの純金よりも慕わしく 蜜よりも 蜜蜂の巣の滴りよりも甘い。」、119:72「あなたの御口のみおしえは 私にとって 幾千もの金銀にまさります。」

[5] マタイ伝22:37-39。

[6] ローマ書10:4。

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出エジプト記14章21~31節「海に道が出来る 聖書の全体像19」

2019-07-07 17:14:15 | 聖書の物語の全体像

2019/7/7 出エジプト記14章21~31節「海に道が出来る 聖書の全体像19」

 今日の箇所は、モーセたちイスラエル人が

「葦の海」

に出来た道を通った奇蹟です[i]。聖書は私たちに、海の中に道を開くことも、全世界を造って支えることもなさる神を示しています。そして、その神が私たちを救い、私たちの神となることを語るのです。

 エジプトで奴隷とされていたイスラエル人の叫びを、神は聞いてくださり、モーセを遣わしてイスラエルを救い出しました。前回12章で子羊を屠って、その血を家の玄関に塗る「過越」の出来事があったことを見ました。神は、奴隷とされて苦しむ、声なき叫びを聞かれる。人が人を縛り付け、扱き使い、虐げる社会を神は終わらせ、新しく、自由で祝福に満ちた「神の民」としてくださる。四百年にわたる奴隷生活から、神の民、自由な民の歩みを下さったのです。

 ところがイスラエル人がちょうど海辺に宿営していますと、エジプト軍が来たのです。エジプトの王は惜しくなって、奴隷を連れ戻そうと追いかけてきました。前は海、後ろからはエジプトの戦車。絶体絶命と思われて、イスラエルの民はたちまちパニックになり、叫びました。

11…エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。12…実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。」

 ひどい恨み節です。オロオロ、グチグチで、希望も信仰もありません。しかしモーセは

13恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。14主があなたがたのために戦われるのだ。…

 そして主の言葉通り、モーセが手を海に伸ばすと、風が強く吹いて海の中に道が造られて、イスラエルはその中を進んで無事に渡り、エジプト人はそこで海の藻屑となるのです。

30こうして主は、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルは、エジプト人が海辺で死んでいるのを見た。31イスラエルは、主がエジプトに行われた、この大いなる御力を見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。

と言われます。神が自分たちを救われた大いなる御力を見たのがこの出来事でした。旧約聖書ではこの出来事が直接だけでも十四回引用されて、主への信頼を呼び覚ましています[ii]。神は力強いお方。その神が私たちの神であられる。それをハッキリと見て、彼らは主を信じたのです。次の15章は祝いと喜びに溢れた「モーセの歌」が歌われます。特に11節、

15:11主よ、神々のうちに、だれかあなたのような方がいるでしょうか。だれかあなたのように、聖であって輝き、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行う方がいるでしょうか。12あなたが右の手を伸ばされると、地は彼らを呑み込んだ。13あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、あなたの聖なる住まいに伴われた。

 20節21節ではモーセの姉ミリアムと女たちが、一緒にタンバリンを叩き躍りながら、この歌を歌っています。本当に喜ばしく、歓喜して賛美しています。神である主は、私たちを救い出し、私たちのために闘ってくださり、私たちに喜びの歌を歌わせ踊らせてくださいます。神は絶体絶命に思える状況にも、思いがけない道を開くことが出来る。神は力強く、何一つ出来ないことのないお方。世界を造られた神は、海も人の命も治める、全能の神。聖であり輝いて、讃えられ恐れられ、奇しい業を行われる。贖われた民を、恵みをもって導き、御力で必ずご自分の住まいに伴ってくださる。どんな力にも妨げられることなく私たちを救い出して、ご自身のものとして贖われた私たちを導き、神の住まいに入れてくださる。また、その神を侮って、神に成り代わって振る舞おうとするどんな人や国や勢力も、決してこの神に勝つことは出来ない。人を虐げて神のように支配しようとする権力者、有力者、国の王や戦車や軍隊の力をも打ち負かす方です。葦の海の奇蹟は、神が私たちを必ず守り、奴隷や苦しみ、人が人として扱われない状態から救い出してくださるという希望を与えます。こうして、イスラエルの民は、エジプトの奴隷生活を後にして、神の民として新しい生活へ、旅立っていったのですね。

 そう、「葦の海」の奇蹟は、ただ「神様には何でも出来る」という以上に旅の始まりでした。神が人を新しい歩み、神と共に歩む旅へと旅立たせた始まりでした。そんな力があるなら、わざわざ海を通らずに、エジプト軍をやっつけることが出来たとしても、神はイスラエルの民に海へと進ませられたのです。海は古代世界では、人を飲み込んでしまう恐ろしく強いもの、死をも象徴する場所でした。そこに出来た道を通ることには、並大抵でない勇気がいる踏み出しだったはずです。「どうせなら、海なんか通らない方法で助けよう。危険を取り除いて、慣れ親しんだエジプトに帰らせてあげてもいいな」とは神は考えませんでした。神は、道があるなどと思わない海に道を造って、そこを通らせます。慣れ親しんだ生活に背を向けて、新しい生活に進ませるのです。そうして始まった出エジプトの旅でした。そして、これは始まりに過ぎませんでした。この奇蹟でイスラエルの生き方や心がすっかり変わったわけではありません。この華々しく力強い大奇跡や、15章で喜び歌い踊った熱意は、直ぐ後で冷めていきます。

詩篇106:13しかし 彼らはすぐに みわざを忘れ 主のさとしを待ち望まなかった。

 「エジプトに帰りたい、昔は良かった、出て来なければ良かったのに」と言い続けるこの後、神の民としての生き方を十戒で示されても、彼らの生き方は変わりません。やがて、主よりも、富や繁栄や神殿を神として、弱者や外国人を顧みない国を造っていきます。人の心根は、どんな奇蹟や大きな体験によっても変わらない。でも神は、エジプトで禍を起こし、ファラオの心を頑なにもし、葦の海をも開く力ある神は、確かに民の心の中に働いてくださり、人を変えてくださる。長い旅路をずっとともにしてくださり、じっくり人に関わり、心に働きかけ、人を新しくなさるのです。神は、人間が造り上げた奴隷社会からも、人間の心の様々な偶像崇拝からも、私たちを引き出されます。行き詰まった状況を変えたり、起死回生の解決を見せたりする以上に、新しい道に踏み出す勇気、神を信頼して今までの在り方を手放す潔さも、人や私自身の心に与えてくださるお方です。私たちを変えて、神ならぬものを神とする生き方や、変化を受け入れない心を柔らかくしてくださる。人間が考えもしない意味で「全能の神」なのです。

 過越が十字架の予告であるように、「葦の海」は復活の予告です。全能の神であるイエスは、ご自分の十字架によって、すべての悪や支配を終わらせました[iii]。でも、キリストは死なずに勝利するのではなく、死や辱めや苦しみをも引き受けました。主は、全能の力で問題を解決して、華々しい勝利を収める、という道ではなく、死や苦難、絶望の中に道を開くことで、全能の御力を現される、不思議なお方です[iv]。私たちはこのキリストに結ばれて、新しい生き方、新しい旅路を進み、私たちの心や生き方を、神の恵みによって新しくされていくのです[v]

 パウロはこの葦の海の出来事を「洗礼」と重ねています[vi]。洗礼の水は、葦の海を思い起こさせ、イエスが死に踏み出した事実とも重なって、私たちも神の招きに飛び込んだ旅路にあることを現すのです。神は、しばしば人の生活を安泰にするよりも、死や八方塞がりな状況に置かれます。でもそこに、神は人が考えるよりも、遥かに大きく、尊い命を用意されています。そうして、私たちの心の奥深くに触れてくださいます。真実な主が、道なき所にも脱出の道を備えておられる。私たちのために戦って、人を奴隷や足蹴(あしげ)にする社会を引っ繰り返される[vii]。私たちがオタオタし、神に不信仰な言葉を吐いても、神は力強く導いてくださる。私たちはそう信じ、そして踏み出すのです。「葦の海」は上辺の大奇跡以上に、イエスの復活の予告です。その復活の命によって、神が私たちを生かしてくださっているのです。

「主よ。海に道を開き、私たちのための道となってくださった御力を賛美します。解放の喜びと、歌い踊る賛美を下さる御心を感謝します。今はそれが信じがたく、道が見えない思いをし、疑い叫ぶ思いをもあなたは聴き、知ってくださる憐れみも有難うございます。主の聖晩餐に与ります。どうぞ、私たちを主のいのちによって養い、今ここで神の民として歩ませてください」



[i] 以前は「紅海」とされて、出エジプトをテーマにした映画でも大きな紅海が舞台に描かれますが、今では、もっと小さな「葦の海」だろうと考えられています。とはいえ、それでこの奇跡が説明できるわけではありません。いずれにせよ、神の大いなる御力を現した一大事なのです。

[ii] 出エジプト14、15章以外に、民数記33:8「ピ・ハヒロテを旅立って海の真ん中を通って荒野に向かい、エタムの荒野を三日路ほど行ってマラに宿営した。」、ヨシュア4:23「あなたがたの神、主が、あなたがたが渡り終えるまで、あなたがたのためにヨルダン川の水を涸らしてくださったからだ。このことは、あなたがたの神、主が葦の海になさったこと、すなわち、私たちが渡り終えるまで、私たちのためにその海を涸らしてくださったのと同じである。」、ネヘミヤ9:11「あなたは私たちの先祖の前で海を裂き、彼らは海の真ん中の乾いた地面を渡りました。追っ手は、奔流に吞み込まれる石のように、あなたが海の深みに投げ込まれました。」、詩篇66:6「神は海を乾いた所とされた。人々は川の中を歩いて渡った。さあ 私たちは神にあって喜ぼう。」、77:19「あなたの道は 海の中。その通り道は大水の中。あなたの足跡を見た者はいませんでした。」、78:13「海を分けて 彼らを通らせ 堰のように水を立てられた。」、78:53「神が安らかに導かれたので 彼らは恐れなかった。しかし彼らの敵は 海がおおい隠した。」、106:8「しかし主は 御名のゆえに 彼らを救われた。ご自分の力を知らせるために。主が葦の海を叱ると 海は干上がり 主は彼らに深みの底を歩かせられた。 まるで荒野を行くように。10主は 憎む者の手から彼らを救い 敵の手から彼らを贖われた。11水は彼らの敵を包み 彼らの一人さえも残らなかった。」、114:3「海は見て逃げ去り ヨルダン川は引き返した。」、136:13「葦の海を二つに分けられた方に感謝せよ。 主の恵みはとこしえまで。14こうして 主はイスラエルにその中を通らせた。 主の恵みはとこしえまで。15ファラオとその軍勢を葦の海に投げ込まれた。 主の恵みはとこしえまで。」、イザヤ10:26「オレブの岩でミディアンを打ったときのように、万軍の主が彼にむちを振り上げる。杖を海にかざして、エジプトにしたようにそれを上げる。」、43:16「海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、17戦車と馬、強力な軍勢を引き出した主はこう言われる。「彼らはみな倒れて起き上がれず、灯芯のように消え失せる。」、51:10「海を、大いなる淵の水を干上がらせ、海の底に道を設けて、贖われた人々が通るようにしたのは、あなたではないか。」、63:12「その輝かしい御腕をモーセの右に進ませ、彼らの前で水を分けて、永遠の名を成し、」。以上旧約。この他、新約ではⅠコリント10:1「兄弟たち。あなたがたには知らずにいてほしくありません。私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。」、ヘブル11:29「信仰によって、人々は乾いた陸地を行くのと同じように紅海を渡りました。エジプト人たちは同じことをしようとしましたが、水に吞み込まれてしまいました。」で直接言及されています。また、ヨシュア3:16のヨルダン渡河、Ⅱ列王2:8は、このアレンジ。

[iii] コロサイ2章12節以下「バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じたからです。13背きのうちにあり、また肉の割礼がなく、死んだ者であったあなたがたを、神はキリストとともに生かしてくださいました。私たちのすべての背きを赦し、14私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。15そして、様々な支配と権威の武装を解除し、それらをキリストの凱旋の行列に捕虜として加えて、さらしものにされました。」

[iv] 全世界を造り支えて、海を分け軍隊も滅ぼせる方が、人となる道を選びました。神と人との間の、道などないところに、自らが道となって来られました。病を癒やし、死者をよみがえらせた方が、疎外された人と一緒に疎外され、冒涜者の汚名を着せられ、犯罪者と一緒に十字架に付けられました。もっと他の道だっていくらでも創造できたでしょうに、全能のイエスは、すべてを手放して、死に踏み込まれました。ご自分を全く惜しまず私たちに与えて神の愛を示し、罪の赦しを宣言し、すべての悪や支配を終わらせ、私たちとともにいると約束されました。

[v] 聖書は、この世界を造られた神が、今もこの世界に良い計画を持っておられ、必ずそれを完成させてくださる、という物語を語ります。私たちもそこに招かれています。それが見えなくて絶望する時も、私たちのために戦われる神、海に道を開く神、正義へと続く旅を導く神なのです。

[vi] Ⅰコリント書10章1節以下「10:1 兄弟たち。あなたがたには知らずにいてほしくありません。私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。2そしてみな、雲の中と海の中で、モーセにつくバプテスマを受け、3 みな、同じ霊的な食べ物を食べ、4 みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。…13 あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」

[vii] アモス5章24節「公正を水のように、義を、絶えず流れる谷川のように、流れさせよ。」、また、ヨハネの黙示録15章3節4節の「モーセの歌」は、出エジプト記15章11節を踏まえて、黙示録の描く終末的な悪の支配者への勝利を歌っています。「彼らは神のしもべモーセの歌と子羊の歌を歌った。「主よ、全能者なる神よ。あなたのみわざは偉大で、驚くべきものです。諸国の民の王よ。あなたの道は正しく真実です。4主よ、あなたを恐れず、御名をあがめない者がいるでしょうか。あなただけが聖なる方です。すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。あなたの正しいさばきが明らかにされたからです。」

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出エジプト記12章1~14節「過越の子羊 聖書の全体像18」

2019-06-25 14:32:38 | 聖書の物語の全体像

2019/6/23 出エジプト記12章1~14節「過越の子羊 聖書の全体像18」

 聖書の物語は、天地創造から始まり、楽園の追放やノアの大洪水、バベルの塔、などいくつもの大事な出来事が続きますが、エジプトで奴隷のように踏みにじられていたイスラエル人を神が救い出してくださった「出エジプト」の事件は、どの出来事より詳しく記されている大きな山場です。そして、この出来事は、やがてイエス・キリストがおいでになって、人を救い出してくださることの準備(難しく言えば「予型」、砕いて言えば「ままごと」)でした。前回は、出エジプトが何からの解放だったのかをお話ししました。それは「ともにいる」と言われる神の世界とは真逆の、人を奴隷とし踏みにじるような社会や心の在り方に、神が入って来られた事でした。主は人を奴隷社会から救い出し、人とともにいる歩みを始めてくださいました。

 今日は、その解放が

 「過越」

と呼ばれている事を心に留めます。主なる神はイスラエルの民を解放しないエジプトの王ファラオに「十の禍」を下します。その最後が、すべての家の長子を打つという禍でした。その禍の前に主がモーセを通してイスラエルの民にこう命じたのです。

2:3…この月の十日に、それぞれが一族ごとに羊を、すなわち家ごとに羊を用意しなさい。

その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と鴨居に塗らなければならない。…その夜、その肉を食べる。それを火で焼いて、種なしパンと苦菜を添えて食べなければならない。

11…これは主への過越のいけにえである。[1]

 そうした家は主が「過ぎ越す」。エジプトの家々の長子を打つために主が来られても、過越の子羊を屠って、その血を玄関に塗り、その肉を焼いて食べた家は過ぎ越す、と約束しました。

12:12その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人から家畜に至るまで、エジプトの地のすべての長子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下す。わたしは主である。

13その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。

 そして29節以下、エジプトの長子が打たれ、イスラエル人は、追い出されるようにして、遂に解放されるのです。この過越を記念して、毎年「過越の祭り」を祝われるのです。その時、

26あなたがたの子どもたちが『この儀式には、どういう意味があるのですか』と尋ねるとき、27あなたがたはこう答えなさい。『それは主の過越のいけにえだ。主がエジプトを打たれたとき、主はエジプトにいたイスラエルの子らの家を過ぎ越して、私たちの家々を救ってくださったのだ。』」すると民はひざまずいて礼拝した。

 こう伝え続けるのですね。12章は出エジプト記で最も長く、この過越の大事さを現しています。やがて、1500年後、イエス・キリストがおいでになって「最後の晩餐」をなさったのが「過越の祭り」でした。この食事の席で、イエスは「主の聖晩餐」を設けたのです。

 ただ、「イスラエルの長子は生贄を身代わりにして免れる」のではありません。次の章で、

13:2「イスラエルの子らの間で最初に胎を開く長子はみな、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それは、わたしのものである。」

とあります。エジプトもイスラエルも、一家の大黒柱である長子さえ、他の誰のものでもなく、主のものです。アブラハムが長子のイサクを捧げた通りです。そして長子が主のものなら、その家全体が主のものなのです。私たちはみな主のものなのです。イサクもファラオの長子もすべての命は、主に帰する命です。

 ところが、人が神から離れてから、自分たちが神のものだということは否定され、忘れられてしまいました。それどころか他の人の命まで自分の思いのままにする関係を造るようになってしまいました。エジプトのファラオは当時イスラエルの人の命を虫螻(むしけら)のように扱っていました。生まれた長子だけでなく男子は皆ナイル川に投げ込ませていました。人を人と思わない国家ぐるみの暴挙がありました。自分の長子を犠牲にすることも厭わずに、頑固だったのです。

 主は、誰かを犠牲にする暴挙を終わらせました。命を造られた主は、人が人として扱われない悪を必ず終わらせます。でもそのために、主ご自身が犠牲を払って下さることによって、私たちを回復してくださいます。主は人に犠牲を求めません。ご自分のために人を犠牲にする方でもありません。神ご自身が私たちのために、命の代価を払って下さる。私たちはそれを戴いて、信じるだけ。それが、神の救いの方法なのです。

 この出来事が示している神の御業の大原則は

《神の救いの方法は命の代償による》

ということです。神はイスラエルの民の叫びを聞いてくださいました。その声なき声に耳を傾けて、解放してくださいました。しかしそのために、子羊の生贄を命じました。私たちは自分で自分を救えませんし、神も自浄努力を求めません。人は「私は無価値。何か、犠牲(努力、神妙さ、善行)をしなきゃ」と思います。ところが、神はそうはハナから考えていません。

 「あなたのためにわたしが犠牲を払う」

と仰るのです。それほど尊んでくださるのです。私たちは、自分の力によってではなく、神が代価を払ってくださることで救われるのです。子羊は、主の怒りを避けるための「妥協策・救済策・代案」ではありません。過越こそ、主が示してくださった、いいえ、主が命じてくださった、「私たちの家々を救ってくださった」御心です。神の側から、人間に子羊の命を生贄とする新しい関係が命じられました。よい行いや神妙な悔い改めでもなく「償いをすれば、子羊を食べて良い」でもありません。ただ、子羊を屠り、血を門の枠に塗り、肉を食べよと命じました。この神の恵みの前に、人は謙虚になり、感謝して恵みを戴くだけです。聖書の契約は、終始一貫、主の一方的な恵みによる回復なのです。それが「十戒」に凝縮された、神の民としての生き方です。出エジプトもひたすら神からの恵みが先立っての救いです[2]。その後も毎年、過越を祝い、この出来事を思い出すのです。「自分たちが良かったから、従ったから、頑張ったから」でなく、主から子羊を生贄とし、それを食べよと仰った。後に洗礼者ヨハネはイエスを指して、

ヨハネ1:29…「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」

と言いました。イエスご自身、最後の晩餐の食卓で、種なしパンの食事を指して言われました。

「取って食べなさい[取れ、食らえ]。これはわたしのからだです。」[3]

 使徒パウロもイエスを「過越の子羊」と言います[4]。神はイエスを私たちのために捧げてくださった。神ご自身が長子を亡くす、愛する子を失う思いをしてまで、私たちを解放してくださいました。私たちは、神の子羊であるイエスの代価で買い取られた、尊い命とされました。

ローマ5:8…私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。10敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。

 神は初めから、私たちのために身代わりとなる犠牲を惜しまず払うお方でした。その神ご自身からの惜しみない犠牲があるから、人は安心して神に立ち戻ることが出来ます。その神の恵みへの信頼を出発点として、神の民は歩み出す。その一方的な恵みに繰り返して立ち戻りつつ、神の民とされた新しい歩みを踏み出していく。私たちが犠牲を払う必要もありません。人に犠牲を求めたり、代償を要求することも終わりました。私たちの命は、神の子羊であるイエスが代価となって買い取られた命なのです。それゆえに、私たちはお互いの尊い命を、決して踏みにじらないのです。自分の命も他者の命も、大事に育てて行く。誰をも馬鹿にしたり嘘で誤魔化したりせず、私たちのためにご自身を捧げてくださった主を見上げつつ、ともに歩むのです。

「主よ、あなたが初めから贖い主であり、人に恵みの救いを差し出しておられたことを感謝します。そのあなたの憐れみによって、禍は過ぎ越し、あなたのものとされて歩んでいける幸いを感謝します。それなのに、まだ私の犠牲が足りないかのように考えたり、人を裁いたりしてしまうのも、途上にある現実です。どうぞ、私たちを主の糧によって養い、思いを新たにし、私たちの交わりを生き生きと生かされるよう、愛と癒やしと知恵とを与え、育んでください。」



[1] 11節「あなたがたは、次のようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を固く締め、足に履き物をはき、手に杖を持って、急いで食べる。」

[2] 十戒の序文が「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。」であるように(出エジプト記20章2節)、決して《十戒や律法を行うから救われる、行えなければ旧約の時代は救われなかった》ではありません。

[3] マタイ伝26章26節「また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」」

[4] Ⅰコリント5章7節「新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。」

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出エジプト記3章1~12節「モーセの召命 聖書の全体像17」

2019-06-16 14:05:07 | 聖書の物語の全体像

2019/6/16 出エジプト記3章1~12節「モーセの召命 聖書の全体像17」[1]

 今まで聖書の最初の創世記からお話しして来ました。天地の豊かな創造と、それを大きく損ねてしまった堕落、その回復のためにアブラハムという老人が選ばれて、彼の子孫を通して、神がすべての人に働きかけて、救いと祝福を下さり、神の民とされる約束を見てきました。その後、アブラハムの子孫がカナンの地からエジプトに降りました。四百年経った頃が、出エジプト記の舞台です。アブラハムの子孫は「イスラエル人」と呼ばれています[2]。しかし、エジプトで彼らは、強制労働にかり出され、苦しい生活を強いられていました。そればかりか、助産婦に命じて、男子は殺すように、女子は生かしておくように、とファラオの命令が下された。そんな悲惨な状態が、一章に書かれています。そのような中で、モーセがイスラエルの民を導き出すリーダーとして立てられました。出エジプト記三章は、モーセが主に召される記事です。

出エジプト記3:7主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。

今、見よ、イスラエルの子らの叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプト人が彼らを虐げている有様を見た。
10今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」
[3]

 主はイスラエルの苦しみを見て、叫びを聞かれました。主は人の痛みを知っておられるお方。人間の叫びは、主に届き、主はモーセを遣わして、主の愛する民を苦しみの国から導き出してくださいました。この出来事は、神が人の苦しみや叫びを確かに聞いて、そこに介入し、救い出してくださる方であることを力強く教えています。これは、聖書の民にとって、他にない決定的な原点となる体験でした。神は、私たちの叫びを聞かれ、私たちを苦しみから引き上げて、神ご自身の元へと導き出してくださる。それはやがて、モーセにまさるイエス・キリストが完成した福音を指し示すモデルでもありました。そのエッセンスをお話ししましょう。

 神はここで民の苦しみを見、叫びを聞いたと仰り、12節で神は言われます。

「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。」(中略)

14「わたしは、わたしはある(いる)という者である」

 神は、わたしの名は「わたしはあなたとともにいる」だ、と仰るのです。それとは対照的なのがエジプトの国です。エジプトは当時最も文明が進んでいた国でしょう。豊かで、強くて、王ファラオは絶対的な権力を持っていました。その権力で、イスラエル人や庶民を支配し、抑えつけ、扱(こ)き使(つか)い、男は殺し女は生かす、と酷(ひど)い扱いをしていたのです。その神は「わたしがともにいる」と名乗るどころか、人の命を値踏みし、使い潰して構わない神です。安心よりも命令を与え、服従を強いる神。国のための犠牲には目を瞑って、下々の叫びなど聞かずに、黙らせる神。場合によってはうまいことを言っても、前言撤回する、そんな国でした。一つの民族が丸ごと踏みにじられるほど大きなエジプト社会で、人々が苦しみ、呻き、叫んでいる。そういう声を、主は確かに聴かれます。

 そこに介入され、労働力として使い潰されていた人々と「ともにいる」とご自分を名乗られました。更には、そのような国を「奴隷の国」と断罪して、虐げられていた人々を救い出して、エジプトの国の無力さを暴露したのです。神はモーセを通して、イスラエルの民を、酷い扱いから救い出して、神が王として治める新しい歩み、いいえ、本来の人間らしい社会、人が人として扱われる歩みへと招いてくださいました。

 もっとも、それはエジプトの国とかどこかの悪い社会が問題だ、ということではありません。神から離れた生き方(つまり、罪)に外れていった人間は、常に、人を人として扱わず、自分が神のように中心になる世界を造ろうとします。ノアとその家族は大洪水から救われましたが、その子孫はバベルの塔を造りました。エジプトはバベルの塔建設の再挑戦でした。そこから救い出されるイスラエル人も、やがて神殿建設や経済発展、王権の強化を優先して、貧しい人が抑圧されていくのです。「社会が悪い、政治家が悪い」ではなく、私たちの罪、恵みを忘れた心が、人を人としない社会を造るのです。その行き着いた典型が「奴隷の国」エジプトでした。主は、イスラエル人を救ったように、私たちの叫びを聴いて救ってくださるともに、私たちの生き方が、神ならぬもの、恵みならざる基準を王座につけた生き方から救い出そうとされます。神ご自身が神の座に再び帰って来て、「わたしがあなたとともにいる」と仰る神が治める国を始められる。それが、出エジプトであり、神の大きなご計画に繋がっているのです。

 さて、主がイスラエルを導くために選んだのはモーセでした。彼は素直に応じたでしょうか。

11モーセは神に言った。「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」

と抵抗を示します。4章1節でも10、13節でも、最後までこの声から逃げようとします[4]

 この時モーセは80歳。生まれた時は、丁度ファラオがイスラエル人に男の子が生まれたらナイル川に投げ込めと命令が出された頃でした。母親は三ヶ月、その子を隠しましたが、遂に隠しきれず、パピルスの籠に入れて、ナイル川に浮かべます。それを拾ったのが、奇しくもファラオの娘でした。父が殺させていたヘブル人の男の子を、娘がナイル川から拾ってわが子として育てたのです。モーセという名は

「(水の中から)引き出す」

から付けられた名前です。しかし40歳の頃、モーセはエジプト人が奴隷を打ち叩いているのを見て、救おうとして殺したことがきっかけで、エジプトから脱走し、荒野のミディアンに逃れて40年。家族を作り、のんびり過ごしていたのですね。40年前なら、「ファラオの元に行け。わたしの民イスラエルを導き出せ」という声に名誉挽回だと即答したかもしれません。しかし、40年の間に、彼の思いはすっかり萎縮して、億劫になっていました。でも主は、若くて勇敢なモーセではなく、年老いて行きたがらないモーセを選んだのです。モーセにやる気や信仰があるからではなく、自信も期待もないモーセを選んだのです。逃げ腰のモーセに、主が示されたのは、

3:12「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。…」

に尽きました。モーセにその素質があったわけではないのです。ただ、神がともにいるお方だから、神はモーセを召して、ともに歩んでくださいました。生まれてすぐ捨てられたモーセをナイル川から引き出したように、80歳のモーセも荒野から引き出しました。勇気も夢もなく、他者の苦しみや叫びに耳を閉ざした生き方からも引き出して、ファラオの前に立つ勇気まで下さったのです。それは、イスラエル人を奴隷生活から引き出し、新しい民、自由の民とするしるしでした。神は何度でも引き出される神です。やがてはイエスが来られて、私たちをご自身へと引き出してくださいました。「私たち自身の罪の罰から救い出す」だけではないし「罪を赦してくださる」だけでもなく、主は私たちの生き方も心も、世界も、引き出される-罪や暴力や絶望の支配から、人を踏みつけたり見下したりする生き方から必ず引き出されるのです。

 人が人として扱われないことに私たちが鈍感でも、神は叫びを聞いておられます。人が心から神を喜び、互いに愛し、生かし、育て合う世界を取り戻されます。暴言や孤独や拒絶が罷り通っている中、神や宗教など何の役にも立たないと思い込んでいる中で、「叫び声は神に届いている。奴隷の国を終わらせ、神の国が来た」と言う声を私たちは聴いています。イエスは私たちを引き出すために本当に来られました。それも、無敵のヒーローとしてではなく、私たちと同じような人として、悲しみも涙も苦しみも知って、罪に喘ぐ人のそばに来て、友となってくださって、そうして私たちを、生涯掛けて孤独や恐れから引き出してくださる。モーセが聴いて驚いた語りかけを、私たちも今ここで聴いているとは驚くべきことではありませんか。

「ともにいます神よ。あなたの恵みが苦しみや罪に遮られて、多くの叫び声があります。私たちもうめき、同時に、傷つけている者でもあります。どうぞ恵みによって、苦しみの現実や奴隷のように人を扱う心から救い出してください。何があっても何がなくても、あなたがともにいてくださることに、喜びと希望を得て、闇に打ち勝つ光とされて歩むことが出来ますように」



[1] 聖書は天地創造から始まって、やがて新しい天と地の始まる将来が来ることを語って結ばれる、神の大きな物語を描いています。その真ん中にあるのが、イエス・キリストの生涯と十字架の死と復活、そして聖霊が降ったペンテコステです。私たちは、その後の「教会の時代」を生きていますが、イエス・キリストが来るまでの聖書(旧約聖書)の記事から、神がどんなお方なのか、私たちにどのように関わり、どのような約束・慰めを下さるかを教えられるのです。

[2] アブラハムの孫、ヤコブは「イスラエル」という名前を与えられて、その子どもの12人が「イスラエル十二部族」となり、エジプトで増え広がります。それ以来、「アブラハムの子孫」は「イスラエル人」と呼ばれています。

[3] 2章にも「23それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。重い労働による彼らの叫びは神に届いた。24神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。25神はイスラエルの子らをご覧になった。神は彼らをみこころに留められた。」

[4] 出エジプト記4章1節「モーセは答えた。「ですが、彼らは私の言うことを信じず、私の声に耳を傾けないでしょう。むしろ、『主はあなたに現れなかった』と言うでしょう。」、10節「モーセは主に言った。「ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」」、13節「すると彼は言った。「ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください。」

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