2017/6/4 ハ信仰問答71「洗礼に込められた約束」マルコ16章15~18節
洗礼についてお話ししていますが、繰り返して、イエス・キリストの血とその聖霊とによって私たちが確実に洗って戴けることを確認しています。洗礼は、その印であり封印です。今日の問71では改めて、これが本当にキリストの約束であると答えています。
問71 わたしたちが洗礼の水によるのと同じく、この方の血と霊とによって確実に洗っていただけるということを、キリストはどこで約束なさいましたか。
答 洗礼の制定の箇所に次のように記されています。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」、「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」。この約束は、聖書が洗礼を「新たに造りかえる洗い」とか「罪の洗い清め」と呼んでいる箇所でも繰り返されています。
ここには、マタイ28章18節、マルコ16章16節、テトス3章15節、「使徒の働き」22章16節の四つの御言葉が挙げられています。教会の教えは聖書の言葉に基づいて、聖書のハッキリとした教えに基づいて組み立てられるものです。くどくなるので毎回全部は引用しませんけれども、聖書の教えを土台として、丁寧に教えられるものです。その事を今日の所で改めて明らかにしてくれるのは、とても有り難いことです。
ただこの問71は、次の72、73に繋がります。聖書の言葉を字面だけ取り上げて、洗礼そのものに力や魔力があるような問題です。それはまた来週話します。今日はマルコの言葉に集中します。
「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びます」。
この言葉を読んでどう思うでしょう。
「信じて洗礼を受ければ救われるけれど、信じなければ滅びるなんてひどいなぁ。そんな脅しなんか真っ平だ」
と思うかもしれません。それはとても自然なことです。イエスは、「信じなければ滅びを宣告するぞ、と脅して信仰を持たせよ」と仰ったのでしょうか。そんなことではないと思います。むしろ、イエスは脅したり、強制したり、なさらず、ご自分に背く人々の所に来て、友となってくださいました。誰に対しても分け隔てなく近寄られ、神の恵みを示してくださいました。力や恐怖で支配する国家とは根本的に違う、神の国を明らかにしてくださったのです。
イエスが語られた「神の国の福音」は驚くべきものでした。当時の考えでは、「神の国」は、神に選ばれたユダヤ人たちだけのもの、自分たちは神の国に入り、永遠のいのちをいただけるが、ユダヤ人以外の人々、これをまとめて「異邦人」と呼び、異邦人は生まれつき呪われている、と考えていたのです。こういう考えですとどうでしょう。
ユダヤ人は、イエスの福音を信じても信じなくても救われます。逆に、異邦人は信じて洗礼を受けても救われないし、信じなければやっぱり救われません。洗礼を受けてもダメです。割礼というそれはそれは痛い儀式をしてユダヤ人にならなければいけない。こういう考え方は、教会の中にも根強くあったと「使徒の働き」には書かれています。けれども、イエスはこうは仰いませんでした。もう一つ、洗礼そのものに力があるという誤解もあるでしょう。ユダヤ人だろうと異邦人だろうと、洗礼を受ければ、信じていなくても救われる、という考え方です。これもイエスの言葉とは違います。
イエスが仰ったのは、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、信じて洗礼を受けるなら、それだけで救われる、という約束でした。なのに「自分は選民だ、ユダヤ人だ、異邦人とは違うのだ、自分も洗礼を受けなければならないとか、異邦人と変わらないなんて屈辱だ、そんな教えは信じられるものか」というならば、神の国を否定するのです。そうしてそんな思い上がった選択は滅びを宣告される、というのです。「私はユダヤ人だ。イエスの福音がどんなにすばらしくても、自分はそんなものを信じなくても、特別扱いしてもらえるのだ」。そういう考え方は出来ない、とイエスは仰います。ユダヤ人だけでなく、異邦人も、お金持ちも、有名人も「自分は特別だ、自分は他の人とは違う」と頑張っても、イエスを信じて洗礼を受けるかどうか、という福音の前では平等です。犯罪者、貧乏人、その他どんな人も、イエスの前には例外扱いや特別に免責されることなどはないのです。男女も民族も身分も関係なく、イエスはすべての人をお招きになります。それは、驚くべき福音でした。驚くべき、広く、力強い招きでした。
でもここで当然
「信じても洗礼を受けなければダメなのか?」
という疑問が出て来るでしょう。イエスを信じて、洗礼を受けなかった人はダメなのでしょうか。現実にそういう場合はありますね。洗礼を受けたくても受けられない場合はあるでしょう。でもイエスはここで洗礼を条件として仰っているのではありません。むしろ、
「信じて洗礼を受ける」
ということをとてもスムーズにお語りになっています。信じても洗礼を受けない、ということは想定もしないような、無邪気な言い方ですね。ここに大事なポイントがあるのではないでしょうか。信じる、とは私たちの「同意」ではありません。私たちが信仰を選んだり共感したりするという以前に、イエスが私たちに下さる「招き」です。
私たちが、私たちをお造りくださった神に立ち帰り、神の子どもとして生きるという救いに与るために、イエスはご自身を十字架にお捧げになりました。私たちにはそれに相応しい資格などありませんでした。生まれや民族がどうであろうと、どんな立派な生き方をしていようと、胸を張れる人はいません。私たちの中に染みついた罪や闇、神に対する疑いや冒涜は、神のあわれみがなければ、救いようがないものです。それをイエスは憐れんで下さり、ご自身がこの地上に人間となっておいでになり、十字架の死にまでご自身を与えてくださいました。イエスが十字架で血を流してくださったことで、私たちは罪を洗われ、新しい命を頂けるのです。救いも信仰も洗礼もイエスが差し出されるのです。信仰も洗礼も、私たちのオプションではなく、イエスからの恵みなのです。
そのイエスの招きを、私たちは受け取るだけです。そのために私たちがするのは、信じて、洗礼を受けるだけです。その洗礼によって、イエスは、本当に私たちがイエスの血によって清められ、聖霊によって新しいいのちを戴いた約束を、体で味わわせ、確証させてくださるのです。イエスは信じて洗礼を受ければ、と素朴に仰いました。そこに、私たちも、理屈をこねるよりももっと素直になって、洗礼を確かな救いのしるしとして頂けばよいのです。洗礼と聖餐というしるしがあるから、教会は今も、イエスの確かな約束に経つことが出来ます。私たちは主の恵みを味わいながら、ここから出て行けます。