聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

申命記三二章(36-42節)「立ち上がってくださる神」

2016-08-07 16:11:11 | 申命記

2016/08/07 申命記三二章(36-42節)「立ち上がってくださる神」

1.いのちの歌(47節)

 申命記三二章には「モーセの歌」と呼ばれる、長い歌が書かれています。前回、三一章でお話ししましたように、これは今から約束の地に入ろうとしているイスラエルの民のために主が教えられた歌です。主は、民がこれからの生活ですぐさま神から離れて行き、自分たちの身を持ち崩すことを見抜いておられました。そこで、神の言葉に背いた末に滅茶滅茶な社会になってしまった時、思い出せるようにと、記憶に残りやすい歌の形でこの歌が与えられたのです。

 三二章をざっと見ましょう。最初は「天」と「地」を呼び寄せての歌い出しです。5節には、主を忘れる民の非が厳しく責めらながら、主がどんなお方かを思い出させていきます[1]

10主は荒野で、獣のほえる荒れ地で彼を見つけ、

 これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。

 そして14節まで、主の彼らに対する愛と守りが、野の産物や蜜やミルクや羊や小麦やワインなどとして豊かに与えられたことが思い出させられます。しかし、その祝福のただ中で、

15エシュルン[2]は肥え太ったとき、足でけった。あなたはむさぼり食って、肥え太った。

 自分を造った神を捨て、自分の救いの岩を軽んじた。[3]

 そして他の神々(神ではない、人間が考え出した宗教)に生け贄をささげ出す。神は怒られ、厳しい罰や荒れ廃れる報いを口にされます。26節までそう言いつつ、しかし、27節では思い直されるのです。それを見て人間が勘違いしないよう、神の栄光が最も表され、人間が誤解しようなく神と出会うために、と言われるのが、読んで戴いた、36節以下の部分ですね。

36主は御民をかばい[4]、主のしもべらをあわれむ。彼らの力が去って行き、奴隷も、自由の者も、いなくなるのを見られるときに。…

39今、見よ。わたしこそ、それなのだ。わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出せる者はいない。…[5]

43諸国の民よ。御民のために喜び歌え。主が、ご自分のしもべの血のかたきを討ち、
ご自分の仇に復讐をなし、ご自分の民の地の贖いをされるから。

 こういう最大級の力強い宣言です。だれも思いもしない結末に至る歌なのですね。

2.ご自分の民の地の贖いをされるから

 ここで最後には

「地の贖い」

とありますね。「贖い」とはこの場合「覆って回復する」ということです[6]。ただ民との関係を回復するだけではないのです。地そのものを覆われるのです。人間が神から離れて、思い上がり、暴力や不正で滅茶滅茶にしてしまった世界を、神が癒やし、包み、覆ってくださる。そういう豊かな約束で、この歌は閉じられるのです。しかも、その前には

「諸国の民よ。御民のために喜び歌え」

とあります。主が、しくじり尽くした民にも憐れみを表し、地をも癒やしてくださることは、諸国の民にとっても喜びになるんですね。いいえ、この言葉は直訳すれば「御民を誉め歌え」という文です。「御民を誉め歌え」。民の失敗や愚かさ、恩知らずと邪で始まったはずの歌が、最後は、民が賛美の対象となって終わるのです。

 以前の二八章は、神に見放された悲惨が延々と描きました。不作、貧乏、病気、戦争と敗北、借金と差別、難民や恐怖です。食べる物がないので親が子どもを食らい、朝には「夕方ならいいのに」と言い、夕には「朝ならいいのに」と呟く、虚しい姿でした。現代も、テロや犯罪があります。貧困や家庭の問題が本当に深刻です。七一年前の広島、長崎も忘れてはいけません。人の命など吹けば飛ぶくらい軽く扱われ、そう思わずにおれない荒廃です。貧困は更に「勉強が出来ない、将来に希望がもてない」、極めてネガティブな心を作ります。そして、すぐにキレたり暴力に訴えたり、快楽で身を持ち崩し、「どうせ人生そんなものだ」と短絡的になるのです。こういう世界に神が来られて、「罪を悔い改めなさい」とお説教したりしても、将来の希望を約束されても、心がすり切れた人は「やっぱり神も五月蠅いなぁ」と思うだけでしょう。

 例えば私が、馬鹿な生き方をした挙げ句、悪い仲間とつるんで、仕舞いにはその仲間にボコボコにされたとしたとき、そこに神が現れたら何と言われるでしょう。「今までの間違いを認めたら救ってやろう」とか「わたしが言った通りじゃないか」と予想するでしょう。そんな事を言われたら、ますます惨めになり、死んでしまいたくなるでしょう。でも、そうではない。41節以下を見ると、まるで、謝罪や反省などひと言も求めることなく、「お前をこんな目に遭わせた奴らに挨拶してくる」と、息子を打ちたたいた悪い仲間を全員叩きのめしに出かけるようですね。それが言い過ぎなら、打ちのめされて動けなくなっているわが子に説教なんかせず、近づかれる。反省の弁や手を差し出すことを求めたりせず、わが子を抱きかかえて、ボロボロのまま担ぎ上げて、家や病院に連れて行って下さるような、そんな神です。

 人間が地を好き放題に破壊した末に、反省や謝罪を求める言葉はここにありません。神が来られて、地を贖う、という宣言なのです[7]。神を捨てて、他のものを神の様にして慕い、犠牲を捧げ続け、結局自分も人を傷つけ、取り返しのつかないことまでしてしまった―そういう人の所にさえ来られて、癒やし、生かし、更に地を回復すると言われるのです。将来など捨て鉢になっている人に、信仰や悔い改めを条件に将来の希望を語るのではなくて、今ここで回復や癒やしを始めてくださり、「それゆえ、わたしを神と認めよ、あなたが慕っている他のものはあなたの神にはなれない」事実を示されるのです。

3.非常識な神

 神はこの三二章の歌で―自業自得の極みで思い出すようにと教えられた歌で―何を命じておられますか。何をせよ、と言われていますか。7節の

「思い出し、思え」

と39節の

「今、見よ」

ぐらいです。ここで登場する神は、民に悔い改めを迫ったり、回心を要求する神でさえありません。ただ、神ご自身をお示しになるのです。繰り返されているのは、他の神々との雲泥の差ですね。並べるのも烏滸がましい、主なる神の力、リアリティ、唯一の栄光が何度も何度も繰り返して念を押されています。そしてその主なる神は、ただ圧倒的で、絶対的で、自分以外のものを礼拝するなんてけしからんと憤慨して滅ぼす神でもありません。人に愛想を尽かして見捨てることは決してなさらない神です。終始一貫、主はあなたがたの神であり、あなたがたを産み育て、養う神。人間が思い描く、どんな神々の常識にも当てはまらないお方です。

 これが私たちの神です。そして私たちはこの神に捕らえて戴いて、神の民とされて、今ここにあるのです。キリスト者として生きることは、この神を神として、神の前に深い平安と、信頼と、従順をもって生きることです。具体的に何をするかも大事ですけれど、その何かをすることに囚われて、神を自分の常識や小さな理解に閉じ込めて考え続け、平安もなく心が渇いて疲れたまま、どこかで苦々しさや妄想を握りしめながらの信仰なら、完全に本末転倒です[8]

 主は言われます。

「今、見よ。わたしこそそれなのだ。」

 私たちが何かをする、というより、神を神として認めよ。その神の偉大さ、その憐れみと愛の計り知れなさを見よ。あなたの持っているちっぽけな神理解、他の宗教や世間の人気や一時的な興奮や何かと遜色ないぐらいにしか考えていない浅い神理解を捨てて、私たちのために立ち上がって下さる神の愛に向きなさい。その愛の中に静かに深く憩いなさい。健気な悔い改めの文句もいらないし、犠牲や奉仕が欲しいのでもなく、まずあなたが、そのような神の偉大さに気づき、癒やされ、信頼に強められる。その時、その事を通して、世界の諸国があなたのことで喜び歌う様になる。そういう歌です[9]

「主よ。あなたこそすべてのすべてでいますのに、私たちが今から遣わされる生活は、あなたはボンヤリとして思えます。今ここでさえ、私たちの心を占め、生活の基盤としているものはあなたならぬものかもしれません。しかし、その全てがいつか崩れ、神ではないと知ることと、あなただけが神であり、あなたこそ私たちの永遠の神であられることを覚えさせてください。あなたに信頼して生きる幸いを、日々、静まりつつ、立ち止まり味わいつつ歩ませてください」



[1] 5節「主の子らではない」は、修辞的な否定で、主の子らであることを否定しているのではありません。続く6節で「主はあなたを造った父ではないか。主はあなたを造り上げ、あなたを堅く建てるのではないか」と言われている通りです。このような修辞的否定は、ホセア一9、イザヤ一2-4などにも見られます。

[2] 「エシュルン」直立した者の意です。後半にも出て来ますが、彼らの奢った態度を現すとともに、「イスラエル」をもじった音のアイロニーにもなっています。

[3] 18節の、「生んだbegot神」は父性、「産みの苦しみをしたbore神」は母性、をそれぞれ現しています。神が「父・男性」であるだけでなく、「母・女性」でもあり、堕落の結果の呪いに自ら服される様な、弱さを身にまとっておられる言い方をも厭われないのです。

[4] 36節「かばう」(ディーン)は、さばく(創世記十五14)、弁護する(詩五四1)、争う(伝道者六10)、治める(ゼカリヤ三7)などと訳し分けられます。神が「かばう」のは、罪や問題を見て見ぬふりをなさるのではなく、正しく取り扱いつつ、白日の下にさらすからこそ、法的に問題なく解決するような「弁護」であり、正しく「かばう」ことなのです。

[5] これだけを読むと、主の裁きで自分たちも殺されそうに思うかもしれません。しかし、よく読めば、「36主は御民をかばい、主のしもべらをあわれむ。」「38今、見よ。わたしこそ、それなのだ。わたしのほかに神はいない。」「43諸国の民よ。御民のために喜び歌え。」など、希望と慰めに満ちたメッセージなのです。これは(今回私も気づいたのですが)、殺したり生かしたり、傷つけたり癒やしたりする、というよりも「わたしは殺しもするが、そこから生かす神である、傷つけもするが、その傷を癒やすことが出来るし、癒やすのがわたしだ。なぜなら、わたしは神だからだ」-そういう響きですね。人間が侮ることは出来ませんが、かといってただ恐れて諦めているのも間違いで、神は人間にとっては非常識なほど、人間に関わり、神の民を生かしてくださるのです。私たちがもうダメだろう、と思っている時にも、神はそんな人間の浅はかさを吹き飛ばすような不快ご計画を表してくださるのです。私たちが、みことばから離れて人生を台無しにしたとしても、そこに神は現れてくださるのです。死にかけた私たちを背負って救い出されるのです。

[6] ヘブル語「キッペル」の贖うです。他にも「ガーアル」なども「贖い」と訳されますが、この場合は「覆う」です。

[7] これも驚くべき事に、「地」は全地のことであって、特定の地名は、エジプトもシナイも、カナンもこの三二章には出て来ません。申命記という歴史的・地理的な状況にありながら、カナンや出エジプトの先にあるものを見据えています。それは、神との関係と全宇宙的な被造物の回復です。

[8] 42節からの黙想。みことばに従うことは、それ自体が祝福であり、いのち。神を礼拝することも、人を愛し、正しく生きることも。現代、みんな怒りっぽく、イライラして、自分の好き勝手に生きること、楽しむことが自由だと考えている。反対に、キリスト者は、好きなことを我慢して、真面目にあることが神に誉められると思っているきらいがある。どちらも間違いである。みことばに喜んで従うことが、私たちにいのちをもたらす。

[9] これは、申命記だけではありません。ヨブ記の結びがそうでした。すべてを失って絶望の中にいたヨブに対して、神が沈黙を破って語られたのは、ヨブや私たちが求めがちな答ではなく、神ご自身でした。聖書における神との出会いには、このような面があります。何より、主イエス・キリストがそうです。人となり十字架に掛かり、よみがえられたイエスが神の子である。もうこの出会いだけで私たちの人生はひっくり返されるのです。

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