2017/6/11 ハ信仰問答72「神の遊び」使徒22章3~16節
夕拝でテキストにしている「ハイデルベルグ信仰問答」では、今、洗礼についての箇所が続いています。
洗礼というのはただの儀式ではなくて、そこにキリスト教信仰のエッセンスがこめられています。また、その洗礼を行う事が、私たちにそのキリスト教信仰をハッキリと教えて、確信させてくれることを、改めて教えられています。前回は問71で、イエス・キリスト御自身が洗礼を命じられたことを、聖書の箇所を取り上げて確認しました。そして二つの箇所では洗礼を「新たに造りかえる洗い」とか「罪の洗い清め」と呼んでいることを取り上げました。それに続いて、今日の問72は、
問72 それでは、外的な水の洗いは罪の清めそのものなのですか。
答 いいえ。ただイエス・キリストの血と聖霊のみがわたしたちをすべての罪から清めてくださるのです。
当時も今も、洗礼の儀式への迷信はあります。洗礼が罪の清めそのものの力がある、という誤解はあります。洗礼の水に特別な力があると考えて、「聖水」と呼ぶ教会もあります。ここではそのような誤解を丁寧に、入念に退けます。
「洗礼ではなく、ただイエス・キリストの血と聖霊のみがわたしたちをすべての罪から清めてくださる」
と言います。洗礼という儀式や、水に力があるのではないのです。
問73 それではなぜ、聖霊は洗礼を「新たに造りかえる洗い」とか「罪の洗い清め」と呼んでおられるのですか。
答 神は何の理由もなくそう語っておられるのではありません。すなわち、ちょうど体の汚れが水によって除き去られるように、わたしたちの罪が、キリストの血と霊とによって除き去られるということを、この方はわたしたちに教えようとしておられるのです。そればかりか、わたしたちが現実の水で洗われるように、わたしたちの罪から霊的に洗われることもまた現実であるということを、神はこの真正な担保としるしとを通してわたしたちに確信させようとしておられるのです。
キリストの血と霊とによって罪が除き去られることを、水の洗いの儀式でハッキリと示してくれるのが洗礼なのです。洗礼に効力があるのではなく、キリストに効力があることをハッキリ教えてくれるのが洗礼だ。ここを勘違いしないようにしましょう、というのです。この答は、同じ事を二回繰り返しているように思えますね。しかしこういう事でしょう。
「罪が除き去られる」
は、私たちの罪がキリストによって除き去られ、もう神の前に断罪されることがないこと。つまり、罪の赦しと義認です。キリストの血と聖霊のお働きは、私たちの罪を解決してくれました。神様に対する罪のとがめをイエスが十字架ですべて引き受けて下さったので、私たちが「罪人」という立場ではなく、赦された立場になった、ということです。まだまだ問題を抱えて、罪を犯すとしても、神は私たちを受け入れ、神の子どもとして扱ってくださる事実は代わりません。しかし、それだけではありません。後半の
「霊的に洗われる…現実」
は、私たちが現実に霊的に罪から洗われていくこと、聖化です。現実に私たちが罪から聖められ、考えや生き方が変えられていくのです。立派な聖人君子になるわけではありません。むしろ、そういう背伸びや「こうでなくちゃ」という思い込みから解放されて、もっと自由に、幼子のようになるのです。自分の失敗や苦しみや喜びを通して、神の恵みを体験して、神に対しても人に対しても、ますます素直になっていくことです。余計な気負いや装いも、洗い流されていくのです。そういう意味で「聖化」されていくのです。洗礼は、こういうイエスの血と聖霊との洗いを、私たちにハッキリと示し、確証させてくれます。
もし洗礼の儀式や水そのものに何か特別な力があるのなら、儀式さえ受ければ、自動的に罪が赦されたり、心が清くなったり。簡単でしょうが、とてもつまらないし、人間くささがなくなってしまう気がします。こんな詩があります。
「勇気のカンヅメを買ってきた 長いあいだおいてあったが 意気消沈したぼくは ついにそれをあけてみた あけたけれどなにもなかった カンの底にはなにかかいてある ボクニタヨルナ!ヨワムシ!」
私の好きな詩の一つです。人間は、勇気の缶詰とか、頭が良くなる薬とか、過去をやり直せる機械とか、色々な道具に憧れます。洗礼の迷信化は、そういう人間の考える傾向の「氷山の一角」に過ぎません。これは聖書の最初、エデンの園で神様が食べてはいけないと置かれた「善悪を知る木」でも始まっていました。神は、その木を
「食べてはならない」
ことを約束されただけなのに、蛇は
「その木の実を食べたら目が開けて神のようになる」
魔法の木だと変えてしまいました。それ以来、神様とは別に、そのものそれ自体に特別な力があるような考えは人の中に入っています。洗礼の水だけではありません。聖餐のパンや杯もです。ある人は、聖書を拝みます。聖書は神様からの特別な本ですから、大事に読んで下さいねと牧師が進めたら、次に訪問した時には、神棚に聖書が置いてあった、という話も聞いたことがあります。また、ここでイエスの血と聖霊が、とありますが、イエスの流された本当の血に特別な力があると考える人もいます。イエスの血に触れたら病気が治るとか、イエスを包んでいた布を拝めば祈りが聞かれるとか、そういう伝説も人間は好きです。しかし、イエスの「血」とはイエスが死なれ、命を与えてくださったことを指すのであって、「血」という液体のことではないのです。
イエスの血や、洗礼という儀式に力があるのではありません。イエスが死なれ、聖霊によってそのきよめを私たちに確かに届けてくださるのです。そして、私たちを生涯かけて、聖くしてくださいます。私たちはそれでは足りないように感じて、何かに縋りたくなるかもしれません。あるいは、何か汚れたものに触れたり、ひどい体験をしたり、自分の中にある汚らわしい考えなどに、自分はきよめようがない汚れたものだとしか思えないこともあります。イエスはそのような私たちのために、ご自分が来て、十字架で聖い命を捧げてくださいました。どんな儀式や魔法や科学でも解決できない人間の心の深い汚れを、神の子であるイエスは引き受けて洗ってくださり、私たちと生涯ともに歩んでくださるのです。私たちを既に、聖いものと見て下さっています。そして、これからも何があろうと、どんな出来事や迷信や問題で私たちが自分を嫌おうとも、イエスは決して私たちから離れることなく、私たちを愛し、愛おしみ、ともに歩み、支えてくださると約束されました。洗礼はそのイエスの、私たちに対する約束のしるしです。