goo blog サービス終了のお知らせ 

聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

イザヤ書9章1~7節「ひとりの男の子が生まれる」アドベント第二聖日

2018-12-09 20:23:26 | 聖書の物語の全体像

2018/12/9 イザヤ書9章1~7節「ひとりの男の子が生まれる」アドベント第二聖日

 イザヤ書は旧約でも「第五福音書」と呼ばれるほどキリストについて語っている書です。いくつものキリスト預言が出て来ますが、その有名な一つがこの9章6~7節です[1]。紀元前8世紀のイザヤが主に語られた言葉として、やがて一人の男の子が与えられる、と言われています。そしてそれはまさしくイエス・キリストがどのようなお方であるかを言い表しています[2]

 イザヤの時代、紀元前八世紀から七世紀は、イスラエルの国が南北に分裂していがみ合っていた「分裂王国」の最後の時代です。イザヤがいた南のユダ王国は、敬虔なウジヤ王が死んで、狡猾なアハズ王が王になり、イザヤと厳しく対立します。特に、国際情勢が大きく動いて、アッシリヤ帝国が台頭します。やがて北イスラエルがアッシリヤに滅ぼされて捕囚となり、南ユダもその勢力に呑み込まれそうになります。アハズ王は日和見的に、アッシリヤと手を組もうとしますが、イザヤはアハズに、動揺せずに主を信頼するよう勧めます。アハズ王はイザヤに耳を貸さずにアッシリヤとの同盟を結び、結局はアッシリヤに散々苦しめられることになりました。神を信頼するよりも、外国の勢力を頼み、結局自分の首を絞めてしまう。いや、そう言われていたのに、その言葉に聴かないアハズ王、そして国民全体の傾向があったのです。

 つまり、キリストの預言の言葉は、当時の国際情勢や政治を視野に入れて語られたものです。経済や生活の危機が迫っている中で、その情勢も神のもっと大きな御支配の中にある、と諭す意味を持っていました。ただの将来への希望ではなく、現実が大きく動く中での言葉でした。そして、そのようなイザヤの言葉を信頼せず、神ではないものに縋ろう、人間の権力とか戦争、計算だけで生きようとする王に対して、神の支配はどんなものかを語るものでもありました。神の支配を嫌がって、自分の力だけで何とかしよう、不正や自己保身を変えまいと思うアハズ王に対して、イザヤは主が王である事を語り続けたのです。少し前の八章の結びを読みます。

八20ただ、みおしえと証しに尋ねなければならない。もし、このことばにしたがって語らないなら、その人に夜明けはない。21その人は迫害され、飢えて国を歩き回り、飢えて怒りに身を委ねる。顔を上に向け、自分の王と神を呪う。

 主の言葉に従わないで、身の破滅になるような日和見や、強者に靡(なび)く落ち着かない生き方で、

「夜明けはない」

闇を迎えてしまう。迫害や飢えや放浪をする羽目になる。その上それで反省するのでなく、怒りに身を任せて、顔を上げて王や神を呪う。この時代の在り方を言い当てています。自分で拙速な判断をしておきながら、人や神に腹を立てている。そういう状況です。

22彼が地を見ると、見よ、苦難と暗闇、苦悩の闇、暗黒、追放された者。九1しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地と      ナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。

 神に従わない結果、見渡しても苦難と暗闇、苦悩の闇。しかし、その所に、神は光を輝かせてくださいます。大きな光、栄誉をもたらすと言われます。繁栄、喜び、平和が与えられる。しかし、この地名はイザヤのいたエルサレムからは遠い辺境の地、

「異邦の民のガリラヤ」

と言われるような僻(へき)地(ち)でした。アハズにとってはアッシリヤに滅ぼされてしまえ、と思うような敵地でした。アハズに大事だったのは、自分の国、いや自分の立場や保身だけでした。しかしイザヤが語るのは、主が人にとって意外な所から光を輝かせる、という予告です。中央からの回復よりも、地方からの回復です。自分の真上から光が照るのでなく、あんな所には行きたくないと思っていた所に光が照り始めるのです。闇の中に歩むのが自分だけであるかのように、他者や王を呪う者が、世界は真っ暗だと思っていると、神は、他の人も闇の中にいる事に目を留めておられ、そこに光を輝かせてくださる。そのこと自体が、アハズ王は勿論、人間に対しするチャレンジではないでしょうか。神は

「わたしはあなたが考えている神とは全く違う」

と仰るのです。神の言葉を侮って、自分のプライドや成功のために、権力とか暴力とかに縋り、弱者や外国人を虐げたり切り捨てたりして、争ったり結託したりする人間社会や、国家や国際情勢があります。神の言葉は、やがて来る王は、そんな方向とは全く違う王で、闇に光を照らし、苦しみを慰めるお方。一人の嬰児(みどりご)として現れる、不思議で柔和な王だと宣言するのです。

 生まれる子どもの「名」の最初は

「不思議な助言者」

ですが八18にも不思議がありました。

八17私は主を待ち望む。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に望みを置く。18見よ。私と、主が私に下さった子たちは、シオンの山に住む万軍の主からのイスラエルでのしるしとなり、また不思議となっている。[3]

 ここでイザヤは、自分たち家族がイスラエルにとってのしるし、不思議となっている、と言います。現状、主の御顔は隠れているようで見えない。人が争い、差別をし、弱者を排除している殺伐とした社会で、主の顔は見えない。けれども、私は主を待ち望む。こうした時代に主を信頼している自分が、そして主が与えてくださった自分の子どもたちが、この世界にある不思議なしるしだ。そう、権力とか武器とか経済ではなく、主が私に与えてくださった子どもたち。御顔を隠しておられるように思えても、この子どもたちは主が下さった宝物。この前、七章八章と主はイザヤに子どもたちをしるしとして同伴するよう告げています。主は子どもの存在そのものを示されます。隠れているように見えても、主はいのちを与えてくださっています。その恵みを忘れて、権力や暴力に走り、神を信頼するより大国に頼もうとするなら、何と勿体ないことでしょう。「神が見えない、キリストが主であるというなら、どうして自分の人生は苦しいんだ」と、何かあれば怒りを溜め込んでしまう。そんな勘違いした人々の中で、それでも神を待ち望み、小さな子どもたちを神の授かり物とするイザヤ一家の存在が、そのまましるしでした。その延長に、やがて

「ひとりのみどりごが生まれる」

という約束がありました。

 キリストは私たちのためにお生まれになり、私たちに与えられました。それも権力や魔法で私たちを幸せにするよりも、ご自身が嬰児となって、無力で素直で無防備な姿で、私たちのもとに来てくださいました。この無防備で無条件に私たちの所に来てくださったことこそ、その小さな赤ん坊の両肩にある主権でしょう。イザヤの子どもたちを通して平和を語られた主は、ご自身が赤ん坊となる事によって、神の支配がどんなものかをお示しになったのです。キリストは人が願う力や奇蹟で人の夢を叶えるサンタクロースではありません。人に手なずけられる王ではなく、私たちを新しくしてくださる王です。私たちの天国ではなく、お互いや多くの人もともに平和に与る栄光の御国という、大きな新しい夢を持たせなさる王です。私たちの願いに役立つ助言ではない、予想もつかない不思議な助言を語られるお方です。何より私たちのために赤ん坊となって生まれ、大人になっても幼子のようで、最後は裸で十字架にかけられました。イエスの柔和さ、無防備さ、憐れみこそが世界の光であり、イエスの主権です[4]

 聖書はキリスト者の心に、御言葉を聞き流して、助けにならないものに縋る現実を受け止めています。気に入らない人には目もくれない狭い思い上がりもあります。何かあれば、怒って神をさえ呪いかねません。そんな闇にキリストが来てくださったのです。そして今も、隠れているように見えても、主は私たちを治めておられ、私たちの願いそのものを新しくし始めておられます。神の国がどんなものかを知らないまま、今への感謝や他者への憐れみのないまま、ではないようにしてくださっています。御言葉や子どもたちや、交わりや学び、自分の怒りや痛みや失敗を通して、変えてくださっています。私の願いが叶わなくて怒るよりも、もっと広く大きな神の国を知らされて慰められ、主の御国を心から待ち望むようにされています[5]

「主よ。なんと不思議な名前で迫ってくださるのでしょう。どうか、思いをあなたに向けさせてください。人の痛みも、あなたの約束も棚に上げて、自分の本当の必要さえ押し殺して、痛々しい道を選ぶ生き方から自由にしてください。私たちはあなたを待ち望みます。その待望に相応しく今ここで平和を作り、子どもたちを喜び、いのちを育む生き方を歩ませてください」



[1]ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」

[2] それとともに、それが七百年も前の時代に語られたとはどういうことなのか、を思います。イザヤの時代の人々にとって、将来このような王が生まれるということが慰めになったのでしょうか。そして、実際にイエス・キリストがお生まれになって二千年経つ私たちにとっても、キリストが既にお生まれになって、その御業を果たされて、平和の君として治めておられる、という言葉がどれほどの意味を持っているのでしょうか。どこか虚しく、空々しい声にも聞こえてこないでしょうか。そんな疑問とも通じる文脈がここにあることを気づきたいのです。

[3] この二つの「不思議」は原文では違う言葉が使われています。ニュアンスは違っていますが、イザヤが七章以来、赤ん坊という見えるしるしを通して語っている延長上にある事として扱います。

[4] 世界の多くの権力者にとっては厄介極まりないことだとしてもです。

[5] マハトマ・ガンジーは「もしあなたが世界の変化を見たいのであれば、あなた自身がその変化にならなければならない」と言いました。キリストは、まず私たちをその「変化」としてくださいます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

創世記3章14~21節「最初のキリスト預言」 アドベント第一聖日

2018-12-02 15:40:12 | 聖書の物語の全体像

2018/12/2 創世記3章14~21節「最初のキリスト預言」

 アドベント(待降節)はただのクリスマスへの準備ではありません。主の来られるのを待ち望んだ聖書の歩みを自分に重ね、今ももう一度主が来られるのを待ち望むのが「待降節」です。言わば、聖書の信仰は最初から今に至るまで、主の約束を待ち望む信仰なのです。

1.最初のキリスト預言

 イエス・キリストがおいでになったのは今から二千年ほど前、聖書の後半三分の一の、新約聖書冒頭です。そのイエスの誕生は、旧約聖書の随所で預言されていました。その預言の言葉を信じて、神がキリストを遣わして世界を治めてくださることを待ち望んでいた人がクリスマス物語には大勢出て来ます。そのキリストの預言が最初に出て来るのが、今日の創世記三章。アダムとエバが神の命令を破って、禁じられていた木の実を食べた直後の主の言葉です。

14神である主は蛇に言われた。「おまえは、このようなことをしたので、どんな家畜よりも、どんな野の生き物よりものろわれる。おまえは腹這いで動き回り、一生、ちりを食べることになる。15わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」

 ここで主は「蛇」に対して呪いを宣告して、蛇の頭を打ち砕く「女の子孫」がやがて来る事を予告しています。その「女の子孫」の踵(かかと)を蛇は打つ、つまり何らかのダメージを与えるけれども、

「女の子孫」

は蛇の頭を打つのですから、当然圧倒的なダメージを受けるのは蛇の方で、蛇は彼によって打ち砕かれる、という未来予想図がこの時点で描かれているのです[1]

 創世記で神が天地を創造され、アダムとエバをエデンの園に置かれたことから始まる物語は、早くも三章で人間が約束を破るという大失態を迎えます。そこから人間の罪や苦しみが始まります。しかしその最初の反逆の時点で、神は既に約束を語っているのです。将来の勝利を告げています。人間を背かせた蛇に呪いが告げられています。しかし、当の人には呪いや罰よりも、憐れみが注がれているのです。食べたら死ぬと食べることを禁じられていた木の実を食べたのです。それを食べた人間は、即刻死んでもおかしくはありませんでした。ところが、神は人間に死を宣告することはなさらずに、生かしておきます。苦しみや呻きは増されます。出産の痛みや、男と女の支配し操作しようという歪んだ関係も生じます。大地は呪われ、労働は苦しみになり、最後には死を迎えます。それでも、神は人間に即座の死ではなく、いのちを与えられます。先に15節の言葉を聴いたアダムとエバは、罪のもたらした罰の預言に神妙になりつつも、それでも生かして下さる主の測り知れない憐れみを痛感したのではないでしょうか。

2.妻の名を「いのち」と

 その証拠に、これを聴いた後のアダムは、妻の名をエバと呼んだのです。

人は妻の名をエバと呼んだ。彼女が、生きるものすべての母だからであった。(創世記3:20

とあるように、エバとは「生きるものの母、命の源であること」を込めた名前でしょう。先に12節でアダムは、彼女のことを「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女」と呼んでいました。「この女のせいで自分は約束を破ったのだ」と、ひどい言い草でした。16節の言葉を聴いて、彼女を「呪い」と呼び「いい気味だ」「俺がお前の支配者だ」と強気に出ることも考えなかったでしょうか。しかし、彼がしたのは

「妻の名をエバ(いのち、生きるものの母)と呼んだ」

でした[2]。エバには「誘惑者・魔性の女」とのニュアンスがありますが、アダムはそうは言いません。彼女自身も自分の罪の重荷で押し潰されそうだったかもしれません。しかし、夫から「堕落の母」ではなく「生きる者の母」と呼ばれて、どんなに慰められたでしょうか。聖書に従う者は、人を「罪人」とではなく、慰め、生かすように呼ぶはずで、妻もそれを辞退せずにその呼び名を受け入れるのです。それは私たちの優しさという以上に、主の言葉がどんな状況でも、約束を語っているから、なのです。

 そればかりではありません。21節で主は二人に

「皮の衣を作って彼らに着せられた」。

 皮の衣を作るには何かの動物を屠ったのです。神は二人に死を下す代わりに、動物の血を流して、二人に衣を着せてくれました。最初、二人は裸でしたが、禁断の木の実を食べた時に、裸である現実から目を背けて、隠すようになって、イチジクの葉で腰巻きを作っていた二人でした。もうイチジクも萎(しお)れていたでしょうに、主はその二人を優しく、温かく包む衣を作って、自ら着せて下さったのです。ここにも、主が人間に向ける憐れみが豊かに現されています。主はこの二人に自分の罪の結果を一部担わせると同時に、相応しいだけの厳しさや予想されるような重い罰よりも遥かに軽い扱いを与えます。この時点ですでに将来の勝利が予告されます。人間を敵と見なさないで、生きる者の役割を与えておられます。そして動物の血を流して、温かい皮衣を着せてくださいました。その動物が可哀想だと思うなら、私たち以上にその動物を可愛がっておられたのは主なのです。その動物の血を流した時、主ご自身も心を抉られる思いだったでしょう。いや、実際それは、やがて神がひとり子イエスを世に遣わされて、十字架に架かり血を流され、心を引き裂かれて、私たちに命を与えてくださることの予告だったのです。

3.主を待ち望む

 クリスマスは、この聖書の最初から予告されていた

「女の子孫」

の誕生でした[3]。それまでの間に、少しずつ主のご計画は明らかにされて、キリストがどんなお方かは具体的になっていきます。しかし、その一番初めの予告は創世記の三章、堕落の直後に告げられていたのです。聖書が語るのは、神が私たちを回復するために、神ご自身が近づき、痛みを背負い、王となってくださる、という確かなメッセージです。最初、神は人間を罰して反省させ、自浄努力を求められたけれども、その計画が悉く失敗したので、最終的にイエス・キリストが来られた、のではありません。神は最初から、やがて「彼」が現れて、蛇の頭を打つことを約束しています。そのキリストが遂にお生まれになったのがクリスマスだったのです。

 このキリストの誕生を迎えるまでの歴史が、旧約聖書に書かれています。その合間々々に、大きな出来事や新しい契約が更新されて、大切な御心が少しずつ明らかになっていきます[4]。神は一気に堕落後の問題を解決しようとされませんでした。そんなことをするぐらいなら、最初から人間の選択の自由や、この世界そのものの創造が無意味だったでしょう。神は人間に約束を与えられ、人間はその約束を破りました。その違反の痛みを人間は今も味わっています。時間を掛けて、苦労しながら、神の御心を味わい、自分や人と関わり、ますます神を待ち望む信仰を育てられたのです。しかしそれ以上に神ご自身が人間の違反を悲しみ、そのために血と涙を流され、長い痛みを背負っておられ、違反の償いと断絶の修復のために十分に時間をかけておられます。そしてそのようにしてまで神は私たちを回復して、いのちを与えようとなさいました。アダムとエバの子孫として罪や失敗を続けても、私たちを神は諦めないのです。

 私たちはこの世界で主の良き御支配を待ち望みます。沢山の問題があっても、あの最初に神はもう憐れみを示されたこと、そしてその約束通りにイエス・キリストが来られたことを思い出しましょう。イエスはこの世界の最も低い所に来られて、私たちの苦しみや呻きをともにしておられます。どんな人をもその罪でレッテル貼りをすることなく、温かい慰めに満ちた名前で呼んでくださいます。そして私たちを通しても、主のいのちの御業を生み出されます。今尚、苦しみや呻きがあり、夫婦や人間関係が軋んでいる現実の中で、ここに主が来て下さった事を、そしてやがてもう一度ハッキリと来てくださる事を信じるのです。それまでの間、今もこの神が世界を導いて、私たちとともに世界の物語を紡いでおられます。クリスマスを中心とする主の大いなる物語の中に生かされている事を覚えて、アドベントをご一緒に過ごしたいのです。

「主よ、アドベントを迎え、聖書の最初から主のおいでが予告され、それが成就された事を確かめ、今もその大きな主の約束に導かれている幸いを感謝します。主の苦しみ、悲しみ、憐れみがエデンの二人を包み、今も私たちに注がれています。主よ、あなたを待ち望みます。痛みや破れから目を逸らさず、その痛みを担われた主を仰いで、希望を語り届け合わせてください」



[1] これを「原福音」と呼ぶこともあります。

[2] しかも、これが、13節以降、アダムが語る唯一のセリフなのです。

[3] ガラテヤ書四章4節「しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。」

[4] 聖書の信仰の特徴は待つことにあります。そして、遂にキリストがおいでになり、その命をもって、蛇の頭を砕いて、勝利をなさいました。それでも、私たちはもう待たなくて良くなったわけではありません。やがてイエスがもう一度おいでになって、完全に王として世界を治めてくださる日を待ち望んでいます。私たちの信仰にとって「待つ」事は今も本質的なのです。アドベントはクリスマスの準備だけでなく、私たちの信仰の姿勢が待つことにあることを覚える時です。旧約の民がキリストのおいでを待ったように、私たちも王なるキリストの支配を待っています。そして、旧約の民がキリストをお迎えしたように、私たちもやがて必ず王なるキリストをお迎えする。その確かさを覚えるのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

創世記1章1~19節「大いなる造り主」 03

2018-11-18 16:03:01 | 聖書の物語の全体像

2018/11/18 創世記1章1~19節「大いなる造り主」

 聖書の初めの言葉は、

「はじめに神が天と地を創造された。」

です。聖書は、最初に神が天と地を作られた様子を私たちに語ります。私たちは聖書の光を通して、神について、世界について、そしてそこに生かされている私たち自身について、新しく知らされるのです。

1.天地創造の特徴

 この天地創造の記事にはたくさんのことが言われています。まず、神が天地を作られたという事実があります。世界は偶然に出来たのではなく、また、神が作っているうちに予想外のハプニングがあって世界が出来てしまったという神話でもなく、神が完全な制作者として世界を造り、順番に完成に近づけ、区切りごとに

「それを良しと見られた」

と確認されて、喜ばれていることが分かります。

「光、あれ」

と言えば光があり、

「大空よ」

と言われれば大空があり、

「水は集まれ」

と言われれば地が現れて海が出来る。

「地は植物を芽生えさせよ」

と言われればそのようになる。神の言葉の力強さにも驚かされます。神の創造の経緯は実に大胆です。

 同時に、神がこの世界に寄せている関心の深さもうかがえます。天と地を大雑把に作っただけでなく、神は関わり続けて、豊かにかつ細やかに、生き生きと整えられます。聖書には植物の名前が百種類ほど出て来ますし、現在は20万から30万種ぐらいと言われるそうです[1]。それだけの植物を生えさせるほど、神はこの世界に豊かな関心をお持ちです。世界の創造を楽しんでおられ、それを見て良しとされます。この「良し」は「すばらしい、喜ばしい、美しい、健康」といったニュアンスがあります。神はこの世界を美しく素晴らしく造られました。この世界を愛され、言わば世界をご自分の庭として、この世界に深く手を掛けられるのです。

 物作りやゲームやイベント、何かを造る仕事を「クリエーター」と呼ぶことが日本の業種として定着していますが、神は文字通り創造者(クリエーター)であり芸術家(アーティスト)です。世界は神の作品で、様々な趣向を凝らした、美しく、いのちの漲(みなぎ)る芸術です。そうは言い切れない問題も沢山あります。その事も創世記3章以降で取り上げていきます。それでも、問題を根拠に世界は虚しく無意味・無価値で、神はいないか世界を見捨てたのだ、とは考えないのです。世界はそもそも神が創造されたのであって、神はこの世界の創造主として世界に深い関心を寄せておられて、私たち人間の中にも働いておられる。引いては、それ故、今の私たちの問題だらけの人生や歴史にも、大いなる神は働いて下さって、そこから思いもかけない良いもの、美しい回復、素晴らしい物語を始めて下さる。そういう信仰を創世記から始まる聖書は随所で宣言しているのです。

Ⅱコリント四6「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。

2.「光る物」

 神が創造者だ、という信仰は、もう一方で、神ならぬものを神とする考えを一蹴します。世界は神によって造られた素晴らしい世界ですが、その素晴らしさを勘違いして神のように崇めて、本当の神に栄光を帰さない。それが偶像崇拝です。ここで特筆されるのは、14節以下。

「光る物」

とあるのは太陽と月のことですね。昼を治める太陽と、夜を治める月。しかしここでは「太陽」「月」と言わず

「光る物」

と素っ気なく呼び捨てます。太陽や月は多くの文化では神々として礼拝されています。神話でも大事な役を果たします[2]。だからこそ聖書は、太陽や月を「光る二つの物」と呼び捨てて、あれは神ではなく、あれを造られた大いなる神こそがあなたの神だ、と言っているのです。神が与えてくださった生き方の指針「十戒」は、

出エジプト記二〇3あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。…

と太陽や月をも偶像にしてはならないことを強調しています。確かに太陽は天で光って、生活に必要なものです。その熱や光は

「地を治める」

と言われるぐらいの大事な働きをしています。でも神ではありません。太陽には物凄いエネルギーはありますが、世界を造ったり育てたりする力も心もありません。私たちが礼拝する神は、太陽もこの世界も造られた大いなるお方で、私たちを生かして、地に豊かでバラエティに富んだものを造られる芸術家、愛の神です。

 聖書が、神はどんなお方か、を創造から書き始めているのは、人間が神を見失っていることも大きな理由の一つです。人は神を見失って、神ではないものを崇めているのです。これは偶像崇拝ですし、神に背を向けている罪です。罪とは道徳的に悪いということ以上に、神の律法に逆らうことです。神の御心に背いているのが罪です。神を神としないこと、神ではないものを神のように崇めて、恐れて、恋い慕っている生き方。「悪い生き方」ではなく、神が造られた良い物が神の代わりになって、本末転倒になっているのが罪の生き方なのです。

ローマ一25彼らは神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕えました。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。

3.偶像崇拝からの救い

 太陽や月も本来は良い物、大事なもの、なくてはならぬものです。でもそれは神ではないし、それに仕えるなら人生の方向は大きく変わります。家族や健康、仕事や趣味、お金、名声、国家や思想、キリスト教の伝道活動や教会堂や組織だって「偶像」になり得ます。どんな大事なものも神ではないし、神にすべきではないし、なってもくれません。それなのに、神から離れた人間は、太陽や鰯の頭をも縋り付いて失うまいと必死になります。その一方で、本当の神がどんなお方かも誤解しています。神の偉大さと関わり、あるいはその両方が見えません[3]

 今日読みましたイザヤ書も神の創造を引き合いに語っていましたし、聖書は神が天地を創造されたことから語り出すメッセージです。神の大いなる天地創造から語って、私たちを造り主なる本当の神に引き戻してくれるのです。聖書の物語の全体が、神から離れた人間を回復させるために、神ご自身が立ち上がってくださった。そういう物語が何章もかけて綴られる本とも言えます。世界を造られた大いなる神、太陽よりも偉大で、小さな植物の一種類をも愛おしまれる神が、私たちの神であられる。そして、私たちが神ならぬものを崇めている生き方から引き返して、神との親しい交わりの中に生きるよう、あらゆる手を尽くして下さる。聖書の歴史を通して、神がどれほど人のために心を砕かれ、あの手この手を使って、人間に働きかけてくださったかが明らかにされます。実に豊かで、意外な方法で、神は人間に働きかけます。最後には、神の御子イエスご自身が人間となって、人として歩まれ、私たちの身代わりに十字架の死を遂げてくださり、三日目に復活なさる、という誰も予期しないことをなさるのです。

 神の方から人間のために犠牲を払ってくださいました。イエス・キリストはご自分の痛みも恥も惜しまない、想像を絶する方法で、私たちを取り戻してくださいます。そして、その回復の出来事そのものが、一人一人違います。また単純に「信じたらお終い」でない、生涯掛けて、深く取り扱われる回復です。生涯掛けて神の恵みや偉大さを知り、人の心や自分のうちにある思いと向き合っていく、それぞれに特別な回復の道程があるのです。本当に神は、この世界を造られたお方、そしてこの世界に現されているように、偉大で、細やかで、限りない想像力と豊かで多様なことをなさる方です。ただ神に立ち帰るだけでなく、神がどれほど豊かで大いなるお方か、どれほど私たちを愛され、世界が神の限りない憐れみと喜びの中に生かされているかを知っていく。それもこの世界に用意されている歩みなのです。だから希望が持てるのです。

「天地万物の造り主であり、私たちの細胞や心の襞さえ支えておられる主よ。あなたが一人一人に違う個性、違う人生、神の子とされる特別な歩みを下さっています。測り知れないあなたの偉大さと愛を誉め称えます。私たちの小さな理解を超えた奇しい導きを見せて、御名を崇めさせてください。そうして、私たちにあなたにある希望、信頼、喜びを証しさせてください」



[1] 植物学のHPではこのように記載されています。「新種の記載は日々行なわれていますし,研究者によって種の認識は異なりますので,正確な種数というのを示す事はできません.そこで,下記の文献に記述されている種数,という形でお返事いたします.…「植物」の範囲がどこまでかは分かりませんが,維管束植物で記載されている種数については下記のとおりです.世界の維管束植物の種数:約235,500種(Judd et al. (2002) Plant Systematics: A Phylogenetic Approach, Scond Ed. Synauer, Massachusetts U.S.A.より)(科ごとに種数が記されています.大学図書館などにあればご自分でも調べてみて下さい) 日本の維管束植物の種数:約4630種(変種や亜種等も含めると約7500の分類群が記されています).「日本の野生植物」シダ,草本I, II, III,木本I, II.平凡社,東京.」 Q&A「植物種」「日本植物学会」

[2] 日本語でも「お天道様」とか「お月様」と人格化された呼び方がありますが、古来「太陽」「月」は神々として崇めていました。

[3] 交読した今日のイザヤ書40章も「28あなたは知らないのか。聞いたことがないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造した方。疲れることなく、弱ることなく、その英知は測り知れない。」と天地創造を言い、その方は現在の私たちに対して「疲れた者には力を与え、精力のない者には勢いを与えられる」方でないはずがない!と展開しました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

創世記2章4~14節「エデンの約束」

2018-11-11 20:40:37 | 聖書の物語の全体像

2018/11/11 創世記2章4~14節「エデンの約束」

 聖書は私たちを「神の人」として整える有益さがあります。ではどのような形で私たちを整えてくれるのでしょうか。聖書には規則や「良い言葉」や道徳もありますが、それらを包み込んでいる大きな流れがあります。その大きな流れの中にいる、という自覚も大きな益なのです。

1.エデンの契約

 聖書は創世記の天地創造から書き出します。創世記2章4節以下は、天と地が創造された時の経緯として、人間の創造に焦点を当てます。この部分を読んで印象に残るのはどんなことでしょう。それは、5節では地に灌木も草も生えておらず、雨もなく、人もいなかった淋しい状態だったのが、園が設けられ、木々が生い茂り、四つの大きな川が流れ出ている状態に変わった、という大きな変化でしょう。その中心にあるのが、人間です。7節の人間の創造です。

二7神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。神である主は東の方のエデンに園を設け、そこにご自分が形造った人を置かれた。

 ここに、神がお造りになった世界の中で、人間が与えられた特別な位置づけが強調されています。人間は、特別な役割が与えられています。神は、ご自分が創造された世界を、ご自分だけ完成してしまうことはなさらず、大地の塵から人間をお造りになりました。そして、わざわざその鼻にいのちの息を吹き込まれて、人を生きるものとされた。そういう丁寧な描写をすることによって、私たち人間が、神によって特別に作られた存在であると分かります。

 もちろん「特別」と言っても、自惚れたら勘違いです。世界の支配者のように思い上がり、動物を見下したりしたら、本末転倒です。むしろ人間は世界の管理者ですね。5節の最後

「また、大地を耕す人もまだいなかった」。

 裏を返せば人間は大地を耕すために造られたのです。15節にも

「神である主は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた」

とあります。人間は神がお造りになった地を耕し、守り、世界を育て、発展させる役割を与えられています。最も基本的なのは農業ですし、聖書はこの後、工業や建築、芸術や音楽、教育、様々な分野で文明が発達していく様子に触れていきます。人はこの世界に秘められた可能性を引き出す管理者です。仕事は呪いではありません。働くことは本来、創造の時点からあった、神からの祝福です。神はご自身の造られた世界を人に託し、喜んで管理して、発展させようとなさいます。人間は思い上がることなく謙虚に、心を込めて、喜び楽しみ、働く存在なのです。聖書は創造の出来事を生き生きと豊かに書き出しています。神は、この世界を豊かな世界として造られています。そして、その中に人間を置かれて、地を耕す役割を与えられました。

2.地に置かれた人として

 神は人間のお手伝いを必要とされたのではありません。

「見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を」

生えさせたのは神である主ご自身であって、人ではありません。いのちの木と善悪の知識の木とを生えさせたのも、人ではなく神です。10節以降の川も、エデンから湧き出て園を潤し、そこを源流として豊かな四つの大河という、いのち溢れるイメージになっています[1]。決して人間がこの川を流したのではなく、ただその流れの豊かさに、アダムは息をのんでいたのでしょう。そうして、地を耕し、守る生活も、神が木々を生えさせるいのちのわざに驚きながら、汗を流して、管理をしていたのではないでしょうか。アダムとエバは、エデンの園で、何もしなくて良かったわけではなく、その反対に、彼らは園を耕し守る仕事をしていました[2]。それも四つの大河の源流がある広大な園の管理する、大きな責任を果たしていたのです。労働は堕落後の呪いだという誤解もありますが、聖書では最初から人間は働いています。人は大地から作られ、大地に関わりながら、神様の御業を味わい、神の創造の豊かさを知って、そのお働きの一端を担いながら、この世界の素晴らしさを知っていく存在です。

 7節に

「大地のちりで人を形造り」

とあります。しかし「人間は金や宝石でなく、塵から造られたに過ぎない」という教訓ではありません。金や宝石が高価で、塵なんて価値がない、という発想自体、神が世界のすべてを創造されたことが分かるなら変わりますね。神は世界をすべて金や宝石で造らずに、草や花も塵も空気もすべてをかけがえなくお造りになったのです。人が地の塵から造られたのは、人がこの世界と深いつながりを持っているということです。塵から造られた「詰まらないもの」とは逆に、塵をも詰まらないものと見なさず、この世界のすべてのものを神の贈り物、意味のあるものとして、大切に管理し、耕し、育てるのです。

 神は人の鼻から

「いのちの息」

を吹き込みました。そうして初めて人は生きたものとなりました。神からいのちを吹き込まれて、神との交わりに生きる時に、初めて人は命を持つ。そうして、世界に置かれた自分の仕事を果たしていくことが出来る、ということです。神の息を吹き込まれて、神との交わりを楽しみながら、神が造られた豊かな世界の中で耕し、働く。ただ耕すだけでなく、神とともに世界を楽しみ、味わい、喜ぶようにと、神は願われたのです。

3.新しい天と地を待ち望む

 主イエスは神の国を例えて仰いました。

マルコ四26…「神の国はこのようなものです。人が地に種を蒔くと、27夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。28地はひとりでに実をならせ、初めに苗、次に穂、次に多くの実が穂にできます。29実が熟すと、すぐに鎌を入れます。収穫の時が来たからです。」[3] 

 イエスはこれを譬えとして仰いましたが、創世記で最初の人が体験していたのは、この譬えそのものでした。大地を耕し、園を守りながらも、自分の働きを越えた神のいのちの業を見て、驚いて、神を賛美して働く、そういう関係だったのです。

 現在、種を蒔いても作物はそう簡単には育ちません。労働はそんなに喜ばしいものではなく、汗水流しても報われないことが多くあります。それは、この後三章に書かれている変化があるからです。人は神から離れてしまい、最初の罪のない関係は大きく壊れました。地と人間の関係も損なわれて、地は茨やアザミを生えさせるようになります。人は神との壊れた関係の回復を必要とします。そのために神のご計画が始まっていきます。それが聖書の物語の中心テーマです。そのクライマックスは、神であるイエス・キリストが世界に来られて人となり、十字架にかかり、復活されて、聖霊を注いで下さること、新しく

「いのちの息」

を吹き込んで下さることです。主は私たちを生かしてくださる。神との関係が壊れた人間を癒やして、回復して下さるのです。その時、地の関係も回復されずにはいません。地から作られた私たちは、この地で日々神の業がなされている一端を担っています。神の子とされた私たちにとって、礼拝や伝道と同じぐらい、仕事、家事、育児、介護、精一杯生きることそのものが神からの贈り物です。

 繰り返します。出発点は創造です。この世界は神が創造された善い世界です。私たちはこの地から作られ、この地を耕したり生活を営んでいく大切な使命を与えられています。でも、その後に人が神に背いた堕落がありました。いつもその影響が世界にはありますし、自分自身も罪や問題を抱えています。でも、神は恵みによってこの世界に働いておられます。神の創造された世界は決して失敗で終わりません。神の尊い恵みがあります。私たちはそこで希望を持つことが出来ます。罪も見つめ、問題に取り組みながら、主に祈りつつ、助け合いつつ、心を込めて自分の仕事を果たします。最後には、神が世界を完成させてくださる、と希望を持ちながら、働くのです。人の手を越えた神の御業を信じつつ、罪の現実もシッカリ見ながら、それ以上の神の恵み、最善のご計画を信じて、生活をしていく。そういう姿を整えられるのです。

「主よ、あなたは人を塵から作り、息を吹き込み、地に置かれました。沢山の恵みと大切な使命とを与えてここに生かされていることを感謝します。仕事も家庭も社会の活動も、簡単ではありませんが、私たちの手の業をも用いて主がこの地に御業をなさってください。祈り、賛美し、待ち望みつつなすすべての業を通して、御名が崇められ、地が喜びで満たされますように」



[1] 11節の「ピション」と13節の「ギホン」は詳しいですが、場所は不明です。14節の「ティグリス…ユーフラテス」は言わずと知れた、文明の源流となる大河の名称です。しかし、これが現代のティグリス川とユーフラテス川そのものとは、地理的に考えられません。(二つは近いですが別々の源流から流れる河です)。読者には、第三、第四に「ティグリス」「ユーフラテス」と来る事で、「ピション」と「ギホン」がそれを上回る大河としてイメージできたでしょう。そのような四つの大河の源流が流れる園という描写に、エデンの園の豊かさ、広大さが伝わったはずです。

[2] 私は以前、エデンの園にいるアダムとエバは、何も働かずにのんびりリゾート暮らしをしていたイメージがありました。聖書を読めば違いますよね。

[3] また、この後には、「からし種」の譬えを語られます。「30またイエスは言われた。「神の国はどのようにたとえたらよいでしょうか。どんなたとえで説明できるでしょうか。31それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときは、地の上のどんな種よりも小さいのですが、32蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張って、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」 この二つの譬えの連続は、神の国のいのち溢れる力を豊かにイメージさせます。当然、その前の「四つの種」の譬えも、道徳的に読むよりも、最後の「三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たち」に力点があると気づきます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Ⅱテモテ書3章16-17節「聖書の有益さ 聖書の全体像1」

2018-10-14 22:17:13 | 聖書の物語の全体像

2018/10/14 Ⅱテモテ書3章16-17節「聖書の有益さ 聖書の全体像1」

 今日から「聖書の全体像」をテーマにお話しします。特に聖書が語るストーリー、パウロのいう

「神のご計画の全体」[1]

をお話しします。神が聖書に示しているのはこの上なくユニークな『神の大いなる物語』です。今日はその最初に、聖書そのもののユニークさを見ましょう。

1.聖書の基本的なこと

 私たちの使っている聖書は、大きく分けると旧約聖書と新約聖書の二つからなっています。旧約はイエス・キリストが来られるまでの時代に書かれたもので、新約はイエス・キリストがおいでになってから書かれたものを収録しています。今日のテモテへの手紙第二に

Ⅰテモテ三15また、自分が幼いころから聖書に親しんできたことも知っているからです。…

とある「聖書」は旧約聖書の事です。まだ新約聖書は書かれている途中で、テモテの幼い時からあったのは旧約だけでした[2]。旧約聖書は三九巻。一番古いのが、紀元前一五〇〇年頃のモーセが受けた律法です。そして新約聖書は二七巻、紀元一世紀に書かれたものです。三九巻と二七巻を合わせると六六巻。九九の「三九、二十七」と語呂合わせで覚えてください。

 しかし、千六百年もかけて、書いた人たちは四〇人。元々の言葉も、旧約は主にヘブル語で、新約はギリシア語です[3]。それほど隔たりながらも、聖書は神を著者とする一貫性・統一があります。聖書全体が一冊の本で、多くの人間を用いながら、神ご自身が究極の著者である本なのです[4]

Ⅰテモテ三15…聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。16聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。17神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。

 この「聖書」は旧約聖書ですが

「キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせる」

と言われています。旧約聖書はキリスト・イエスへの信仰による救いを受けさせるのです[5]。そして

「すべて神の霊感によるもの」

です。霊感とは、モーセやパウロが恍惚状態になって書かれたという事ではありません。聖書の記者たちはそれぞれの状況で、祈りつつ、言葉を考えつつ、それぞれの書を書いたのです。そのプロセス全部に神の聖霊が働いておられて、その書を有益なものとされました。神が長いプロセスを通して、聖書を書かせたので、聖書は教えと戒め、矯正と義の訓練とのために有益なのです。そして、神の人を全ての良い働きに相応しくし、十分に整えられた者とするほどの有益さがあるのです。16節の

「教えと戒め」

は正しい知識と間違った誤解を正すこと、

「矯正と義の訓練」

はそれぞれの人格や生活の間違った生き方を治して、正しい生き方へと育てていくこと。つまり、知的にも生活面でも肯定・否定両方の必要を満たすのが四つの

「有益さ」

なのです。そうすることによって人は全人的に、全ての良い働きに相応しく、十分に整えられた者となるのです。読まないなんて勿体ないのです!

2.聖書の多様性

 もしかすると

「すべての良い働きにふさわしく十分に整えられた者」

なんて、自分には縁がないし、そんなご立派なクリスチャンなんて楽しくなさそうで、正直、御免被りたいと思う方もいるのではないでしょうか。そういう人にこそ聖書を読んでください。神を十分に知らないままだと、当然

「神の人」

へのイメージも浅薄で陳腐で、型にはまったつまらないはずです。そんなあまり説明もいらないようなものと違い、聖書はもっと神の豊かさを教えてくれます。神のメッセージがどれほど豊かで、意外で、バラエティに富んでいるかを教えてくれるのです。

 聖書を書いた四〇人には、純粋な牧師や神学者は一握りです。政治家や軍人、羊飼いや詩人、漁師や医者、税金取り、かつてのキリスト教迫害者といった職業人たちです。また内容も、歴史を伝えるものや小さなドラマ、神殿での礼拝の献げ方や生活の規則(戒め)もあります。詩集も、「知恵文学」と分類される箴言、ヨブ記、伝道者の書などもあります。旧約聖書の後半は「預言書」で一七人の預言者達のそれぞれの記録が伝えられています。新約も、イエスの生涯を伝える福音書が四つ、教会の始まりを伝える「使徒の働き」、そして20の手紙と「ヨハネの黙示録」という摩訶不思議な書が混ざっています。聖書にはひと口では言い表せない多様な内容があります。最近「聖書のジャンル」がよく言われます。ジャンルを無視して、文字面だけから無理な読み方をしたら危ないことが丁寧に指摘されるようになりました。[6]

 聖書著者の多様性、各巻のジャンルの多様性は、神が人間をどれほど多様で、様々な面を持った存在であるかをご存じの証拠です。ただキリスト教を信じて宗教的に救われ、素晴らしいクリスチャンになるエスカレーターなどありません。汗水流して仕事をし、生活で喜びや悩みを味わい、家族の幸せと問題とに揺れ動く-人間の全生活が聖書の視野に入っています。礼拝や魂や死後の問題の宗教ではなく、人の営み全てに神は目を留めてくださっています。私たちの歩みや心の底を深く見ておられます。そして、驚くばかりの恵みで導いて励まし、絶望から救い出し、神に信頼して生きるよう招き、働かれます。知恵や新しい生き方を下さるのです。

3.恐れからキリストへの信頼へ

 一番大事なのは、私たちが神を信じる立派な信仰を持つとか、私たちが神の人として整えられようとするかではありません。神が私たちの全生活、全生涯の主でいてくださることです。神ならぬものを崇めて追い求める、無理で苦しい生き方から、神の力、知恵、恵みを知るから、神を信頼せずにおれないのです。私たちの努力ではなく、神ご自身の業です。

 聖書の歴史も聖書の豊かな内容も、神を指し示しています。神は聖書を記すのに、様々な職業を持った人たちを用いられました。モーセやパウロ、一人一人の個性や背景をそのままに生かして、その時代その時代にお語りになりました。聖書には雲のように数えきれない程の証人がいます。聖書の時代、そして聖書六六巻が完成してから今に至る二千年、併せて三千五百年。神の言葉を読んで、キリスト・イエスに対する信仰をもらった、数えきれない先輩たちがいます。

 どの時代のどの人もどの教会も決して完璧ではありませんでした。これだけ豊かな聖書ですから、あちこちの理解・解釈は分かれますし、日本語への翻訳は終わりがなく、簡単ではありません。けれども、思い出してください。旧約聖書が語っていたのはキリスト・イエスへの信仰だったのに、イエスがおいでになった時、イエスをキリストとして分かっていた人はほとんどいませんでした。それでもイエスは来てくださいました。人の誤解や限界があろうとも、イエスは来てくださり、神のご計画は進んでいくのです。神ご自身が私たちの神として働いておられます。そこに希望があります。信仰の反対は「恐れ」です。聖書の言葉は、私たちが恐れようと疑おうと誤解しようと、神がキリストにおいて御心をなさると信頼させて、希望を持たせてくれます。

 聖書はただの道徳や古めかしい哲学書ではありません。また、名言集や格言の寄せ集めではありません。「霊感」とか「神の息吹」は、呪文みたいなものではありません[7]。むしろ聖書全体がバラバラでなく、大きな神の物語を語っています。その中で、私たち一人一人の心にある思い、日常生活の在り方を方向付けてくれるのです。神は私たちに語りかけておられます。私たちの現状を隅々まで知った上で、私たちに語り続け、この世界が神の手の中にあることを知らせてくださる書です。神ならぬものを追いかけたり、強迫観念で良い行いをしたりする生き方から、本当の神は解放してくださいます。良い働きの動機や裏付けが変わって、もっと信頼を持って、もっと喜びをもって生きていくようにされるのです。聖書の真ん中にいるのは、キリスト・イエスです。私たちといつもともにおられ、私たちを導き、整えてくださるお方です。聖書を開いて御言葉に静かに聴く中で、ともにおられる主は様々な恵みを下さるのです。

「御言葉の主なる神よ。聖書の長い歴史と豊かな内容を感謝します。聖書を通して、主イエスを信頼して生きてゆけることを感謝します。御言葉の糧で養ってください。恐れや不安で生きることから救い出して、信頼と喜びから、淡々と良い業をなさせてください。あなたは真実な方です。どうぞあなたの大きな物語の一頁に私たちを加えて、あなたの栄光を現してください」



[1] 使徒の働き二〇27「私は神のご計画のすべてを、余すところなくあなたがたに知らせたからです。」

[2] ユダヤ教では、イエスをキリスト(メシア)として受け入れませんから、「旧約聖書」だけが「聖書」です。また、イスラム教は、旧約のモーセ五書と詩篇と新約聖書の福音書、そして、クルアーン(コーラン)を聖典とします。更に、キリスト教でも、カトリックは、「外典」(旧約聖書続編)と呼ばれる七つの文書も受け入れています。詳述は省きます。

[3] 旧約聖書の一部はアラム語で書かれています。

[4] Ⅱペテロ一21「預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。」

[5] また、イエスが、聖書はご自身について語っていると各所で言っています。ルカ二四44「そしてイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」、ヨハネ五39「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。」など。私は神学校の入試に「旧約では律法を行うことによる救いで、新約がイエスを信じる恵みを語っている」と書いて提出してしまいましたが、憐れみで入学させてもらいました。その後、聖書の一貫性を学ぶことが出来て、神の恵みがハッキリと分かりました。まだ学んでいる最中です。

[6] たとえば、ゴードン・D. フィー、ダグラス・スチュワート『聖書を正しく読むために「総論」: 聖書解釈学入門』関野祐二訳、いのちのことば社、2014年、など。

[7] 聖書のある一節を、お札のように使って、人を慰めたり回心させることが出来る、という誤解は広くあります。街角で、黒地のボードに聖書の言葉を書いたものを見かけますが、そこにはこうした理解があります。また、「アブダカダブラ」という呪文はヘブル語のアルファベットを並べたものという説もあります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする