聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問38「世界一有名な悪者」ルカ23章13―25節

2016-11-06 20:46:36 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/11/06 ハイデルベルグ信仰問答38「世界一有名な悪者」ルカ23章13―25節

 「世界一有名な悪者」と言えば、誰だと思いますか。「かいけつゾロリ」なら「オレ様だ」と言うでしょうが、もっと昔から、世界中で知られているのが、今の聖書箇所に出て来た、「ポンテオ・ピラト」という人です。なんと言っても、使徒信条を唱えている世界中の教会で、毎週、キリストの十字架の死の責任者として告白され続けている。二千年近くにわたって、何億人もの人が「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と言ってきたのですし、今も唱えられ続けているのですから、この記録を破る人は当分現れそうにありません。今日は、使徒信条のこの部分からお話ししましょう。

問38 なぜその方は、裁判官「ポンテオ・ピラトのもとに」苦しみを受けられたのですか。

答 それは、罪のないこの方がこの世の裁判官による刑罰をお受けになることによって、わたしたちに下されるはずの神の厳しい審判からわたしたちを免れさせるためでした。

 さて、気づきますか。ここではポンテオ・ピラトのせいでキリストは苦しみを受けたのだ、という言い方ではないのですね。むしろ、キリストが自らポンテオ・ピラトのもとに行くことをよしとされて、苦しみをお受けになった、という言い方です。そして、それが、私たちに下されるはずの神の厳しい審判から、私たちを免れさせるという目的でなされたこと、と言っています。ですから、ピラトを悪者呼ばわりして、「ピラトさえいなければイエス様は十字架に死なずに済んだのに」と言うことではないのですね。イエスは、ご自分からピラトのもとで裁判を受け、十字架にかかる道を選んでくださった。そこには積極的な意味があるのです。

 この使徒信条が造られた初代教会には、間違った教えとの戦いがありました。それは「グノーシス主義」と呼ばれますが、その考えだと、物質とか肉体のこの世界は汚れていて価値がないとされます。そう考える教えでは、キリストも、本当に人間になるなんてはずがなく、十字架で苦しんだりするわけがないと宣伝しました。神が肉体をとったり、苦しんだり、死んだりする事など信じないのがグノーシス主義だったのです。けれども聖書はそうは言いません。本当にキリストは人間になり、人間として生活し、苦しみを受け、十字架にかかり、死なれたのです。ですから、使徒信条で「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と言うのは、本当にキリストは歴史的な事実として、苦しみを受け、死なれたのですと告白する確認でもあったのです。

 ポンテオ・ピラト(ポンテオ家のピラト)は西暦二六年頃から三六年まで、ローマ皇帝から任命されて、ユダヤ地方の総督として統治していた実在の人物です。十年の在任中、冷酷な行動で、あまりユダヤの議会とはよい関係が築けず、最後は総督を辞めさせられ、ローマに召喚されます。その歴史上の人物であるピラトの許で、確かにキリストは裁判にかけられ、十字架についたのです。そして、本当にキリストが苦しみを受けられたからこそ、今のこの私たちの身体や生活が、神の厳しい審判を免れて、本当に罪を赦され、そして神の民として生きているのだ、という告白になるのです。

イザヤ五三4まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

Ⅱコリント五21神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

 私たちの病、痛み、罪を担ってくださいました。それを見た人は、あんな苦しい目に遭うのは、神の罰に違いないと思うほど、生々しい苦しみでした。でもそれは、本当に私たちの罪をキリストが負って、私たちと一つとなってくださった証しなのです。

 ではピラトの名前が使徒信条に出てくるのは、彼にとって運悪く、ということなのでしょうか。世界一有名な悪者の汚名を着せられてしまった、可哀想なピラト、なのでしょうか。ルカ23章ではどうでしょう。ピラトはイエスの無罪を信じ、最後まで釈放に向けて努力していました。三度もイエスには罪が見当たらないと言っています。福音書はピラトの努力も認めています。しかし、最後には暴動を恐れて、無実のイエスを死刑にしました。悪くないと分かっている人を、死刑にすることを許可してしまったのです。それは、ピラトの狡さや曖昧さ、自己保身のためでもありました。自分に被害が及ぶことを恐れて、悪事を黙認してしまいました。このピラトの責任は見逃されません。

 でもそれは、ピラトだけではありませんね。私たちもよくしがちです。自分に責任があることを、曲げてしまったり、いじめを見て見ぬふりをしたり。

 アメリカでは、奴隷制度、黒人差別という酷い習慣がありました。その差別の撤廃のために戦った、マーティン・ルーサー・キングという牧師は、こう言いました。

 「最大の悲劇は、悪人の暴力ではなく、善人の沈黙である。 沈黙は、暴力の陰に隠れた同罪者である。」

 この言葉は、黒人差別が悪いと分かっていながら、沈黙していた人々を指しています。黒人差別だけでなく、悪いと分かっていてもそれに沈黙しているなら、最大の悲劇はいくらでも起きるのです。そう考えると、イエスが無実だと分かっていながら、結局は黙ってしまったピラトは、私たちの姿だとも言えます。人類の代表として、ピラトは裁判の責任者となり、歪んだ判決を通しました。そして、イエスはそういう人間の歪められた裁判の真ん中に来られて、ご自身の命を差し出されたのでした。

 ユダヤの総督として、ピラトの権力は相当なものでした。ユダヤ民族を統治し、議会も正式な処刑は総督の許可がなければ出来なかったようです。地位も財産も最高級で、当時のセレブでした。でもそんな地位まで上り詰めて、贅を極めた生活をしていても、彼は幸せだったのでしょうか。地位を失うことを恐れて、無実の聖なる人物を十字架にかけたことは、彼の心をどんなに苦しめたことでしょう。そして、彼の晩年は惨めな更迭と、自殺だったと伝えられています。でも、ピラトはキリスト者になった、という伝説もあります。定かではありません。しかし、確かなことは、イエスがポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受けることを選ばれたこと、そして、私たちのもとにも来て下さって、どんな地位や贅沢よりも遙かに素晴らしい、新しい歩みを下さることです。

 

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ヨブ記一章13-22節「このようになっても」 一書説教 ヨブ記

2016-11-06 20:39:12 | 説教

2016/11/06 「ヨブ記 このようになっても」ヨブ記一章13-22節

 「ヨブ記」を初めて読む方もいるでしょうか。ヨブという、潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた人が、今読みましたように、牛や羊や駱駝など全財産も、子ども十人も失う大惨事で幕を開けて、展開していく劇的な書です。苦しみと言えばヨブ記、という書です。

1.答は最後までない

 ヨブはこの大惨事の中で、悲しみを表しつつも、地にひれ伏して神を礼拝し、

21…「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」

と言います。しかし、次の二章では、更にヨブは全身を悪性の皮膚病に覆われて、痒みをかきむしりながら過ごすのです。それでも、ヨブは、そのような中で神を呪うことはせず、

二10…「…私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」

と言い切るのです。しかしです。それでも、ヨブの苦しみは終わりません。訪ねてきて、一緒に黙って悲しんでくれた三人の友人の友も、その苦しみを分かってはくれません。週報に書きましたように、三ラウンドの対話をするのですが、ヨブは友人たちの答に納得できない。どうしてこのような禍に遭うのか、神の答が聞きたいのに、神は応えてくださらないとヨブは苦しみ続けるのです。その後に、若い友人のエリフがもっと鋭くヨブの考え方の問題を突いてくると、今度はヨブは何も言い返せません。そして、最後に、主ご自身が登場されて、ヨブに語りかけられるのですね。でも、主はそこでもヨブに、どうしてこのような苦しみに遭わせたのかは一言も仰らないのです。結局ヨブは最後まで、なぜ自分にこんな禍が起きたのかを教えられることはないのです。しかし、実はこれこそが、ヨブ記のテーマの一つなのですね[1]

 一章の6節以下に、神である主に対して、サタンがヨブの信仰を批判します。

 9サタンは主に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。

10あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。

11しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」

2.神を恐れ、礼拝する「理由」

 つまり結論から言えば、サタンは「ヨブが神を恐れるのは自分に利益があるからだ。神を心から恐れ、信じて礼拝しているのではない。自分にとっての有利な条件がなくなれば、神を信じることは止めるに違いない」と言っているのです。人間が神を恐れるのは結局、御利益があるからであって、神を恐れる見返りがなくなれば、信仰など捨ててしまう。自分本位の信心に過ぎないのですよ、とサタンはせせら笑っているのです。しかし、神は既に、ご自身のしもべであるヨブの信仰がそのようなものではないとご存じでした[2]。神が求められるのは私たちとの心と心の関係(人格的関係)です。御利益や繁栄のためではなく、ただ神が神である故に恐れるのが本当の信仰です。ですから、ヨブの財産や健康が奪われることを許されましたし、その大変な経験を通して、更にヨブを深い神との信頼関係に導き入れようとされたのです。

 さあ、それがこの苦難の目的ですから、ヨブは最後まで苦難の意味を知らされません。意味が分からない禍の中でも神を恐れ続けるかが問われたのです。そう説明されたら意味がなくなります。だからヨブはこの試練の意味は分かりません。最後に登場された主ご自身も、ヨブに説明はなさいません。それでもヨブは、祝福だけではなく苦しみをも与えられる神を礼拝しました。全てを奪われても、どのようになっても、神が神である故に、神を恐れたのでした。

 ヨブの友人たちは違いました。こんな禍がお前に降りかかったのは、何かヨブに問題があったからに違いない。だから謙虚になり、神の前に悔い改めて、神に自分の非を認めよ。そうしたら神は憐れみ深く、お前を回復させて下さるだろう、と言います。一見これは正しそうに見えます。しかし、ここには大きな問題が二つあります。一つは現実と違う、ということです。現実には、問題がなくとも禍に遭う人は大勢います。悪者が栄え、不正の報いを受けることなく平穏に暮らし、長寿を全うしています。「因果応報」では現実の世界は説明できません。

 もっと大きいのは、結局、神を信じるのは自分のため、御利益のためだ、という問題です[3]。自分にとっての「理由」があるから神を礼拝するのです。ヨブの友人たちが考える神は、正しく力があり憐れみもあります。でも、「だから謙虚に神を求めたら、神はまた回復させてくださる」という関係しか語りません。しかし、最後に主は、ヨブの友人たちを責め、彼らの語った一見正しい勧めは、「わたしについて真実を語らなかった」ときっぱりと仰せられるのです[4]

 とはいえ、それは最後までヨブには明らかにされません。答のない中で、なお神を模索すること自体がヨブ記のテーマですから、私が先回りして種明かしを話さず、ぜひ皆さんがそれぞれ、ヨブ記を読んでください。分かりやすい書ではありませんが、それでもヨブの苦悩や、一見正しそうな友人たちの間違いも含めて、ヨブの辿った経験を読み、思い巡らしてください[5]

3.ヨブ記の励まし 三つだけ

 ヨブ記の存在自体、古代から、人間が苦しんできたことの証拠でもあります。強盗や自然災害、破産や病気などが起きて、「何故?」と問わずにおれないのが私たちの現実の生活です[6]。ヨブ記は、そういう時に、神の祟りだとか裁きだとは絶対に決めつけてはならない、単純な解決方法などを安易に語ることを慎むよう教えてくれます。信仰や祈り、悔い改めは大事ですけれど、何かをすれば問題が解決するなどと言うことは憚らなければならないことを教えてくれます。神は、正しく憐れみ深いお方ですが、私たちの理解を遙かに超えたお方です。神のなさることに対して、本人の罪や間違いのせいだとか、こういう目的やメッセージだとか、分かったようなことをみだりに語ってはならないのです。むしろ、最初の友人たちのように、ともに悲しみ、黙って一緒に座っていることのほうが遙かに慰めになるのだと教えられるのです。

 二つ目は、新約聖書でヤコブが勧めている通り、ヨブの物語そのものが私たちの希望です。

ヤコブ五11見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。

 ヨブの苦難と最後の結末は、私たちにとってやはり大切な励ましです。希望なのです。

 最後は、神は私たちをも理由もなく愛しておられます。私たちが私たちである故に、私たちを愛しておられます。私たちがどのようになっても、下心や誤解があり、大きな失敗をし、神の意に添わなくても、神は私たちを愛してくださるのです。私たちが私たちである故に、神は私たちを喜び、尊び、ともにおられます。そのような本当に深く、親しく、状況に煩わされない関係こそ、神は私たちとの間に育まれるのです[7]。そのために、神のひとり子イエス・キリストがこの世に来られました。ヨブ以上に全てを奪われました。ヨブ以上に、そのからだはボロボロにされました。ヨブ以上に孤独になり、沈黙の中におかれました。ヨブの友人はヨブを責めましたが、イエスの敵たちは「もし神の子なら自分を救え」と嘲笑い、友であった弟子たちは裏切り、見捨て、関係を否定しました。イエスが受けたその不条理な苦しみは、私たちを愛されたから-私たちが神を心から愛して、どのようになっても神を神として崇める生き方へと導き入れてくださるためでした[8]。その主の苦しみを覚えて、主の聖晩餐に与りましょう。

「あなたは禍を通してさえ善をなさいます。そう信じるのが難しい闇夜にも、あなたは私たちとともにおられ、その闇を通らなければ分からない場所へと導いておられます。どうか私たちの心を支え、禍から守られること以上に、禍の最中にあってもあなたを信じる信仰を与えてください。ヨブ記を通して、私たち一人一人の歩みを照らし、励まし、希望とならせてください」



[1] ヨブ記のテーマは「苦しみや不正がこの世にあるのに、神は本当に正義の神なのか」という「神義論」ではありません。神が正しいことは、ヨブ記においては大前提なのです。むしろ、人間が神の正しさや信仰の利益性を理由に神を捨てる姿勢を問い詰める、といえます。

[2] ヨブ記が扱うのは、一般的な苦難ではなく、すでにヨブは神との契約関係の中にあった上での、主のしもべの苦難の問題です。主がヨブを必ず「わたしのしもべ」と呼ばれていること、ヨブが神を必ず「主」と呼んでいること、いけにえや対話があったこと。つまり、すでに主との親しい契約関係にあったことが強調されています。言い換えると、主の民とされていても、このような尋常ならざる苦難や悲劇に見舞われないという保証はどこにもない、ということでもあります。

[3] もちろん、そのような「苦しい時の神頼み」がすべて悪いわけではありません。苦しみを通して神を求めるというのは、病気の症状が堪えきれないために生活を改めるのと同様、きっかけとしては十分なのです。しかし、いつまでもそのような消極的な動機が「究極的な目的」とはき違えられたままでいるなら看過は出来ません。そして、ここで友人たちが述べているのは、神の理解そのものが人間中心的なものに留まった、神を恐れない勧告なのです。しかし、この事にさえ、私たちは神の謙虚を見ます。「神はあえて彼らの生活を、彼らにとって、より仕合わせでないものにしたまいます。わたしはこれを神の謙遜と呼びます。なぜなら、船が沈みかけてから降参するなんて-どうにもほかに方法がなくなってから、つまり、もはや大切に取っておく値打がなくなってから神のところに行き、「自分のもの」をささげるなんて情けないことです。もしも神が誇り高くいましたもうならば、そんなご都合主義の人間を受けいれたもうわけはないのです。けれども神は誇り高くありたまわないので、わたしたちを征服するために身を屈めてくださいます。わたしたちができることなら、何によらず、神以外のものを選ぶということをさえ明らかにしても、あるいはほかに何一つよきものを得る望みがなくなったために、仕方なく神の所に赴いてさえ、神はそんなわたしたちを受けいれてくださるのです。」(C・S・ルイス、『痛みの問題』、中村妙子訳、新教出版社、1964年、124頁)

[4] 四二7「さて、主がこれらのことばをヨブに語られて後、主はテマン人エリファズに仰せられた。「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。それは、あなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ。8今、あなたがたは雄牛七頭、雄羊七頭を取って、わたしのしもべヨブのところに行き、あなたがたのめに全焼のいけにえをささげよ。わたしのしもべヨブはあなたがたのために祈ろう。わたしは彼を受け入れるので、わたしはあなたがたの恥辱となることはしない。あなたがたはわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったが。」ここでは、ヨブを叱咤しつつも、ヨブの主に対する態度が基本的には「真実」であり、ヨブの友人たちの理解は根本的に「不真実」であったことが明らかにされています。同時に、ヨブの友人たちの理解で言えば、神を正しく理解しておらず、間違っていた彼らに、神はわざわいを下すことも十分あり得ましたが、主はそのように友人たちを機械的な正義で取り扱うことはなさらず、回復に向けての交わりを育てられたことも明らかです。

[5] ヨブは、主を信じておとなしくしていたわけではありません。主に対して激しい言葉を吐き、友人たちと激しく論争をしています。また、ヨブの理解には確かに限界があり、言い過ぎてしまった態度もありました。それをエリフはたしなめ、主ご自身も厳しく悔い改めを迫られます。しかし、ヨブが最後まで黙っていれば良かったかと言えば、そうではありません。41章では、黙ろうとしたヨブを、一層神は弾劾され、逃げることを許されません。踏み出さなければ、自分の間違い、悔い改めるべき問題にさえ気づけないのです。ただ黙ることではなく、主に心を包み隠さず申し述べたヨブの態度は、基本的には主から「真実を語った」とも言われるのです。

[6] それに対する人間の手っ取り早い解決は「因果応報」です。本人に問題があったに違いない、と考えるのです。そしてそういう発想に立つ限り、苦しみに遭った人に対しては、責めたり諭したり決めつける言葉しかかけられません。そして、神ご自身を深く信頼させることがありません。神は慈しみ深い方だと言っても、その前に人間が正しく生きれば、謙虚であれば、という条件が付きます。しかし、ヨブ記はそのよう考えとは全く違う土台を示します。

[7] 神を恐れるとは、理由があってはならないことです。なぜなら、三位一体の愛なる神が造られたこの世界では、人間の求めるのは利害や機能を第一とするのではない、人格的な愛の関係であるからです。神も私たちを、理由なしに無条件に愛されます。私たちが私たちである故に愛されます。そして私たちも、神を神である故に愛し、互いにも自分自身をも、無条件に愛することをもって、神の栄光を表すのです。ただし、神との関係に背いた堕落以来、私たちは神を無条件に恐れることはなくなりましたし、互いに愛し合うことも、損得抜きには出来ない、自己中心的な存在となっています。自分をさえ理由なしにではなく、業績や競争や好ましさの故に愛そうとします。しかし、主は、私たちのすべてがはぎ取られてなお、私たちを愛されるのです。

[8] ヨブ記には、この主への告白が、不思議なことに、ヨブの言葉の中で導かれていきます。十六19「今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。私の友は私をあざけります。しかし、私の目は神に向かって涙を流します。その方が、人のために神にとりなしをしてくださいますように。人の子がその友のために」、十九25「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。」

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