聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2018/10/21 はじめての教理問答47~48 Ⅱコリント5章14~21節「私の代わりのキリスト」

2018-10-27 11:36:25 | はじめての教理問答

2018/10/21 Ⅱコリント5章14~21節「私の代わりのキリスト」はじめての教理問答47~48

 世界の宗教は、どれもが「何かをしなくては救われない」と教えているそうです。良い行いをしなければならないとか、儀式を守ったり、献金をしたり、何かしらの義務が救いのための条件として要求されるはずです。キリスト教は、ユニークなことに、私たちの行いに依らず、キリストによって救われる、と言います。これが

「恵みの契約」

です。それでもクリスチャンや牧師の中にも、何かをしなければならない、という考えがあります。私たちの中には、自分が何かをしなければ、神様に受け入れてもらう資格はない、という考えが染みついています。ですから、私たちは、自分の行いによって救われるのではなく、キリストが救って下さる、という「恵みの契約」を何度も何度も確認することがとても大事なのです。今日はこのことをもう一度確認しましょう。

問47 めぐみの契約において、キリストはだれの代表となりましたか?

答 キリストに選ばれたものの代表となられました。

問48 キリストはどのようにして、めぐみの契約を完成しましたか?

答 キリストは、ご自身の選ばれたもののために、すべての律法に従い、かれらの罪にふさわしい罰を受けました。

 先に「いのちの契約」をお話ししましたが、最初の人アダムに与えられた、神に従う契約をアダムは破ってしまいました。それは、アダム一人の違反ではなく、全人類の代表としてアダムが行動した違反でしたから、アダムとともに全人類が神に罪を犯したと見なされました。ところが、今度は「恵みの契約」はキリストが私たちの代表となってくださった、というのですね。神の子キリスト・イエスが、ご自身で選んだ者たちのために、代表となって、すべての律法に従ってくださいました。また、選ばれた者たちの罪に対して相応な罰を、受けてくださいました。

 ここには、キリストが「恵みの契約」においてなさったことが二つの面で分かります。一つは、すべての律法に従ってくださったことです。アダムとエバは神の律法を破りました。その後の人間は、私たちも含めて、律法を守れません。それは神の律法を守ることが難しくなった、というよりも、人間の心が、神への信頼や賛美よりも、自分への不安や自己充実とかプライドを追い求めるようになってしまっているからです。いずれにせよ、人間は神の律法を守ることが出来なくなっています。それは、神に対する罪ですから、神との関係を損なった罰が伴います。また、その関係を損なった償いが必要です。キリストは、十字架にかかって、その罰を受けて、私たちの罪の償いをしてくださいました。神との関係を損ねた結果の痛みを、神の子イエスが、すべて十字架の上で味わってくださったのです。キリストは、神に対する罪にふさわしい、神との断絶という罰を十字架の上で味わい、死んでくださいました。これが、第二の面です。キリストは私たちの代表として、罪の罰を受けてくださった。これを「消極的従順」といいます。

 しかしこの「消極的従順」だけではありません。キリストが、私たちのために「積極的」に神に従って下さったのです。神の御心を完全に行ってくださいました。「そりゃイエス様は神様だったら、そんなことは当たり前で、楽に出来たことでしょうよ」と思うかもしれませんね。イエス様ならお茶の子さいさい、といえばそうかもしれません。しかし、それは私たちの「代表」だったとしたらどうでしょう。

 「イエスだから楽勝、私たちには無理」

で終わらず、無理な私たちのために、イエス様が私たちの代わりに、神の御心に完全に従う歩みをしてくださいました。その歩みは私たちのためでした。ただの模範という以上に、私たちの代表として歩んでくださったのです。だから、イエスが私たちの代表として、神の律法に完全に従われた以上、その正しい歩みも私たちの歩みとなるのです。イエスが私たちのために正しく歩んでくださったことが、私のためだった、と言う事が許されているのです。この「積極的」と「消極的」との両方で、キリストは私たちの代表となってくださった。これが

「恵みの契約」

なのです。

 この「積極的」面は疎かにされて、「消極的」面ばかりが伝道や説教では語られがちです。キリストが私たちの罪の罰を身代わりに受けてくださったことに偏って強調されがちです。もちろん、それだけでも、本当に想像を絶する神の愛です。キリストの犠牲です。キリストが、罪ある人間のために、ご自身が人間となって、すべての罪を身代わりに受けてくださった、それゆえに私たちはどんな罪をも赦されて、救いに預かれます。これは測り知れない恵みです。有り難いことです。けれども、それだけではとても後ろ向きです。有り難いけれども、申し訳ない思いで終わりそうです。この消極的面とともに積極的な従順を知って、それも私たちの代表だった、と見えるとどうでしょう? キリストの救い、「恵みの契約」がものすごく立体的にならないでしょうか?

Ⅱコリント五14というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。15キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。

 今日読んだⅡコリント5章には、キリストが私たちのために死んでくださったことが書かれています。それは、罪の罰の身代わり、というだけではなく、私たちが新しく生きるためだったと言われています。そうです。私は、私のために死んでくださった方がいる、私のために生きてくださった方がいる。この世界を造られた神が、この私を、罪に埋没した生き方から新しく歩ませるために、ひとり子イエスを送って、私には出来なかった正しい生き方と、私が受けるはずだった罪の報いに滅びる苦しみを味わわせてくださった。その大きな「恵みの契約」の中に、私も入れて戴いているのだ。そう知ることは私たちの生き方をどんなに大きく深く変えずにはおれないのです。

 ここに

「新しく造られた者」

ともありました。見た目は変わらず、相変わらず失敗をし、罪に悩み、信仰さえ覚束なくなるとしても、そんなことは

 「恵みの契約」

の前には小さいことに過ぎません。キリストが私たちのために、代表として正しく歩み、十字架に死んで、よみがえってくださったのです。そこに立つからこそ、私たちの生き方、考え方、人との関わり、一つ一つが新しく変わらずにおれないし、神は変えてくださるのです。

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