聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問110-111「搾取から感謝へ」Ⅰテモテ六6-12

2018-01-28 20:28:36 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/1/28 ハ信仰問答110-111「搾取から感謝へ」Ⅰテモテ六6-12 

 盗みと聴けば何が思い浮かぶでしょう。泥棒、万引き、スリ、強盗。人の物を不正な方法で自分のものにしてしまうこと。ハイデルベルグ信仰問答では、こう言います。

問110 第八戒で神は何を禁じておられますか。答 神は為政者が罰するような盗みや略奪を禁じておられるのみならず、暴力によって、または不正な重り・物差し・升・貨幣・利息のような合法的な見せかけによって、あるいは神に禁じられている何らかの手段によって、わたしたちが自分の隣人の財産を自らのものにしようとするあらゆる悪しき行為また企てをも、盗みと呼ばれるのです。さらに、あらゆる貪欲や神の賜物の不必要な浪費も禁じておられます。

 聖書の書かれた十誡は、紀元前千五百年ほどの昔のものです。それから新約の時代になり、更に千五百年した頃書かれたハイデルベルグ信仰問答の時代には、もっと盗む方法は巧妙で複雑になっていたことがうかがえます。

「合法的な見せかけ」

と言います。それから更に五百年経つ私たちの時代、その三千年分以上に社会が変わりました。産業革命や技術革命を経て、銀行や企業、インターネット。お金のやり取りはとてつもなく変わりました。そして、盗み方、騙し方も変わりました。電話での詐欺や、誇大広告での勧誘、悪徳な契約を結ばされて、たくさんむしり取られて泣き寝入りせざるを得ない、という場合もあるでしょう。そうしたものはギリギリ犯罪ではないから、

「盗んではならない」

を破ったことにはならない、とは言えません。そうしたものもやっぱり盗みです。そして、ハイデルベルグ信仰問答はもっと踏み込んだことを言います。

問111 それでは、この戒めで神は何を命じておられるのですか。

答 わたしが、自分にでき、またはしてもよい範囲内で、わたしの隣人の利益を促進し、わたしが人からしてもらいたいと願っていることをその人に対しても行い、わたしが、困窮の中にいる貧しい人々を助けられるように誠実に働くことです。

 盗まなければいいのではない。隣人の利益を促進すること、自分がしてほしいことを人にすること、貧しくて困っている人々を助けるために誠実に働くことと言うのです。盗みや巧妙な盗みはせず、真面目にコツコツと自分のためにお金を貯める。そんなことはクリスマスキャロルのスクルージだって出来ます。そうしたがめつい生き方から、180度回れ右をして、人と分かち合い、助け合い、誠実に働くことだ、というのです。

 実はこの「盗んではならない」は

「あなたの隣人を盗んではならない」

という言い方です。隣人から盗むより、隣人を盗む、つまり奴隷にしてはならない、なのです。奴隷なんて今の私たちには全く馴染みがありませんが、世界の歴史には、借金のかたに、一時的に奉公人となって労働で返済をすることは社会的な仕組みでした。でもそれを、無理矢理してはいけません。誰かを騙したり強制的に奴隷にしたりするならそれは人を盗むことです。それは許されないのです。人は決して誰かのための道具ではありません。心がある人格的な存在である人間は、誰のための道具・手段にしてもならないのです。奴隷としなくても、人を利用することも同じです。友だちを「お金がある」「人気者だから」あやかろうと選んだり、結婚の相手をその財産や玉の輿目当てで決めたり、自分の損得のために人を操ろうとするのは、その人を盗むことです。逆に私たちに近づいて来る人が、私たちに利用価値があるから、何か下心があってだとしたら、とても悲しい思いがするでしょう。人と人との関係が、損得のためであるなら台無しです。逆に言えば、私たちは誰もが、誰かの手段や奴隷になってはならない、大事な存在なのです。

 「自分がしてほしいことを人にする」

を誤解して、自分を押し殺して、誰かの言われるままに生きる人がいます。自分の境界線の内側に踏み込ませるのが愛だという誤解は少なくありません。人を怒らせたりガッカリさせたりしないよう生きるべきだと考える人もいます。思い出してください。私たちは誰の奴隷とされてもならない存在です。自分を盗ませないよう守ることは神からの大事な戒めです。人のご機嫌を取る必要はありません。誰の奴隷にもならず、境界線を守りましょう。物なしでもよい、パワーゲームでない、心と心の関係を造りましょう。誰かが幸せでないのは自分のせいだと責任を感じる必要はありません。あなたが誰かの幸せの手段になることはあり得ないのです。

 奴隷にしても泥棒や詐欺にしても、人も自分も同じように大事な人格と見ていれば出来ません。自分の幸せはお金や物次第だ、だから人の物でも盗んででも欲しい、誰かを奴隷にしたり言いように使ったりして、手に入れよう。物がなければ幸せじゃない、思い通りになってくれる誰かがいたら幸せになれる。そういう人間味のない考えです。それでお金持ちになり、沢山の財産を持ったり、強く豊かな国家になったりすると一見、とても豊かで幸せそうです。しかし聖書はそこに付きまとう危険を見抜きます。

Ⅰテモテ六6しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。

私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。

衣食があれば、それで満足すべきです。

金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠と、また人を滅びと破滅に沈める、愚かで有害な多くの欲望に陥ります。

10金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。

11しかし、神の人よ。あなたはこれらのことを避け、義と敬虔と信仰、愛と忍耐と柔和を追い求めなさい。

 物を欲しがる生き方は、人を益するどころかますます欲望に陥らせ、心を喘がせます。人の幸いは神にあります。神は私たちに命を豊かにお恵みくださいます。また私たちが、働いて、互いに分かち合い生かし合い、ともに歩み、でも決してお互いの奴隷や偶像にはならない、境界線のある関係を通して、私たちを満ち足らせてくださいます。主イエスはそのような生き方を示されました。そしてそのために十字架の死にまでご自分を与えられて、人としての貴い生き方、神に愛されている子としての歩みに迎え入れてくださいました。ですから、どうにかして自分の懐を肥やそうとする生き方から、ともに生かし合う歩みを選んでいくのです。

「盗んではならない」

は、私たちの命がキリストにあって豊かに養われて、生き生きと満たされていく歩みを思い出させてくれます。そしてそんな豊かな関係こそ盗みに目が眩む価値観への最強のチャレンジでもあるのです。

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コロサイ書1章1-12節「キリストにすべての宝が 一書説教コロサイ人への手紙」

2018-01-28 20:24:24 | 一書説教

2018/1/28 コロサイ書1章1-12節「キリストにすべての宝が 一書説教コロサイ人への手紙」

 毎月最後の週は一書説教です。「みことばの光」聖書通読表からコロサイ書を取り上げます。

1.まだ見ぬコロサイの教会へ

 このコロサイ人への手紙は、パウロが書いた教会宛の手紙の一つです。パウロがこの比較的短い手紙を、コロサイという小都市に生まれた教会に宛てて書いたことは一章の最初の部分からも分かります。一方、この手紙の最後、四章18節にはこう書かれています。

四18私パウロが自分の手であいさつを記します。私が牢につながれていることを覚えていてください。どうか、恵みがあなたがたとともにありますように。

 パウロはこの時、牢屋に囚人となっていました。福音宣教に反対する人々に訴えられて、未決囚として投獄されていました。不自由で思うままにならない生活だったでしょう。そうした中でパウロが書いた手紙は「獄中書簡」と呼ばれ、四つあります。その一つがコロサイ書です。パウロは二度投獄されていますが、最初の投獄で、紀元五七年頃書かれたというのが伝統的な立場です。先週の「使徒の働き」一五章のエルサレム会議からは二十年近く後です。既に三度の伝道旅行で、パレスチナから現在のシリア、トルコ、ギリシアの都市で伝道をして教会を建て、弟子たちを育ててきたパウロの、晩年の手紙と言えます。このコロサイ教会はパウロが開拓した教会ではありませんでした。他のコリント、ガラテヤ、エペソなどはパウロが開拓して育てた教会への手紙でした。しかしコロサイの町はまだ訪れたことがなく、その弟子たちにも逢ったことがない、そういう教会に対してパウロが認(したた)めた、珍しい手紙です。

 コロサイの近くにはラオディキアやヒエラポリスといった大都市がありましたが、コロサイは交通の要衝でもなく、産業も発展していない、あまり重要でない小都市でした。書簡執筆後のまもなく、紀元六十年には大地震で壊滅的な被害を受けます。その後、この町が自力で復興して他の町を助けたのか、もう歴史から姿を消してしまったのか、また教会がどうなったのかは諸説あって不明です。いずれにしても、今読んでいるこのコロサイ人への手紙そのものが、社会的には吹けば飛んで消えそうな小さな町の教会への手紙であり、そういう小さな教会に、縁の薄いパウロが、しかし心を込めて書いた手紙。それが今私たちに伝えられているのです。

 パウロが手紙を書いた理由は、二章8節にある

「あの空しいだましごとの哲学」

でしょう。コロサイ教会に異端的な教えが入ってきて、弟子たちの信仰が混乱したためでした。現代でも「ものみの塔」「モルモン教」「統一教会」や最近では「全能神」「摂理」といった団体がキリスト教を装って活動しています。こうした教えが教会に入り込むことはパウロの時代から今に至るまであります。そうした間違った教えの悪い影響をパウロは決して侮りませんでした。

2.知恵がありそうだが

コロサイ二6このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。キリストのうちに根ざし、建てられ、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい。あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるものであり、キリストによるものではありません。キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。

 キリストにあって歩むのでなく、キリストだけでは足りないと不安を煽るのが

「空しいだましごとの哲学」

でした。16節には

「食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月や安息日のこと」

18節「自己卑下や御使い礼拝を喜んでいる…自分が見た幻に拠り頼み」

21節「「つかむな、味わうな、さわるな」といった定め」

といった警告が出て来ます。あれを食べるな、こういう儀式を守れ、自分はこういう幻を見た、幻を見ていないあなたがたより自分の方が分かっている。そういう理屈を押しつけてきたのです。23節が爽快です。

23これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。

 言い得て妙です。人間が好むような礼拝や肉体の苦行のゆえに知恵がありそうに見える、というのです。「私たちはまだまだダメだ。苦行や努力が必要だ」と自己卑下するのでしょうか。そういう卑下は人の心に潜む不安や自信のなさに訴えて賢そうです。けれどもパウロは、そうした人心に訴えるような宗教は、何の価値もなく、肉を満足させるだけだと一刀両断です。そう言い切る根拠は何でしょうか。それこそ、このコロサイ書の特徴である壮大なキリスト理解です。あまりに壮大すぎて、分かり難い印象もあるコロサイ書ですが、キリストの偉大さ、素晴らしさ、十分な恵みを丹念に書いて歌い上げるからこそ、人間好みの苦行とか自己卑下などが、実は空しく、的外れだと気づけるのです。だからパウロは一章で、キリストが神であり、すべてを造られ、成り立たせ、私たちに罪の赦しも、万物との和解も与えてくださったことから書き始めるのです。世界の王であるキリストがどれほど大きな方で、私たちを暗闇の力から救い出してくださって、今も私たちに働いておられ、やがては神の前に立たせてくださる。それを知れば、それじゃ足りないとは言えません。苦行や禁欲や規則がどんなに謙虚そうで賢そうで実感あるとしても、キリストから離れて行く、間違った、悲しい教えだと分かるのです。

3.キリストこそすべて

 パウロはキリストの満ち満ちている恵みを語ります。

二3このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されている

と言って間違った教えを退けます。しかしそれだけではありません。三章はもっと積極的に新しい生き方を勧めます。キリストで十分。だからこそ、神の前に相応しい生き方を励まします。

8節「…怒り、憤り、悪意、ののしり、…恥ずべきことばを捨てなさい。互いに偽りを言ってはいけません。」

 11節で、ギリシア人、ユダヤ人、民族の違いも奴隷も自由人もない、キリストにあって

「一つのからだ」

なのです。12節以下で、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容、忍耐、赦し、愛といった美徳を勧めます。妻と夫、親子、職場の関係が語られます。キリストを知ることはとても実践的な勧めに結びつくのです。

 コロサイ教会に入り込んでいた教えにはそういう実践的な発想はなかったのでしょうか。自分のために苦行や禁欲的な生き方や学びに励まなければならないなら、それは人を思いやり、互いに生かし合うことには繋がりません。家族の中でさえ、不安や自己卑下で良い関係は始まりません。その反対に、キリストの十分な恵みは、神との関係だけでなく、互いの関係にも力をくれます。世界を造られた神の子キリストが私たちのために十分なことをしてくださり、私たちがそのキリストの力をいただいて、もう民族も身分も越えて一つとされている。この恵みが、私たちに互いを受け入れ合わせ、ともに生かしてくれます。怒りや憤りや悪意の言葉から自由になれます。裁き合わずに愛し合って、家庭や社会を育てるため、自分の出来る小さなことをしていけるのだと思います。それが最初の一章9-10節で祈っていたことなのです。

 このキリストから引き離そう、言葉巧みに、聖書を引用さえして惑わせる教えは繰り返してあります。それはとても深刻な被害を与えます。聖書全体から学んで、キリストの恵みの教理を知ることはとても大事です。それで頭でっかちになるのでなく、自分も含めた世界を見る目が明るくされるためです。間違った教えで戸惑い、自己卑下に押し潰されたり、牢に投げ込まれることさえあっても、そういう歩みでもキリストの素晴らしさを知ることが生きる力になるのです。自分も他の人も主の大きな愛の中に見て、一生懸命生きることが出来るのです。コロサイ書は、キリストの壮大な栄光と、それに相応しい尊い生き方を私たちに教えてくれます。

「世界の造り主、万物の支配者、十字架による平和の主、イエスよ。私たちはあなたの偉大さを計り知ることが出来ません。しかし、私たちの無知や誤解よりも大きく、あなたの平和の計画は進んでおり、私たちのうちに、私たちを通して、あなたが働き続けてください。あなたを小さくし歪める間違った教えから救い出して、あなたを知る幸いを豊かに味わわせてください」

 

 

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