2014/11/30 ルカ20章1~8節「わたしも話すまい」
今日の箇所から21章まで、イエス様が神殿で交わされた、いくつかの討論が記録されています。その最初が、今日のイエス様の「権威」を巡っての論争ですが、ここだけでなくどこでもイエス様は、当然、反対者たちの難題にも揚げ足を取られることなく、論破されるのです。でも、それは頓知(とんち)や詭弁(きべん)で「上手いこと切り抜けられた」という話では決してないのです。相手の攻撃をただやり込めるだけでもなくて、そこから本当に大切なことを私たちにも教えて下さっているのだなぁ、とご一緒に覚えたいと思うのです。
宮で教えておられたイエス様の所に、祭司長、律法学者たちが長老たちと一緒にやってきて、
2…「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。あなたにその権威を授けたのはだれですか。それを言ってください。」
と詰め寄ったのです。この人々は、ユダヤの最高議会の構成メンバーですから、議会としての調査、質疑、告発でもあったでしょう。また、宮の商売人たちを追い出し、宮で教えておられるのは、大祭司は勿論、議会の承認も得ずにやっていたのでしょうから、そういう意味でも「何の権威によってか、だれがその権威を授けたのか」と聞いたのです。
これに対して、イエス様はこのように返されます。
3…「わたしもひと言訪ねますから、それに答えなさい。
4ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。」
この「ヨハネ」はイエス様のおいでになる少し前に、イエス様の先触れをするために、荒野で説教をした人です。ルカは、このヨハネのことも、イエス様のおいでを告げ知らせる大切な存在として、最初から詳しく記しています。その彼の登場を、ルカはこう言います。
三3そこでヨハネは、ヨルダン川のほとりのすべての地方に行って、罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた。
この「洗礼者(バプテスマの)」ヨハネの説教の中心は、まもなく、神が約束されていたメシヤがおいでになること、そして、そのお方をお迎えするために、全ての人が自分の罪を告白して、悔い改め、洗礼(バプテスマ)を受け、生活を改善しなさい、という事でした。そして非常に大勢の人が彼のところで洗礼を受けたのです。今日のところでイエス様は、そのヨハネのバプテスマについて、
4ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。」
と持ち出されます。これに対して、
5すると彼らは、こう言って、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。
6しかし、もし、人から、と言えば、民衆がみなで私たちを石で打ち殺すだろう。ヨハネを預言者と信じているのだから。」
7そこで、「どこからか知りません」と答えた。
となるのです。彼らは、ヨハネの洗礼の権威を問われて、答に窮してしまいます。天から(神から)と言えば、自分たちが信じなかったことが責められるし、その権威を認めず人間的なものだったとしてしまえば、ヨハネを信じている民衆から、神を冒涜していると石打ちにされるだろう、とどっちだとも言えなくなるのです[1]。
でも、イエス様は、そういう彼らにとっての答えにくい質問をされて、ご自分についての質問にも答えなくて済むように逃げられたのではありません。決して、そういう「知恵比べ」をされたのではないのです。ヨハネの権威を認めたくない彼らに、ご自分の権威が神からだといった所で、彼らはそれをもやはり、信じようとしないし、ただ言質を取ったと喜んで、イエス様を捕らえようとするだけでしょう。そういう相手に-ただ敵失を願っているだけの相手に-、真面に答えても意味がないのです。イエス様は、ご自分の先駆けで会ったヨハネの権威にさえ素知らぬふりを通したあなたがたではないか、と彼ら自身の問題を突き返されました。
5…「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。
と最初に言ったのですから、彼らの中に、ヨハネの洗礼が神から来たことであり、自分たちもヨハネを信じるべきだった、という自覚は薄々あったのでしょう。それなのに、彼らは信じようとはしませんでした。信じるべきだと分かっていても、信じたくないもの(信じると都合が悪いもの、悔い改めや変化、手放すことを要求してくる厄介なもの)は信じないのです[2]。
イエス様はこの時、宮をきよめて、商売や伝統よりも大切な祈り・礼拝の回復を訴え、
1…宮で民衆を教え、福音を宣べ伝えておられ…
ました。民衆はイエス様の権威を認めています[3]。祭司長や律法学者たち、長老も、その言葉が聞こえていたはずです。でも、彼らは耳を塞ぎました。非を認めず、甘い特権を手放さず、神の御国の訪れに自分を明け渡すことを拒んで、イエス様をやり込めようとするだけです。
この祭司長や律法学者、長老たちが不信仰で、がめつくて、腹黒い敵だから悪いのだ、と考えたら間違ってしまいます。彼らは、神殿を忠実に守り、礼拝を指導し、宗教を生(なり)業(わい)としていました。聖書の知識を持ち、民を教え導いていました。その彼らが、ヨハネの説教に知らんぷりをした非を、ここまで分かっているのに認められないのは何故でしょう。頭を下げられない。「間違っていました」と言えない。今更、そんな格好悪いことが出来るか…。そんな小さな拘(こだわ)り、詰まらないプライド、意地ではないでしょうか。でもそのせいで彼らは、イエス様が差し出される「福音」を聞くことが出来ません。イエス様の権威を、認めるためではなく、亡き者とするために問答を仕掛けるだけです。でもそれは結局、自分たちの首を絞めることです。人が滅びるのは、福音が分からないから、よりも、案外もっと些細な、自分を変えたくない、悔い改めたくない、ゴメンナサイが言えない、詰まらない意地なのではありませんか。キリスト教や教会の揚げ足を取ろうとか、「知りません、分かりません」と言って逃げておこうとか、そんな狡(ずる)さが昔も今も、多くの人たちをも縛っているのではないでしょうか。
勿論、私たち(私自身)、そんな見栄とかプライドがあって、ヘンに意地を張ってしまう者です。礼拝に来て、聖書を知って、悔い改めを口にしていてさえ、なお、自分が中心になってしまいます。人に対しても、自分が言われたくない余計な言葉を言ってしまう人間です。それでも私たちは、イエス様の権威を認めて、悔い改めて、今ここにいます。福音を信じ、自分をイエス様に委ねさせて戴いています。これは、なんと大きな奇蹟かと、今日の所から逆に思わされるのです。イエス様に私を変えて戴きたい、自分の拘りでは自分は救えないのだ、と腹を括って、イエス様を信じさせていただいた事。私たちが福音を求めてここにいることが、決して当たり前ではないのです。主が与えてくださった、尊い恵みです。これからも、その恵みによって頑固さを砕かれて、イエス様の権威を自分の全人生に認める者に変えて戴きましょう。
「世に来られた主が、私共の人生に踏み込まれ、私たちの願いや安全を脅かされる時、その時こそ、私たちが主権者なるあなた様と出会う時に他なりません。礼拝や信仰がおざなりなものではなく、自分を素直に明け渡すことでありますように。詰まらない意地を張り、口で傷つけ合う私共ですが、自分を手放すことによる祝福、自由さ、限りない喜びに与らせてください。」
[1] 「石で打ち殺すだろう」は、ルカだけの挿入です。「石打」に処されるのは、神冒涜などの重罪です。使徒の働きでは、ステパノに適用されたあの罪が、ここでは恐れられています。これは、暗に、イエス様の権威の重さを感づいていたことを物語っています。しかし実際には、後のサンヘドリン裁判では、主イエスはご自分の権威を証しされるのですが、議会はそれだけで、「冒涜だ」とします。ただし、議会は自分たちがイエス様を死刑(石打)にして民衆の非難を受けることを避けて、ローマの裁判に引き渡します。
[2] すでにイエス様については「四32人々は、その教えに驚いた。そのことばに権威があったからである。…36人々はみな驚いて、互いに話し合った。「今のおことばはどうだ。権威と力とでお命じになったので、汚れた霊でも出て行ったのだ。」」と述べられていました。つまり、すでにイエス様の公生涯の最初から、主の言葉の権威は立証済みでした。しかし、その権威の出所を口にすることで言質を取ろうとしただけです。この箇所は、「イエスの権威の出所」がテーマなのではなく、その明らかな権威を受け入れようとしない、民の指導者の側の問題を取り上げています。
[3] しかし、イエス様は、民衆の支持に頼ったり、そこに権威の根拠を置いたりしてはおられません。むしろ、彼らの裏切り・遺棄を見据えておられます。このことも、指導者たちとの著しい対称をなしています。