聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/1/31 Ⅰテサロニケ書1章1-3節「励ましの手紙 第一テサロニケ」

2021-01-30 12:18:00 | 一書説教
2020/1/31 Ⅰテサロニケ書1章1-3節「励ましの手紙 第一テサロニケ」[1]

 一書説教として「テサロニケ人への手紙第一」を取り上げます。この手紙で最も有名なのは、
5:16~18いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい[2]。
でしょう。私たちの心に残る美しい招きで、ハガキや壁掛けに飾っている方も多いでしょう。その三つは5章だけでなく、この手紙で繰り返して出て来る言葉です。今日読んだ最初にも、
2私たちは、あなたがたのことを覚えて祈るとき、あなたがたすべてについて、いつも神に感謝しています。3私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望み[3]に支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。…
 そう言って、パウロはこの一章から三章まで、テサロニケ宣教の経緯を振り返っています[4]。


 テサロニケは当時のマケドニア州の州都として栄えた大都市で、現在もギリシャの港湾都市です。この手紙の書き手であるパウロとシルワノとテモテは、この大都市を第2回伝道旅行で訪問し、伝道をしたのです。その時に誕生したのが、テサロニケにあるキリスト者の共同体でした[5]。それは、初めてのマケドニア、引いては初めてのヨーロッパの福音宣教で大都市に教会が誕生した、歴史的な一歩でした。しかし、そこにも教会への激しい反対があったことは2章14節以降でも窺えます。使徒の働き17章を見ると、その迫害が危険だったために、たった3週間で、パウロたちはテサロニケを密かに脱出して、アテネ、コリントまで移ったのです。
 パウロは「残してきたテサロニケの信徒たちはどうしているだろう」と心配で、直接その様子を見に行きたいと何度も試みました。3章ではテモテだけをこっそりテサロニケに送り込んだとあり、手に汗握る現実がありました。その密偵テモテが戻って報告しました。テサロニケの信者が迫害の中でも信仰に立ち、彼らもパウロたちに会いたいと思っている。
 パウロはその知らせに深く慰められたと告白しています。それでこの手紙第一が書かれたのです。そうしたこれまでの迫害や苦しみ、心配や緊迫も含めた歩みを振り返って、パウロはこの手紙を書き、感謝から書き始めたのです。大変なこともそれを祈りながら、一つ一つが神の御業だったと心から思えました。自分が伝道したという以上に、生ける神御自身が働いて、迫害の中でも主を信じる人々を支え、遠く離れていても慰め合い祈り合う関係を下さいました。その神がこれからも必ず私たちを救い出される。そう心から感謝するパウロの手紙なのです。
 四章では淫らな行いを避けること[6]、兄弟愛[7]、働くこと[8]について触れられています。テサロニケ教会はまた信仰の知識も未熟でした。何しろ新約聖書の殆どがこれから書かれる、という時です。パウロの滞在はたった三週間足らずでした。疑問や誤解もありました。また、
4:13眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。14イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。
 イエスは死んで復活されました。その事は、私たちの死の体験、死別の悲しみにも新しい光を当てます。悲しみがなくなるのではありませんが、望みのない他の人々、イエスの死と復活を知らない人々とは全く違う悲しみ方、悼み方、受け止め方が始まります。でもその事をまだよく分からないで困惑していたのがテサロニケ教会の現場でした。それに応えた、死の悲しみについての言葉も、この書の素晴らしい慰めです。テサロニケ書はパウロの励ましの書です。
 しかしパウロは一方的に教え諭すだけではなく、テサロニケの教会から慰められ、励まされてもいました。手紙は双方向です。テサロニケ教会の様子が分からないときは、いてもたってもいられなかったことも率直に告白しています。「いつも喜んでいなさい」と言ったパウロは、「私はいつも喜んでいる」とは言わず、「私もあなたがたから喜びをもらった」と素直でした。

 喜び[9]、祈り[10]、感謝[11]。これは別々の三つの美徳というより、三角形のような関係です。
 私たちの心はいつも喜びを求めています。心の素直な願いや必要が満たされることが喜びです。喜びなさいとは、喜んだふりではなく、心の流れを作ることです。
 そのためにも絶えず祈ることが出来ます。手紙をもらう小さな喜びから、迫害や死別の深い悲しみまで、絶えず起きる出来事を、神の前に差し出すことが出来ます。私たちのために御子を送り、死者の中から復活させた方の前に置くのです。
 そして「感謝」とは、何かを贈り物として受け止めることです。すべてのことにおいて鏤(ちりば)められている恵みがあります。心が求める喜びを大事にし、主の前に何でも持っていき、現実にある出来事に神からの贈り物を気づく。お互いに支え合う関係です。

 これは、新約聖書で恐らく最も早く書かれた書です[12]。それがこの手紙でした[13]。「聖書は神様からのラブレター」とも言われます[14]。確かに神は手紙という方法が好きな方で、聖書の中に22通もの手紙を大いに採用なさいました。聖書は静かな大聖堂や教室で一方的に語られたというより、現場にある教会に宛てて書かれた手紙なのです。書かれた事情があって、書き手にも様々な背景があって[15]、具体的な現場で書かれながら、生けるまことの神がそこで主の民に、喜びと祈りと感謝を与えてくれました。そのやりとりを、今ここにいる私たちも味わって読むことから、生ける神は私たちを励まして、喜び・祈り・感謝を励まされ[16]るのです[17]。

「主よ、テサロニケ書を通して、喜びや希望を与えてくださり、感謝します。パウロの言葉を通して、あなたの私たちに対する慈しみが届けられます。あなたから私たちへの手紙に、いつも励ましを戴かせてください。あなたは私たちの痛みも渇きも、過ちもご存じです。今、私たちに知恵と忍耐を与えて保ち、やがて私たちと顔を合わせる将来を、あなたご自身が待ち望んでおられます。みことばの一つ一つがここにいる一人一人を生かす手紙となりますように」



脚注:

[2] Ⅰテサロニケ5:16~18「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

[3] 「望み」は、本書で6回繰り返されています。1:3「私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。」10「御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを、知らせているのです。この御子こそ、神が死者の中からよみがえらせた方、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスです。」2:19「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのは、いったいだれでしょうか。あなたがたではありませんか。」4:13「眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。」5:8「しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう。」18「すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

[4] アウトライン:

1:1-5 挨拶の祈り

1:6-3:13 振り返りと誠実さの確認

1:6-10 テサロニケ教会信徒の回心 偶像から生けるまことの神に

2:1-12 パウロのテサロニケ宣教 母のように父のように

2:13-16 キリストとキリスト者の苦難

3:17-3:10 パウロの心配と安堵

3:11-13 忍耐の祈り

4:1-5章 成長への励まし

4:1-12 聖く生きること 性的不品行を避ける。勤勉に働く。

4:13-18 死別の疑問とイエスの再臨の希望

5:1-11 主の日の訪れを待つ生活

5:12-22 具体的な生き方の姿勢

5:23-28 祝祷・結語

[5] 詳しくは、使徒の働き17章を参照。

[6] 4:3「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。あなたがたが淫らな行いを避け、4一人ひとりがわきまえて、自分のからだを聖なる尊いものとして保ち、5神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、6また、そのようなことで、兄弟を踏みつけたり欺いたりしないことです。私たちが前もってあなたがたに話し、厳しく警告しておいたように、主はこれらすべてのことについて罰を与える方だからです。7神が私たちを召されたのは、汚れたことを行わせるためではなく、聖さにあずからせるためです。」

[7] 4:9「兄弟愛については、あなたがたに書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちで、10マケドニア全土のすべての兄弟たちに対して、それを実行しているからです。兄弟たち、あなたがたに勧めます。ますます豊かにそれを行いなさい。」 この言葉が示しているように、この「兄弟愛」は実際の慈善活動、募金のことだと考えられます。

[8] 4:11「また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉としなさい。12外の人々に対して品位をもって歩み、だれの世話にもならずに生活するためです。」 この繋がり方も、9節の「兄弟愛」が、働くことによって助け合うことを指していると推察できます。

[9] 「喜び」は本書に11回。1:6「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちに、そして主に倣う者になりました。」、2:4「むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。」、8「あなたがたをいとおしく思い、神の福音だけではなく、自分自身のいのちまで、喜んであなたがたに与えたいと思っています。あなたがたが私たちの愛する者となったからです。」、15「ユダヤ人たちは、主であるイエスと預言者たちを殺し、私たちを迫害し、神に喜ばれることをせず、すべての人と対立しています。」、19「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのは、いったいだれでしょうか。あなたがたではありませんか。20あなたがたこそ私たちの栄光であり、喜びなのです。」、3:9「あなたがたのことで、どれほどの感謝を神におささげできるでしょうか。神の御前であなたがたのことを喜んでいる、そのすべての喜びのゆえに。」、4:1「最後に兄弟たち。主イエスにあってお願いし、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを私たちから学び、現にそう歩んでいるのですから、ますますそうしてください。」、5:16「いつも喜んでいなさい。」

[10] 「祈り」は本書に4回。1:2「私たちは、あなたがたのことを覚えて祈るとき、あなたがたすべてについて、いつも神に感謝しています。」、3:10「私たちは、あなたがたの顔を見て、あなたがたの信仰で不足しているものを補うことができるようにと、夜昼、熱心に祈っています。」、5:17「絶えず祈りなさい。」、25「兄弟たち、私たちのためにも祈ってください。」また、3:11~13と5:23~25、28は、祈りの言葉そのものです。3:11-13「どうか、私たちの父である神ご自身と、私たちの主イエスが、私たちの道を開いて、あなたがたのところに行かせてくださいますように。12私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いに対する愛を、またすべての人に対する愛を、主が豊かにし、あふれさせてくださいますように。13そして、あなたがたの心を強めて、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒たちとともに来られるときに、私たちの父である神の御前で、聖であり、責められるところのない者としてくださいますように。」5:23-24「平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められることのないものとして保たれていますように。あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。」

[11] 「感謝」は本書に4回。1:2「私たちは、あなたがたのことを覚えて祈るとき、あなたがたすべてについて、いつも神に感謝しています。」、2:13「こういうわけで、私たちもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています。」、3:9「あなたがたのことで、どれほどの感謝を神におささげできるでしょうか。神の御前であなたがたのことを喜んでいる、そのすべての喜びのゆえに。」、5:18「すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

[12] 新約聖書にはパウロの手紙が13通あります。長いローマ書やコリント書の後に来るテサロニケ書は短めの5章の目立たない手紙ですが、書かれた順番では恐らく一番初めです。ただし、ガラテヤ書が「南ガラテヤ説」という執筆事情の仮説を採れば、テサロニケ書よりも先ということになりますが、現代では「北ガラテヤ説」に軍配が上がっています(ただし、どちらかを決定づけることは出来ないというスタンスは、いずれの説を問わず共有されているコンセンサスです)ので、テサロニケ書が恐らく最初の書簡です。

[13] 旧約聖書には一書が丸々手紙のものはありませんが、新約で手紙形式が採用されて、聖書の後半を占めています。パウロ書簡以外では、ヘブル人への手紙、ヤコブの手紙、ペテロの手紙(第一と第二)、ヨハネの手紙(第一、第二、第三)、ユダの手紙。そして、ヨハネの黙示録も手紙形式です。手紙というジャンルについては、関野祐二「文学ジャンル別聖書の読み方ガイド 書簡の解釈」第4回(上)、第5回(中)、第6回 (下)が参考になります。

[14] これは聖書を紹介する言い方の一つで、この言い方への反論もあります。ラブレターとはとても思えない内容もありますから。むしろ、聖書は神が私たちに与えられた「物語」、「大河ドラマ」と重厚なイメージがそぐうかとも思います。

[15] そもそも、パウロの第二回伝道旅行は、バルナバと決裂して、体調を崩してか道を閉ざされ、初のマケドニア(ヨーロッパ)上陸。ピリピでむち打たれ、テサロニケでも3週間で追い出され、ベレアまでテサロニケのユダヤ人が追いかけて、アテネに避難した。そこでもほぼ見向きされず、コリントにやってきた。コリントでの宣教の難しさも、使徒の働き18章、コリント書第一第二から見て取れます。そこで、テサロニケの信徒を案じていて、テモテがテサロニケの報告を持って帰ってきた、という状況で書かれた。

[16] 励ましは、5回。2:12「ご自分の御国と栄光にあずかるようにと召してくださる神にふさわしく歩むよう、勧め、励まし、厳かに命じました。」3:2「私たちの兄弟であり、キリストの福音を伝える神の同労者であるテモテを遣わしたのです。あなたがたを信仰において強め励まし、」4:18「ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。」5:11「ですからあなたがたは、現に行っているとおり、互いに励まし合い、互いを高め合いなさい。」、14「兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠惰な者を諭し、小心な者を励まし、弱い者の世話をし、すべての人に対して寛容でありなさい。」

[17] 主にあって励ましをもらい、励ます、一方的でない交わり。お互いの戦い、悲しみ、困難を覚えつつ、「本当は直接会えたら一番だ」という思いが、今の精一杯として、この手紙を書かせたのです。よちよち歩きの教会に、彼らを想って一喜一憂するパウロが書いたテサロニケ書。その手紙を通して、その後の教会も今に至るまで支えられてきました。今ここに生きる私たちのすべてをご存じの神が、あの時代あの現場を生きた教会への手紙を通して、私たちを励まし、支えてくださいます。主は、この手紙を通して、私たちをも励まし、慰めてくださるお方です。私たちに、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことにおいて感謝するよう励まし、成長させてくださるのです。


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2020/11/1 ハバクク書2章1~4節「信仰による生」一書説教 ハバクク書

2020-11-01 23:57:20 | 一書説教
2020/11/1 ハバクク書2章1~4節「信仰による生」一書説教 ハバクク書

前奏
招詞  イザヤ書57章15、18節
祈祷
賛美  讃美歌83「恵みの光は」
*主の祈り  (週報裏面参照)
交読  詩篇100篇(24)
賛美  讃美歌533「奇しき主の光」①②
聖書  ハバクク書2章1~4節
説教  「信仰によって生きる ~ 一書説教 ハバクク書」古川和男牧師
賛美  讃美歌533 ③④
献金・感謝祈祷
報告
*使徒信条  (週報裏面参照)
*頌栄  讃美歌546「聖なるかな」
*祝祷
*後奏

 先週は宗教改革記念礼拝でローマ書1章16-17節を読み、昨日10月31日は宗教改革記念日でした。先週のローマ書に
「義人は信仰によって生きる」
と「信仰義認」を語り、引用されていたのが今日のハバクク書2章4節です[1]。今日はそのハバクク書の一書説教とします[2]。
1:2いつまでですか、主よ。私が叫び求めているのに、あなたが聞いてくださらないのは。「暴虐だ」とあなたに叫んでいるのに、救ってくださらないのは。
 こうして主に疑問をぶつける言葉から、ハバクク書は始まっています。旧約の時代の末期、神の民も滅茶苦茶で、まもなくバビロンに侵略され、捕囚となる直前頃でしょう。預言者エレミヤも既に活動していたはずが、人々は耳を貸さない、政治の汚職も、祭司の形式主義的な礼拝も、道徳的な退廃も酷くなる一方。荒(すさ)んだ状況でした。ハバククは、神になぜ祈りに応えてくださらないのか。暴虐や不法を、黙って眺めているのはなぜか、と問うのです。

4…みおしえは麻痺し、さばきが全く行われていません。
悪しき者が正しい者を取り囲んでいるからです。
そのため、曲がったさばきが行われているのです。

 こんな悪をなぜあなたは放置しているのですか、という率直な疑問からハバクク書は始まります。これに対する主の答が5~11節で語られます。その答にまたビックリしたハバククがもう一度、強烈な疑問で主に問いかける言葉が、1章12節から2章1節です。特に強烈なのが、

1:13あなたの目は、悪を見るにはあまりにもきよくて、苦悩を見つめることができないのでしょう。
なぜ、裏切り者を眺めて、黙っておられるのですか。
悪しき者が自分より正しい者を呑み込もうとしているときに。

 こんなストレートな疑問を主に向かって直球でぶつけている。これもハバクク書の特徴です。あなたは聖すぎて、悪の現実を見えないのか。その訴えに対する主の答がこの2~4節です。
3この幻は、定めの時について証言し、
終わりについて告げ、偽ってはいない。
もし遅くなっても、それを待て。必ず来る。
遅れることはない。
4見よ。彼の心はうぬぼれていて直ぐでない。
しかし、正しい人はその信仰によって生きる。

 主の言葉は直接ハバククの疑問には答えません。神の答は、人間の求める回答やスッキリした理屈は与えません。神を信じていても、正しい人が悪しき人に圧倒され、理不尽な苦しみを味わい、神よなぜですか、見えていないのですか、と言わずにおれない現実はある。そこで正しく生きることはもう無理に思えます。自分自身の善意とか良心とか、自分の正しさや信仰深さなど頼りになれません。旧約聖書で一番どん底の時代、ますます終わりが近づく時代、正しく生きるなんて無駄じゃないか、神は何をしているんだ」と言われる時。そこで、主が語られた「幻」-主の約束、将来へのご計画、神の言葉を待て、と主は言われます。神が語る幻が必ず来る、遅れることなく来る。その御言葉によらなくしては、正しい人は生きられない。聖書の言葉、神の約束を見上げ、それを待つ信仰を神は下さって人を正しく生かしてくださる。私たちは、神の言葉に支えられて生きることが出来るのです。正しい人が悪しき人に囲まれて、どうすればいいのか、と重ねて問うた末に、ここで「信仰によって生きる」と言うのです[3]。私の救い(いのち、希望)は自分の内からでなく、私の外から来るという信仰です。その根本的な告白は、バビロン捕囚前の最も絶望的な状況で、最も人の罪があらわになり、同時に最も自分の罪に絶望するしかないような時に、私たちへの希望として語られているのです[4]。

 三章は「預言者ハバククの祈り」です[5]。主が語られたさばき、ハバククが最初に嘆いていた地の暴虐を終わらせるための御業に腹を括りながら、その先には民を救って、新しくしてくださることを切望しながら歌う、信仰の祈りです。その最後の17節以下を読みましょう。
3:17いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木には実りがなく、オリーブの木も実がなく、畑は食物を生み出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。
18しかし、私は主にあって喜び躍り、わが救いの神にあって楽しもう。
19私の主、神は、私の力。私の足を牝鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。
 ハバクク書の真ん中ごろにあった
「正しい人は信仰によって生きる」
がこの最後で
「私は主にあって喜び躍り」
と大きく膨らんでいます。主なる神が私の力となり、私を支え、歩ませてくださる。この主だから、私たちは信頼を置けますし、その信仰によって生きることが出来るのです。周囲は分からない出来事が沢山、世界には矛盾や不条理があって、どうしようもない時も、それよりも大きく、真実な主が、正しくこの世界に働いて、差配しておられます。人には分からなくて「どうして」と思ったり、他人は自惚れ投げ出して、自分も信じ切れず、後悔や罪悪感に駆られたりしても、神は真実であられる。私たちはその事を信じることが出来ますし、その主に、正直な疑問や叫びを率直に神に訴えることも許されています。
 そして、すべてを失って不毛に見える瞬間にも、喜び踊らせてください、楽しみ、高い所を歩ませてください、と祈るよう導かれるのです[6]。

「大いなる主よ。あなたが偉大すぎて、私たちには御心が見えず戸惑い、疑うことがあります。その時こそ、あなたが神であり私たちの救いであることをつくづく思い知ります。ハバククの生きた真っ暗な時代に語られたように、今私たちにも語りかけて、あなたの御真実への信頼を湧き上がらせてください。今、あなたが神であり王であり私たちの力であることを感謝します」

[1] このハバクク書2章4節は、ローマ書1章17節の他、ガラテヤ3章11節「律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。」、ヘブル10章38節「わたしの義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない。」の2カ所でも引用されています。

[2] 「ハバクク書は3章からなる短い書物ですが、内容としては四つに区分されます。第一の区分は1章1節から11節で、神に助けを求める訴えとカルデヤ人による暴虐の意味の問いかけ、それに対してカルデヤ人を通してユダの罪を指摘するためという神の応答が記されます。第二の区分は1章12節から2章4節で、重ねて契約の神の真実への訴えと問いかけ、それに対して神の救いを約束する応答が記されます。第三の区分は2章5節から20節までで、主なる神に信頼せずに歩む者たちへのさばきの言葉が繰り返し語られていきます。そして第四の区分は3章1節から19節で、ハバククの祈りが記されます。そこではまず神のあわれみを求める祈りがささげられ、神の大いなる救いの御業が明らかにされ、神のさばきの厳かさと、なお救いの神をほめたたえる信仰が告白されています。」徳丸町キリスト教会 聖書の概説ハバクク書

  ハバククとは「抱きしめる」の意。珍しい名前ですが、戦史では「ハバクク計画」というものがありました。それを題材にした漫画『マスターキートンReマスター』に「ハバククの聖夜」という感涙のストーリーもオススメです。

[3] 1:4「そのため、みおしえは麻痺し、さばきが全く行われていません。悪しき者が正しい者を取り囲んでいるからです。そのため、曲がったさばきが行われているのです。」、13「あなたの目は、悪を見るにはあまりにもきよくて、苦悩を見つめることができないのでしょう。なぜ、裏切り者を眺めて、黙っておられるのですか。悪しき者が自分より正しい者を呑み込もうとしているときに。」という流れで、「…しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」と語られている、この流れに注目。

[4] つまり、行いに依らず信仰による、という事実は、旧約の物語が、最初からずっと張り巡らして、新約に手渡していくテーマだったのです。だからこそ、新約でもパウロがこの言葉を引いて、行いや自分の正しさや何かではなくて、神への信仰による救いを強く訴えたのです。

[5]  ハバクク書2章後半は、不正や暴君や偶像崇拝を「わざわいだ」と繰り返し読んでいます。それは今の現状ではまだ盛んになされていますが、悪は悪として「禍だ」と言う。そして「しかし主は、その聖なる宮におられる。全地よ、主の御前に静まれ。(20節)」と閉じます。

[6] リチャード・フォスターは、古いユダヤの話を繰り返している。ある少年が預言者のところへ行って尋ねた。「預言者さん、あなたには見えないの? もう十五年も預言をしているのに、何も変わっていないよ。なぜ預言をし続けるの?」すると預言者は言った。「知らないのかね、ぼうや。私は世界を変えようと思って預言をしているのではない。世界が私を変えてしまわないように預言しているんだ。」 宇宙的視点を完全に理解することはできないかもしれないし、誰でも、この世界のもつ大きな矛盾に押しつぶされそうになることがある。ヨブのように、詩篇の記者たちのように、ハバククやエレミヤのように、私たちは神の知恵や力や愛に疑問を唱える。時間に縛られている私たちは、歴史を秒ごとに、分ごとに、時間ごとに見る。預言者たちは私たちの注意を、空恐ろしい現在の歴史の現実を超えて、永遠のながめへと、神の支配が地を光と真理で満たすときへと向けさせる。ハバククが有名な言葉、「正しい人はその信仰によって生きる」で意味したのはそれである。私たちは、たとえ世界がばらばらに崩れても、神は良い方であるという信仰にしかがみつくのだ。」フィリップ・ヤンシー『イエスが読んだ聖書』、260頁。

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2020/10/4 マラキ書4章1-6節「子牛のように跳ね回る 一書説教 マラキ書」

2020-10-03 12:07:58 | 一書説教
2020/10/4 マラキ書4章1-6節「子牛のように跳ね回る 一書説教 マラキ書」

招  詞  イザヤ書57章15、18節
祈  祷
賛  美  讃美歌77「御神は力の」
*主の祈り  (マタイ6:6~13、新改訳2017による)
交  読  詩篇100篇(24)
 賛  美  讃美歌280「我が身の望みは」①②
聖  書  マラキ書4章1~6節
説  教  「子牛のように跳ね回る
一書説教 マラキ書」古川和男牧師
賛  美  讃美歌280 ③④
応答祈祷
 報  告
*使徒信条  (週報裏面参照)
*頌  栄  讃美歌543「主イエスの」
*祝  祷
*後  奏

 今月の一書説教は、聖書通読表では3月に読んだマラキ書を取り上げます。先々週、マタイの福音書11章の前半を読みました時、その10節がマラキ書の引用でした。主イエスの先駆けとして活躍した洗礼者ヨハネのことが、マラキ書3章1節を引用して、紹介されていました。
「この人こそ、『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を備える』と書かれているその人です。」[1]
 このマラキ書の預言通りに、洗礼者ヨハネが遣わされたのですが、その間には四百年の時間が流れていました。マラキ書は、私たちの聖書では旧約聖書の一番終わりにあります。頁をめくれば新約聖書で、もう透けて見えますが、旧約と新約の間には「中間時代」と呼ばれる四百年があります。その最後に書かれた預言書がマラキ書なのです。では、その最後のマラキ書はどんなメッセージがあるのでしょうか。
 その特徴はなんと言っても、主の熱い愛です。一章は、
1宣告。マラキを通してイスラエルに臨んだ主のことば。2「わたしはあなたがたを愛している。――主は言われる――
 こんな始まりの書は他にありません。そしてマラキ書はずっと、主と民の会話で綴られます。全55節中、46節が「わたし」と「あなた(がた)」の対話なのです。これも他に見られない特徴で、神である主が人と語り、応答を求める、対話を求めて止まない方である証しです[2]。
 ところがその
「わたしはあなたがたを愛している」
に対して民は何と応えたのでしょうか。
一2…あなたがたは言う。『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか』と。
 なんとガッカリな応答でしょう。こんなやりとりがマラキ書ではずっと続くのです[3]。主の言葉に
「それはどういうことですか、
私たちがどのようにあなたを汚しましたか、
どのようにして主を私たちが疲れさせたのですか。」
 そんなつれない言葉が続くのです。
 マラキ書の時代、イスラエルの民は、遠くバビロンでの捕囚から奇蹟的にエルサレムに戻り、神殿もやっと再建して大喜びした後です。歳月とともに民の信仰も生活も形骸化してしまう。礼拝には傷物の生け贄が捧げられ、十分の一税は納められず[4]、庶民の間では離婚と雑婚、賃金の不払いと在留外国人への差別が蔓延(はびこ)っていました。その本音を言い表したのが3章14節。
「あなたがたは言う。『神に仕えるのは無駄だ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の得になろう。15今、私たちは高ぶる者を幸せ者と言おう。悪を行っても栄え、神を試みても罰を免れる』と。」[5]
 こんな言葉にドキッとします[6]。捕囚の帰還や神殿再建、神の約束や祝福を見える形で戴くことがゴールではない。私たちは神の民といっても、内側が造り替えられなければ、豊かな主の愛も蔑ろにして、互いに踏みつけてしまいます。心に抱えている不遜を扱っていただかなければ、神の御国は嬉しい訪れどころか、忌避するでしょう。だから主は熱く語られるのです。
 主の愛から語り出されたマラキ書には短い四章に
「契約」
が六回も出て来ます[7]。主の契約は恵みの関係そのものです。主は人を愛して、ご自身の民として結び合わされた。だから主の民は、愛されている民としてふさわしく生きる。しかし、民がその道に背いても、契約の主は決して民を見捨てず、真剣に向き合い、本来の歩みに引き戻されます。厳しい言葉の合間にそれを上回る力強い、祝福の将来像を思い描かせます[8]。それが旧約聖書の結びなのです[9]。
 4章4節では
「律法を覚えよ」
と命じますが、5節では
「エリヤを遣わして」
と約束し、
「父の心を子に向けさせ、子の心を父に向けさせる[10]。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。」
 主は世界を滅ぼさないように、人に応答を求めるだけでなく、ご自身から心に働いて下さる。そのように私たちを変えるのは、主のわざです。
4:2しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。
 「牛舎の子牛」は元気一杯、牛舎を所狭しと跳ね回り、門を開けば外に飛び出してはしゃぐ[11]。そんな子牛に準えて、あなたがたには義の太陽が昇る。その義の太陽から癒やしを戴く、そして踊り回る将来が約束されます。その約束通りにやがて洗礼者ヨハネが、そして、その後、主イエスご自身が来てくださり、私たちもやがて癒やされて、子牛のように跳ね回るのです。

 旧約の最後は惨憺(さんたん)たる有様でした。その民に、主は強い言葉で語ります。不誠実や裏切りを放っておきはしません。でも、その語りかけも預言者たちの派遣も含めて、それは主ご自身の、民の心を癒やされる働きなのです。主は将来、牛舎の子牛が跳ね回るような喜びの朝を、必ず迎えさせてくださる。心を癒やされ、父と子から始まるあらゆるもつれもほぐされる。旧約時代が四百年の沈黙に入る前の言葉がそれでした。
 主は私たちを愛し、私たちに「愛されている者」として、真実な礼拝を捧げ、誠実で信頼のおける人間関係を築かせてくださるお方です。



「私たちを愛したもう主よ。あなたの一方的な恵みにより私たちもこの契約の民に加えられました。あなたは歴史を支配なさり、世界を恵みの御国として完成させます。マラキ書の約束は確かに、ヨハネと主イエスに実現しました。私たちはその恵みに預かりつつ、なおその完成を待ち望んでいます。どうぞ私たちの心をきよめ、罪に気づいて悔い改め、それ以上に赦しと癒やしと喜びに溢れさせてください。私たちを憐れみ、慰めを注いで、約束を果たしてください」

脚注:

[1] 厳密には、この言葉は、出エジプト記23章20節の言葉でもあります。そこでは、出エジプトとシナイ契約の後に始まるイスラエルの民のために、主が「わたしの使い」を遣わして、律法に従って生きる道を備えさせてくださる、という意味合いが明確です。ですから、マラキ書の預言にしても、メシア(キリスト)の先触れ、というだけでなく、主の民が主を迎えるに相応しく、律法に従って生きる道を歩ませて下さる、という意味は見落とされてはなりません。

[2] 山口勝政「マラキ書」、クリスチャン新聞編『聖書66巻がわかる 創世記からヨハネ黙示録まで』(いのちのことば社、2001年)、262~264頁。

[3] 一例として、1:2「わたしはあなたがたを愛している。──主は言われる──しかし、あなたがたは言う。『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか』と。エサウはヤコブの兄ではなかったか。──主のことば──しかし、わたしはヤコブを愛した。」、1:6「子は父を、しもべはその主人を敬う。しかし、もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。──万軍の主は言われる──あなたがたのことだ。わたしの名を蔑む祭司たち。しかし、あなたがたは言う。『どのようにして、あなたの名を蔑みましたか』と。」、1:7「あなたがたは、わたしの祭壇に汚れたパンを献げていながら、『どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか』と言う。『主の食卓は蔑まれてもよい』とあなたがたは思っている。」、1:13「また、『見よ、なんと煩わしいことか』と言って、それに蔑みのことばを吐いている。──万軍の主は言われる──あなたがたは、かすめたもの、足の萎えたもの、病気のものを連れて来て、ささげ物として献げている。わたしが、それをあなたがたの手から取って、受け入れるだろうか。──主は言われる──」、2:14「「それはなぜなのか」とあなたがたは言う。それは主が、あなたとあなたの若いときの妻との証人であり、あなたがその妻を裏切ったからだ。彼女はあなたの伴侶であり、あなたの契約の妻であるのに。」、2:17 あなたがたは、自分のことばで主を疲れさせた。あなたがたは言う。「どのようにして、私たちが疲れさせたのか。」それは、あなたがたが「悪を行う者もみな主の目にかなっている。主は彼らを喜ばれる。いったい、さばきの神はどこにいるのか」と言うことによってだ。」、3:7「あなたがたの先祖の時代から、あなたがたはわたしの掟を離れ、それを守らなかった。わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。──万軍の主は言われる──しかし、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちは帰ろうか』と。8人は、神のものを盗むことができるだろうか。だが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか』と。十分の一と奉納物においてだ。」、3:13「あなたがたのことばは、わたしに対して度を越している。──主は言われる──あなたがたは言う。『私たちが何と言ったというのですか』と。」

[4] ここから、現代のキリスト者にとっても「十分の一献金」は義務だ、という考えが演繹されることがあります。この「十分の一運動」は、十九世紀後半にアメリカで強まりました。(榊原康夫『知恵ある生活』、151頁)。しかし、旧約時代の「十分の一税」は、今日の教会への「献金」とは異なります。日本長老教会の『礼拝指針』では「十分の一にまさる献金」という表現を選びました。「十分の一献金」をしなくて良いのではありません。むしろ、「十分の十」、すなわち私たちのすべては、すでに主のものなのだ、という自覚を持って、献げてくださればと願います。その意味でも、マラキ書3章10節の乱用は注意したいものです。

[5] 一例として、1:7「あなたがたは、わたしの祭壇に汚れたパンを献げていながら、『どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか』と言う。『主の食卓は蔑まれてもよい』とあなたがたは思っている。8あなたがたは、盲目の動物を献げるが、それは悪いことではないのか。足の萎えたものや病気のものを献げるのは、悪いことではないのか。さあ、あなたの総督にそれを差し出してみよ。彼はあなたを受け入れるだろうか。あなたに好意を示すだろうか。――万軍の主は言われる――」、10「あなたがたのうちには、扉を閉じて、わたしの祭壇にいたずらに火をともせないようにする人が、一人でもいるであろうか。わたしはあなたがたを喜ばない。――万軍の主は言われる――わたしは、あなたがたの手からのささげ物を受け入れない。」、12「しかし、あなたがたは『主の食卓は汚れている。その果実も食物も蔑まれている』と言って、わたしの名を汚している。13また、『見よ、なんと煩わしいことか』と言って、それに蔑みのことばを吐いている。――万軍の主は言われる――あなたがたは、かすめたもの、足の萎えたもの、病気のものを連れて来て、ささげ物として献げている。わたしが、それをあなたがたの手から取って、受け入れるだろうか。――主は言われる――14自分の群れのうちに雄がいて、これを献げると誓いながら、損傷のあるものを主に献げるような、ずるい者はのろわれる。――」、2:11「ユダは裏切り、イスラエルとエルサレムの中で忌まわしいことが行われた。まことにユダは、主が愛された主の聖所を汚し、異国の神の娘をめとった。」、14「…それは主が、あなたとあなたの若いときの妻との証人であり、あなたがその妻を裏切ったからだ。彼女はあなたの伴侶であり、あなたの契約の妻であるのに。…15あなたの若いときの妻を裏切ってはならない。16「妻を憎んで離婚するなら、――イスラエルの神、主は言われる――暴虐がその者の衣をおおう。――万軍の主は言われる。」あなたがたは自分の霊に注意せよ。裏切ってはならない。」、17「あなたがたは、自分のことばで主を疲れさせた。あなたがたは言う。「どのようにして、私たちが疲れさせたのか。」それは、あなたがたが「悪を行う者もみな主の目にかなっている。主は彼らを喜ばれる。いったい、さばきの神はどこにいるのか」と言うことによってだ。」、3:5「「わたしは、さばきのためにあなたがたのところに近づく。わたしは、ためらわずに証人となって敵対する。呪術を行う者、姦淫をする者、偽って誓う者、不正な賃金で雇い人を虐げてやもめやみなしごを苦しめる者、寄留者を押しのけてわたしを恐れない者に。――万軍の主は言われる――」、8「人は神のものを盗むことが出来ようか。だが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだのでしょうか』と。十分の一と奉納物においてだ。9あなたがたは、甚だしくのろわれている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民のすべてが盗んでいる。」、14「あなたがたは言う。『神に仕えるのは無駄だ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の得になろう。15今、私たちは高ぶる者を幸せ者と言おう。悪を行っても栄え、神を試みても罰を免れる』と。」

[6] でも、振り返ると私たちも心当たりがあるでしょう。神を信じて沢山恵みを戴いたのに、慣れたり忘れたりして、礼拝に来てはいるものの、信仰生活が形骸化している。「神のさばきなんて、当てにならない」と思ったり、いつも主がおられる事を忘れた振る舞いや対人関係だったり…。マラキ書は、名ばかりのキリスト者への警告として聞くべき書だ、とも言われるゆえんです。前掲書。

[7] 契約(ベリース)。2:4「このときあなたがたは、わたしがレビとの契約を保つために、あなたがたにこの命令を送ったことを知る。──万軍の主は言われる──5 わたしの、彼との契約は、いのちと平安であった。わたしはそれらを彼に与えた。それは恐れであったので、彼はわたしを恐れ、わたしの名の前に、おののいた。」、2:8「しかし、あなたがたは道から外れ、多くの者を教えによってつまずかせ、レビとの契約を損なった。──万軍の主は言われる──」、2:10「私たちすべてには、唯一の父がいるではないか。唯一の神が、私たちを創造されたではないか。なぜ私たちは、互いに裏切り、私たちの先祖の契約を汚すのか。」、2:14「「それはなぜなのか」とあなたがたは言う。それは主が、あなたとあなたの若いときの妻との証人であり、あなたがその妻を裏切ったからだ。彼女はあなたの伴侶であり、あなたの契約の妻であるのに。」、3:1「「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を備える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、彼が来る。──万軍の主は言われる。」

[8] 3:1「「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を備える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが臨んでいる契約の使者が、見よ、彼が来る。――万軍の主は言われる。2だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現れるとき立っていられよう。まことに、この方は、精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。3この方は、銀を精錬する者、きよめる者として座に着き、レビの子らをきよめて、金や銀のように純粋にする。彼らは主にとって、義によるささげ物を献げる者となる。ユダとエルサレムのささげ物は、昔の日々のように、ずっと以前の年々のように主を喜ばせる。」、3:7「あなたがたの先祖の時代から、あなたがたはわたしの掟を離れ、それを守らなかった。わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。――万軍の主は言われる――」、3:10「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。――万軍の主は言われる――わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。11わたしはあなたがたのために、食い荒らすものを叱って、あなたがたの大地の実りを滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。――万軍の主は言われる――12すべての国々は、あなたがたを幸せ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。――万軍の主は言われる。」、3:16「そのとき、主を恐れる者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で記憶の書が記された。17「彼らは、わたしのものとなる。――万軍の主は言われる――わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。18あなたがたは再び、正しい人と悪しき者、神に仕える者と仕えない者の違いを見るようになる。」

[9] 「旧約聖書最後の5節は希望に満ちている」Bible Navi。

[10] これは複数形ですから、父なる神との関係ではなく、人間の親子関係が癒やされる事でしょう。

[11] 多くの翻訳は「牛舎から外に出た子牛のように」の意味に理解しています。直訳は「牛舎の子牛」です。

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2020/8/30 エレミヤ書17章14~17節「預言者の涙 一書説教 エレミヤ書」

2020-08-29 11:34:55 | 一書説教
2020/8/30 エレミヤ書17章14~17節「預言者の涙 一書説教 エレミヤ書」[1]

前奏
招詞  イザヤ書2章3節
祈祷
賛美  讃美歌73「奇しき神」①③
*主の祈り  (マタイ6:6~13、新改訳2017による)
交読  詩篇121篇(29) 
賛美  讃美歌259「天なる主イエスの」①②
聖書  エレミヤ書17章14~17節
説教  「涙の預言者 一書説教」古川和男牧師
賛美  讃美歌259 ③④
応答祈祷
報告
*使徒信条  (週報裏面参照)
*頌栄  讃美歌546「聖なるかな」
*祝祷
*後奏

 「エレミヤ書」の一書説教として「預言者の涙」としました[2]。今読んだ箇所もエレミヤの嘆きが吐露されています。エレミヤは「涙の預言者」と呼ばれます。聖書の歴史でも、最も悲惨な時期でした。紀元前7世紀。イスラエルの国が、神に背信を続け、社会に不正や暴力を満たして四百年、とうとう北の大国バビロンが侵攻してエルサレムの都が破壊される時代。その前後を、エレミヤは目撃しながら、民に罪を指摘して、主に立ち返るよう語ったのです[3]。

 しかし、エレミヤ書が悲惨で、重く暗いだけの書かといえば決してそうではありません。
29:11わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
31:3主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」

 このような慰めに満ちた言葉がエレミヤ書に語られます。25章には捕囚となって連れて行かれた人々が70年後に帰還する予告もされます[4]。
 31章には「新しい契約」が宣言されます。
33…わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。[5]

 このような慰めや希望に満ちた言葉が語られるのもエレミヤ書です[6]。将来、囚われた人も帰ってくる。主は災いではなく平安を与える計画がある。「新しい契約」を立てて、私たちの心に神の御心を記してくださる。だからこそその主に立ち返って、今、亡国の事実を見つめて、悔い改めなさい。この社会の悲惨、苦しみに喘いでいる人の声を聴いて、嘆きなさいと、エレミヤは語り続けました。でもそう語っても、聴いてもらえません。それどころか笑われたり、命を狙われたりする目にあうのです。その事が今日の箇所でも吐露されています。

17:14「私を癒やしてください、主よ。そうすれば、私は癒やされます。私をお救いください。そうすれば、私は救われます。あなたこそ、私の賛美だからです。15ご覧ください。彼らは私に言っています。『主のことばはどこへ行ったのか。さあ、それを来させよ。』

 聴いてくれるどころか馬鹿にされる。その嘆きが、随所に出てくる。預言者の内面の思いを最も伝えているのもエレミヤ書です[7]。この言葉も絞り出すように叫ばれているのでしょう。
16…私は、あなたに従う牧者になることを避けたことはありません。癒やされない日を望んだこともありません。あなたは、私の唇から出るものが御前にあることをよくご存じです。17私を恐れさせないでください。あなたは、わざわいの日の、私の身の避け所です。
 こう逞しく語っています。嘆き、癒やしを求めつつ、
「癒やされない日を望んだことはない」
と主に助けを確信しています。
 これは、エレミヤの成長でした。一章で、まだ若かったエレミヤが預言者として神に召された時、エレミヤは最初、辞退しようとしました。臆病でした。
6「私はまだ若くて、どう語って良いのか分かりません」

しかし、主は言われます。

7「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。
8彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。──主のことば。」

 この言葉通り、主はエレミヤと一緒にいてくださいました。エレミヤが嘆き、疲れる時も、その言葉を受け止めてくださっています。いいえ、主ご自身が民のため、人間のため、傷ついて嘆きを忘れた人のために、なりふり構わず嘆いています。
 新改訳聖書では、一人称の「私・わたし」を、人間の場合は漢字の「私」、神やイエスの場合はひらがなで「わたし」と区別しています。これは親切なのですが、エレミヤ書はこれが難しいのです。どっちと訳していいのか分かれる。いや、あえてどっちとも読めるくらい、神とエレミヤが一つになって嘆いている。エレミヤの涙は主の涙でした。預言者の涙は、私たちのために嘆く神の涙です。だからエレミヤは自分の嘆きを恥じたり我慢したりせず、率直に吐露しています。同時に主を
「私の賛美…私の身の避け所です」
と告白しています。
「癒やされない日を待ち望んだこともありません」
と、主を待ち望み続けたのです。そういう意味では、嘆きつつ希望を語った主イエスの先取りなのです。
 エレミヤは、人の罪が招く悲惨を確り見つめて、指摘しました。避けられないバビロン軍によるエルサレム陥落を予告しつつ、その先にある希望を語りました。その最たる希望が
「新しい契約」
でした。エルサレム陥落なんて「最悪」と思える絶望的な出来事ですが、エレミヤは「最悪」に見える神のさばきの先にこそ、人が思いもつかない「新しい契約」を主が備えてくださっていると語ります。だから、その主に立ち返りなさいと強く語るのです。「回復」という言葉が最も多く出てくるのもエレミヤ書です[8]。悔い改めたら回復してあげよう、ではなく、私たちのために嘆いてくださる神の回復があるから、その神に立ち返りなさい、なのです。神の、大きくて、熱いご計画を、エレミヤ書は教えてくれます[9]。

「天地を造られた主よ。天地の法則が確かなように、あなたは私たちを確かに回復なさいます。今もあなたはここに働いて、心からの悔い改めと感謝を与えようとしておられます。私たちはその御国を信じます。だからこそ、エレミヤが語ったように、今の不正や現実を、嘆き、悲しみ、心を取り戻したいのです。そして深い、心からの賛美を喜び歌う日を迎えさせてください」
[1] http://www.sujp.org/biblereading.html
[2] 今回の参考として、ブルッゲマン『預言者の想像力』107~127頁、動画「エレミヤ書」(Bibleプロジェクト https://www.youtube.com/watch?v=mbmWnapAZhg)。
[3] エレミヤは、ヨシヤ王の時代に預言者として召されました。ヨシヤ王は敬虔な王で、偶像崇拝を一掃しようとしたのですが、強硬な改革で、本当の悔い改めにはならなかったようです。その息子のエホヤキム、更にその子のエホヤキン、次のゼデキヤ王の時、バビロン帝国軍がエルサレムを陥落して、残された民もまだ混沌としている。その50年の間を、預言者として活躍したのがエレミヤでした。
[4] 25:11-12「この地はすべて廃墟となり荒れ果てて、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。12 七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民を──主のことば──またカルデア人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。13わたしは、この地の上にわたしが語ったすべてのことばを実現させる。それは、エレミヤが万国について預言したことで、この書に記されているすべての事柄である。14 多くの国々と大王たちは彼らを奴隷にして使い、わたしも彼らに、その行いに応じ、その手のわざに応じて報いる。』」。ダニエルはこの言葉を知って、バビロンから祈っています。ダニエル書9章2節。
[5] 「新しい契約」の箇所を、もう少し前後を長く引用します。「これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。34 彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──主のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」
[6] この他にも、次のような言葉は有名でしょう。9:23~24「 ──主はこう言われる──知恵ある者は自分の知恵を誇るな。力ある者は自分の力を誇るな。富ある者は自分の富を誇るな。24 誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であり、地に恵みと公正と正義を行う者であるからだ。まことに、わたしはこれらのことを喜ぶ。──主のことば。』」、10:23~25「主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。24 主よ、私を懲らしめてください。御怒りによらないで、ただ、公正をもって。そうでなければ、私は無に帰してしまいます。25 あなたを知らない国々の上に、あなたの御名を呼ばない諸氏族の上に、あなたの憤りを注いでください。彼らはヤコブを食らい、これを食らって滅ぼし、その牧場を荒らしたからです。」、13:23~24「クシュ人がその皮膚を、豹がその斑点を、変えることができるだろうか。それができるなら、悪に慣れたあなたがたも善を行うことができるだろう。24 わたしは彼らを、荒野の風に吹き飛ばされる藁のように散らす。」、17:9~10「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。10 わたし、主が心を探り、心の奥を試し、それぞれその生き方により、行いの実にしたがって報いる。」、20:8~9「私は、語るたびに大声を出して『暴虐だ。暴行だ』と叫ばなければなりません。主のことばが、一日中、私への嘲りのもととなり、笑いぐさとなるのです。9 私が、『主のことばは宣べ伝えない。もう御名によっては語らない』と思っても、主のことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私は内にしまっておくのに耐えられません。もうできません。」、20:14 「私の生まれた日は、のろわれよ。母が私を産んだその日は、祝福されるな。15 のろわれよ。私の父に、『男の子が生まれた』と知らせて、大いに喜ばせた人は。」、23:7~8「それゆえ、見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、もはや人々は『イスラエルの子らをエジプトの地から上らせた主は生きておられる』と言うことはなく、8 『イスラエルの家の末裔を、北の地や、彼らが散らされていたすべての地から上らせた主は、生きておられる』と言って、自分たちの土地に住むようになる。」、同23~24「わたしは近くにいれば、神なのか。──主のことば──遠くにいれば、神ではないのか。24 人が隠れ場に身を隠したら、わたしはその人を見ることができないのか。──主のことば──天にも地にも、わたしは満ちているではないか。──主のことば。」、29:4~7「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。『エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。5 家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べよ。6 妻を迎えて、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻を迎え、娘を嫁がせて、息子、娘を産ませ、そこで増えよ。減ってはならない。7わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために主に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。』」
[7] エレミヤの告白: 11:18-12:6、15:10-21、17:14-18、18:18-23、20:7-18。神との対話は、1:4-19,24:1-3
[8] エレミヤ書30:3「見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはわたしの民イスラエルとユダを回復させる──主は言われる──。わたしは彼らを、その父祖に与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する。」、18 ──主はこう言われる──見よ。わたしはヤコブの天幕を回復させ、その住まいをあわれむ。都はその丘の上に建て直され、宮殿はその定められている場所に建つ。」、33:6「見よ。わたしはこの都に回復と癒やしを与え、彼らを癒やす。そして彼らに平安と真実を豊かに示す。7 わたしはユダとイスラエルを回復させ、以前のように彼らを建て直す。」、11「楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、主の宮に感謝のいけにえを携えて来る人たちの声が、再び聞かれるようになる。彼らは言う。『万軍の主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで』と。わたしがこの地を回復させ、以前のようにするからだ──主は言われる。」、26「わたしは、ヤコブの子孫とわたしのしもべダビデの子孫を退け、その子孫の中から、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ぶということはない。しかし、わたしは彼らを回復させ、彼らをあわれむ。」、48:47「しかし終わりの日に、わたしはモアブを回復させる。──主のことば。」ここまでがモアブへのさばきである。」、49:6「その後、わたしはアンモン人を回復させる。──主のことば。」、39「しかし、終わりの日になると、わたしはエラムを回復させる。──主のことば。」
[9] エレミヤの名前は「主は基礎づける」とも「主は高められる」とも訳せます。「基礎づける」と「高める」は正反対のようですが、神は土台をしっかり据えられるからこそ、高められるお方です。大きな山は、裾野を広く持ち、人を下から支えているではありませんか。
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2020/7/5 ルカ伝1章1~4節「小さな大事件 一書説教 ルカの福音書」

2020-07-04 08:39:42 | 一書説教
2020/7/5 ルカ伝1章1~4節「小さな大事件 一書説教 ルカの福音書」

 一書説教として「ルカの福音書」を取り上げます[1]。新約聖書の最初には四つの「福音書」、主イエスの生涯と教えと御業を辿る書があります。その三番目、最も長いのがルカです。聖書通読表では、既に4月から何回かに分けて読むことになっていて、9月まで続きます。それぐらい長いのです。その最初の前置きが今日の言葉で、このルカの福音書が、どんな状況で、誰のために、何の目的で書かれたのかがとてもよく分かるようになっています。
1:1 2 私たちの間で成し遂げられた事柄については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人たちが私たちに伝えたとおりのことを、多くの人がまとめて書き上げようとすでに試みています。
 ルカの福音書が書かれたのは紀元60年頃、イエスの昇天から30年が経って、第一目撃者も減ってきた。歴史を纏める必要も生じてきた時代と思われます。まとめてようとはしても、なかなか大事業で、試みだけで終わっている。それをルカが果たしたのです。お気づきでしょう、ここで1節と2節をまとめて訳しています。原文では1節から4節までが一続きの文章で、いっきにこんな長い文章を書けるのはルカの文章力を表しています。言葉も表現力も美しく、長いけれども読みやすい語り口で、ルカの福音書は書かれています[2]。
 また、
「尊敬するテオフィロ」
とあり、献呈という形でルカは福音書を書きました。言い方からして、テオフィロは身分の高い人で、キリスト教に好意を持つか入信したばかりか、でもまだよく分からない。ルカはそのテオフィロを念頭に、この書を書き始めているのです。
 ですから、ルカの福音書には、分かりやすく忘れがたい出来事や譬え話がてんこ盛りです。
 クリスマスのマリアや羊飼いのお話しも、「良きサマリヤ人の譬え」も「放蕩息子の譬え」も「取税人ザアカイの話」もルカの福音書です。キリスト教の入口としてよく使われる有名なお話しはこの三つでしょうが、三つともルカ福音書の記事です。また、イエスの十字架で
父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです[3]。
と言われた言葉も、隣で十字架にかけられていた強盗がイエスを告白して、パラダイスを約束されるエピソードも、「エマオ途上」の出来事も、ルカがなければ知られていたかどうか分かりません。ルカは、こうした物語を通して、テオフィロに、また読む私たちに、読んだことのない人にさえ、語りかけます。
 どの話も、始まりは小さな出来事です。世界の片隅にイエスが来られ、闇に光を照らされる。強盗に襲われた人、放蕩息子、孤独な金持ち、自業自得の死刑囚がイエスに出会います。人は、神からさ迷い、道を失っている[4]。小さな失敗から人生を棒に振ってしまう。世界そのものが恵みを失って暴力的になっている[5]。そんな世界の小さな一人に、イエスは近づいて、一緒に食事をしてくださる。この、食事を一緒にする「祝宴」のテーマもルカの福音書で繰り返されているイメージです。それを見て、周りは「あんな人と一緒に食事をするなんて」と批判しますが、実はそれこそが、失われた人を探して、救い、ともに食事をする、神の物語なのです。
 ルカには素晴らしい物語が沢山あるばかりではありません。2節「まとめて書き上げようと」を聖書協会共同訳[6]は「物語にまとめようと」と訳します[7]。ルカ福音書そのものが「物語」として語られた福音です[8]。更にルカは続いて、新約五巻目の「使徒の働き」を書きました[9]。主イエスが去った後、教会が広がる様子を伝えます。この二つの「ルカ文書」は新約聖書でパウロ書簡全部より多く、上巻の「福音書」より下巻の「使徒の働き」が28章と多いのです。福音は導入であり、序論、伏線で、今ここに働いている主の御業こそ本論なのです。
 ルカが語るのは、かつてのイエスの物語ではなく、今も世界に働いている神のみわざです。「良いサマリヤ人」「放蕩息子」やザアカイの話は、キリスト教の教えや理想の「譬え話」以上に、本当にこの世界に神が何をなさっているか、私たちの人生を神がどのように導かれて行くかを「譬え」た本物の話なのです。神の約束をイエスは成就してくださって、それが世界に拡がっていきました。迫害者パウロが伝道者になり、伝道の眼中にもなかった異邦人が信仰を持ち、神の民としてともに旅をしていく。今もそれが続いている。その土台としての福音書なのです。
 「使徒の働き」もテオフィロに呼びかけて始まります。そこでは「尊敬する」という敬称抜きで
「テオフィロ」
と呼ぶのです[10]。
 「あなたによく分かっていただきたい」
と始まったルカ福音書を読む内に、本当によく分かったのでしょう。ルカとの関係はより親しく変わったのです。ルカの福音書は、私たちの目も開いて、今ここに神が生きて働いていることを教えています。主イエスが私たちを探して救うために来て下さったことを物語ります。そして、私たちの人生そのものが、イエスとともに神の元に帰っていく旅になったのです。ルカの福音書、そして「使徒の働き」は、私たちの歩みも神の小さな、しかし大きな物語の一つなのだと語ってくれるのです。ぜひ、ルカの二つの文書を読んで、その醍醐味を味わっていただきたいと思います。

「主よ。あなたはルカの福音書を与え、多くの人と主の出会いを生き生きと語り、忘れがたい物語を聞かせてくださいます。そして、私たちを神の家に子どもとして迎え入れるため、御子イエスをこの世界の最も低い所にまで遣わし、今や私たちの道は家への旅路となりました。やがて主の前で、ともに食卓を囲み、喜び祝う時を今日も想います。今この道も主がともに歩み、導いてくださいます。どうぞ、私たちもすべての人も、この恵みの道に与らせてください」

脚注:

[1] 今回も多くの記事を参考にしましたが、手軽なものとしては、山崎ランサム和彦氏のブログがオススメです。https://1co1312.wordpress.com/2016/12/11/%e3%83%ab%e3%82%ab%e6%96%87%e6%9b%b8%e3%81%b8%e3%81%ae%e6%8b%9b%e5%be%85%ef%bc%887%ef%bc%89/
また、聖書プロジェクトも、シリーズでルカを詳しく解説してくれます。
https://www.youtube.com/watch?v=MpefMBKEvMo
[2] 聖書記者の中で、ルカは唯一の異邦人(非イスラエル人)です。また、四福音書でただ一人、イエスの地上の生涯を見ていない人でありながら、9:51-18:35のほとんどは、ルカだけの記録。コロサイ4:14によればルカは「医者」で、知的レベルの高さを思わせます。
[3] ルカの福音書23章34節「そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。」
[4] ルカには、「失われた(アポッリュミ)」という動詞が、24回出て来ます。マタイ17回、マルコ9回、ヨハネ10回と比べると断トツの多さです。ルカの罪理解には、道徳的な悪という以上に、「失われた」という面があります。神との関係で失われ、帰る家、目的を知らず、迷子になっている。その私たちを見つけて家に帰らせてくださるのがキリストです。
[5] 現代の心理学用語で有名になった「トラウマ(心的外傷)」というギリシャ語は、聖書で唯一ルカ10:34に「傷」と訳される言葉で出て来ます。(動詞では20:12)
[6] 聖書協会共同訳ルカによる福音書1章1-4節「1,2私たちの間で実現した事柄について、最初から目撃し、御言葉に仕える者となった人々が、私たちに伝えたとおりに物語にまとめようと、多くの人がすでに手を着けてまいりました。3敬愛するテオフィロ様、私もすべてのことを初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。4お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのです。
[7] ギリシャ語「ディエーゲーシス」は、新約聖書ではルカの福音書のここにしか使われない名詞。語源の動詞ディエーゲオマイは、新約で九回使われるうち、五回がルカと使徒の働きです。
[8] もちろん、それはルカの福音書が「創作物語」だ、という意味ではありません。その福音は、歴史的な事実です。しかし、他の福音書と読み比べても分かるように、その構成や順序や細かな表現は、それぞれの福音書記者が大胆に編集しています。それは、「事実」をそのままに伝えるという形はありえず、必ず取捨選択はしなければなりません。起きた事実でも伝えない事が何かしら(極端な例としては、語られたセリフや、歩いたのが右足か左足か、ということなど)あるとしたら、その時点で「事実」は「物語(ナラティブ)」となっているのです。ルカの旅は、ガリラヤからエルサレムへ、という旅を大枠としていますが、これ自体、他の福音書に明らかな、あと二回のエルサレム上京を編集しています。それが、ルカのいう「順序立てて」という手法です。
[9] 口語訳では「使徒行伝」、新共同訳と聖書協会共同訳は「使徒言行録」と題した文書です。
[10] 使徒の働き1:1-2「テオフィロ様。私は前の書で、イエスが行い始め、また教え始められたすべてのことについて書き記しました。2それは、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じた後、天に上げられた日までのことでした。」 新改訳2017は「テオフィロ様」としていますが、原文には、ルカで使われた敬称(クラティステ)がありません。
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