聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問57「体を大事にする理由」Ⅰコリント15章50-58節

2017-03-19 14:48:09 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/3/19 ハ信仰問答57「体を大事にする理由」Ⅰコリント15章50-58節

 

 私が聖書や教会のことを勉強した神学校で、学長がこう教えてくれました。

 「キリスト者は「体の蘇り」を信ずるのであって、「魂の不滅」を信じるのではない」。

 この言葉を私はいつも思い出すのです。どういうことでしょうか。

「魂の不滅」

という考えは、人間には体と魂があるけれど、体はやがて死に、魂はその後も滅びることがない。死んだ後、体は朽ちていきますが、魂は永遠に生きる。そういう考えです。そして魂は、どんな形があるのか、あれこれ想像します。幽霊のようなものか、個性はあるのか、生きていた時と同じような形があるのか。それでも、よくは分かりません。どちらにしても、体は滅びて、魂だけが永遠にある。そういう考えです。教会の中にも、こういう考え方を知らず知らずにしている人がいます。死んだら体は焼かれるけれど、魂は神様の所に帰る。そうしていつまでもイエスとともにいる。そう考えている人もいます。

 私の神学校の先生は、そうではないと言いました。私たちは「霊魂の不滅」ではなく

「からだのよみがえり」

を信じるのです。神様は、霊魂だけを不滅に作られたのではありません。私たちの体もお造りになりました。死んだら体は焼かれたり腐ったりするけれど、魂だけは不滅、というのではないのです。やがて、体もよみがえる、そうして魂と再び結び合わされる。そう信じるのが、教会の信仰なのです。

問57 「身体のよみがえり」はあなたにどのような慰めを与えますか。

答 わたしの魂が、今の命の後 直ちに頭なるキリストのもとへ引き上げられる、というだけではなく、やがてわたしのこの体もまた、キリストの御力によって引き起こされ、再びわたしの魂と結び合わされてキリストの栄光の御体に似たものとなる、ということです。

 これは自分の身体に対する見方を、「魂の不滅」とはがらりと変える告白です。魂だけがキリストのもとに行くだけではなく、私のこの身体もまた、キリストの御力によって引き起こされる、といいます。そして、再び私の魂と結び合わされて、キリストの栄光の御姿に似たものとなる。「キリストの栄光の御姿」とは、キリスト御自身が死んで、三日目によみがえられた体のことです。それと同じ体を私たちはいただくのです。

 今日読みました、Ⅰコリント15章では、復活を信じない人たちに向けてパウロが論じています。長い章ですので、要点だけを紹介します。パウロは、もし私たちがよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったはずだ。キリストがよみがえられたのは、私たちがよみがえることの保証だ。そのことについて私たちは分からないことも多くあるけれども、人間の今の状態のままでは、神の国に入ることは出来ないことは確かだ、というのです。そうして今日の箇所に入るのです。

Ⅰコリント十五50兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。

51聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。■

52終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

53朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。

 私たちの体は、よみがえって、朽ちない身体に変えられる、というのです。キリストが死に勝利されて復活されたのは、私たちもよみがえって、朽ちることのない体とされるためだ、というのです。ここで注意して下さい。今の体がよみがえって、変えられる、というのです。今の体ではない、別の朽ちない身体をいただく、のではないのです。この身体がよみがえって、不死とされる、というのです。回りくどいようですが、神はそうなさるのです。イエスの体もそうでした。その手と足には釘の跡があり、その脇腹には槍で刺された穴がありました。十字架に打たれた、尊い傷は、復活のお身体にも残っていました。そんな傷は醜い、ないほうがいい、とはされず、むしろその傷が、イエスが本当にイエスであるしるしとして残りました。

 私たちも同じなのでしょう。私たちのこの体も、生きていく内に色々な傷が付くでしょう。年を取れば、手や顔にしわが着いたり、曲がったりしてくるでしょう。でもそれを醜い、美しくないなどと思うのは人間であって、神ではありません。神は、私たちの体や私たちの今の生涯を、大切に思っておられます。魂だけを不滅にして、体はやがて滅びるもの、余り価値のないものと考えられはなさいません。私たちが今生きる事、この体ですること、勉強したり働いたり遊んだり食べたり飲んだりするこの体のすべてを、神は大事に考えておられます。

Ⅰコリント十五58ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

 「からだのよみがえり」という告白は

「堅く立って、動かされることなく、いつも主の業に励みなさい」

との勧めに直結していきました。コリントの教会には復活を信じない人達がいましたが、その人達は「魂は不滅だから大事だけれど、体はやがて滅びる。世界はやがて終わるのだから、私たちの今の生活や仕事など、どうせ大事ではないさ」。そんな生き方をしていたらしいのです。だからパウロは復活のことを論じた最後は、自分たちの労苦は主にあって無駄でない、という結論をします。

「からだのよみがえり」

を信じるかどうかは、将来だけのことではありません。今の私たちの体をどう見るか、体をどう大事にするか。人生にどう取り組むか。そういう事と結びついているのです。

 天の父は私たちにこの体を下さり、この体で生きる人生を導いておられます。私たちのために、イエス・キリストは体を持ち、十字架に死に、栄光に復活されました。無駄に思える出来事もあるでしょう。苦しみや悲しみがあり、体も心も傷ついたりくたびれたりするでしょう。しかし、その全てを神は知っておられ、永遠に覚えておられます。私たちの人生をかけがえのないものとして受け止められ、後には永遠のからだとして迎え入れてくださいます。そのキリストの御業の中で、自分をも他者をも見る者とされたいと思います。そして、天の父の助けやご配慮を求めて、ともに希望に生きるのです。

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「礼拝⑮ 赦せない苦しみからの解放」マタイ18章21-35節

2017-03-19 14:41:50 | シリーズ礼拝

2017/3/19 「礼拝⑮ 赦せない苦しみからの解放」マタイ18章21-35節

 主の祈りの第四の願いは

「日毎の糧を今日もお与えください」

でした。それに続く「私たち」の願いの二つ目は

「私たちの負い目をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある人たちを赦しましたから」。

 日毎の糧と罪の赦し。これこそ私たちの必要であり願うべきことです。

1.無制限の赦し

 このマタイ十八章の「王としもべの例え」は、弟子ペテロの

「何度まで赦すべきでしょうか」

という質問をきっかけに語られた「赦し」についての教えです。このマタイの福音書では「赦し」という言葉が十八回も使われて、とても「赦し」を大事にしています[1]。「赦しの必要に気づいている」といったほうがいいかもしれません。マタイは、その六章で「主の祈り」を記していますが、その直後でも、今日の35節と同じ事を強く教えているのです。

マタイ六14もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。

15しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。

 「主の祈り」を教えられた最後にこう確認されます。第五の「赦し」の願いを、他の願いに勝ってもう一度取り上げられるのです。このように、マタイは「赦し」を丁寧に取り上げます。今日の十八章の例えが示しているように、私たちは「人を赦してやるなら何度までか」と考えがちです。しかし、それに対してイエスが語られるのは、そもそも私たち自身が赦されていること、それも膨大な負債を赦して戴いていることです。主の祈りでは「罪」を「負い目」(負債・借金)と呼んでいますが、この十八章の例えでも

「一万タラント」

の借りのあるしもべが出て来ます。一万タラントとは欄外にありますように、一日分の労賃一デナリの六千倍の一万倍です。つまり、二〇万年分の労賃という膨大な金額です。これほどの負債を、彼はどうやって作ったのでしょうか。そして、彼はどうやって返済するつもりなのでしょうか。しかし、その彼のため、王は心を深く深く痛めてくださいました。27節の

「かわいそうに思って」

は簡単な言葉ではなく「腸で感じる」という言葉です[2]。そういう深い深いあわれみをもって、このしもべの莫大な負債を免除してくれました。それなのに、彼は、自分に負債のある仲間を赦しませんでした。自分が赦してもらった借金の六〇万分の一でしかない額を赦してやりませんでした。それを知った王は、彼を呼びつけて、怒り、投獄したという話です。

 ここで大事なのは、王が先に彼を憐れんで巨額の負債を赦されたことです。王は「お前が仲間を赦したら、私も赦してやろう」とは言われません。まず王が、測り知れない慈悲を垂れて、返せもしない負債を返しますといって憚らないしもべさえ憐れんで下さったのです。その驚くべき赦しに対する応答は、自分もまた同じように人を赦す、という形以外にないのです。

2.「赦せませんが、赦してください」はダメ?

 主の祈りを祈りながらも、こう考えていることはないでしょうか。「『我らに罪を冒す者を』私たちが赦し切れていないなら、神が私の罪を赦されないのだろうか」[3]。もっとすっぱりと

「私たちに負い目のある人を私たちは赦せませんけれども、私たちの負い目をお赦しください」

と祈るなら、どんなに楽か、と思ったりします[4]

 しかし、そうではないのです。イエスが求められたのは、私たちが赦されるだけではなく、赦されるからこそ人をも赦す生き方です。決して、私たちが人を赦したならそれに基づいて神も私たちを赦してくださる、ということではありません。まず神が私たちを圧倒的な愛で赦してくださったのです。そこには、私たちが赦すなら神も私たちを赦してくださる、という条件付きの保留はありませんでした。条件もなければ理由もない、全くもって不可解な、計りがたい赦しがありました。私たちもこのしもべも、同じように思いがけない新しい人生、赦された者としての新しい人生が与えられました。そしてその新しさは、神の憐れみに基づいています。莫大な負債さえ赦す、もっと莫大な愛をいただいたのです。だから、私たちも他者を赦すのです。他者に対して、冷たい心を捨てるのです。そうしないなら、私たちは自分が新しくされた土台を否定することになります。神は恩着せがましい方ではありません。この例えの、

33私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。

は、王の心外さ、悲しみ、叫びです。王は彼にも憐れみ深く生きて欲しかったのです。神は、私たちを赦すだけでなく、私たちが互いに赦し合うことを心から願うのです。

「我らに罪を犯す者を我らは赦せないけれど、我らの罪をば赦したまえ」

という祈りなんかではないのです。

 私も誤解しやすいのですが、赦しとは「不問に付す」「大目に見る」のとは違います。この十八章も直前の20節までで丁寧に、教会の中での「つまずき」の問題を扱っています。つまずきが起こるのは避けられない[5]。人間関係で大きなダメージが起きることは避けられない。それをイエスは丁寧に扱われ、15節以下で対処を論じられます。責め、報告し、公開し、祈るのです。何も対処をせず目を瞑り、放任するのが赦しではありません[6]。そうした現実的な対応のアプローチが示されるのです。その続きの21節以下で、その対処が七度までか、いや、七度の七十倍、つまり「限りなくせよ」と言われたのです。それは本人の回復を願うからです。

3.「罪人」ではなく「神の子」

 躓きが起こるのは避けられません。私たちも神に対して負い目を重ねずには生きられません。神からお預かりした命や時間や体を、本来の目的通り運用する事が出来ません。口や手、能力や特権を神の御名があがめられるためではなく、御心を行うためでなく、悪用してしまうことが避けられない私たちの現実を神は十分にご存じです。そこで神が私たちに求められるのは何でしょう。失敗を繰り返さない努力でしょうか。ゴメンナサイと謝罪し、罪意識を抱えて生きることでしょうか。いいえ、神は私たちをご存じです[7]。その避けがたい現実に苛立つよりも、その私たちの「天にいます父」となってくださいました。イエスは主の祈りの最初に、罪を怒る神、返しきれない罪を責め、眉をひそめている王ではなく、

「天にいます私たちの父」

と呼ばせてくださいます。神は既に私たちの「父」となり、私たちを深く憐れみ、私たちにも神に愛された者として生きる新しい歩みを下さったのです[8]。神が私たちを赦されるのは、私たちを愛しておられるからです。そして、私たちの現実をどう変えていけば良いか、一緒に苦しみ、取り組み、助けてくださいます。躓きや罪が避けられない中で、今ある現実に対処しつつ、何度でも何度でも、回復や和解や癒やしに向かうことを願い、助けてくださる「父」なのです。

 「私たちの負い目をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある人たちを赦しました」。

 そう祈りなさいと言われた主のお言葉自体が、私たちに与えられた新しい生き方の証しです。主イエスは、赦しなさいと道徳を命じられ、赦さなければ赦されない、と捨て台詞を残されたのではありません。そして、神が人間の罪を丁寧に赦し、責めるよりも救いを下さることを何度も宣言されました。そして最後には、御自身が十字架に犯罪者として殺されることを通して、すべての負い目を代わって支払ってくださいました。[9]

 私たちにはまだ罪の性質はあります。躓きは避けられません。でも神は赦しのお方です。「罪人」とは私たちの性質や自覚であって、決して私たちのアイデンティティや肩書きではありません。私たちは神の子どもです。神の赦しを戴く者です。神の憐れみは膨大な借金よりも大きく、神の恵みの力は私たちのどんな失敗よりも強い。そして、十字架のキリストが下さる罪の赦しを信じる者です。福音は、私たちの罪を責めない以上のものです。それは私たちに自分の罪を認めさせて赦しを求めさせ、他の人を赦せない思いからも解放してくれます。

 赦しがたい問題があり、赦せない心がある私たちの現実に、この祈りは光を与えてくれています。

「主よ。私たちの負い目の赦しを願うのは、あなた様の測り知れない憐れみを信じるからです。その赦しの恵みを仰がせてくださり、人を赦せない思いや人を傷つける自分の姿にも気づかせてください。そうして自分を責め、あなたを冷たい神だと決めつける思い込みからも救い出してください。主イエスの下さった赦しとこの祈りにより、どうぞ私どもを新しくしてください」



[1] アフィエーミが十八回で、そのうち「赦す」と訳されているのは十八回です。他は、放っておく、置いておく、そのままにする、などの意味で使われています。「(罪の)赦し」に限らず、網や死人や雑草、を構わなくすることがアフィエーミです。二二22(イエスを残して立ち去った)が最も分かりやすいでしょう。罪を過去の変えられない出来事として、過去に置いておくことが「赦し」です。もし過去を何とかしよう、あるいはまだ捨てずに持っていたい、というなら、それは「赦し」を求めているとは言えませんし、そんな態度は神も赦しようがないでしょう。赦すとは、そのものから自由に生きることなのです。

[2] ギリシャ語「スプランクニゾマイ」。

[3] あるいは、文語では「我らが赦す如く」と言い、新改訳では「私たちも…赦しました」と言う、その微妙なニュアンスの違いで、自分たちの赦し方に基づいて、神の赦しも代わるのかどうか、でまた悩みそうになるかも知れません。この接続詞の訳は、日本語に訳すのが難しいのです。しかし、後述するように、全体的な「神の赦しと私たちの赦しとの対応」が分かれば、この訳語や関係で悩むことはないでしょう。「どこまで赦さなければならないのか」という問い自体、十八章21節以下でペテロが問い、イエスが覆された人間的な発想なのです。

[4] ここを読んで、「神の赦しは、私たちの赦しが十分でなければ、与えられないのだ」とは思わないでください。神は私たちを赦して、もう完全な救いに入れて下さるのです。しかし、それは私たちが人を赦さなくても自分だけは救ってもらえる、という「救い」ではありません。私たちが人への傲慢、自分を義とするプライド、他者の罪や過ちへの軽蔑、そして「そもそも自分が赦されたこと自体、大して自分には非がなかったからなのだ」と言わんばかりの思いから救われることが必要なのです。自分の失敗を隠し、胡麻菓子、言い訳し、他者に対して攻撃的である生き方そのものから救い出され、かぶっていた鎧を解くようになる救いへと、神は招かれるのです。

[5] マタイ十八7つまずきを与えるこの世はわざわいだ。つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ。

[6] 復讐は神に委ねる、ももう一つの柱。個人的に、感情的に、「正義」を果たそうとしてはならないことの自戒です。「復讐をしない」という意味での赦しは、「復讐は神の正義に委ねる」という意味です。神は人の復讐心を怒られると言うより、「わたしに委ねなさい」と引き受けてくださるのです。

[7] 私たちが一方で「まだ神は怒っておられるのではないか」とビクビク考え、他方で自分が赦されたことを忘れて他人の失敗を怒っている、そういう生き方そのものを憐れんでおられます。なぜなら、神は「天にいます私たちの父」だからです。

[8] イエスが世界に差し出されたのは、神が裁くお方である以上に赦しの神、回復の神、和解と平和を創り出す大いなる神であるという福音でした。私たちはその赦しに自らを差し出します。決して、神の怒りを恐れて、その宥めをビクビクと求め、キリストの慈悲に縋って赦しにあずかるためではなく、神の大いなる愛とあわれみのゆえに、差し出された赦しと救いをいただくのです。そして、その赦しをいただいた者として、私たちが他者を赦す時、私たちはイエスが始められた大いなる赦しの宣言に加えられるのです。

[9] そして、三日目に復活されて、弟子達に現れた時、その赦しや身代わりを恩着せがましく語られはしませんでした。むしろ、神の子どもとする聖霊を与えてくださったのです。

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