聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

使徒の働き2章1~21節「聖霊がハトのように」

2019-06-09 15:09:12 | 聖書の物語の全体像

2019/6/9 使徒の働き2章1~21節「聖霊がハトのように」 聖霊降臨日説教

2:2…天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。

 「聖霊降臨日」に「おめでとうございます」という挨拶は聞いたことがありませんが、クリスマスとイースターのお祝いを完成させたのが、今日の「使徒の働き」2章の「五旬節(ペンテコステ)」の聖霊降臨の出来事でした。そこで教会は今日も、イースターの五十日後の日曜を「聖霊降臨日」として祝い続けて、世界中でお祝いをしているのです。本当におめでたいお祭りです。素晴らしいお祝いです。この聖霊降臨は、一章でイエスが既に予告していた約束でした。

1:8しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」[1]

 この約束通り、2章で聖霊が弟子たちに注がれて力を与え、イエスの証人としたのです。このような激しく、目覚ましい現象で、聖霊は弟子たちを変えて、語らせ始めたのです。色々な国の言葉で話したので、ちょうどそこに五旬節の祭りのために来ていた世界中からの巡礼者たちがそれぞれに理解できることになりました。言い換えれば、

「炎のような分かれた舌」

が留まって諸国の言葉で語り出したのは、やがて弟子たちが

「地の果てまでイエスの証人となる」

ことの印でもありました。この直前まで、弟子たちにこんな力も大胆さもありませんでした。イエスの十字架の時には蟻の子を散らすようにいなくなり、復活の時も信じられなかった弟子たちです。その臆病で、プライドが高かった弟子たちが、この時、聖霊を注がれて、イエスの証人となって、全世界に出て行くように変えられ始めたのですね[2]

 元々ペンテコステ(五旬節)の祭りは、イスラエルの民がエジプトの奴隷生活から解放された後、シナイ山に行って、神の民としての契約を授かり、神の民の生き方を律法という形で授かった記念のお祭りでした。エジプトからの脱出は大きな解放でしたけれど、それが目的ではありませんでした。シナイ山で

「神の契約の民」

とされて、本当の自由の民として歩み始めていく。それこそが始まりだったのですね。しかし、それももっと大きな物語の伏線でした。エジプトを出る時に、小羊を屠って家の門に塗った「過越」が、後のイエスの十字架の準備であったように(そして、葦の海の道を通った勝利が、イエスの復活の準備であったように)、シナイ山で律法が与えられたのも不完全な出来事でした。律法を与えられるだけでは人間は、本当に自由な生き方は出来ない。外から契約を与えられるだけでは人は新しく生きることは出来ない。神が聖霊によって私たちの心に信仰や愛や良い心を与えてくださって、人は新しくなれるのです。律法が与えられたお祝いの五旬節に聖霊が降ったのは、そのしるしです。神が、人間を救うために御子イエス・キリストを遣わして、十字架の死と復活という贖いを果たす。その救いを聖霊によって人の心に届けてくださる。かつての出エジプトや五十日後の律法の付与は、イエスの十字架と復活、そして聖霊降臨において「新しい契約」として完成したのです[3]

[旧約] 出エジプト・葦の海を渡る     「契約」の締結・十戒の付与

       過越    →   五十日後  →  ペンテコステ(五旬節)

《新約》 イエスの十字架・復活       「新しい契約」の締結・聖霊降臨(新しい心)

 

 ペテロは、この出来事を旧約聖書のヨエル書の預言が成就したことだと言っています。

2:17『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。
あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
18その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。
すると彼らは預言する。

 このヨエル書の言葉は、ただペンテコステの日を預言しただけではありません。ヨエル書が語る将来への備え全体の中での言葉です。ヨエル書は、旧約の時代でも、最も社会が乱れていた時代に書かれたものの一つです。暴力や不正が蔓延り、喜びや希望が失われていた時代に、ヨエルは神の言葉を語りました。当時の人間の罪や問題をキッチリと見据えて、厳重に警告しつつ、それ以上に、主が豊かな恵みを与えてくださることを語っているのです。

ヨエル書2:13衣ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。
主は情け深く、あわれみ深い。怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださる。

18主はご自分の地をねたむほど愛し、ご自分の民を深くあわれまれた。

 その主の愛とあわれみが、やがてすべての人に主の御霊を注いで、若者も幻を持ち、老人も夢を抱くようになる。神が人の心に神の霊を吹き込んで、頑なな心から、喜び、夢を語るような心に変えてくださる。それが、神が最後に用意しておられる祝福だと言われていました。そのようなヨエル書の預言を引用してペテロが語るのは、この出来事だけではなく、ヨエル書が語る神の恵みに満ちた将来が確かに完成する、ということです。

 今はまだ、ヨエルの時代のように人の問題がたくさんあります。「使徒の働き」でも、これは2章で始まりに過ぎませんでした。激しいペンテコステの出来事から始まったものの、その後の教会の歩みは山有り谷有り、外からの迫害や、内側の罪や未熟さ、悩みが続きました。聖霊が働く仕方も様々で、いつもこの2章のように激しく目覚ましく降った訳ではありません。今でも、一人一人が体験する信仰の歩みは違いますね。あまり大きな出来事はないという方もいれば、ハッキリ声が聞こえた人もいるでしょう。同じ体験はありませんし、比べる必要もありません[4]。どの人もイエスを信じる信仰自体が、聖霊によってしています。イエスを信じようという思いそのものが、聖霊の働きによることです[5]。それぞれ違う方法で、聖霊によって教会に導かれ、信仰を授かり、今ここにいます。そして、これからも神の子どもとして、浮き沈みや右往左往をしながらも、心を探られ、新しくされて、やがては神の大いなる物語の祝宴に与るのです。大事なのは聖霊体験とかどれほど劇的か、でなく、聖霊が私たちをキリストに結びつけて下さること、主の大きな救いの中で成長し、心を新しくされ、喜びや希望を持ち、愛を戴いていくことです。

 イエスが十字架に死ぬ前、その宣教を始めた時にも、イエスの上に聖霊が下りました。

ルカ3:21…民がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマを受けられた。そして祈っておられると、天が開け、22聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られた。すると、天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」

 聖霊はここでは鳩の形で表現されています。素直で小さな鳩。それは聖霊を受けた人の中にも形作られていく品性と通じるでしょう。そもそも聖書の最初に、

創世記1:1はじめに神が天と地を創造された。地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。

とある

「動いていた」

は、申命記32:11では、鷲が雛の上に翼を広げるような光景で用いられています[6]。この世界は、最初から聖霊の翼の下に包まれ、守られていた世界なのですね。今でも聖霊が全てを支えて、この世界を保ち、育てておられるのです。そして、キリストが十字架に捧げた命を、私たちの内にも届けてくださって、信仰を与え、主にある交わりを下さり、神の物語の中に入れてくださっているのです。それが口先だけの約束ではないことを、この使徒の働き2章のペンテコステの出来事は、ハッキリと教えてくれるのです。

 聖霊が下り、臆病だった弟子たちは喜びに溢れて、異邦人の言葉で福音を伝え始めました。その働きの末に今、私たちは福音に出会い、神を礼拝しています。それは、青年も幻を見、老人も夢を見るような、誰もが心を罪から清められて、悲しみを深く癒やされ、慰められるという約束の手始めです。最初から世界を覆っていた聖霊が、世界を慰め、人の心の奥深くまで語りかけてくださるのです。その時を待ち望みます。また聖霊の慰めや癒やしをこの時代に祈らずにおれません。聖霊が私たち自身をも、主の証し人として遣わしてくださいますように。

「主よ、聖霊によって、主イエスの贖いに私たちを確かに結びつけてくださったことを感謝します。私たちの痛みや呻きにまで届いて下さる聖霊の愛と憐れみに、感謝します。主の御霊の働きのゆえに、私たちも世界も存在しています。どうぞ、この聖霊の御業に信頼させてください。一人一人を違う形で用いて下さり、十分に慰め、私たちの心に夢を抱かせてください」



[1] また、使徒の働き1章4~5節「使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」

[2] 「聖霊」使徒の働きに40回。「御霊」13回。「主の霊」「わたしの霊」4回。合計、47回。直接ではなくても「主が」という言葉が聖霊の働きを指している場合も多い。

[3] エレミヤ書31章31節以下はこの事を明言して預言しています。「見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。32その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──主のことば──。33これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。34彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──主のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」

[4] その聖霊の体験の仕方、聖霊による「賜物」の違いによる差別意識や諸問題が誤解されて受け取られていたことも、既に初代教会に起きていました。Ⅰコリント12章から14章を読んで、その実態と解決となる方向性とが窺えます。

[5] Ⅰコリント12:3「ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。」、同12:13「私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。

[6] 申命記32:10~11「10主は荒野の地で、荒涼とした荒れ地で彼を見つけ、これを抱き、世話をし、ご自分の瞳のように守られた。11鷲が巣のひなを呼び覚まし、そのひなの上を舞い、翼を広げてこれを取り、羽に乗せて行くように。」

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創世記24章15~27節「無名のしもべも導く神 聖書の全体像16」

2019-06-02 17:00:20 | 聖書の物語の全体像

2019/6/2 創世記24章15~27節「無名のしもべも導く神 聖書の全体像16」

 神が選ばれたアブラハムの生涯から、お話しを続けてきました。アブラハムの生涯の最後としてこの二四章を見たいのです。

 荒筋を申し上げましょう。アブラハムが息子の妻捜しをする。神が約束されたカナンの地にいても、そこに住む女性でなく、故郷のアラムの地から迎えたいと考えました。そこでアブラハムは、家の最年長のしもべにその嫁捜しを託します。しもべは、

 「良い候補者を見つけても、流石にここまで来るのは躊躇うのではないか、そうしたら、イサクをその地に連れ戻っても構いませんか」

との懸念だけを伝えます。アブラハムは、連れ戻ることは禁じて

 「もし彼女がここに来ようとしなければ、嫁捜しの責任から解放される」

と応えます。こうしてこのしもべは、一〇頭のラクダと沢山の贈り物を携え、何人かの従者も一緒に、アラムに向かいます。二十日からひと月はかかった筈ですが、その詳細は一切省略しています。アラムに着いたしもべは、夕暮れ時、水を汲む女たちが出て来る頃、井戸のそばで祈ります。

12「私の主人アブラハムの神、主よ。どうか今日、私のために取り計らい、私の主人アブラハムに恵みを施してください。

13ご覧ください。私は泉のそばに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出て来るでしょう。

14私が娘に、『どうか、あなたの水がめを傾けて、私に飲ませてください』と言い、その娘が、『お飲みください。あなたのらくだにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたが、あなたのしもべイサクのために定めておられた人です。このことで、あなたが私の主人に恵みを施されたことを、私が知ることができますように。」

 こんな都合の良いというか、破れかぶれという祈りをします。ラクダにも飲ませるとなったら、一頭80リットルぐらい飲むそうで、一〇頭なら一時間もかかったと言われます。そんな労苦を買って出るなんて、そのうち現れるのでしょうか。ところが、次の15節は、

15しもべがまだ言い終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せて出て来た。リベカはミルカの子ベトエルの娘で、ミルカはアブラハムの兄弟ナホルの妻であった。

 イサクにとっては従兄弟(いとこ)の娘、イサクの嫁候補には願ったりのリベカが現れたのです。まだこの時点でしもべはそれを知りませんが、彼女に走って行って水を乞うと、リベカは水をくれた上、ラクダにも水を飲ませてくれるのです。井戸と水舟とを何度も往復したのでしょう。しもべが、黙ってその様子を一時間程も見ていました。ラクダが飲み終わって、しもべはリベカから、彼女がアブラハムの血縁であることを知ります。何と言うことでしょう。しもべは、

26…ひざまずき、主を礼拝して、27「私の主人アブラハムの神、主がほめたたえられますように。主は、私の主人に対する恵みとまことをお捨てになりませんでした。主は道中、この私を導いてくださいました。主人の兄弟の家にまで。」

 こうして、しもべたち一行はリベカの家に迎えられます。その場で、食事よりも先に、しもべはここまでの経緯を詳しくなぞって繰り返します[1]。それを聞いて、リベカの父も兄もリベカを嫁に出すことに同意する。しもべが最初に心配した、着いてきたがらないのではないか、という点もクリアして、しもべは52節でもう一度

「地にひれ伏して主を礼拝した」

のです。

 長い二四章をかいつまんでまとめました。実にドラマチックな嫁捜しでした。何せ、創世記で一番長い章なのです。そして、全部で五〇章ある創世記の丁度真ん中頃に当たります。しかもアブラハムは最初に登場するだけで、中心になるのは名も分からないしもべです。その無名のしもべが、アブラハムから託された使命を果たすために旅をして、そこで体験した出来事が、創世記の中間で、最も長く詳しく記されている。これは意味深長です。アブラハムやイサク、有名で有力な人物を差し置いて、名もないしもべが神の大きな物語の一端を担ったのです。

27「私の主人アブラハムの神、主がほめたたえられますように。主は、私の主人に対する恵みとまことをお捨てになりませんでした。主は道中、この私を導いてくださいました。主人の兄弟の家にまで。」(48、49節も)

 この

「恵みとまこと」

「導いて」

は、48・49節でも繰り返されます。主が旅を導いてくださる。「導く・伴う」はキリスト者がよく使う言葉ですが、ここで初めて使われるのです[2]。「恵みとまこと」も詩篇に何度も出て来る大切な言葉ですが[3]、この二四章で初めて出て来ます。しもべがこの体験を通して、本当に主が導いてくださった、主は私たちを恵み深く、真実に導いてくださるお方だと、深い実感を持って告白しています。アブラハムやイサク、主要人物ではなく、この無名のしもべの体験です。それは、即ち、この創世記を読む読者に対するメッセージでしょう。アブラハムを通して始まった契約の中に入れられたすべての人は、今も主が不思議に導かれている。恵みとまことをもって導いて、役割を必ず全うさせてくださり、主が旅を成功させてくださる。そう確信するように、創世記の真ん中、二四章は語るのです。

 勿論それは《私たち人間にとって都合の良いように、万事順調に上手くいく、最後は丸く収まる》というお導きではありません。しもべは長旅の労を引き受けました。自分の楽や安全を願う以上に、その嫁がここに来るかだけを案じました。イサクの妻にも、自分の生まれ故郷を離れ、今までの住み慣れた生活から新しい冒険へと踏み出すか、という資質は欠かせなかったからです。アブラハムが故郷や父の家を離れて、行く先を知らないで旅立つことを求められたと同じです。主が私たちを導かれるのであって、私たちが主を導いたり行く先を決めたりするのではないのです。私たちは主の大きな導きに信頼して、自分を開いて捧げていくのです。

 また、しもべは

「主が導いてくださった」

と言いましたが、この章には直接「主が・神が」とはひと言も言われません。主の導きはハッキリは見えず、隠れていて「偶然だ」と見過ごす事も出来るものです。また、主の導きだから全てが完璧で理想的ではありません。リベカの兄ラバンは、やがて再登場して、イサクの息子ヤコブを大変手こずらせる曲者です[4]。いいえ、当の嫁のリベカからして、やがてイサクとギクシャクして、息子ヤコブを唆してイサクを騙すなんて行動をとって家族を引き裂いてしまうのです。そういう問題も含めて、この出来事は主の導きとして受け取られているのです。厄介さを抱えた人間を巻き込みながら、主がすべての事の中に働いて、私たちを導いておられる。私たち自身、それぞれに個性があり、取り扱われるべき問題を抱えている不完全な者で、そういう私たちを主はともに導いてくださっています。アブラハムを選び、契約を結ばれた主は、その約束をイサクや子孫、また、しもべや異邦人も巻き込みながら、今も導かれ、実現されます。誰一人完全ではない私たちが、旅をしたり、水を汲んだり、精一杯自分の出来る事をしながら、出会い、助け合い、お互いを通して主の恵みを分かち会いながら、神の物語は進んで行っています。神が見えない時も、いつも全てを、深い恵みと変わらない真実をもって神は、ご計画のままに、私たちを導いているのです。

 そう信じるしもべは、祈り、礼拝しています。主の導きを求め、主が恵みを施されたことを知ることが出来るように祈っています。リベカの自己紹介を聴いては祈り、その家族の了解を得ては主を礼拝しています。折々に、祈っています。勿論、しもべが祈り終えないうちに、いいえ、祈る先から既に、主は導いておられました。だからこそ、私たちは祈るのです。「私たちが祈ったら主が導いてもらえる」のではなく、主が導いておられることを知って、祈らずにおれないのです。神は私たちに、神を信頼するよう、祈るよう、神をますます心から礼拝して歩むようにと、導かれるのです。私たちもこのしもべに自分を重ねて、主の導きを信じつつ、

 「導いてください、それが分かりますように」

とも率直に祈りましょう。アブラハムを通して始められた主の祝福が、今私たちにも渡されていて、私たちもまたその祝福を目の前の人に渡す。そういう大きな物語の中に導かれていると励まされて、祈りながら、導きを求めながら、歩ませていただくのです。

「恵みとまことに富んでいます主よ。あなたの導きを信頼して歩める幸いが、全ての民に約束されていることを今日の箇所からも教えられて、感謝します。あなたの導きが見えないこともありますが、あなたがこの世界を贖い、罪をきよめ、正義と平和の御国をもたらすことを待ち望みます。私たちをお捧げします。どうぞ私たちを伴って導き、御名を崇めさせてください」



[1] 厳密には、全く同じではありません。あちこちで、リベカ家族が受け入れられやすいよう、言葉遣いを工夫しています。

[2] 詩篇23:3「主は私のたましいを生き返らせ、御名のゆえに、私を義の道に導かれます。」など。

[3] 詩篇25:10「主の道はみな恵みとまことです。 主の契約とさとしを守る者には。」、57:3「神は 天から助けを送って 私を救い 私を踏みつける者どもを辱められます。 セラ 神は 恵みとまことを送ってくださいます。」、61:7「王が 神の御前でいつまでも 王座に着いているようにしてください。 恵みとまことを与えて 王をお守りください。」、85:10「恵みとまことは ともに会い 義と平和は口づけします。」、86:15「しかし主よ あなたはあわれみ深く 情け深い神。 怒るのに遅く 恵みとまことに富んでおられます。」、89:14「義と公正は あなたの王座の基。 恵みとまことが御前を進みます。」、115:1「私たちにではなく 主よ 私たちにではなく ただあなたの御名に 栄光を帰してください。 あなたの恵みとまことのゆえに。」、138:2「私は あなたの聖なる宮に向かってひれ伏し 恵みとまことのゆえに 御名に感謝します。 あなたがご自分のすべての御名のゆえに あなたのみことばを高く上げられたからです。」

[4] 創世記29章以降。

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創世記22章1~14節「主の山には備えがある 聖書の全体像15」

2019-05-19 20:38:26 | 聖書の物語の全体像

2019/5/19 創世記22章1~14節「主の山には備えがある 聖書の全体像15」

 聖書が書き綴るのは、神が

「ともにいる神」

であり、創造されたこの世界に、神が何を願い、どう関わり、どう導くかを現した「神の物語」です。その最初に、神の民を生み出していくために選ばれたのがアブラハムでした。アブラハムを語る上で、今日の22章の出来事はクライマックスだと言えます。百歳になって、神がようやく授けてくださったひとり子を、その神が

「全焼のささげ物として献げなさい」

と命じられるのです。とても理不尽な命令です。神が授けてくださったイサクです。その子を、同じ神が「生贄として献げなさい」という。それは大きな

「試練」

でした。決して「最後には神が止めてくださるだろう」と期待したのでもありませんし、「アブラハムは神への信仰が深かったからわが子も喜んで捧げたのだ」だとしたら意味がなくなります[1]。アブラハムにとって、悲しみや疑いや嘆きが心中に渦巻いたことでしょう。アブラハムは黙々と翌朝早くに旅支度をして、二人の若者と一緒にイサクを連れて出立します。薪も割って、場所へ向かいます。三日目、その場所が見えると、

それで、アブラハムは若い者たちに、「おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る」…

 「私の息子は、あそこに行き、礼拝をして、二人で戻ってくる」というのです。イサクが、

…「お父さん…火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。」

と尋ねた時も、アブラハムは「お前を捧げるのだ」と言わないばかりか、暗示的に答えます。

…「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。」…

 こうした言葉やそれ以外のアブラハムの沈黙は、彼の信仰なのか、それとも他に言う事を思いつかず、こう言うしかなかったのか。言葉少なに二人は一緒に進み、9節で到着するのです。

 9神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。

 イサクは薪を背負って山を登ることが出来たのですから、小さな子どもではなく、アブラハムより体力はあったでしょう。アブラハムが不意打ちで縛ったとか、嫌がるイサクを無理に殺そうとしたわけではないはずです。むしろ、父が捧げる羊の生贄を見慣れていたイサクは、献げ物に託して、主に自分を献げするのが信仰だとその姿から見ていた。だからこの時も抵抗せず、だからこそアブラハムはイサクを祭壇の上に載せることが出来たのだろうと思います。

10アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。11そのとき、主の使いが天から彼に呼びかけられた。「アブラハム、アブラハム。」彼は答えた。「はい、ここにおります。」12御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」

 主の御使いですが

「わたしは」

というのですから、神ご自身でもありました。主は、イサクを刃物で屠ろうとしたアブラハムを止められました。本当にアブラハムがわが子より主を恐れ、主を大事にしていると分かった所で、主はご自分の命令を撤回します。その時、アブラハムは、

13…目を上げて見ると、見よ、一匹の雄羊が角を藪に引っかけていた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の息子の代わりに、全焼のささげ物として献げた。

 主は雄羊を備えてくださっていた! アブラハムが主に従ってひとり子をさえ捧げた、という以上に、主がアブラハムに犠牲や従順を求める、という以上に、主がご自身で雄羊を備えてくださっていた。それがこのエピソードの大きなメッセージです。ですから、

14アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、「主の山には備えがある」と言われている。

 アブラハムの信仰より「主の山には備えがある」がこの出来事の記念なのです。それも、7節8節では、主が羊(小羊)を備えてくださる、という暗示的な言葉でしたが、13節で実際に備えられていたのは立派な

「雄羊」

でした[2]。迷子の小羊ではなく、藪に引っかかっているなんてあり得ない雄羊がいました。アブラハムはそこに主の備えを、それも人の予想を上回る善い備えを見たのです。主は、最高のものを備えてくださる。それがこの出来事だったのです。

 アブラハムがイサクを惜しまずに捧げたのにも勝って、主がアブラハムにもイサクにも惜しみない備えを用意しておられた。いいえ、もとよりイサク自身が、主からアブラハムに備えられた贈り物でした。主の祝福と慈しみ、そしてアブラハムの疑いや裏切りへの赦しと憐れみがあったから授かったイサクです。イサクの子孫がやがて天の星のように増え広がると、神は約束されました。イサクを育てる喜び、家族の笑い、愛するわが子との歳月そのものが主の恵みです。主は恵み深いお方なのです。だからその恵みを通して、ますます主を喜び、崇める。そこに伴って祝福や喜びは豊かにありますが、でも、その祝福や喜びがあるから神を愛する、という関係ではなく、本当に神を恐れ礼拝し、神を神として喜び、従う関係が主の目的なのです。

 この後、アブラハムのように「わが子を生贄に」というような命令は決して与えられません。むしろ聖書は、子どもを神々に捧げて願望を叶えようとする習慣を、非常に忌まわしい習慣として厳しく禁じています[3]。イサクもその子のヤコブも、その子を捧げるよう求められることはないのです。ただ、アブラハムとは違う形で、大事な家族を失いながらも「それでもなお、主を信じるか、主を主として礼拝し続けるか」という問いはいつもありました。私たちの生活でも、失ったり選んだり、変化や試練はつきものです。創世記43章でヤコブが言う

「私も、息子を失うときには失うのだ」

のセリフはヤコブの人生の大事な転換点になります。ヨブ記も、財産や家族や健康、妻の愛や友人からの友情を失ってもなお主を恐れるか、神が願う人との損得抜きの契約関係などあり得るのかをテーマとしています。そして、そういう関係を神は必ず私たちとの間に作り、私たちの心を新しくなさる。それが聖書の物語のメッセージです。

 主は私たちに求めただけではありません。主ご自身も民に(私たちに)にご自身のひとり子を捧げてくださったのです[4]。主はご自身の愛するひとり子イエスを私たちのために生贄となさいました。イサクが薪を背負って山を登ったように、イエスは十字架を背負い、カルバリの丘を上りました。縛られて、刃物で屠られました。主は愛するひとり子を与えることで、神がこの世界にご自身を与えて、惜しみない恵みを現すかをハッキリと示してくださいました。そういう確かな関係の中に私たちは入れられています。そして、私たちもその主の恵みの中で新しくされてゆき、御利益とか祝福のためではなく、主を愛し、隣人を自分のように愛する者に変えられて行くのです。神が求めている関係はそういう、自分を捧げる関係なのですから。

 財産も家族も健康も主からの祝福です。すべて善いものは主の贈り物です。でもそれが偶像になって主よりも握りしめやすい。失わないで済むことを主に期待するなら、それは主への信仰や礼拝ではないし、主が求める人とのいのちの関係でもありません。必ずいつかは壊れたり、失われたり、手を離れていきます。我が子を失う経験も起こります。これからの社会でも沢山の喪失を私たちも体験するでしょう。それでも主を愛する、多くを失いながらも神を神として礼拝する。主以外の全てを失い、時には自ら手放さざるを得ない思いをしながら、でもそれを主が備えて一時でも楽しませてくださったと感謝して、主を礼拝するのです。途中で御心が分からなくても、奪われるばかりのように見えても、「主を信じて何になるんだ」と思いたくなっても、主を礼拝し、誠実に歩み、ハッキリしている御言葉に従っていく。そんな山を登る思いで進んで行く人生には、必ず新しい主の備え、惜しみない備えがあると励まされるのです[5]

「すべての贈り主なる神よ。惜しみない御恵みを感謝します。その恵みを偶像にして、主を二の次にし、失う恐れに囚われてしまうとしても、あなただけが私たちの神です。あなたの備えの素晴らしさを期待して、旅路を続けさせてください。失う悲しみもご存じである主イエスが、どうぞ一人一人を支え、決して失われないあなたとともに歩む幸いに心を向けさせてください」



[1] ヘブル書11章17節以下には「信仰によって、アブラハムは試みを受けたときにイサクを献げました。約束を受けていた彼が、自分のただひとりの子を献げようとしたのです。18神はアブラハムに「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」と言われましたが、19彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。」とありますが、ヘブル書11章全体のいくぶん「美化」したとも言える表現であることを心に留めて読まれるべきでしょう。

[2] 7、8節の「羊 שֶׂה」は若い羊、小羊、など羊一般。13節の「雄羊 אַיִל」は、強い羊に特定する言葉です。21章28節などの「子羊 כִּבְשָׂה」は一歳未満の羊です。ちなみに、「雄羊」は生贄とされるときも、大祭司の任職や、年に一度の「贖いの日」の献げ物だけで、特別な儀式用でした。

[3] エレミヤ19:6、レビ18:21、20:1-5、申命記18:10、ミカ6:6-7

[4] ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

[5] 「主の山に備えがある」の「備えがある」は、欄外のように「見る」という言葉です。ですから、いくつもの訳・意味が提案されています。その可能性の一つは「山では主を見る」です。「備え」とは「主ご自身」との出会いである、ということです。これもまた味わい深い提案です。

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創世記17章1~14節「アブラハム契約のしるし 聖書の全体像14」

2019-04-28 17:39:54 | 聖書の物語の全体像

2019/4/28 創世記17章1~14節「アブラハム契約のしるし 聖書の全体像14」

 聖書は、神が世界を創造したことから始めて、人間が神に背を向け愛の御心を誤解しても、神は人間に働き続けて、最後にはこの世界を新しい世界として必ず完成する。そういう大きな物語を語っています。しかし、それは華やかなというよりもむしろ地味で、上から力強くというよりも低い所から、弱さから、痛みや慰めを通して進む計画です。その事が豊かに現されているのが、神が最初に「神の民」の父として選んだのが、アブラハムという、子どものいない老人だった事実です。そして、そのアブラハムに神が与えた契約のしるしが「割礼」でした。割礼というのは男性の性器の皮を一部切り取る儀式です[1]。私たちにはそういう習慣に馴染みがありませんし、新約聖書を読むと

「割礼を受けなくても、イエス・キリストの恵みによって、信仰だけで救われる」

という教えが目につきます[2]。ですから、あまり割礼に関心もないのではないか、と思うのですが、あえて今日の箇所から「割礼」のしるしを考えたいのです。

 まず、今日の箇所は、アブラハムが九九歳の時のことと始まりますが、その前の16章16節では八六歳だったとありますから、13年の歳月が経っています。13年前、アブラハムと妻サラは神の言葉を信じ切れませんでした。自分たちの拙速な判断で女奴隷を代理母にして子を儲け、神との関係も閉じ、自分たちの関係も大きくこじれさせたのです。夫婦の間の不満とか醜い責任逃れとか、女奴隷を虐めて追い出す程の残酷な思いも暴露したのでした。それから13年、黙っておられた神が、この17章で現れて、アブラハムにこう語りかけるのです。

17:1…「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたを大いに増やす。」

 「全能の神」元の言葉でエル・シャダイという名前を、ここで初めて名乗られます。100歳を前にしたアブラハムに「全能の神」として現れて、

「わたしはわたしの契約を立て、あなたを大いに増やす」

と仰るのです。そして4節以下、アブラハムを大いに増やして多くの国民の父とし、王たちが出て、今いる一帯の地を与える。わたしは彼らの神となる、という、将来の壮大な構想を語るのです。それが、神が「全能の神」として名乗られた時、その具体的な御業として語られた壮大なご計画でした。それは人間の常識や経験では考えられないことです。老人アブラハムに、全能の神は、新しい将来像、永遠に続くご計画を始めるのです。神はアブラハムに、ご自分の前に歩み、全き者であれと言われて、手始めに三つのことを与えられます。

 一つ目は改名、名前の変更です。今まではアブラム、ここからアブラハムに変わります。15節では妻もサライから「サラ」となります。これは色々な説明がありますが定説はないようです[3]。意味はともかく、神が名前を変える、それもハという息を吹き込むような一字を入れた事自体、神が人に新しい命を吹き込んで、人を新しく造り変える御業でしょう[4]。神はサラにもアブラハムにも、ご自分の命を吹き込んで、人には想像のつかない大きな何かをなさいます。なぜなら、神は「全能の神」だからです。それが、名前を変えたことに表されています。

 全能の神の前に「全き者であれ」と言われることの、第二は割礼です。この儀式は、

13…わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉に記されなければならない。

とある通り、男子の体に刻まれる神との関係の印です。確かにその儀式そのものは猛烈な痛みや血を流す行為ですが、痛みとか犠牲という以上に、全能の神との関係を表す、体に刻まれた印でした。それも、場所が場所だけに、人からは見えない所での神との関係です。それは、

11あなたがたは自分の包皮の肉を切り捨てなさい。

とある通り、隠れた所の覆いの皮を切り取る所に意味があります。神との、包み隠すことのない関係。「全き者」とは、間違いをしないとか、神に対する立派な信仰を持つ、ということではありません。全能者なのは神で人は違います。限界があり、神をも疑い小さく考える者です。そのくせ「何をした」とか表面的な装いで自分を守り、本心の醜さ、恐れ、素を隠したがる。アブラハムもサラも主を信じず、互いに責任を擦り合い、弱い者虐めをした普通の人間でした。しかし主はそんなぶっちゃけた裸の私たちをご存じです。ある意味で失敗を通して、心が割礼を受けるのです。私たちの隠れた心、弱さ、疑い、罪、過ちをすべてご存じである神の前に立ちます。そして全能の神は、この私たちにも新しい働きをなさる、小さな私たちを通して尊い神のご計画をなさる。到底信じられなくても、全能の神は御心をなさる。そういう、何の隠し立てもない神との関係に入れられている。割礼はそういう契約に立ち戻らせてくれるのです。

レビ記26:41彼らの無割礼の心… 

エレミヤ4:4主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。[5]

といった表現が旧約聖書の中にも散見されます。割礼は神との人格的な関係を表すために体に刻みつけられたしるしです。割礼そのものを誇ったり、絶対視したり、そこに安住したりするものではないのです。だからこそ、新約の時代、イエス・キリストが来られて、救いの契約を完成して下さった時、割礼の儀式を強制してハードルを高くする事は止めました[6]。しかし割礼を受けなくて良くなった、のとは反対に、割礼よりも深く、強烈な恵みが私たちの心に刻み込まれたのです。私たちが血を流す代わりに、イエスが血を流して、神と私たちとの隠し立てのない関係を下さいました。私たちの誇りや自慢や美化をすべて手放して、素の自分、隠したままにしたい自分の本心をご存じの神の前に立たせてくださいました。痛みや罪や弱さを通して覆いを取り除けられ、心から謙って神の前に立つのです。そういう関係が始まったことを現す最初の儀式が洗礼ですが、洗礼は

「キリストの割礼」

とも言われるのです[7]

 洗礼は割礼の代わりではありません。割礼が示していた、神との深く、隠し立てのない関係、体に刻みつけられた関係、それでも形ばかりになりうる関係を、イエス・キリストが完全な形で成し遂げてくださいました。キリストが肉を裂かれ血を流した御業によって、私たちの心が深く照らされました。迷いや弱さや罪のあるまま、主に立ち帰って、全能の神がこの私たちのうちにも働いて新しい業をなさる。私たちを新しくしてくださる、と信じるのです。

 この言葉を聞いても

17アブラハムはひれ伏して、笑った」。

 サラも次の18章で

12心の中で笑い」

ます。神が全能だからといって、こんな老人に子どもが産めるはずがない、とせせら笑うのです。それは微笑みや幸せの笑いというより、小馬鹿にした笑い、戯れる、笑い物にする笑いです[8]。しかし、神はそれを「不謹慎だ、不信仰だ」と怒るどころか、笑いを逆手に取って

「サラが産む子どもをイサク(笑い)と名づけよ」

と言うのです。「イサク」は全能の神が与えた第三の贈り物です。21章でサラは生まれて割礼を施したイサクを抱いて言います。

…「神は私に笑いを下さいました。これを聞く人もみな、私のことで笑うでしょう」。

 全能の神の約束はアブラハムもサラも吹き出した笑い話でした。神は人に、馬鹿馬鹿しい約束を語って笑われて下さり、でもそれを成就なさる。老人が子どもを抱き、神を裏切った人が何年も経って神から語りかけられる。人の失敗を通してもっと深い繋がりを与え、心の深い思いも隠している恥もさらすような出来事を通して、それでも神が愛していることに気づかせて、本当に隠し立てのない関係を結ばれる。

 神は私たちとの契約を、ひとり子イエスの御業によって完成しました。神の子が田舎娘から産まれ、十字架に殺された人が救い主として復活し、裏切った弟子が砕かれたリーダーになり、迫害者が伝道者になる不思議でした。その準備になされたアブラハムの選びは、神が全能の神であることを、笑わせて教えてくれます。回りくどい、笑っちゃうような不思議を私たちになさいます。そして最後には私が、みんなと一緒になって、信じずに笑った自分を笑う。全能の神は、笑いを下さるお方。そんな告白が、イサクという名に込められています。この主が今も私たちと包み隠すことのない関係を求めているのです。

「主よ、あなたから離れた世界の中に、いいえ、この私たちの心の奥の封じ込めたい自分にも、あなたが深い憐れみをもって近づかれることを感謝します。どうぞ、私たちが笑い出す程の尊い事をなしてください。ここにどうぞ、あなたの不思議な恵みを、思いを超えた慰めを始め、今の恐れや諦めを、いつか笑う日を迎えるとの約束を果たして、私たちを新しくしてください」



[1] 今日の週報のコラムを参照。エジプトの壁画も載せました。この時代のメソポタミアではごく一般的になされていた儀式のようで、衛生的な意味や宗教的な意味合いがあったのだろうと考えられています。ただし、聖書に書かれているように、ペリシテ人はしていませんでした。また、現代でも、フィリピンでは男性になる通過儀礼として10代でなされているようです。ちなみに「女性の割礼」という儀式がアフリカなどで習慣としてあることが近年も報道されて問題視されていますが、女性に一生の痛みを強いる女性器切除と、男性性器の皮の一部を傷つける割礼とは全く違うものです。

[2] ユダヤ人はアブラハム以降、割礼を「神の民のしるし」として大事にしてきました。生まれて八日目に割礼を施すという儀式がとても大事な民族のアイデンティティともなったのです。それだけに、特に新約の時代、ローマ社会との出会いで、割礼という習慣がない人々との交流では、大きな壁になってしまいます。キリスト教会は、外国人に対して、割礼を強いることはせず、割礼がなくてもイエス・キリストを信じるだけで神の民となる、という信仰に立ちました。割礼がなければダメだと考えたキリスト者と、割礼を受けなくても信仰だけで救われるとした使徒たちとの議論が新約で目立ちます。

[3] 良く言われるのは「アブラム」は「高められた父」という意味で、「アブラハム」は「多くの国民の父」だ、という説明です。しかし、「アブラハム」に「多くの国民の父」という意味が直接あるわけではありません。

[4] サライがサラになったのは、「イ」を取ったように見えますが、原文では、SaraiをSarahに、つまり最後の一字をiからhに変えた変更になっています。

[5] エレミヤ書4:4「ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。そうでないと、あなたがたの悪い行いのゆえに、わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者もいないだろう。」、また9:25-26「見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはすべて包皮に割礼を受けている者を罰する。26エジプト、ユダ、エドム、アンモンの子ら、モアブ、および荒野の住人で、もみ上げを刈り上げているすべての者を罰する。すべての国々は無割礼で、イスラエルの全家も心に割礼を受けていないからだ。」、レビ記26:41「このわたしが彼らに逆らって歩み、彼らを敵の国へ送り込むのである。もしそのとき、彼らの無割礼の心がへりくだるなら、そのとき自分たちの咎の償いをすることになる。」、エゼキエル44:7「あなたがたは、心に割礼を受けず、肉体にも割礼を受けていない異国の民を連れて来て、わたしの聖所にいさせ、わたしの神殿を汚した。あなたがたは、わたしのパンと脂肪と血を献げたが、あなたがたの行った忌み嫌うべきあらゆるわざによって、わたしとの契約を破った。」

[6] 割礼を巡る議論は、使徒の働き10章、11章、15章などを参照。また、パウロの書簡での直接の言及としては、ローマ2:25~29など。「もしあなたが律法を行うなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法の違反者であるなら、あなたの割礼は無割礼になったのです。ですから、もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、その人の無割礼は割礼と見なされるのではないでしょうか。からだは無割礼でも律法を守る人が、律法の文字と割礼がありながらも律法に違反するあなたを、さばくことになります。外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上のからだの割礼が割礼ではないからです。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。その人への称賛は人からではなく、神から来ます。」

[7] コロサイ2:11、12「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。12バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じたからです。」

[8] この言葉ツァーハクが出て来る他の節としては、以下が挙げられます。創世記21:9「サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、イサクをからかっているのを見た。」、26:8「イサクは長くそこに滞在していた。ある日のこと、ペリシテ人の王アビメレクが窓から見下ろしていると、なんと、イサクがその妻リベカを愛撫しているのが見えた。」、39:14「彼女は家の者たちを呼んで、こう言った。「見なさい。私たちに対していたずらをさせるために、主人はヘブル人を私たちのところに連れ込んだのです。あの男が私と寝ようとして入って来たので、私は大声をあげました。」(同39:17)、出エジプト記三二6「彼らは翌朝早く全焼のささげ物を献げ、交わりのいけにえを供えた。そして民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた。」、士師記一六25「彼らは上機嫌になったとき、「サムソンを呼んで来い。見せ物にしよう」と言って、サムソンを牢から呼び出した。彼は彼らの前で笑いものになった。彼らがサムソンを柱の間に立たせたとき、」などがあります。

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ヨハネ伝20章19~29節「傷のある復活」イースター夕拝 2019

2019-04-21 14:33:47 | 聖書の物語の全体像

2019/4/21 ヨハネ伝20章19~29節「傷のある復活」イースター夕拝 

 今日は世界のキリスト者が、イエスがよみがえらされたことをお祝いする「復活日」、イースターです。イエス・キリストが十字架に殺された三日目、日曜日の朝に、天の父なる神は、イエスを墓の中からよみがえらせました。本当にイエスは、死者の中からよみがえらされて、弟子たちの前に現れました。イエスは十字架に殺されましたが、神はそのイエスを復活させて、イエスが本当に神の子であり、私たちの救い主、主であり王であることを証ししてくださいました。死は終わりではなく、やがて私たちは皆よみがえって、新しい体をいただき、この世界も新しくされて、栄光の御国で永遠を迎える日が来る。その最初として、イエスは復活なさったのです。神がひとり子イエスを、私たちのためにこの世界に人として遣わしてくださった。十字架の死に至る最も低い人生を歩ませて、その死の三日目に復活させられた。イエスの十字架と復活は、神が世界と私たちを、神のものとして回復される証拠ですあり、キリスト教のエッセンスです。

 今日のヨハネ20章が伝える通り、弟子たちはイエスの復活を信じておらず、墓が空だと知らされても「復活だ、早く主に会いたい」とは考えもしなかった。むしろ、イエスを殺したユダヤ人がここにも来ないかと恐れて閉じ籠もっていた。そこに

19イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」

 イエスの復活とは、イエスの死後も弟子たちが自分たちの心にイエスが生きていると信じたことだと言う人や、弟子たちがでっち上げたと考える人もいますが、そんな勇気や希望は弟子たちにありませんでした。弟子たちが復活という教理を生み出したのではありません。弟子たちは臆病だったのに、イエスは事実、墓からよみがえり、弟子たちに現れて、語りかけたのです。私たちがイエスの復活を信じようと信じまいと、神はイエスを復活させました。信仰深い弟子たちの所にイエスが来て下さったのではありません。私たちが愛するから、信じるから、神を喜ばせる信仰者だから、キリストが祝福してくださる、のではありません。恐れて、信仰を失っている弟子たちの真ん中に、復活のイエスが立ってくださった。これこそが、キリスト者の原点です。

20こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。

 イエスが見せた「手と脇腹」は、十字架で太い釘を打たれた手と、兵士が本当に死んだ事を確認するために槍で刺した脇腹でした。ですから、25節でもトマスが「私は、その手に釘の痕を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った通りです。手には指が入る程の釘の跡が、脇腹には手が入る程の槍の刺された傷跡があったのです。イエスご自身、その手と脇腹を彼らに示すことによって、ご自分である事を弟子たちにハッキリと示しました。それがなければ、他人の空似かと思ったかも知れませんが、確かに見間違いようのない大きな傷があったのです。勿論、血は止まっていたのでしょうが、傷跡はあったのです。

 ただ、イエスが十字架につけられた時、鞭を打たれ、何時間も磔にされていました。十字架に架けられた人は、たとえ息絶える前に磔から降ろされたとしても、その体はひどく曲がって、一生真っ直ぐ歩くことも立つことも出来なくなったのだそうです。イエスがもしも本当に死んだのではなく、仮死状態で息を吹き返したのだ、としたら、起き上がることもままならない、痛々しい体であったことでしょう。ただの蘇生だったという説明は、これを考えてもナンセンスです。イエスは本当に死んで、そして、本当に神はイエスをよみがえらせたのです。だから、真っ直ぐに立ち、弟子たちと歩いたのです。

 しかし、それならば、手と脇腹の傷もすっかり癒やして、跡形もなくして弟子たちに現れることも出来たでしょう。傷のない、キレイな体のほうがいい気がします。それなのにイエスの手と脇腹には、傷跡がありました。それも大きな傷が。イエスもトマスに、

27…「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

と言われました。しかしトマスに信じさせるためではなく、最初に弟子たちに現れた時、イエスの方から手と脇腹を示されたのです。その傷はイエスである印でした。その傷は醜く見えても、今や弟子たちに喜びをもたらし、トマスに

「私の主、私の神」

という告白を言わしめる傷となりました。イエスの傷こそ、イエスが本当に十字架に死んだ事、何をなさった方かの徴でした。あれが幻や夢ではないし、忘れてしまった方がいい悪夢でもなく、イエスが何をなさったかを示す、かけがえのない生涯の証しだったのです。

 ある方は「復活によっても癒やされない傷がある」と言いました。どこかで私たちは、神様の元では傷や痛みがすべて忘れられて、跡形もなくなることを期待しているかもしれません。天国では、すべての傷がすっかり治り、障害もなく、皆美人で、若々しく、劣等感を持たなくてよい体になっている、というイメージがないでしょうか。そしてそれはそのまま、今でも神様が、私を傷つかないよう、失敗や問題や痛みがないよう守って下さればいいのに、という期待と失望と繋がっているのでしょう。復活のイエスの体には大きな傷がありました。ツルツルピカピカの栄光の体ではなく、生涯の傷が残っていました。それこそは、イエスの生涯の証しでした。もう血は流れておらず、痛々しく醜い傷ではなく、癒やされた傷跡でした。でも、その癒やされた傷痕は、消す必要がなかったのです。イエスが私たちを愛し、罪を負って傷を受けられました。それは愛の傷、イエスの生涯の証しです。人の罪を裁くより、罪ある人に赦しを与え、大きな平安を与えたいと願って、十字架にかかることも厭わなかった証し、尊い傷なのです。

 「祈りの手」という絵があります。絵描きになりたい二人が、まずは一人が働いてもう一人を絵の勉強に専念させようとした。でも長年、肉体労働をするうちに、もうすっかり絵が描けない節くれだらけの手になっていた。その手を描いた絵です。

 なんと美しい物語がここにあるでしょう。この生涯で体に刻みついた傷や皺、頑張りや愛の跡が、やがてどう残り、どう癒やされるのかは分かりません。でも全部が治ってしまったら、お互いどうやって見分けがつくのかも、同じぐらい分かりません。復活は生涯の傷を綺麗さっぱり無くすのではないのでしょう。イエスの復活が傷を残していたことは、今の私たちの痛みも、恥や呪いではなく、大事な人生の刻印だからです。イエスは人としての痛みを誰よりも味わわれました。その復活の体には、癒やされた傷がありました。

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