不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問102「神の善き御支配を信じる」詩篇72:11~17

2016-02-07 16:45:20 | ウェストミンスター小教理問答講解

2016/01/24 ウ小教理問答102「神の善き御支配を信じる」詩篇72:11~17

 

 今日は主の祈りの「第二祈願」を噛みしめて、新たな気持ちで祈りましょう。

問 第二の祈願で私たちは、何を祈り求めるのですか。

答 第二の祈願、すなわち「御国が来ますように」で私たちは、[第一に]サタンの王国が滅ぼされるように、そして[第二に]恵みの王国が前進させられ、私たち自身と他の人々がその中に入れられ、その中で守られるように、また[第三に]栄光の王国が早く来るように、と祈ります。

 「御国が来ますように」。これも、正確には「天にいます私たちよ、あなたの御国」という言葉ですね。それも、この「国」はKingdom、王国という意味の言葉です。神が王となって治められる国のことで、支配とか統治なのです。そうではなくて、何となく幸せで、平和な場所、長閑な国、私たちが思い浮かべる、一度は行ってみたい素晴らしい国、場所…そういうことを思い浮かべている誤解も多いのではないでしょうか。天国というと、殆どの人が、ただの「楽園」を考えているだけで、神が王となられる、ということは二の次でさえ考えないのです。しかし、ここでは全面的に、神が王となって治める国のことが言われています。

 新約聖書には「神の国」という言葉が67回使われます。マタイの福音書では「御国の福音」という言い方も三回出て来ます。イエスの宣教も

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」

という言葉から始まりました(マルコ一15)。キリスト教の福音とは、神の国を特徴とするものです。ただ「死んでも地獄に行かない」とか、「罪が赦される」という以上に、キリストが私たちの王となってくださる、真実で素晴らしい御国が来た。それが「福音」なのですね。

 前回も

「御名があがめられますように」

の「御名」とは、神の御名であることをお話ししました。そして、私たちは神の御名があがめられるよりも、自分の名前のことを気にしているとお話ししました。今日の「御国」もそうですね。キリストが王となって治めて下さる神の「国」が来ますように、と祈りなさいとイエスは教えられました。私たちは、神が王であることを差し置いて、自分が王様になりたいものです。自分の手の届く所の事は、自分の思い通りに支配したがっています。総理大臣や大統領になりたいとは思わないかも知れませんが、それはただ面倒臭いからだけで、自分の人生や家庭や職場の環境など、思うようにしたがりますね。そして、思い通りにならないことを神が何とかして下さったら良いのに、と願うのです。それは、神が支配してくださるようでいて、結局、自分が王様のような立場にいようとすることです。でも、私たちは決して、自分で自由に生きることは出来ません。自分の欲とか恐れとか、何かしらに突き動かされているのです。そして、私たちの理解は短絡的で、私たちの判断はしばしば感情的です。そして、何かの拍子に巧い口車に乗せられて、取り返しのつかない大失敗をしたりしてしまうものです。神の代わりに何かを王にして服従しているのです。そして、聖書は、神の支配に背を向けた世界がサタンの支配下にあるという言い方をしています。

Ⅰヨハネ五19私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。

 勿論、サタンであろうと私たちであろうと、神を出し抜いたり、神に逆らって打ち負かしたりすることは絶対に出来ません。全てを、神は究極的には治めておられます。その神の許しの中で、人間は神に逆らい、サタンに従ってしまいました。でも、だからこそ私たちは、神こそが王であり、神の支配が来るようにと願う応答が求められているのです。そして、サタンの悪意や嘘に満ちた支配から、神の恵みに満ちた真実な支配へと私たちが移されるという知らせは「福音」なのです。いいえ、もっと積極的に、

…[第一に]サタンの王国が滅ぼされるように、そして[第二に]恵みの王国が前進させられ、私たち自身と他の人々がその中に入れられ、その中で守られるように、また[第三に]栄光の王国が早く来るように、と祈ります。

と言われているのです。最後にあるように、私たちは、やがてこの世界が終わり、「栄光の王国」と呼ばれる、神の国の最終的な完成を信じています。その神の完全な御支配が、永遠に続く世界が来ることを待ち望んでいます。でも、その終わりの日が早く来ますように、と言う意味だけで「御国が来ますように」と祈るのではありません。今、私たちの生きているこの世界も、神の御支配の中に回復されていくことを願うのです。不正が蔓延っていたり、嫌なことがあったり、思い通りにならないから、もうこんな世界は放り出して、早く世の終わりが来て、素晴らしい御国が始まってくれたら良いのに、というのではありません。この世界も神が造られた世界です。全ての物が神の作品であり、本来、神の御心へと向けられていくものです。私たちの仕事や人間関係、時間、楽しみ、労苦も、決して無意味でもどうでもよいものでもありません。それは、神の御支配の中で輝くべき、尊いものです。今、ここに、神の支配が回復され、不正やエゴイズムではなく、恵みの王国が前進し、私たちも他の人もその恵みの支配の中に入れられ、その中で守られ続けますように、と祈るのです。

 同時に、それはやがて栄光の王国が来ることの兆しに他なりません。今、ここで、神の国が完全に成就することはありません。理想的なキリスト教国家を作ろうとしても、完璧には程遠いものしか出来ません。教会の中にさえ、あらゆる不純なものが入ります。政治的に完全を歌い、この世界の中に神の国を完成させようとする過ちに陥ることも、教会にはたびたび起きてきました。やがての栄光の御国を待ち望みつつ、今ここに、その始まりが芽ばえることを願うのです。

 そして、私たちはそれを、指をくわえて何もせずに待つのではありません。神の御支配に従い、神の御言葉に今従って、自分のなすべき分を果たすのです。恵みに動かされた生き方をしていくのです。神の国のあり方を、自分の人生のあらゆる領域で現すようにと願うのです。それは自分では出来ません。だから私たちは「御国が来ますように」と祈るのです。今日も、私たちの歩みの中に、あなたの御国を建て上げて下さい、サタンの虚偽ではなく、あなたの恵みの力によって、私の一挙手一投足も、周りのすべての人たちも支配して下さい。そうして、あなたの栄光の御国をどうぞこの世界に現して、あなたを崇めさせてください、と祈るのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

申命記十六章1~12節「ともに喜びなさい」

2016-02-07 16:43:20 | 申命記

2016/02/07 申命記十六章1~12節「ともに喜びなさい」

 

 今年も正月が過ぎて、二月になりました。正月の次は、春の花見やイースター、新学期、そして、ゴールデンウィーク、夏休み、阿波踊り、キャンプ…。そんな年間行事を、どこかで意識しながら私たちは生活しています。教会行事も来週の総会で諮りますが、特に目新しいことをするよりも、毎年大まかなことを繰り返していくのです。「そろそろマンネリになってきたからクリスマスを七月にしましょう」とか「イースターは止めましょう」などとは言いません。そんなことをすると却って私たちの生活は支えを失っていくのではないでしょうか。

 イスラエルの民が新しい地に入って行くにも、三つの大きなお祭りを命じられました。一年の最初の「アビブの月」に、過越の生け贄を捧げることから始まる「種を入れないパンの祭り」をします。その七週間後に、「初穂の祭り」とも言われる「七週の祭り」をして、これがギリシャ語では「ペンテコステ」です。そして、秋の収穫のお祝いには、「仮庵の祭り」をするのです。この三つのお祭りが、イスラエルの民の生活の大枠となったのでした。そして、そのお祭りにおいて、主の祝福を覚え、民が共に喜ぶことが命じられたのです。

 これはただの宗教行事や礼拝行為であっただけではありません。この前に見てきた一四章ではイスラエルの食生活が、一五章では借金の免除のことが布告されていました。そういう流れを考えても、この祭りは生活から切り離されたものではなく、むしろ食べたり働いたり、苦労や収穫を繰り返す民の生活そのものを支え、方向付け、活気づけるための祭りに違いありません。特に一五章で気づかされたように、この時、遂に約束の地に入ろうとしていたわけですが、その新しい生活でも、労働はしなければなりません。借金をするような事も、その借金を返せないで奴隷になるとか、貸したお金を返してもらえない事だって起きると想定されていたのですね。約束の地だからって、理想郷のような暮らしだったわけではなく、仕事もあれば、人間関係や育児や両親の世話もあったし、災害に見舞われることもあったのです。それこそ、喜びよりもため息ばかりが出て来るようなことだってあったでしょう。しかし、だからこそ、そこで定期的な祭りをして、生け贄を屠ってその肉を食べたり、七日間、種を入れない固いパンを食べたり、収穫を持ち寄って貧富の差なく、あらゆる人たちとともに喜ぶよう、命じられたのですね。言わば、民の生活が、主の恵みへの感謝と喜びによって、いつも方向付けられ、軌道修正し続けるために、本当に生き生きとした生活になるために、三つの祭りがあるのです。[1]

 最初の祭りは「種なしパンの祭り」です。これは、イスラエルの民がエジプトの奴隷生活から救い出されたことを記念します[2]。それは次の七週の祭りでも言われていることです。

十六12あなたがエジプトで奴隷であったことを覚え、これらのおきてを守り行いなさい。

 その事を思い出して、今あるここでの生活に、苦労や悲しみや難しさはあっても、そもそもいまここにある生活そのものが、もはや奴隷としての歩みではなくて、神の民としての歩みであることを思い返し、喜びを取り戻して、感謝と分かち合いをするのです。[3]

 さて、この申命記から千五百年ほど後、イエス・キリストが来られて、この過越の小羊を屠る日に十字架に掛かられました。それ以来、教会は、主イエスの下さった救いを感謝して、日曜には礼拝を捧げ、イースターやペンテコステやクリスマスといった年間の教会暦を通して、主の恵みを思い返しているわけです。申命記で命じられていることは、イエスの民の歩みを指し示していたと言えますし、私たちもここから教えられることがあるわけです。

 特に私がハッとさせられたことがあります。ここでの「種を入れないパンの祭り」がエジプトでの奴隷生活を思い出し、そこから救われたことを思い出しなさい、と言われていますね。その救い出される時には、小羊を屠り、その血を家の門に塗りつける儀式をしました。そうしなかったエジプトの全ての家には、主が初子のいのちを取られるという、決定的な裁きが下りました。それによって、エジプトの王ファラオはようやく敗北を認めて、イスラエルの民を出て行かせたのです。それは恐るべき裁きでした。確かに、イスラエルの民は、自分たちが小羊を屠ることで初子を奪われずに済んだ、守られた、という感謝はあったのでしょう。けれども、それが一番大事なことではありませんでした。ここで強調されているのは、奴隷であったことです。そこから救い出された出来事は、過越の小羊の生け贄や、初子の死を免れたことですが、それを感謝する以上に、そもそもの奴隷生活から救われて、今は神の民として歩んでいる、ということにこそ、祭りで思い出し、喜びや分かち合いへ繋がっていく記憶があるのです。

 教会でもそうではないでしょうか。私たちは、主イエス・キリストが私たちを救うために、十字架に掛かり、本当の過越の羊となってくださった事を感謝します。しかし、そのおかげで神の怒りや地獄への滅びを免れた、と言うならば一面的過ぎるのでしょう。神の怒りから救われたという以前に、神から離れ、自分が神のようになり、人間が人間を酷使したり、道具としたりするような奴隷社会があったのです。自由だけでなく、権利や尊厳を奪われます。希望が持てず、強いストレスが溜まります。殺伐とした言葉で傷つけ合います。自分がされたように同胞や家庭でも横暴に振る舞います。子どもに安心や希望や自己肯定感を持たせられず、関係は破綻しやすくなります。そういう「間化」が奴隷ですね。
 今の日本でも、ブラック企業や過労死を典型として、学歴や競争社会やあらゆる所に、人間が尊厳を奪われて、優劣を付けられる「奴隷化」があります。そして、奴隷は最後には役に立たなくて捨てられます。捨てられることに怯えながら生きるのです。そうした生き方を神は激しく悲しまれ、奴隷の価値観から、本来の、神に造られ、神に愛されている者としての生き方へと回復させてくださいます。そのためのイエス・キリストの十字架と復活でした。それ程までの犠牲を惜しまずに、神は、私たちを、奴隷ではなく愛されている神の子として、喜びをもって、共に分かち合う民として、決して人を捨てたり捨てられたりしない歩みへと召し出してくださいました。それが、奴隷であったことを覚えて、今ここで、共に喜び祝いなさい、と言われているメッセージです。[4]

 18節以下には、

「さばきつかさ」

と呼ばれるリーダーが任命されることが述べられています。賄賂を取らず、ひたすら正義を追い求めなさい、と言われています(20節)。そして、21~22節以下には、偶像崇拝を禁じる命令が出て来ます。裁判を必要とする問題も予想されていますし、賄賂や偶像の誘惑に負けそうになる事だって起こりうるのです。私たちの歩みそのものです。悩みや問題があり、お金や力の強いものが幅を利かせやすい、そういう社会です。その中にあって、私たちは、毎週の礼拝や折々の行事と交わりとを通して、主の救いの御業を覚えて、喜びを取り戻すのです。ともに喜ぶことによって守られるのです。貧乏や病気や、豊作や不作や、裁判沙汰や外国人や、あれこれと抱えた生活が、もはや奴隷ではない(人の奴隷でも、欲望や恐れや社会の奴隷でもなく)神の民としてある。自分だけでなく、他の人も神の民として生かされている。その大きな祝福に立ち帰って、ともに喜びなさい、と言われています。[5]

 

「私たちが生活のただ中で、奴隷ではなく、神の民として、人間として、愛され、尊ばれ、希望を約束された者として歩むことを、あなたが強く願ってくださる恵みに感謝します。喜びを失った形式的な歩みを、喜びを支える生活へ、どうぞ御霊が整えてください。喜びを、感謝を、互いに支え合わせてください。今から主の聖晩餐に与り、恵みを共に味わわせてください」



[1] もちろん、この三つの祭りだけだったわけではありません。普段も、週ごとの安息日があり、毎月の新月の祝いがありました。それに加えて、更に、だったのです。これは、教会においても、毎週の礼拝を基本としつつ、それだけではなく、教会暦を通して、年間で神のドラマに触れていく必要にも通じるでしょう。

[2] 七日間、種なしパンを食べ続けるのは、種を入れてパンを膨らませる暇もないほど、大急ぎで脱出した歴史を覚えることや、豊かさや質が変わってしまうことへの警戒などがあるわけですが、いずれにしても、原点のエジプトでの救いを覚えるのです。

[3] 三大祭を記すのは、出二三14~18、三四18~26、レビ二三章。その比較をすると分かりますが、この申命記十六章は、三つの祭りの日付・日程よりも、その回顧と遵守精神とが強調されていることにその特徴があります。

[4] この事は、特に新約では、ガラテヤ書とローマ書に強調して展開されています。「ガラテヤ五1キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」「13兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。」など。

[5] 16節の「主の前には、何も持たずに出てはならない」とあるのを拡大解釈して、どんな時も献金や献げ物をするのが、あるべき信仰だとする立場もあります。しかし、喜びをもって礼拝するとは、私たちの心、魂、人格を主にささげることに他なりません。正義を追い求め、神以外のものを礼拝せず、神礼拝を最優先して生きることそのものが、神の前にある礼拝の民としての生き方なのです。それが、具体的な形をとって、ささげものとなるのです。献げ物を「最低限の礼儀」などとしてしまうなら、それは形式主義となります。むしろ、喜びや感謝もないまま、献げ物をしてしまうことにもなります。神が求めておられるのは、献げ物ではなく、喜び(つまり、心からの)をもっての私たち自身をささげる生活です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする