聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

申命記九章(4~21節)「怒りの記憶」

2015-06-07 14:36:51 | 申命記

2015/06/07 申命記九章(4~21節)「怒りの記憶」

 

 今日、二十人の善良な人間に、最高の美徳は何だろうとたずねるなら、そのうち十九人は、それは利己的でないことだと答えるでしょう。けれども昔の偉大なクリスチャンたちに同じことをたずねたとすれば、ほとんど一人の例外もなしに、それは愛だと答えたでしょう。[1]

 これは、「ナルニア国物語」の原作者でもあるC・S・ルイスの言葉です。美徳とは「利己的でないこと」という消極さだと思われてしまっている。これは七〇年以上前の文章ですが、似たような誤解は今でもあるのではないでしょうか。神は私たちに、ご自身を信頼する事を願っておられます。また私たちが互いに愛し合い、喜び合うことを願っておられます。神の限りない栄光と聖なる恵みを知る事によって、私たちが深い平安と挫けない希望を持ち、束の間の楽しみや虚しい幻想を手放して、光の子として歩むようにと命じておられます。それなのに私たちはともすると、神を「喜びに満ちた父」ではなく、厳格で面白みがなく、人間の喜びにケチをつけたり重箱の隅を突いて来たりするような方だと考えてしまう節がないでしょうか。

 今日の箇所で、モーセはイスラエルの民に警告して言っています。

 4あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出されたとき、あなたは心の中で、「私が正しいから、主が私にこの地を得させてくださったのだ」と言ってはならない。…

 6知りなさい。あなたの神、主は、あなたが正しいということで、この良い地をあなたに与えて所有させるのではない。あなたはうなじのこわい民であるからだ。

 7あなたは荒野で、どんなにあなたの神、主を怒らせたかを覚えていなさい。忘れてはならない。エジプトの地を出た日から、この所に来るまで、あなたがたは主に逆らいどおしであった。

 約束の地に入れないモーセが、民に語った「遺言」がこの申命記です。これから約束の地に入り、そこに住んでいた民と戦って、その地を勝ち取ろうとしている民に対して、警告します。「おれたちが正しいから、主がこの地を下さったのだ」と誇ってはならない。勘違いしてはならない。彼らを追い出すのは、彼らがひどく邪悪な生き方をしてきたからだ。だから、主は彼らを裁かれて、根絶やしにされるのです。そして、あなた方自身も、何度も主に逆らってきた。それも、主が契約を結んでくださったあの真っ最中、あなたがたは金の子牛を作るような冒涜をして、主を怒らせた。神を貶めて、初めの契約の板は打ち砕かれて、民は滅ぼされる所でした。あなたがたも根絶やしにされて当然だったのだ、と思い出させるのです[2]。イスラエルの民がカナンの地を所有できるのは、彼らが善良で忠実な民だったからでしょうか。見所や取り柄、可愛げがあったからでしょうか。全く違います。彼らは主を直ぐに忘れ、主に逆らい、背く民でした。その彼らと主の間に、モーセが仲介者としてひれ伏し、命がけの執り成しを続けたからでした。そして、その執り成しを、主が受け入れてくださったから、だったのです。

 4節から11節だけを読んで戴きましたが、今日は九章全部を見るつもりでしたが、実は九章の次の十章11節までがひとまとまりなのだ、と準備しながら教えられました[3]。十章では、主がモーセの執り成しを受け入れて、もう一度、契約を結び、約束を与えておられるのです。

十11そして主は私に、「民の先頭に立って進め。そうすれば、わたしが彼らに与えると彼らの先祖たちに誓った地に彼らは入り、その地を占領することができよう」と言われた。[4]

 主が赦してくださり、この約束を下さったから、今、民はカナンの地に入ろうとしているし、その地を占領することも出来るのですね。しかも、彼らはこの後も、四十年、逆らい通しでした。あれだけの怒らせるようなことをしたのだから、もう懲りて、心を入れ替えたかと思いきや、次々と文句を言い、不道徳をし、疑って主に従うことを拒みました。その度に、主はそれ相応の怒りを発せられましたが、いっそ滅ぼしても良かったでしょうに、そうはなさいませんでした。懲らしめつつ、主は彼らを導いてくださり、約束を果たしてくださったのです。

 今日ここでのメッセージは、主のあわれみと赦しです。決して、主の怒りではないのです。「主を怒らせたら怖いから、怒らせるようなことはしないようにしよう」ではありません。勿論、主は聖いお方です。罪を憎み、不品行に報い、悪を明るみに出されるお方です。怒りもしない優しいお方だ、などと甘っちょろいことを考えてはいけません。でも、主の怒りを恐れるだけの心は、決して、主を信じることは出来ません。主が私たちに望んでおられるのは、主を心から信じることです。主の怒りを恐れて、怒られることはしないようにしないようにとビクビクと生きることなんかではありません。主は、私たちを限りなく恵み、あわれみ、愛し、祝福してくださるお方です。

 苦しみや戦いはありますし、生きていくことは楽ではありません。でもそこでどんなに道を逸れても、そのたびに様々に矯正しながら、赦して憐れんで、主への信頼に立ち帰らせてくださるのです。「主が信頼に価する方」を「自分がちゃんと主を信頼できるか」にすり替えやすいですね。そして神を、私たちの不完全さを減点する、チマチマした方だとイメージしやすいのです。でも、神はそんな上辺の完璧主義ではなく、私たちの心からの信頼を求められる、深い眼差しを持った恵みの主であられるのです。

 私たちは大抵は、もっと神を小さく考えてしまいます。「神は見ていないんじゃないか、今は御言葉を信じても詰まらないんじゃないか、みんながやっているようにやったほうが楽しいじゃないか」、そんなふうに考えて、主の御言葉のようによりも、自分のしたいように、人がしているように生きてしまうのではないでしょうか。主なる神をそのように小さく、頼りなく考えてしまうことが、神様にとってどれほど歯がゆいことでしょうか[5]

 でも神は私たちに約束しておられます。教会や日曜日だけではない。あなたの生活、仕事、商売、遊び、車の中でもトイレでも寝室でも病室でも、どこでもわたしを信頼しなさい。わたしの言葉は信じ甲斐のある言葉です。わたしがともにいると信じなさい。罪に誘惑され「誰も見ていない、平気さ」と囁かれても、わたしが見て、必ず報いることを思い出しなさい。わたしの言葉を信じるために、損をしたり、長く待つことは、決して無駄ではないと信じなさい。いつでもわたしに祈りなさい。わたしはわたしに祈り、助けを求める者を、決して怒ったりはしない。わたしに帰って来る者を、決して追い返しはしない。そう約束されているのです。

 私たちと神との間には、神の御子イエス・キリストが立ち、そのいのちをもって執り成しておられます。私たちが神の怒りを宥める必要はないのです。これからも逆らい通しであるとしても、主イエスの執り成しゆえに、神は私たちを祝福に与らせてくださいます。教会は、このキリストの故に、赦された恵みを土台とするし、私たちもまた互いに赦し合う共同体です。そこにあるのは、恐ろしい御怒りを免れた、という以上のものです。主を信頼することは私たちの中に、謙虚さや忍耐だけでなく、愛や喜びや希望、思いやりや気遣いを生み出します。私たちが不完全なままでも、そのような幸いをもって生きるように、主は働いてくださるのです。

 

「主が私たちを根絶やしにすることを望まず、十字架の死によって今も執り成しをしておられます。そこに託された愛により、もう不安や恐れや目の前の欲にふらつく根無し草のような生き方ではなく、すばらしい主を信じる、生き方へと教え、導き、育ててください。主の怒りと嘆きの尊い記憶を私たちも心に刻み、あなた様の民として、いつどこででも歩ませてください」



[1] 『栄光の重み』より。続きは「かつての時代と現代との間に、どういうことが起こったか、それははっきりしています。消極的な表現が積極的な表現に取ってかわったのですが、このことは単なる言語学上の変遷を超えた、重要な問題を含んでいます。〈利己的でない〉というのは、消極的な概念です。それは本来、他人のためによいものを確保するということでなく、自分はよいものなしですまそうという意味合いをもっており、他人の幸福でなく、自分の禁欲こそが主眼であるかのように聞こえます。/このように消極的なものが、クリスチャンが重んじる愛という美徳であろうとは、私は思いません。新約聖書は繰返し「おのれを否め」と命じていますが、自己否定そのものを目的として語ってはいません。「自分を捨てて、自分の十字架を負う」のは、キリストに従うためなのです。/そのように行動したときに、私たちが究極的に何を見出すか、それはほとんどつねに何らかの意味で、願望への訴えかけを含んでいます。願望を満たすものをもとめてそれを楽しむのはわるいことだという思いが多くの現代人の心のうちに忍びこんでいるとすれば、それはカントとストア派の影響であって、キリスト教の信仰には関係がないのではないでしょうか。どうか、福音書に記されている、臆面もない褒美の約束について、またそうした褒美の大それた内容について考えてみて下さい。私たちの主は、私たちの欲望が強すぎるどころか、むしろ弱すぎると思っておられるかのようです。/私たちは万事に中途半端です。限りない歓喜が約束されているのに、酒や、性(セックス)や、野心に酔いしれて、浮れまわっているのですから。まるで海辺で一日を過ごさせてあげようと誘われた子どもが、それがどんなにすばらしいことか想像もつかずに、それより、このままスラム街で泥んこ遊びをしていたいと言いはるようなものです。」(『影の国に別れを告げて C・S・ルイスの一日一章』、中村妙子役、新教出版社、1990年、二四-二五ページ)

[2] 3節でカナンの地の民を主が「根絶やしにされる」と言われていたのが、8節、14節、19節、25節でイスラエル人を主が根絶やしにしようと仰せられたと言い換えて使われています。

[3] MacConvileは9:1-10:11までを一区切りとしています。契約の更新と旅の回復を記して、10:12以下に、律法の内容、神の民のあり方が明言されていく、という構造だという分析です。

[4] 原文を見るとよく分かるようですが、十11「民の先頭に立って進め。」は、二24「立ち上がれ。出発せよ」〈再出発の合図〉、及び、九12「さあ、急いでここから下れ」〈金の子牛事件への裁き〉と呼応している、結びとして相応しい合図です。

[5] シナイ山の麓でも、金の子牛を作ったとき、彼らは飲み騒いで戯れるという不道徳をしていました。でも、その不道徳が問いただされたのではありません。もっと根っこにある、神を頼りなく思って、手っ取り早いものに飛びついた、その不信仰が最大の問題だったのです。

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