聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/11/28 ミカ書7章18~20節「小さい町から王が出て 一書説教 ミカ書」

2021-11-27 12:50:07 | 一書説教
2021/11/28 ミカ書7章18~20節「小さい町から王が出て 一書説教 ミカ書」[1]

 今日からアドベントです。交読しましたマタイの福音書には、キリストの誕生の場所が、
「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれています。『ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』」
と答えられた事が書かれています。この言葉は旧約のミカ書5章2節の言葉です。今日は、このミカ書から一書説教をして、ここから預言されているキリストの誕生の恵みを覚えます。

1章1節「ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に」

は紀元前八世紀です[2]。当時、イスラエルは北と南に分裂していました。どちらも経済的に絶頂期を迎えた頃でした。豊かになった分、格差が生じ、富裕層の搾取が横行していました。また近隣諸国も力をつけ[3]、新旧交代をし、新興のアッシリア帝国は北イスラエル王国を滅ぼしてしまう。波乱の時代です。ミカ書は、イスラエルの民の罪、とりわけ権力者たちの横暴を責めて[4]、アッシリアやバビロンの侵略を警告します[5]。王や富裕層の我が物顔の時代はまもなく終わることが告げられるのです[6]。
 ミカ書は「聞け[7]」の繰り返しを目印に、大きく三つの部分に分けられます[8]。それぞれに指導者たちの罪が責められます。しかし、その後には回復の希望が必ず語られるのです。崩壊の先には、神が無条件に回復を備えている、虐げられていた人々が集められる喜び神の国があるのです[9]。それも、第一部は2章12~13節[10]、第二部は4章1~7節[11]、そのあとに4章8節~5章14節の大きな将来像の幻があり、最後第三部も、7章8~20節が確かな救いと希望を語ります。段々、回復の約束が長くなるのです。人間が神を差し置いて支配者となっている時代は必ず終わる。その先には神が本当の支配者として来られ、平和の国をお建てになる。その中で、
5:2 「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」[12]
という言葉が語られるのです。それは、当時の有力者たちが自分の権力に胡座をかいている中、失墜が告げられて、足元のベツレヘム、あまりにも小さいと言われる町から、治める者(王)が登場するという、大変皮肉な言葉でした。それが、マタイの福音書で引用されます。その時も残酷なヘロデ大王がエルサレムに君臨して、自分の王座を暴力的に守っていて、権力の座のためには、生まれるキリストも殺そう、ベツレヘムの幼児も皆殺しにしよう、としました。そうした社会のあり方そのものが、ミカ書の非難したことであり、そして、その人間の支配をひっくり返す、神の支配が来ることをミカ書が預言していて、この言葉があるわけです。

 また、預言者ミカはとても強い言葉で指導者たちの罪を責めますが、最後の7章では彼の悲しみが吐露されます。また、彼自身、自分の罪をも深く自覚しています。

7:9 私は主の激しい怒りを身に受けている。私が主の前に罪ある者だからだ。しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出してくださる。私は、その義を見る。[13]

 ミカ自身、自分の罪を認めています。しかし、その罪を正しく裁いてくださる主に望みを置いています。ですから、このミカ書の最後は、独特な深みを持った慰めで閉じられるのです。

7:18 あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。
あなたは咎を除き、
ご自分のゆずりである残りの者のために、
背きを見過ごしてくださる神。
いつまでも怒り続けることはありません。
神は、恵みを喜ばれるからです。
19 もう一度、私たちをあわれみ、
私たちの咎を踏みつけて、
すべての罪を海の深みに投げ込んでください。[20節略]

 海は最も深くて1万メートル、平均しても富士山より深い4千メートル以上です[14]。しかし、聖書の時代は、海は死者を呑み込む底知れない場所だと恐れられていました。その海の奥底に、私たちの罪をあなたは投げ入れて下さる。もう引き戻したり、思い出したり出来ないほど、手の届かない所に投げ打って下さる。そういう神への告白がミカ書の結びなのですね。[15]

 神は、人の不正を悲しみ、人が神を差し置いて世界を守ることなど出来ないことを知って、警告と希望を語られます。そして神は、人の世界では最も小さい町から王を出したり、罪に嘆く者の罪を海の底に投げ込み、絶望の先に回復があることを語る王です。そして、その約束がやがて本当に事実となり、キリストがこの世に来られました。小さな町ベツレヘムにお生まれになり、罪人の友となり、権力者に立ち向かいました。私たちの罪を海の深みに投げ込む所か、ご自身が天からこの世界に飛び込んで来られ、よみの深みにまで飛び降りてくださいました。この方こそ、永遠の昔から定められていた、私たちを本当に治めてくださる不思議な王です。

 「あなたのような神がほかにあるでしょうか」とミカは言いました。「ミカ」という名前自体が「誰が主のようであるか(=他にいない)」という意味なのです[16]。主のような神は他にいない。咎を除き、怒り続けず、恵みを喜ばれる神。私たちの罪を海の深みに投げ込まれる神。そして、クリスマスでお祝いするように、この世界の最も小さい町に生まれて、十字架にまで、よみにまで降ってくださった。こんな主は他にいない。この方が私たちの神であられるのです。
ミカの時代、イエスの時代、そして、今の私たちの時代も、これは私たちの告白です。主が神でいてくださる。今も最も小さい場所から、主は働いてくださる。私たち人間の失敗や絶望を超えて、主が私たちの真ん中でも、私たちの側にも、回復を備えておられる。こんな神は他にいるでしょうか。そう思えばこそ、私たちは、自分が神になろうとする思いを手放して、公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、私たちの神とともに歩むことができるのです。[17]
「主よ。あなたが神であり、世界を導き、小さなベツレヘムに来られた王であることを賛美します。今、私たちの置かれているこの時、罪や無力さに向き合いつつ、あなたが王であり、回復の希望を語ってくださることを感謝します。あなたご自身が最も低い所に来られて、御業をなさるお方です。私たちのただ中に、また私たちの心の奥深くに、おいでください。このアドベントが、本当に今ここで、あなたを待ち望む時、あなたにお会いする時でありますように」



脚注

[2] 1:1「ユダの王ヨタム[前750-732]、アハズ[743-716]、ヒゼキヤ[729-687]の時代に、サマリアとエルサレムについて見た幻」南ユダから、サマリアとユダとの問題を預言して責めた。

[3] このペリシテとの境界にあったのが、ミカの出身地モレシェテでした。「モレシェテ ペリシテと国教を接するシェフェーラーと呼ばれる低地にある…エルサレムの南西30-40kmほどの所にある。(『バイブルnavi』947頁)」

[4] ミカ書に上げられる罪状は、詐欺(2:2)、盗み(2:8)、貪り(2:9)、放蕩(2:11)、圧政(3:3)、偽善(3:4)、異端(3:5)、不正(3:9)、恐喝や嘘(6:12)、殺人(7:2)など。

[5] アッシリアについては、5:5「平和は次のようにして来る。アッシリアが私たちの国に来て、私たちの宮殿を踏みにじるとき、私たちはこれに対抗して七人の牧者、八人の指導者を立てる。6彼らはアッシリアの地を剣で、ニムロデの地を抜き身の剣で飼いならす。アッシリアが私たちの国に来て、私たちの領土に踏み込んで来るとき、彼は、私たちをアッシリアから救い出す。」、また、7:12「その日、アッシリアとエジプトの町々から、エジプトから大河まで、海から海まで、山から山まで、あなたのところに人々がやって来る。」。バビロンについては、4:10「娘シオンよ。子を産む女のように、身もだえして、もがき回れ。今、あなたは町を出て野に宿り、バビロンまで行く。そこで、あなたは助け出される。そこで、主があなたを敵の手から贖い出される。」

[6] 一〇〇年後のエレミヤ書では、ミカの名前が遡って言及されます。エレミヤ書26:18 「かつてモレシェテ人ミカも、ユダの王ヒゼキヤの時代に預言して、ユダの民全体にこう語ったことがある。万軍の主はこう言われる。シオンは畑のように耕され、エルサレムは瓦礫の山となり、神殿の山は木々におおわれた丘となる。19そのとき、ユダの王ヒゼキヤとユダのすべては彼を殺しただろうか。ヒゼキヤが主を恐れ、主に願ったので、主も彼らに語ったわざわいを思い直されたではないか。ところが、私たちはわが身に大きなわざわいを招こうとしている。」

[7] ヘブル語「シムウー」。1:2(すべての民族よ、聞け。地とそこに満ちているものたちよ、耳を傾けよ。神である主は、あなたがたのうちで証人となり、主はその聖なる宮から来て証人となられる。)、3:1(私は言った。「聞け。ヤコブのかしらたち、イスラエルの家の首領たち。あなたがたは公正を知っているはずではないか。)、3:9(これを聞け。ヤコブの家のかしらたち、イスラエルの家の首領たち。あなたがたは公正を忌み嫌い、あらゆる正しいことを曲げている。)、6:1(さあ、主の言われることを聞け。立ち上がれ。山々に訴えよ。もろもろの丘にあなたの声を聞かせよ。2山々よ、聞け。主の訴えを。変わることのない地の基よ。主がご自分の民を訴え、イスラエルと論争される。)、6:9(主の御声が都に向かって叫ぶ。──あなたの御名を恐れることは英知だ──「聞け、杖のことを。だれがその都を指定したのか。)

[8] アウトライン:

1~2章 サマリアの荒廃とエルサレムへの警告 2:12~13 回復の希望

3~4章 エルサレムに対する神のさばき 4:1~7 シオンの回復

4:8-5:14 アッシリア、バビロン捕囚、回復

6-7章 不正な経済システム 7:8-20 確かな救いの希望と懇願

[9] 4:6 「その日──主のことば──わたしは足を引きずる者を集め、追いやられた者、また、わたしが苦しめた者を呼び集める。7わたしは足を引きずる者を、残りの者とし、遠くへ移された者を、強い国民とする。主であるわたしが、シオンの山で、今よりとこしえまで、彼らの王となる。8あなたは、羊の群れのやぐら、娘シオンの丘。あなたには、あのかつての主権、娘エルサレムの王国が戻って来る。」

[10] 2:12「ヤコブよ。わたしは、あなたを必ずみな集め、イスラエルの残りの者を必ず呼び集める。わたしは彼らを、囲いの中の羊のように、牧場の中の群れのように、一つに集める。こうして、人々のざわめきが起こる。13打ち破る者は彼らの先頭に立って上って行く。彼らは門を打ち破って進み、そこを出て行く。彼らの王が彼らの前を、主が彼らの先頭を進む。」

[11] 4:1-7「その終わりの日、主の家の山は、山々のかしらとして堅く立ち、もろもろの丘よりも高くそびえ立つ。そこへもろもろの民が流れて来る。2多くの国々が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。」それは、シオンからみおしえが、エルサレムから主のことばが出るからだ。3主は多くの民族の間をさばき、遠く離れた強い国々に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。4彼らはみな、それぞれ自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下に座るようになり、彼らを脅かす者はいない。まことに万軍の主の御口が告げる。5まことに、すべての民族は、それぞれ自分たちの神の名によって歩む。しかし、私たちは、世々限りなく、私たちの神、主の御名によって歩む。6「その日──主のことば──わたしは足を引きずる者を集め、追いやられた者、また、わたしが苦しめた者を呼び集める。7わたしは足を引きずる者を、残りの者とし、遠くへ移された者を、強い国民とする。主であるわたしが、シオンの山で、今よりとこしえまで、彼らの王となる。」 この1~3節は、イザヤ書2章3~4節と酷似しています。同時代ゆえ、影響があったと思われます。どちらが先か、は諸議論あり断定できません。

[12] この言葉は、更に続く7節まででも「彼は」と繋がって、具体化されています。5:3「それゆえ、彼らはそのままにしておかれる。産婦が子を産む時まで。そのとき、彼の兄弟のほかの者はイスラエルの子らのもとに帰る。4彼は立って、主の力と、彼の神、主の御名の威光によって群れを飼う。そして彼は安らかに住まう。今や彼の威力が、地の果ての果てにまで及ぶからだ。5平和は次のようにして来る。アッシリアが私たちの国に来て、私たちの宮殿を踏みにじるとき、私たちはこれに対抗して七人の牧者、八人の指導者を立てる。」 また、ミカ書がここまで語ってきた、とこしえの王の約束ともつながっています。4:7(わたしは足を引きずる者を、残りの者とし、遠くへ移された者を、強い国民とする。主であるわたしが、シオンの山で、今よりとこしえまで、彼らの王となる。8あなたは、羊の群れのやぐら、娘シオンの丘。あなたには、あのかつての主権、娘エルサレムの王国が戻って来る。」)、

5:6 彼らはアッシリアの地を剣で、ニムロデの地を抜き身の剣で飼いならす。アッシリアが私たちの国に来て、私たちの領土に踏み込んで来るとき、彼は、私たちをアッシリアから救い出す。

[13] 7:7 しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の言うことを聞いてくださる。8私の敵よ、私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がる。私は闇の中に座しても、主が私の光だ。9私は主の激しい怒りを身に受けている。私が主の前に罪ある者だからだ。しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出してくださる。私は、その義を見る。10私の敵はこれを見て恥におおわれる。彼らは、私に向かって「あなたの神、主は、どこにいるのか」と言った者たちだ。私の目は、確かに見る。今に、敵は道の泥のように踏みつけられる。

[15] 英語聖書は、主なものはどれも、「深みに投げ込んでください」と祈願ではなく、「投げ込んでくださいます」と終止形で訳しています。聖書協会共同訳も「主は私たちを再び憐れみ/私たちの過ちを不問にされる。/あなたは私たちの罪をことごとく/海の深みに投げ込まれる。」と終止形です。

[16] ミカ 誰が(ミー)あなたのよう(キー)主よ(ヤハ) 7:18

[17] ミカ書6章6~8節「何をもって、私は主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼ささげ物、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。7主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の背きのために、私の長子を、私のたましいの罪のために、胎の実を献げるべきだろうか。8主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。」 この言葉自体が、過去の「こうすべき」だった規準ではなく、現在も、将来も、変わらず求められている生き方であることに注意。散々、神の正義に反して生きている民に告げられた言葉である。彼らにはもう希望がないのではないこと、そして、彼らの「救い」とは滅びからの救い以上に、御心に生きることそのものである。

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2021/9/26 オバデヤ書12-18節「人の災難を喜ぶな 一書説教 オバデヤ書」

2021-09-25 12:28:54 | 一書説教
2021/9/26 オバデヤ書12-18節「人の災難を喜ぶな 一書説教 オバデヤ書」[1]

 旧約聖書で最も短いオバデヤ書です。新約のピレモン書が一番短く、ヨハネの手紙第一と第二も「章がない」書ですが、旧約で節だけなほど短いのはオバデヤ書だけです。オバデヤという人も不明です[2]。宛先は「エドム人」で、エルサレムが踏みにじられた後のことです。
10おまえの兄弟、ヤコブへの暴虐のために、恥がおまえを覆い、おまえは永遠に断たれる。
 エドム人が兄弟の災難の日に喜んでいることを非難するのです。でも、これがいつの災難なのかは、バビロンがエルサレムを陥落した紀元前六百年前後とするほか、いくつか候補があります[3]。この二頁少しの、イスラエルではなくエドム人に宛てた短い書が、しかし、あえて聖書の中にある。この事自体に、聖書の神の深い深い眼差しを、思い巡らしたいのです。

 ここに「兄弟」とあるように、エドム人は、イスラエル人の先祖ヤコブ(イスラエル)の兄エサウの子孫です[4]。兄弟も相続権を争ったりした複雑な関係で、その子孫たちも、衝突や[5]、同盟関係[6]、従属したり[7]、独立したり[8]などの確執が続いてきた「兄弟」です[9]。また、
3岩の裂け目に住み、高い所を住まいとする者よ。おまえの高慢は、おまえを欺いている。おまえは心の中で言っている。『だれが私を地に引きずり降ろせるのか』と。
 エドムが高地に要塞を築いていましたが、それが国の精神においても「高慢」、自己欺瞞となっていました。9節までは、将来のエドムの没落が予告されます[10]。しかし、それは単に高慢だから打たれるという以上に、10節で実際の残酷さ、暴力が理由だと明言されていました。
11他国人がエルサレムの財宝を奪い去り、外国人がその門に押し入り、エルサレムをくじ引きにして取ったその日、おまえは素知らぬ顔で立っていた。おまえもまた、…[11]

 そして
災難の日に    見ていてはならない
滅びの日に    喜んではならない
苦難の日に    大口をたたいてはならない
わざわいの日に  民の門に入ってはならない
破局の日に    禍を眺めていてはならない
破局の日に    財宝に手を伸ばしてはならない
         別れ道に立ちふさがってはならない
苦難の日に    生き残った者を引き離してはならない
と畳み掛けるのです[12]。

 ところで、このエルサレムの蹂躙の原因は何だったのでしょう。旧約の律法では、ユダが主に対して背いた罪への報いが真っ先に思い浮かびます。神に忠実であれば繁栄し、神に不忠実であればその報いを受けるという大原則がありました。そのような裁きを報われた時には、周辺諸国の人々も、無残なエルサレムの廃墟を見て「神の契約を捨てたからだ」と言うだろうとハッキリ予告されていました[13]。そしてイスラエルはずっとその契約に逆らい通しでした。だから、エドムがユダの滅びの日に、あれは自業自得だ、神の裁きだ、いい気味だ、少しぐらい奪っても悪いのはあいつらだと嘲っても神がお咎めになるでしょうか。そう、主は咎めるのです。たとえ本人の甚だしい罪の報いでも、それをあざ笑うならそれはあなたがたの罪となる。
15なぜなら、主の日がすべての国々に近づいているからだ。おまえは、自分がしたように、自分にもされる。おまえの報いは、おまえの頭上に返る。
 旧約の歴史で、エルサレムが踏みにじられて、民が追い出された時は、最も暗いどん底です。それはイスラエルが神を蔑ろにした結果でした。その後悔しても仕切れない、滅ぼされても仕方ない時、神は、それを責めるエドムを咎めて、神の民を庇われて、将来を語るのです。
17しかし、シオンの山[エルサレム]には、逃れの者がいるようになる。[14]
 今は廃墟でも、やがて「逃れの者」が帰って来る。主は尚もこの先に回復を用意されている。こう言われて止まない主、厳しい裁きに見えても決して憎まず、滅ぼさずに、そこからも新しいことをなさる神の業が約束されます。それを踏まえないで、虐めてもいいのだ、とばかりに振る舞う者に、主は激しく挑まれるのです。それがこの旧約で最も短いオバデヤ書の証しです。

 ではそのように思い上がってユダヤをあざ笑ったエドムは、滅ぼされて当然なのでしょうか。虐めっ子は、虐めたのだから、生涯「虐めっ子」という烙印を貼られても仕方ない。それが正義なのでしょうか。
 確かにこの書の通り、ユダヤはバビロンから帰還し、エドムは紀元前129年にユダに吸収されます[15]。ですから国家としてのエドムはありません。けれどエドム人はイドマヤ人と呼ばれて新約にも出て来ます。その一人はマタイ2章のヘロデ大王です[16]。そして、
エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの川向こうや、ツロ、シドンのあたりからも、非常に大勢の人々が、イエスが行っておられることを聞いて、みもとにやって来た。[17]
 イドマヤからもイエスの元に来る人々がいました[18]。

 オバデヤ書の結びはこうです。
21救う者たちは、エサウの山をさばくため、シオンの山に上る。こうして、王国は主のものとなる。
 ここに本当の「救う者」であり、神の国(王国)の福音を伝えたイエスを、私たちは重ねずにはおれません。イエスはシオンの山、エルサレムに上られました[19]。それは、神の子イエスが罪の罰を引き受けて、人を罪(歪んだ正義)から、神の生かす正義へと救うためでした。愛を壊す罪から救い出して、完全な回復へと私たちを導いてくださるさばきを現すためでした。
 この主が来られた世界の中に生かされているのです。それを忘れて、災難があれば更に塩を塗るように人を叩く、「バッシング」がいろんな形であります。私たちもつい本人が悪いように言って済まそうとします。けれど、親、先祖、過去を辿れば、誰も完全な人などいません。それでもこの世界を神が、正しく、罪の報いとそのどん底からの回復をくださるから、私たちはいきてゆけるのです。

 神が私たちに下さるのは、罪を責め続ける言葉や罪悪感ではなく、悔い改めと赦しの言葉と、再出発の希望です。それを支え、助け合う関係です。オバデヤ書は、そのイエスの正義を、どん底のユダヤをなじるエドムを非難する言葉に託して見せてくれます。

「主よ、この短いオバデヤ書をも聖書にいれずにはおれなかったあなたが、私たちの心の目も言葉も新しくしてください。あなたこそ王です。罪を逃さず報いるのも、その報いから必ず立ち上がらせ新しくしてくださるのも、王なるあなただけです。私たちの思い上がりを捨てさせ、言葉も思いも清めてください[20]。自分の罪を悔い改めるとともに、過去の過ちをなじることや、責める言葉ではない、主の真実な言葉を与えてください。御国がここに始まりますように」



[1] 不定期に続けています聖書の「一書説教」は、原則「みことばの光」の聖書通読表を参考にしていますが(http://www.sujp.org/SUpage.html)、今月はすでにお話しした歴代誌第二とローマ書、10月も既出のローマ書です。オバデヤ書は12月に予定されていますが、なにしろ短い書ですので、以前にスルーした書でもありますので、今月はオバデヤ書を取り上げます。他の資料として、聖書プロジェクト オバデヤ書平和台恵み教会 聖書66巻 オバデヤ書 尾張小牧教会「思いあがってはならない」オバデヤ書もご覧ください。

[2] 「オバデヤ」という名前は旧約聖書に延べ13名でてきますが、その誰ともこの預言書の著者を同一視することは困難です。いっそ象徴的な名前だ、イスラエル民族のことだ、とする説さえあります。

[3] 11~14節はいつか? ①レハブアム王治下、エジプト王シシャクによるもの(Ⅰ列王14:25-26)、②ヨラム王治下、ペリシテ人及びアラビア人によるもの(Ⅱ歴代21:16-17、参照Ⅱ列王8:20)、③ユダのヨアシュ王治下、アラム王ハザエルによるもの(Ⅱ列王12:17-18、Ⅱ歴代24:23-24)、④ユダのアマツヤ王治下、イスラエル王ヨアシュによるもの(Ⅱ列王14:13-14)、⑤アハズ王治下、アラムとイスラエル、ペリシテ、エドムによるもの(Ⅱ歴代28:5-18)、⑥前605-586年のネブカドネザル王によるもの(Ⅱ列王24:1以下)。②と⑥が最有力。②の場合、紀元前850年頃、⑥の場合、前586年頃。

[4] 創世記25章19節から、二人が母の胎にいる時の出来事に始まる、長い確執が綴られています。

[5] 民数記20章14節以下。

[6] 申命記23章7節「あなたはエドム人を忌み嫌ってはならない。これはあなたの兄弟だからである。エジプト人を忌み嫌ってはならない。あなたはその地で寄留者だったからである。」、また、Ⅱ列王3章9節「こうして、イスラエルの王は、ユダの王とエドムの王と一緒に出かけたが、七日間も回り道をしたので、陣営の者と、後について来る動物たちのための水がなくなった。」

[7] Ⅱサムエル記8章14節「彼はエドムに守備隊を、エドム全土に守備隊を置いた。こうして、全エドムはダビデのしもべとなった。主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。」

[8] Ⅱ列王8章20~22節「ヨラムの時代に、エドムが背いてユダの支配から脱し、自分たちの上に王を立てた。21ヨラムは、すべての戦車を率いてツァイルへ渡って行き、夜襲を試みて、彼を包囲していたエドムと戦車隊長たちを討った。ところが、ヨラムの兵たちは自分たちの天幕に逃げ帰った。22エドムは背いてユダの支配から脱した。今日もそうである。リブナもそのときに背こうとした。」、14章7節「アマツヤは塩の谷で一万人のエドム人を討って、セラを取り、その場所をヨクテエルと呼んだ。今日もそうである。」、Ⅱ歴代誌28章17節「エドム人も再び攻めて来て、ユダを打ち、捕虜を捕らえて行った。」

[9] Ⅰ列王記11章14節「こうして主は、ソロモンに敵対する者としてエドム人ハダドを起こされた。彼はエドムの王の子孫であった。」

[10] オバデヤ書4節「鷲のように高く上っても、星々の間に巣を作っても、わたしは、おまえをそこから引きずり降ろす。――主のことば。」

[11] 「…おまえもまた、彼らのうちの一人のようであった。」

[12] 「日」が、12節(*2)、13節(*3)、14節、15節と7度も繰り返されています。

[13] 申命記29章22~28節(後の世代、あなたがたの後に起こるあなたがたの子孫や、遠くの地から来る異国人は、その地の災害と、主がそこで起こされた病気を見て言うであろう。23その全土は硫黄と塩によって焼け土となり、種も蒔かれず、芽も出ず、草一本も生えなくなっていて、主が怒りと憤りでくつがえされた、ソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイムの破滅のようなので、24すべての国々は言うであろう。「何のために、主はこの地にこのようなことをされたのか。この激しい燃える怒りは何なのか。」25人々は言うであろう。「それは彼らが、彼らの父祖の神、主が彼らをエジプトの地から導き出したときに結ばれた契約を捨て、26彼らの知らない、また彼らに割り当てられたのでもない、ほかの神々のもとに行って仕え、それらを拝んだからだ。27それで主の怒りがこの地に向かって燃え上がり、この書に記されたすべてののろいが、この地にもたらされたのだ。28主は怒りと憤りと激怒をもって彼らをこの地から根こそぎにし、ほかの地に彼らを投げ捨てられた。今日のとおりに。」)、Ⅰ列王記9章6-9節(もし、あなたがたとあなたがたの子孫が、わたしに背を向けて離れ、あなたがたの前に置いたわたしの命令とわたしの掟を守らずに、行ってほかの神々に仕え、それを拝むなら、7わたしは彼らに与えた地の面からイスラエルを断ち切り、わたしがわたしの名のために聖別した宮をわたしの前から投げ捨てる。イスラエルは、すべての民の間で物笑いの種となり、嘲りの的となる。8この宮は廃墟となり、そのそばを通り過ぎる者はみな驚き恐れてささやき、『何のために、主はこの地とこの宮に、このような仕打ちをされたのだろう』と言う。9人々は、『彼らは、エジプトの地から自分たちの先祖を導き出した彼らの神、主を捨ててほかの神々に頼り、それを拝み、それに仕えた。そのため主はこのすべてのわざわいを彼らに下されたのだ』と言う。」、エレミヤ書2章8-9節「多くの国々の者がこの都のそばを過ぎ、彼らが互いに、『何のために、主はこの大きな都をこのようにしたのだろうか』と言えば、9人々は、『彼らが、自分の髪、主の契約を捨ててほかの神々を拝み、仕えたからだ』と言う。」、など。

[14] 「…そこは聖となり、ヤコブの家は自分の領地を所有するようになる。」

[15] 詩篇137篇7節(主よ 思い出してください。エルサレムの日に「破壊せよ 破壊せよ。その基までも」と言ったエドムの子らを。)、エゼキエル書25章(12~14節)、35章、アモス書1章6-9節、9章11-15節、参照。

[16] イエスを抹殺しようとした王であり、エルサレムの大神殿を建てた建築家でもあります。

[17] マルコ伝3章8節。

[18] 聖書の描くのは、「諸国の民は都の光によって歩み、地の王たちは自分たちの栄光を都に携えて来る。(ヨハネ黙示録21章24節)」――すべての王たちが栄光を自分のものとせず、神の都に携えて来る将来です。

[19] もう一歩踏み込んでいうならば、イエスはシオンの山に上って、イドマヤ人の血を引くヘロデの前に立ったのでした。しかし、イエスはヘロデをさばくより、ヘロデの前で黙ったままでした。そして、ご自身がいのちを捧げることで、神の国を現されたのでした。

[20] 過去の刈り取りは、それ自体がなす。他者が罰を加えることは、報いではない。他者に求められるのは、自分の問題を顧みて、神の国を建て上げていくこと。

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2021/8/1 ローマ人への手紙12章1-2節「ともに喜びともに泣く 一書説教 ローマ書」

2021-07-31 12:27:59 | 一書説教
2021/8/1 ローマ人への手紙12章1-2節「ともに喜びともに泣く 一書説教 ローマ書」[1]

 新約聖書六巻目のローマ人への手紙は、16章ある長い手紙です。一度読んだだけでは分からなくても、多くの忘れがたい言葉が鏤められているのもローマ書です。私も、8章の終わりは葬儀で読んでもらいたい箇所[2]。この12章1、2節は神学校で学ぶ時に大いに励まされた言葉です。勿論、私だけでなく、全てのキリスト者がこう言われています。
12:1ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。…
 この「ですから」はローマ書の大きな鍵です。ここまでの全ての内容、11章まで語ってきた言葉をすべてぎゅっと詰め込んでの「ですから」なのです。ここまで長く語ってきたのは、主の一方的なあわれみですから、勧めはとてもまれでした。ここからはそのあわれみを踏まえて、神に自分を捧げた生き方、神の恵みに溢れた生き方を畳みかけて語ります。その流れで5節、
大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。
と語って、互いにキリストにある体の器官として助け合いなさい、という勧めが、この手紙の最後まで続きます。
 ですから大雑把に分けると、ローマ書は11章までが神のあわれみ、キリストの福音について教え、12章からがキリスト者の生き方についての勧めだと言えます。

 ところで、14章15章で語られるのは「信仰の弱い人を受け入れなさい」「力のない人たちの弱さを担うべき」だという勧めです。具体的には、何を食べても良いと思う人と、野菜しか食べない人、ある日を別の日よりも大事と考える人と、どの日も大事だと考える人。これは「例えばの話」というより、実際にそうした分断がローマの教会で大きな問題だったのです。当時の各地の教会も、伝統的な聖書の律法文化に生きていたユダヤ人と、聖書を全く知らない異邦人の摩擦が続いていました。お互いに、律法主義だ、自由すぎる、と対立していた。その事をパウロも伝え聞いて、心を痛めながら、今出来る事として執筆したのがローマ人への手紙です。



 この対立や分断こそ、パウロが長い手紙を書いて取り扱い、福音を知ってほしかった事です。その具体的な不和を扱うに当たって、前半11章もかけて福音を辿り直したのです。福音は、ユダヤ人もギリシア人も、信じるすべての人に救いをもたらす神の力だ[3]。ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にある[4]。ユダヤ人が異邦人をさばくことは出来ない[5]。この罪の徹底ぶりと、それに勝るキリストの贖いを「異邦人」を29回も繰り返してずっと語るのです。
すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスにある贖いを通して、価なしに義と認められるからです。[6]
 これは本当に私たちの高慢を打ち砕く事実であり、絶望を喜びへと変える福音です[7]。この神のあわれみは、ユダヤ人もギリシア人も、どんな人も等しく大きく包んでいます。キリストのあわれみの中に、私たちすべてがあるのです。それが、福音がもたらす光です。
 ローマの教会は分裂や裁き合う問題がありました。それはローマ教会だけでなく、この世界の誰もが苦しんでいる現実です。神から離れ、神ならぬ何か、人に分裂をもたらすか、分断の傷を癒やすことが出来ない、何か神ならぬものを礼拝しているための現実です。そこにキリストが来て下さいました。そして私たちのためにいのちを捧げて、私たちを生かしてくださいました。それは、神が私の罪を赦す(=怒らない?)だけではなく、私たちが生き方丸ごと、神への聖なるささげ物として献げる、新しい生き方を始めて下さったことです。
 福音は、罪の赦しだけでなく、私たちを新しくしてくれる、神のあわれみです。ローマ書の1~11章が福音の教理で、12章からは生活、という分け方よりも、1章から最後までが福音の教理であり、私たちの生活の土台である神のあわれみを教えています。私たちが自分たちの罪を告白し、キリストを信じる信仰に立つことは、私たちと神との関係だけでなく、私たちの生き方を強めます。問題の絶えない現実で生きることへと力づけてくれます。ユダヤ人とギリシア人、教会の内外の違いや分断、人間関係のさばき合いや批判を、ローマ書は取り扱って、私たちに、謙りと希望を与えてくれます。お互いに認め合い、尊重し合う関係へと招く[8]。そういう福音を見せてくれるのです。[9]
 一章に
「福音は信じるすべての人に救いを得させる神の
とあります。パウロも
「私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでも分け与えて、あなたがたを強くしたいからです」
と語っています[10]。そして結びの祈りでも神を
「あなたがたを強くしてくださる方
と呼んでいます[11]。神は、私たちを強くしてくださる方。

 それは私たちが、罪を犯さなくなり、正しく生き、正しくない相手を打ち負かせるという強さではありません。むしろ、7章でパウロは自分の葛藤、無力さを赤裸々に言い表しています。そんな正直で謙虚な告白が出来る力です。罪を認める力と、罪の赦しと希望に大喜びする力。自分と考えの違う相手をも認められる力です。復讐を主に委ねられる力です。違いはあっても、霊的な成長を追い求める力です。そして、その中にある最も美しい言葉の一つが、あの
「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちともに泣きなさい」
でしょう。意見が違っても互いの喜びを(水を差さずに)喜び、互いの悲しみを(つけ込んだりせずに)共に泣く。そう変えていただくのです。
 福音は私たちの魂の救いだけでなく、私たちの生き方を救い、さばきや争い、内にこもった思いから、神との深い平和を持って生かす力です[12]。ですから「私をお献げします。どうぞ強めて下さい」とその力を求めて祈りましょう。



「どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。平和の神は、速やかに、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。(15:13、33、16:20) 私の福音、すなわち、イエス・キリストを伝える宣教によって、また、世々にわたって隠されていた奥義の啓示によって──永遠の神の命令にしたがい、預言者たちの書を通して今や明らかにされ、すべての異邦人に信仰の従順をもたらすために知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを強くすることができる方、知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、栄光がとこしえまでありますように。アーメン(16:25~27)」


ローマ書の有名な言葉集(抄)[13]

参考資料:
大竹護「ローマ書~確信していること~」四日市キリスト教会
聖書プロジェクト ローマ人への手紙1と2

脚注:


[1] 久しぶりの「一書説教」です。これまで「聖書同盟」の「聖書通読表」に沿って、テキストとなる書を選んできましたが、8月の「使徒の働き」も「Ⅱ歴代誌」も既にお話ししていますので、9月の「ローマ人への手紙」からお話しします。https://calendar.google.com/calendar/u/0/r?cid=q0c9b319jurffiu1s6lb5mcid4@group.calendar.google.com

[2] ローマ書8章31~39節「では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。32私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。33だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。34だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。35だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。36こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」37しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。38私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、39高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」 この箇所についての詳しい説教を友人がしていました。http://www.logos-ministries.org/new_b/rm8_31-39.pdf

[3] ローマ書1章16節「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。」

[4] 3章9節「では、どうなのでしょう。私たちにすぐれているところはあるのでしょうか。全くありません。私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。」。また、2章9~10節(悪を行うすべての者の上には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、苦難と苦悩が下り、10善を行うすべての者には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。)、10章12節(ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。)も参照。

[5] 2章1節「ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。」

[6] ローマ書3章23、24節。

[7] パウロは5章まで命令や勧めを一言も語りません。6章の11節で、初めて、「同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。」と命令形が出て来ます。しかもこれも「何かをしなさい」というより「あなたが何をしようとしまいと関係なく、既に自分が罪の下ではなく、神との関係に活かされている事実に立ちなさい」という勧めですね。そして、その後に、「12ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪に支配させて、からだの欲望に従ってはいけません。13また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。14罪があなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです。」と「からだ」を献げるメッセージが続きます。これが12章1節でもう一度繰り返され「あなたがたのからだを神に喜ばれる生きた聖なるささげ物として献げなさい」と言われ、12章以下15章まで膨らまされていくのです。

[8] 14章19節「私たちは、平和に役立つこと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。」は、すばらしい勧めです。

[9] ここに、今日の説教題ともした「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい」や「自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい」などの言葉が出て来ます(ローマ書12章15節、19、21節)。また、13章では「上に立つ権威」に対しての態度が教えられます。

[10] 1章11節「私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでも分け与えて、あなたがたを強くしたいからです。」

[11] 16章25~27節〔私の福音、すなわち、イエス・キリストを伝える宣教によって、また、世々にわたって隠されていた奥義の啓示によって──26永遠の神の命令にしたがい、預言者たちの書を通して今や明らかにされ、すべての異邦人に信仰の従順をもたらすために知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを強くすることができる方、27知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、栄光がとこしえまでありますように。アーメン〕 この部分が〔〕で括られているのは、欄外注にもあるように、この節を欠いた写本が多くあるからですが、本節がある写本が多数ですから、パウロの書いた言葉であると考えて良いと判断します。

[12] パウロが示す福音は、罪の赦しだけでなく、苦難さえ喜び、希望を与える大きなもの。これを引き下ろしてしまうと、神の恵みが見えなくなる。倫理も、自分たちに出来る程度に引き下ろして、「~しなければならない」にゴール設定をしてしまうと、途方もないビジョンが見えなくなる。パウロは、アダムの罪を償って余りあるキリスト(第二のアダム)の恵みを歌い上げている。

[13] 有名なことば:

1:16「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。」

2:1「ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。」

3:23「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、24神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」

4:25「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。」

5:1「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。2このキリストによって私たちは、信仰によって、居間立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。3それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、4忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。5この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。6実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。7正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。8しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

5:19 すなわち、ちょうど一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、一人の従順によって多くの人が義人とされるのです。20律法が入って来たのは、違反が増し加わるためでした。しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。21 それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。

6:3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。4私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。

6:11 同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。12ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪に支配させて、からだの欲望に従ってはいけません。13 また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。14 罪があなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです。

6:23「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」

7:15「私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。16自分のしたくないことを行っているなら、私は律法に同意し、それを良いものと認めていることになります。17ですから、今それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪なのです。18私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。19私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。」

8:1「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。2なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。3肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。」 8章は、宝のような言葉が鏤められている。

9:16「ですから、これは人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」

10:2「私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心は知識に基づくものではありません。3彼らは神の義を知らずに、自らの義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。4 律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。5 モーセは、律法による義について、「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」と書いています。6 しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、『だれが天に上るのか』と言ってはならない。」それはキリストを引き降ろすことです。7また、「『だれが深みに下るのか』と言ってはならない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。8では、何と言っていますか。「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは、私たちが宣べ伝えている信仰のことばのことです。9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。10人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」

11:27 これこそ、彼らと結ぶわたしの契約、すなわち、わたしが彼らの罪を取り除く時である」と書いてあるとおりです。28彼らは、福音に関して言えば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びに関して言えば、父祖たちのゆえに、神に愛されている者です。29神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。30あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けています。31 それと同じように、彼らも今は、あなたがたの受けたあわれみのゆえに不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今あわれみを受けるためです。32神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それはすべての人をあわれむためだったのです。

12:9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れないようにしなさい。

12:10 兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。

12:11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

12:12 望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈りなさい。

12:13 聖徒たちの必要をともに満たし、努めて人をもてなしなさい。

12:14 あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません。

12:15 喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。

12:16 互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません。

12:17 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。

12:18 自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。

12:19 愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。21 悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

13:8 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことは別です。他の人を愛する者は、律法の要求を満たしているのです。9 「姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。隣人のものを欲してはならない」という戒め、またほかのどんな戒めであっても、それらは、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」ということばに要約されるからです。10 愛は隣人に対して悪を行いません。それゆえ、愛は律法の要求を満たすものです。

14:1 信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。

14:6 特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。

14:8 私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。

15:1 私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。2 私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです。

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2021/5/2 第二テサロニケ1章10-12節「キリストの忍耐 一書説教 Ⅱテサロニケ書」

2021-05-01 11:27:12 | 一書説教
2021/5/2 第二テサロニケ1章10-12節「キリストの忍耐 一書説教 Ⅱテサロニケ書」

 先月の聖書通読表であたっていましたテサロニケ人への手紙第二です。1月にお話ししたⅠテサロニケの続きで[1]、パウロの手紙の中でも二番目に早く書かれた手紙です[2]。テサロニケはマケドニア州の州都の大都市です。使徒パウロたちが初めて訪れて宣教をした結果、信じる人々が起こされ、新しく教会が生まれました。でも反対する人も多く、厳しい迫害でパウロたちは追いだされました。パウロは残してきた教会の方々を想い、先の第一の手紙を書きました。しかし、迫害はまだ続いています。また、その手紙の、主が再び来られる事も誤解されて[3]、
二2…主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いても、すぐに落ち着きを失ったり…
と、もう主が来られたと思い込んで慌てている動きがあったようです。そこでこの第二の手紙を書いたのです。この一章では、まだ厳しい迫害が続いている事を踏まえて、やがて他者を苦しめる人は神の前から退けられることを語っています。反対が激しかっただけに、その報いを現す言葉も強いものとなっていますが、それ以上に今日の言葉は、希望をかき立てています。
Ⅱテサロニケ一10その日に主イエスは来て、ご自分の聖徒たちの間であがめられ、信じたすべての者たちの間で感嘆の的となられます。…
 この「間であがめられ」は「賛美される」以上に、素晴らしさを現してくださる、という事です[4]。聖徒たち[5]の真っ只中に神の輝かしさを現してくださる。私たちの心の底、思いの深みや人格、またお互いの交わり(関係性)の中に、神のすばらしい栄光を溢れさせてくださる。その結果
…信じたすべての者たちの間で感嘆の的となられます。
 信じた者にとっても目を見張って驚いてお目にかかることになる。誰一人として、「それ見たことか。私が予想していたとおりだ」と言える人はいないのです。私たちはみんな、主イエスがこんな栄光のお方だとは思ってもいなかった、と驚くことになる。それは、主が素晴らしいお方だ、というだけでなく、主が私たちの間に、私たちの中にその素晴らしさを注いでくださる方だからです。だから、
11こうしたことのため、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか私たちの神が、あなたがたを召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から出た働きを実現してくださいますように。
 そのゴールに向かうからこそ、出て来る祈りは、私たちのうちに内側の願いとそこから出て来る働きが作られていくこと、なのです[6]。今ここでの歩みにおいても、神が私たちをその召しにふさわしい者にして、私たちを主の栄光に与って変えられますように。それが、
12それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、私たちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。
 主の名があなたがたの間で、あなたがたも主にあって。それは、私たちの中に善を求める願いと、信仰から出る働きが育っていくこと、なのですね。ではこの「信仰から出た働き」は、何でしょうか。この後、二章で「主の日は既に来た」というデマを論破した後、3章6節から、パウロは、働く事の大切さを語ります。日常の仕事、働くこと。これがパウロの教えでした。
6…怠惰な歩みをして、私たちから受け継いだ教えに従わない兄弟は、みな避けなさい。
とあり、仕事の出来る人は働いて、自活すること。これは、人の臑(すね)を齧(かじ)って生活している人たちの事かもしれませんし、先の再臨への誤解と絡んで、「どうせもうすぐ世が終わるのだから、仕事をしていても意味がない」と怠惰な暮らしをしていたのかもしれません。いずれにせよ、この時代から今に至るまで、何度も教会の中には、「もうすぐ再臨が来る」とする熱狂的な終末待望運動が起こりました。その度に、普段の生活を投げ出して、仕事も「こんなことはやってられない」と、特別な集会や共同生活をして、主を迎える、という光景がありました。
 Ⅱテサロニケはそれとは反対に、仕事は「こんなこと」ではない、する価値のあることだ。私たちの生活には価値があるのだ、と言います。マルチン・ルターの言葉、
「明日世界が滅びるとしても、私は今日リンゴの木を植える」
を思い出します[7]。伝道や奉仕も大事ですが、「良い業」とは一人一人の仕事、生活、働き。それが1章11節の「働き」なのです[8]。
 私がⅡテサロニケで特に忘れがたい聖句は3章5節です。
「主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐に向けさせてくださいますように。」
 キリストの忍耐。神の力や華々しい業を憧れがちですが、キリストの忍耐こそ心を向けるべきもの。それと、主を待ち望みつつ、今の生活や仕事を「良い働き」とすることとは深く結びついています。

 このテサロニケ人への手紙第二そのものがその忍耐の証です。パウロの手紙だから、祈って書かれたし、何と言っても「神の言葉」なんだから、第一の手紙だけでテサロニケ教会が力づけられた、とは行きませんでした。言葉が届かず、却って誤解され、それでパウロはもう一度書いた手紙です。忍耐をもって筆を執ります。信徒の早とちりや怠惰に向き合いながら、教え諭し、模範となろうとしますし、自分のためにも祈ってくださいと願っています[9]。そのパウロ自身が心を向けていたのが、神の愛とキリストの忍耐だったはずです。
 主イエスは、直ぐに来ることも出来るのに、時間を掛けて、手間暇掛けることが決して無駄だとは思わず、私たちを耐え忍び、運んでくださっています。そのキリストの限りない忍耐に、今ここで私たちも心を向けるよう、パウロ自身が書いたこのテサロニケ人への手紙第二が語ってくれています。

「主よ、あなたの限りない愛と長い忍耐に支えられて、私たちが今あることを感謝します。再び主が来られるまで、一日々々が無駄ではなく、小さな働きが「良い働き」となり、主の道備えとなることを感謝します。どうぞ私たちに、今ここでも神の愛とキリストの忍耐に心を向けさせてください。その恵みを現し、もう一つの言葉を、もう一通の手紙を、もう一度の祈りを捧げさせてください。そうして心を恵みで養われつつ、主の来られる日を迎えさせてください」

脚注:

[1] テサロニケ人への手紙第一の一書説教は、こちらです。https://blog.goo.ne.jp/kaz_kgw/e/760ab5d9e9536a4ad88a10e4140dc9d1 

[2] Ⅰテサロニケの後数ヶ月して。紀元51年か52年頃の執筆でしょう。

[3] Ⅰテサロニケ5:2(主の日は、盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。)を誤解したのかもしれません。

[4] エンドクサゾー 「栄光」(ドクサ)に強調の接頭辞エンをつけたエンドクサ(華やかさ、輝かしさ)の動詞形で、新約聖書ではⅡテサロニケ1:10、12だけに出て来る言葉。栄光(ドクサ)は、Ⅱテサロニケで1:9、2:14に、動詞形(ドクサゾー)は3:1(最後に兄弟たち、私たちのために祈ってください。主のことばが、あなたがたのところと同じように速やかに広まり、尊ばれるように。)で出て来る。

[5] これは聖書にあるキリスト者の呼び名の一つです。私たちの事です。

[6] この祈祷は、二章の結びの祈りとも通底します。「16どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、永遠の慰めとすばらしい望みを恵みによって与えてくださった方ご自身が、17あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように。」

[7] とはいえ、この言葉の出典元は定かではなく、ルターの言葉ではない、という研究も出版されています。『ルターのリンゴの木』https://bookmeter.com/books/9836249 。しかし、誰の発言であれ、この言葉は、自分の仕事を主への信仰を持ってすること、今ここで地に足の付いた生き方を、主への良い業をして果たすことこそ、最善の主の迎え方だ、と気づかせてくれます。伊藤淑美「再臨(終末)を待ち望むとは、パウロの教えるところによれば「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉と」(Ⅰテサロニケ4章11節)することなのです。『聖書66巻がわかる』341頁

[8] 「わざ・働き」エルゴン(1:11、2:17(あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように。))の動詞形「働くエルガゾマイ」(3:8 人からただでもらったパンを食べることもしませんでした。むしろ、あなたがたのだれにも負担をかけないように、夜昼、労し苦しみながら働きました。10 あなたがたのところにいたとき、働きたくない者は食べるな、と私たちは命じました。11 ところが、あなたがたの中には、怠惰な歩みをしている人たち、何も仕事をせずにおせっかいばかり焼いている人たちがいると聞いています。12 そのような人たちに、主イエス・キリストによって命じ、勧めます。落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。

[9] 3章1節(前述)。

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2020/2/28 アモス書9章8-15節「破れを繕う神 一書説教 アモス書」

2021-02-27 12:57:30 | 一書説教
2020/2/28 アモス書9章8-15節「破れを繕う神 一書説教 アモス書」[1]

前奏 
招詞 マタイ11章28~30節
祈祷
賛美 讃美歌11「天地にまさる」
*主の祈り  (マタイ6:6~13、新改訳2017による)
交読 詩篇23篇(6)
賛美 讃美歌237「御神の深き御旨の」①②
聖書 アモス書9章8~15節
説教 「破れを繕う神 一書説教 アモス書」古川和男牧師
賛美 讃美歌237 ③④
献金
感謝祈祷
 報告
*使徒信条  (週報裏面参照)
*頌栄 讃美歌545上「父の御神に」
*祝祷
*後奏

 アモス書1章1節によれば、アモスはエルサレムの南の町テコアの牧者でした[2]。
テコア出身の牧者の一人であったアモスのことば。これはユダの王ウジヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代、あの地震の二年前に、イスラエルについて彼が見た幻である。

 イスラエル王国が南と北に分裂していた時代に、南の農民であったアモスが主に召され、北のベテルに遣わされて主の言葉を語ったのです。北イスラエルの王はヤロブアム(紀元前十世紀の北イスラエル最初の王もヤロブアムですから「ヤロブアム二世」と呼ばれます)、紀元前八世紀です。
 この時代は、北イスラエル王国の全盛期でした。イスラエルの周辺諸国の脅威が小さくなり、ヤロブアム王は領土を最大に拡大し、経済的にも非常に富んだのです。しかし、その富を富裕層が独占して、貧民はますます借金漬けになっていた。不正が合法的になされて、社会の弱者が声をあげることもできない、という状況でした。2章6節以下、その背きが糾弾されます[3]。
「主はこう言われる。「イスラエルの三つの背き、四つの背きのゆえに、わたしは彼らを顧みない。彼らが金と引き換えに正しい者を売り、履き物一足のために貧しい者を売ったからだ。7彼らは、弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、貧しい者の道を曲げている。子とその父が同じ女のもとに通って、わたしの聖なる名を汚している。…」

 こうしてアモスは、主がイスラエルの中で行われている社会的な不正を責めて、その報いを告げるのです。北イスラエルは事実上の偶像崇拝をしている問題もありました。しかし、アモス書はその礼拝の間違いを責めません。むしろ、礼拝や生け贄には熱心でも、その社会に不正や搾取が居座っているなら、そんな礼拝を神は喜ばれるはずがない、と非難するのです。
 目に見えない神を形の上で正しく礼拝しているかより、目に見える隣人や他者との関係の正しさを神は問われます[4]。アモス書5章24節は有名で、大事な言葉です[5]。
アモス五24
公正を水のように、義を、絶えず流れる谷川のように、流れさせよ。

 アモス書はこの「正義」を繰り返して強調します[6]。これは、「人間を生かしてくれる神の恵みの力のことも示している」義です。神が私もあの人も生かしておられる、という感謝が正義です。自分の力で生きている、幸福を勝ち取る、他者を押しのけてでも自分の幸せを守る。そういう事であれば、事実上、力とか富とか自分の居心地良さを崇める、貪りという偶像崇拝なのです[7]。そこに神への本当の感謝も弱者への配慮もなく、他者を蹂躙するのは当然です[8]。
 アモスは非常に激しい言葉で、「わざわいだ」とか、将来の「捕囚」という予告を初めて明言した預言者です[9]。そして、アモスから数十年後、紀元前七二二年に、預言通り北イスラエル王国はアッシリア帝国の侵略によって滅亡します。アモス書の厳しい言葉は成就しました。
 しかし、それだけではありません。今日読んだ9章の11~12節で主は言われます。
「その日、わたしは倒れているダビデの仮庵を起こす。その破れを繕い、その廃墟を起こし、昔の日のようにこれを建て直す。12これは、エドムの残りの者とわたしの名で呼ばれるすべての国々を、彼らが所有するためだ。──これを行う主のことば。」
 これが使徒の働き15章16-18節で引用されます[10]。厳しいアモス書の終わりに語られる主の言葉です。倒れた仮庵を起こし、破れを繕い、建て直す、回復させる。また、農夫だったアモスらしく、葡萄畑や果樹園の光景で将来像が描き出されます。厳しい裁きの末に、こういう回復が語られます。緊張を緩めさせかねないと戸惑います。しかし、使徒の働きは、このアモスの言葉をもって、「すべての異邦人が主を求めるようになる」というご計画を確信するのです。ユダヤ人も異邦人も、ともに主の民となるという、救いの大きな物語を確認しました[11]。
 だから今ここでも、異邦人を躓かせたり、他者を踏みつけたり、弱者を利用したり排除するような扱いを拒む、という順番です。排除は、私たちの中にある「破れ」を癒やそうともせず、もっと引き裂くような事だからです。そうしたすべての破れが癒やされて、私たちが回復されて、ともに生きることをこそ主は求められます。「助け合わなければならない」「不正をしてはならない」という道徳ではないのです[12]。求められるのが道徳なら、それが出来にくい人、破れた人がダメな人として排除され、ますます希望のない、冷たい社会になります。

 主が求めているのは私たちの回復――破れた私たちの関係の回復です。だから、主は破れた私たちを捨てるより、破れを繕います。
 私たちを癒やされ、将来の回復に向けて、導かれます。
 ダメな人などいない、誰もが破れていて、その破れた同士が、なお神に愛され、繕われて、互いに尊び合う神の国へと歩んでいます。
 その不正や愛のなさを糾弾して終わらず、将来の回復を豊かに描かれるのです。
 罰して責めて終わる以上に、回復と希望の言葉に聞き続けます。

 新約の使徒たちは、アモス書の厳しさを、神の大きな希望の中で受け止めて、教会を整えました。今ここに生きる私たちも、アモス書の中に自分を置く時、教会の指針を戴きます。主は、世界の破れを真剣に嘆かれるお方です。そして、その主が破れを繕うと言われています。その約束に、私たち自身の破れを繕って戴き、この恵みの光の中でともに歩ませていただくのです。

「私たちを愛し、成長させる主よ。あなたは、ご自身の理想より、私たちを愛し、私たちを成長させてくださいます。私たちが自分の理想や社会、教会への理想以上に、ここにある現実の一人一人を愛する者としてください。豊かさや安全に安住して、人を押しのけてしまう罪からもお救いください。私たちに出来る行動をさせてください。そして、さばいて終わる言葉からも救い出し、あなたの様々な恵みに励まされて、生かし合い育て合う歩みをお与えください」

脚注:

[1] 今回も、聖書プロジェクト「アモス書」https://youtu.be/rPhOURANFL8と、四日市キリスト教会「一書説教 アモス書 選び出された者として」を参考にしました。

[2] 1章1節「テコア出身の牧者の一人であったアモスのことば。これはユダの王ウジヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代、あの地震の二年前に、イスラエルについて彼が見た幻である。」この「牧者」ノーケードは「羊飼い」ですが、7章14節の「牧者」ボーケールは「牛飼い」の意味です。

[3] アモス書の最初は、1:3~2:3で、神がイスラエルの周辺諸国を糾弾される言葉が続きますが、周囲の七つの国を一つ一つ攻めた最後に、ユダ、そしてイスラエルが断罪されます。他人事ではなかったのです。

[4] Ⅰヨハネ4:20「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」

[5] アモス書5章25-27節「イスラエルの家よ。あなたがたは荒野にいた四十年の間に、いけにえとささげ物を、わたしのところに携えて来たことがあったか。26あなたがたは自分たちの王シクテと自分たちの像キユン、自分たちのために造った神々の星を担いで来た。27わたしはあなたがたを、ダマスコのかなたへ捕らえ移す――その名が万軍の神である主が言われる。」。使徒の働き7章42-43節(ステパノの説教)「そこで、神は彼らに背を向け、彼らが天の万象に仕えるに任せられました。預言者たちの書に書いてあるとおりです。『イスラエルの家よ。あなたがたは荒野にいた四十年の間に、いけにえとささげ物を、わたしのところに携えて来たことがあったか。43あなたがたは、モレクの幕屋と神ライパンの星を担いでいた。それらは、あなたがたが拝むために造った像ではないか。わたしはあなたがたをバビロンのかなたへ捕らえ移す。』」 面白い事に、ステパノはアモス書にある固有名詞を変えます(下線部)。それはアモスの責めた北イスラエルと、ステパノの時代のユダヤ民族では状況が違うからです。北イスラエルは偶像崇拝をしていたし、ステパノの時代のユダヤの民は捕囚の反省を踏まえて、厳格な一神教を守っていました。でも、その神との関係を盾にして、主イエスが始めた神の国のあり方、教会の宣教に頑なに抵抗せずにおれない。それは、結局、アモスの時代と変わらない罪だとステパノは指摘したのです。

[6] 「公義ミシュパート」と「正義ツェダーカー」 5:7,24、6:12

[7] エペソ5:5「このことをよく知っておきなさい。淫らな者、汚れた者、貪る者は偶像礼拝者であって、こういう者はだれも、キリストと神との御国を受け継ぐことができません。」、コロサイ3:5「ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。」

[8] 岩井謙太郎「アモスと神の正義」、中部学院チャペルアワー「日本語の正義という言葉は、イスラエルの言葉ではツェダーカ等と言いますが、ツェダーカは単に社会的次元での正義の話だけには尽きない意味があると言われています。この正義は、人間(動物・植物等生きとし生けるものすべて)を生かしてくれる神様の恵みの力のことをも示しているのです。イスラエルの社会では、神様への礼拝とは、人間が神様の恵みによって生かされていることを感謝するためのものでした。そして、この感謝に対する応答には社会的弱者への配慮(社会的正義の実現への要求)も含まれているのです。裏を返せば、社会的弱者への配慮が見られなかったイスラエルにおいては、本当の意味で自分達が神様に生かされていることに対する感謝がなかったのかもしれません。そのような感謝こそが神様への礼拝の一番大切なことであるとしたならば、預言者アモスにとっては、イスラエルの人々の神殿での神様に対する礼拝が形骸化したものに見えていたに違いありません。つまり、真実の感謝(神への正しい関係)と応答(隣人愛・社会正義)の関係が見られない形骸化した神殿礼拝をアモスは批判したと言えましょう。

[9] アモスは初の「記述預言者」であり、それ以前の預言者(エリヤ、エリシャなど)よりも記録に残る形で、民に神の言葉を語ります。

[10] 使徒の働き15章16~18節「『その後、わたしは倒れているダビデの仮庵を再び建て直す。その廃墟を建て直し、それを堅く立てる。17それは、人々のうちの残りの者とわたしの名で呼ばれるすべての異邦人が、主を求めるようになるためだ。18――昔から知らされていたこと、それを行う主のことば。』」

[11] そして、既に、アモス書の中にも、希望は随所に語られていました。たとえば、3:12「主はこう言われる。「羊飼いが獅子の口から二本の足、あるいは耳たぶだけでも取り戻すように、サマリアに住むイスラエルの子らは、寝台の隅やダマスコの長椅子とともに救い出される。」

4:6~12の「それでも、あなたがたはわたしのもとに帰ってこなかった」の五回繰り返し

4:12「それゆえイスラエルよ、わたしはあなたにこのようにする。わたしがあなたにこうするから、イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよ。」13見よ、山々を形造り、風を創造した方。その御思い意が何であるかを人間に告げる方。暁と暗闇を造り、地の高き所を歩まれる方。その名は万軍の神、主。

5:6~8「主を求めて息よ。そうでないと、主は非のように、ヨセフの家に激しく下る。火はこれを焼き尽くし、ベテルにはそれを消す者がいなくなる。7彼らは、公正を苦よもぎに変え、正義を地に投げ捨てている。8すばるやオリオン座を造り、暗黒を朝に変え、昼を暗くして夜にし、海の水を呼び集めて、それを地の面に注ぐ方。その名は主。」

14~15「善を求めよ。悪を求めるな。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたが言うように、万軍の神、主が、ともにいてくださる。15悪を憎み、善を愛し、門で正しいさばきを行え。もしかすると、万軍の神、主はヨセフの残りの者をあわれんでくださるかもしれない。」

24「公正を水のように、義を、絶えず流れる谷川のように、流れさせよ。」

7:1~6「神である主は私に示された。見よ。王が刈り取った後の二番草が生え始めたころ、主はいなごを備えられた。2 そのいなごが地の青草を食い尽くそうとしたとき、私は言った。「神、主よ。どうかお赦しください。ヤコブはどうして生き残れるでしょう。彼は小さいのです。」3 主はこれを思い直された。そして「そのことは起こらない」と主は言われた。4 神である主は私に示された。見よ、神である主は、責める火を呼ばれた。火は大いなる淵を吞み込み、割り当て地を焼き尽くそうとしていた。5 私は言った。「神、主よ。どうかおやめください。ヤコブはどうして生き残れるでしょう。彼は小さいのです。」6 主はこれを思い直された。そして「そのことも起こらない」と神である主は言われた。」

[12] 道徳と倫理に関して、伊藤亜紗『手の倫理』(講談社選書メチェ、2020年)の34~42頁に詳しい考察があります。大変興味深いので、一読をお勧めします。下に、引用されている表(道徳と倫理の区別、古田徹也『それは私がしたことなのか』エピローグより)を紹介しておきます。

道徳 (moral)

倫理(ethics)

画一的な「正しさ」「善」を指向する


→ 万人に対する義務や社会全体の幸福が問題となる

「すべきこと」や「生き方」全般を問題にする


→ 「自分がすべきこと」や「自分の生き方」という問題も含まれる。

非難と強力に結びつく


→ 「すべき」が「できる」を含意する

非難とは必ずしも結びつかない


→「すべき」が必ずしも「できる」を含意しない

人々の生活の中で長い時間をかけて定まっていった答えないし価値観が中心となる

答えが定まっていない、現在進行形の重要な問題に対する検討も含まれる

価値を生きること

価値を生きるだけでなく、価値について考え抜くことも含まれる


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