聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

24 詩篇一一九9-10 「預言者であるキリスト」

2014-10-28 11:03:29 | ウェストミンスター小教理問答講解

2014/10/26 ウェストミンスター小教理問答24 詩篇一一九9-10

                                          「預言者であるキリスト」

 

 前回は、キリストの職務(お仕事)は三つ、「預言者、祭司、王」だというお話しをしました。今日は、その最初の「預言者」の職務についてお話しします。

問24 キリストは、預言者の職務をどのように遂行されますか。

答 キリストは、私たちの救いのために、神の御心を、彼のことばと霊によって私たちに啓示することにより、預言者の職務を遂行されます。

 「預言者」というのは、未来を「予言」する人ではなく、神様からの言葉を預かって人に伝えてくれる人のことです。旧約聖書には、そういう預言者がたくさんいました。モーセや、エリヤ、エリシャ、イザヤ、エレミヤ、ダニエル、ヨナ。そういう人たちが、神様からの言葉をお預かりして、イスラエルの人たちにお話ししました。でも、今はそういう預言者はいません。何故でしょうか? それは、イエス様がおいでになったからです。イエス様こそは、神様の言葉を私たちに手渡してくださるお方です。

ヨハネ一18いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

 神のひとり子イエス様が、神様の事を語ってくれる以上に確かなことはないですね。旧約の時代の預言者は、全部、この真の預言者であるイエス様がおいでになるまでの、「代役」でした。イエス様が預言者たちを先にお遣わしになって、神の民に、御言葉をお告げくださっていたのですね。

 もし私たちが、言葉がなかったとしたら、どうでしょうか? 大切なことを伝えることが出来るでしょうか? 勿論、病気や事故で口がきけなくなることもあります。言葉が通じない外国の人と一緒に過ごすような事もあります。けれども、そうした時でも、日本語の代わりに、身振りや手振り、触ったり、笑ったり、困った顔をしたり、そういう「言葉」を使うから、気持ちを伝えたり、何を言いたいのかが伝わったりするのですね。そして、自分の中で、「あぁ、これはこういうことだろうな」と考える言葉を使っているのです。

 神様も、私たちに、言葉を使って、大切なことを伝えてくださるのです。言葉がなくても大丈夫、とか、何となく分かるでしょう?というお方ではなく、語りかけて下さるお方なのですね。だから、聖書にはたくさんの預言者たちがいるのです。そして、イエス様は、最後の預言者としておいでになって、弟子たちや群衆にお話しをなさいました。そうして、「神様は天の父だよ」「神の国は近づいたから、悔い改めて福音を信じなさい」「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいますよ」…。そうした沢山の言葉を語って下さいました。

 でも、イエス様は最後に十字架に掛かって、よみがえられましたけど、今は天に昇って見えません。今、私たちはイエス様の言葉を直接聞くことは出来ません。預言者がいなくなってしまって、困ります…か?

 イエス様は、十字架に掛かられる前の夜にこう言われました。

ヨハネ十四26しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 こう弟子たちに教えられました。聖霊が遣わされるから、イエス様が話したことを全部思い出させてくれるよ。その約束の通り、イエス様が天に昇られてから、聖霊が降られて、弟子たちを教えて、イエス様の事を人々に伝えさせました。そして、弟子のある人々が選ばれて、イエス様のメッセージを書きまとめました。それが聖書です。イエス様はそのようにして、聖霊が導いて、弟子たちに聖書を書かせ、その聖書を通して、教会にずっと神様の言葉を教えてくださっています。

 忘れないでほしいのは、イエス様は私たちに、「これをしなさい。あれをしちゃダメだ」という決まり事、命令を教えるだけの預言者では決してない、ということです。聖書を読む時にも、神様からの厳しい、難しい、面倒くさい教えが書かれているとは思わないでほしいのです。神様が私たちに語りかけておられるのは、私たちを愛しておられるからです。わざわざ私たちに教えたり、言葉を掛けたり、慰めたり、してはいけないこと、するべきことを思い出させてくださるなんて、私たちを大事に思っていなければ出来ませんね。そして、神様の言葉は、あれをしなければダメだぞ、これをしたら救ってあげる、というような脅しではなくて、私たちを愛していらっしゃるという宣言であって、だからこそ私たちが、愛されている者にふさわしく、神にならう者となりなさい、そのために私たちは召されたのです、という言葉なのですね。

詩篇一一九9どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。

10私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。

 そうです。イエス様は、私たちに、知恵や知識だけの言葉を一方的に語られておしまいの預言者ではありません。イエス様の言葉は生きていて、力強くて、この言葉によって、私たちが本当に救いに与って、神様の道を歩むことが出来るようになるのです。元気になり、勇気をもらって、心が燃やされるのです。イエス様がよみがえられた日、まだ信じていない弟子たちに、イエス様がそっと近づいて教えられたことがありました。イエス様だ、と分かった途端、イエス様は見えなくなってしまったのですが、

ルカ二四32「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」

と言いました。イエス様は今も私たちに語りかけて、私たちの心の内に火を灯し、生き生きとした、誘惑に負けないきよい心を造ってくださいます。私たちの周りには、沢山の言葉が見えたり、聞こえたりしています。けれども、イエス様だけが、聖書の言葉を聖霊によって私たちに教えてくださって、本当に確かな歩みへと導いてくださるのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ルカ十九29-40「主がお入り用なのです」

2014-10-28 10:59:32 | ルカ

2014/11/26 ルカ十九29-40「主がお入り用なのです」

 

 イエス様がガリラヤから都エルサレムまで上って参りまして、いよいよエルサレムに入られるところです。周りの人々は、イエス様がエルサレムで、いよいよ王として御力を現されるのではないか、と期待していたと11節に書かれてありました。それほど、都エルサレムというのはユダヤ人にとっては、重要な場所、聖なる町として特別視されていたのです。その時にイエス様は、二人の弟子をお遣わしになって、

30言われた。「向こうの村に行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない、ろばの子がつないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて連れて来なさい。

31もし、『なぜ、ほどくのか』と尋ねる人があったら、こう言いなさい。『主がお入用なのです。』」

32使いに出されたふたりが行って見ると、イエスが話されたとおりであった。

 そして、ほどいているとやっぱり持ち主たちが問い質してきまして、その通りに答えた、とあるのですね。そんな答で、持ち主が納得して連れて行かせてくれたとは不思議なのですが、だからといって、予めイエス様がこの持ち主たちと話をつけておられたんじゃないかとまで考える必要もなくて、ここでルカは、驚きを込めて、イエス様が話されたとおり、だれも乗ったことのないロバの子が繋いであったし、イエス様が話されたとおり、質問もされてきて、イエス様が話されたとおりに、弟子たちは答えたのだ。そう、諄(くど)いほどに強調しています。そして、連れて来たロバの子に、二人の弟子は自分たちの上着を掛けて鞍(くら)にしてイエス様のお尻に敷いてもらってしまう。人々も道に自分の上着を惜しみなく敷き並べて花道にし、自分たちの崇敬、忠誠を現しますし、いよいよオリーブ山の麓にさしかかってエルサレムが見えてきますと、

37…弟子たちの群れはみな、自分たちの見たすべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美し始め、

38こう言った。
「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。
天には平和。栄光は、いと高き所に。」

 これほどの態度に繋がっていくのです。ですから、イエス様が仰ったようにロバの子が用意されていたことは、イエス様の「力あるわざ」、不思議なイエス様の千里眼と備えとして読みたいのですね。

 それにしても、人々が期待したのは、そのイエス様の力を思う存分発揮して、政治問題や貧困、経済、健康や生活の悩み、問題を解決してくださる、という事だったはずです。幸せや繁栄、満足、そして悪人を成敗してくれる力を夢見ていたことでしょう。それは、まるで軍馬に跨(また)がって槍や長刀(なぎなた)を振り回すような王です。戦いの王です。けれども、イエス様は、そうした力、威力を見せつけるような王様としてではなく、ロバに乗るお方としておいでになりました。

 旧約聖書を見ますと、ロバに乗って来ることは、高貴な身分の印でもありました[1]。しかし、有名な預言がゼカリヤ書九9にあります。

シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。

見よ。あなたの王があなたのところに来られる。

この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。

それも、雌ろばの子の子ろばに。

 この預言を成就する柔和な王、でも柔和だけではなく、正しく、救いを賜る王として、イエス様はこの時、子ろばに乗って、エルサレムにお入りになったのです。

 群衆も、弟子たちも、まだそんなことは分かっていません。それでも、弟子たちがイエス様を精一杯喜んで、上着を敷き、大声で神を賛美していることを、それこそイエス様は「柔和」に受け止めておられます。弟子たちの賛美に、

「天には平和。栄光は、いと高き神にあれ」

とあるのは、イエス様誕生のときに御使いたちが歌った大合唱を思い出させますね。

ルカ二14「いと高き所に、栄光が、神にあるように。

 地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

 でも、少し言葉が違います。御使いは「地の上に平和が御心に叶う人々に」と言っていたのに、弟子たちは「天には平和」と言います。イエス様が天から地に下り、お生まれになったのは、地に、御心に叶う人々を起こしてくださり、平和をもたらすためでした。失われた人々を捜して救うためでした。でも、今までずっと見てきたように、まだまだ弟子たちもそのイエス様の深い御心がピンと来ないのです。神の国が、今ここで私たちの中に始まる、と言われているのに、見える形や実感ばかりを求めていました。そういう意味で、まだまだ弟子たちの理解は不完全で、不十分です。けれども、その弟子たちの声を、パリサイ人たちが窘(たしな)めるよう言ってきた時には、

40…「もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」

と強く仰います。弟子たちを黙らせるなら、石が代わりに叫ぶ[2]。この弟子たちの不十分な賛美をも、主は力強く肯定されました。黙らそうとすることは間違いなのだ、と窘め返されました。これもまた、イエス様の柔和さからの言葉です。

 イエス様の御力、権威、先を見通し、不思議に準備をされ、石をも叫ばせることも出来るお方は、白馬を備えることも、金の鞍を用意させることも、聡明な弟子たちに非の打ち所のない賛美を告白させることも出来たでしょう。けれども、イエス様は、まだ誰も乗ったことのない子ろばを選び、弟子たちの粗末な上着に喜んで乗られ、ちょっと的外れな賛美をも受け入れられました。強い者、見栄えのするもの、賢い知恵者ではなく、その反対のものを通して、地の上に平和を始められる。それが、御心にかなったことだったとイエス様は仰ったのです[3]。イエス様は、主の御名によって来られる真の王、栄光を受けるべき方として、小さき者を選ばれ、用いられて、御心を推し進められます。いいえ、それ以上に、ここではそんな「ろばの子」を、

「主がお入用なのです」

と言わせられるのですね。「お入用(必要)」という言葉は人間に当てられる言葉で、主が何かを必要とされる、なんて言い方は他にはありません[4]。神は全てを満たされる方で何の必要もないお方です[5]。「主が御入り用なのです」という言葉を殺し文句にして、奉仕や献金を強要することは完全に間違っています。むしろ、ここでは、本来は何の必要もない王なるお方に仕えている弟子たちが、主に導かれて、主に従った先で、「主がお入用なのです」と言った事-その結果、持ち主がどう反応したか、OKしてくれたかどうか、そうしたことは抜きに、弟子たちがそう答えたという事実そのもの-に焦点を当てていますね。

 ろばよりも馬、十字架よりも奇蹟、一ミナよりも一タラント、私たちは勝手に比べて優劣をつけてしまいますが、主はそんな秤で判断される方ではありません。私たちの人生を力強く導いてくださっている主が、備えてくださった一つ一つのことを、(決して、絶対視したり正当化したり鵜呑みにするのではありませんが)大切に、主の御業が現されることを願う。私たち自身、勘違いや間違いだらけのものですが、それでも私たちを愛され、私たちの賛美を喜んでおられる主がいてくださるのです。

 

「正しく、力ある、柔和な王である主イエス様。あなた様の尊い御力に与って、私たちの口に誉め歌と信仰告白が授けられました。これからも、あなた様が導いてくださると信じる幸いも感謝します。恐れや不安から解放してください。王なるあなた様への信頼と忠実において成長し、この地に平和を造る御業の一端を担わせてください」



[1] 士師記五10、Ⅰサムエル八16、Ⅱサムエル十六1など。

[2] 「石」が叫ぶことは、この後に登場する「石」の用法からすると、神殿の「石」を破壊し(二一5、6)、墓の入り口の「石」を動かしたもう(二四2)主の御業を暗示しているのかも知れません。ハバクク二11にも見られる慣用句です。

[3] ルカ十21「ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言った。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」 ここで使われている「御心にかなった」は、ルカ二14で「地の上に平和が御心にかなう人々にあるように」とあるのと同じ言葉で、ルカが使っているのはこの2箇所だけです。

[4] ルカだと、五31「医者を必要とする」、九11「癒やしを必要とする人々」、十42「なくてならないものは多くはありません」、二二71「これでもまだ証人が必要でしょうか」。

[5] 使徒十七25「また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする