2018/1/14 ハ信仰問答108-9「体も魂も神の輝き」Ⅰコリント六15-20
今日は十誡の第七戒
「姦淫してはならない」
でお話しします。まずは問答を読みます。
問108 第七戒は何を求めていますか。
答 すべてみだらなことは神に呪われるということ、それゆえ、わたしたちはそれを心から憎み、神聖な結婚生活においてもそれ以外の場合においても純潔で慎み深く生きるべきである、ということです。
ここで覚えて欲しいのは、
「神聖な結婚生活」
という言葉です。聖書では結婚生活は神聖なものだと教えられています。男性と女性とが一緒に生活をし、当然セックスもし、愛し合うことを神聖なものだと考えます。決して、結婚をせず生涯独身を貫き、童貞や処女でいる方が聖いとは考えません。性欲は汚らわしく蓋をすべき欲求だとは言わず、神から与えられた聖なる欲求です。そうです、
「姦淫してはならない」
とは性について考えずにはおれない人間を断罪する高尚な戒めではありません。むしろ、神から与えられた神聖な男性性、女性性を大切にしなさい、という希望です。結婚や、そこでの夫婦生活という、生々しい人間の営みを、汚れたもの、煩わしいものと否定するどころか、それこそ神聖な生活だ、なかなか自制できない、自分でも持て余すようなものだとしても、聖書は人が性的な存在である事が、神聖であるというのです。
問109 神はこの戒めで、姦淫とそのような汚らわしいこと以外は禁じておられないのですか。
答 わたしたちの体と魂とは共に聖霊の宮です。ですから、この方はわたしたちがそれら二つを清く聖なるものとして保つことを望んでおられます。それゆえ、あらゆるみだらな行い、素振り、言葉、思い、欲望、またおよそ人をそれらに誘うおそれのある事柄を禁じておられるのです。
ここでもそうです。私たちの体と魂とは、ともに聖霊の宮だと言います。私たちの体も魂も聖霊の宮だ。ある人は自分の体に住んでいるのは沢山の疚(やま)しい思いだと言うでしょう。理由はどうあれ、自分はもう処女や童貞ではない、という方もいるでしょう。実際聖書には、娼婦や男娼であった人も教会の中にはいたようです。しかし、そのような過去があったとしても、或いはまたそんな間違いを犯したとしても、神は私たちの体をご自分の宮として住んでいてくださいます。これは先のⅠコリントの言葉の通りです。そこでは遊女(売春婦)と関係を持つことについての注意でした。その中で、
Ⅰコリント六18淫らな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、淫らなことを行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。
19あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。
20あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。
何も考えずに遊女と通じていた人に「淫らなあなたがたはもう聖霊の宮ではない」とは言いません。
「あなたがたのからだは神から受けた聖霊の宮だ。その自分の体をもって神の栄光を現しなさい。体も魂も、神の栄光を輝かせるものだ」
というのです。だからこそ、私たちは自分の身体を清く聖なるものとして保つのです。自分は汚れた妄想で一杯だ、取り返しのつかない間違いをしたからもうダメだ、と自分を低く見積もってはなりません。私たちがどんなに沢山の間違いを犯したとしても、神は私たちを愛し、憐れみ、尊んでくださいます。神は私たちの体も心も、尊んでくださっているのです。
勿論、だから姦淫してもよいのだ、ではありません。神から預かったこの体や魂を私たちは大切にするよう任されています。そして、そのように考えて生きる事が、やはり自分を守るのです。「自分は自分のもの、好き勝手に生きて何が悪い」、そのように生きて、男女関係を持ったり、自由気ままに生きたりした結果、結局、後悔するようなことになるでしょう。病気になったり、自分の身体が安っぽく思えたりします。予期せぬ妊娠で、人生が今まで以上に自由がなくなるかもしれませんし、中絶をしても心に深い傷を残すことになります。また、自分が結婚する相手が、沢山の女性経験があっても気にならないでしょうか。喧嘩をした時やちょっと離れて暮らした時にも浮気をしたくなるかもしれないのも自然だと思えるでしょうか。相手に愛人がいた、実は別の男性と関係を持っていた、と知ったら、私たちはどんなに傷つき、心が壊れるような悲しい思いをするでしょうか。現代、子どもたちが親の裏切りや破綻でどれほど傷ついているでしょうか。
「浮気や不倫は姦淫だ、結婚を大事にして貞潔を守る」。そういう人の方が、魅力を感じないでしょうか。ロマンスや恋愛感情よりも、結婚という関係を、大事に育てていくとき、恋愛よりももっと深く、安心できる本当の愛、すばらしい関係を育てていけるのです。お互いに、熱しやすく冷めやすい感情ではなく、結婚を神の定めた神聖な関係だとして重んじ合う、そういう関係に守られていくのです。そうです、私たちが「姦淫してはならない」という窮屈な戒めを守るのではありません。
「姦淫してはならない」
というシンプルな戒めによって私たちが守ってもらうのです。
「愛情が結婚を支えるのではない。結婚が愛を支えるのだ」
私が若い頃に聴いて心に刻んでいる言葉です。神は「姦淫をしてはならない」と命じて、私たちを守ってくださいます。神が私の結婚をも重んじられ、破ってはならないと見てくださるのです。だからこそ、聖書には相手の姦淫や、結婚の遺棄、頑固さのゆえにはあなたを守るために、離婚を容認することもあるとされています。また、聖書には、沢山の人が姦淫を犯した悲しい話が出て来ます。そして、その人の悔い改めと回復を主は導いてくださいます。また、姦淫から始まった関係からダビデ王朝は継承されます。やがてその末にイエス・キリストがお生まれになりました。そうです、イエスは姦淫の家に、恥じることなく来てくださいました。それゆえ私たちも、教会で姦淫や離婚、未婚の母、風俗店で働いていた人も、分け隔てなく友となり、その回復を支えていきたいと思います。結婚で苦しみ、家庭の問題で傷ついたトラウマに正直に向き合いたい。引いては、同性愛のカミングアウトや性的マイノリティの思いも、受け止めていく教会でありたいと思います。
違う人格が一緒に生きるのは簡単ではない祝福です。聖書には沢山の具体的な男女の事例があります。結婚や独身についての沢山の良書もあります。そうしたものも読んだり分かち合ったりしながら、神が下さった尊い自分の性を祝い、輝かせていきましょう。