2018/10/14 テトス書3章1~7節「人の心を変えるのは」
はじめての教理問答42~46
聖書を読む上で、手がかりになる視点の1つは、「創造・堕落・贖い・新創造」という4つの視点です。
世界は神が造られた世界であり、堕落による悪影響も全生活に及んでいます。コップの水に毒が入ると、水が全部毒されるように、私たちの全生活が、神から離れた堕落に影響されています。その事実は決して侮ることは出来ません。けれども、そこから神が私たちに救いを届けてくださって、新しく歩ませてくださいます。
問42 罪人の心をかえるのはどなたですか?
答 ただ聖霊だけです。
問43 いのちの契約によって救われるひとはいますか?
答 いいえ。だれもいのちの契約によって救われることはできません。
問44 どうして、いのちの契約によって救われるひとがいないのですか?
答 だれもがそれに違反して、そのとがめを受けたからです。
問45 あなたはどのようにして、いのちの契約に違反したのですか?
答 アダムはすべてのひとの代表でした。ですから、アダムの最初の罪とともに、わたしも罪を犯しました。
問46 ではあなたは、どのようにして救われますか?
答 主イエス・キリストにより、めぐみの契約によって救われます。
ここでもう一度出て来る「いのちの契約」とは、人間が堕落する前に、神が与えてくださったものです。神は人間をエデンの園に置かれました。豊かな自然の中、あらゆる食物を与えられ、園を耕したり守ったりする仕事に明け暮れながら、二人は、神がいのちの神であることを知っていきました。たった1つ、禁止の約束がありました。それは、園の中央にある「善悪の知識の木」の実は取って食べてはならない、という約束でした。でもそれも、その約束を守ることで、神がいのちの神であることを知って、人間がもっと豊かないのちを持つようになるために欠かせない約束だったのです。
しかし、アダムとエバは、その約束を破ってしまいました。神に従うよりも、自分が賢くなろうとする選択を選んで、神に背きました。アダムとエバは人類の代表でしたから、全人類がいのちの契約に違反して、その責任を持っています。その問題を抱えたまま、救いに与ることは出来ません。堕落の結果、毒が入ってしまった心を新しく変えてもらう必要があるのです。今日の所では、それは私たちには出来ず、神の聖霊だけが、私たちの心を変えることが出来ることを強調しています。
聖霊が、私たちの心に働いてくださる時にのみ、私たちの心は、いのちに向かうことが出来ます。神が聖霊によって働いてくださることなしに、自分の力だけで心を変えることは出来ません。いのちの契約を違反した事実をもう一度なかったことにして、やり直させてもらおう、ということは誰にも出来ません。自分で自分の心を変えることは出来ません。ただ、聖霊が働きかけて、私たちの心を、神へと変えてくださるのです。それは、王なる神のあわれみによる、主権的な始まりです。これを「恵みの契約」と言います。それが、聖書の示している「救い」です。人間には自分で自分を変えることは出来ませんし、神もそれを期待したり、求めたりしてはいません。ただ、主イエス・キリストにより、聖霊が心を新しくしてくださる、という「恵みの契約」が、聖書の教える救いの大前提なのです。この事を理解すると、聖書を読むのもずっと楽になるでしょう。先ほどのテトス章。
テトス三4しかし、私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛が現れたとき、5神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。6神はこの聖霊を、私たちの救い主イエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。7それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みを抱く相続人となるためでした。
ここにはまさに、聖霊による救い、私たちのわざではなく、キリストの恵みによる救いが語られています。自分で心を変えるのでなく、聖霊が変えてくださるのです。自分の行いで自分を救うのではありません。主イエスの行いによって救われる。恵みの契約なのです。神との関係を回復して戴くのです。しかし、それはもう、神の命令を守らなくても大丈夫、ではありません。救われるのだから、傲慢で何が悪い、嘘つきや二枚舌も平気、人を虐めたり馬鹿にしてもいい。そうでなく、先立って書かれていたのは、
1あなたは人々に注意を与えて、その人々が、支配者たちと権威者たちに服し、従い、すべての良いわざを進んでする者となるようにしなさい。2また、だれも中傷せず、争わず、柔和で、すべての人にあくまで礼儀正しい者となるようにしなさい。3私たちも以前は、愚かで、不従順で、迷っていた者であり、いろいろな欲望と快楽の奴隷になり、悪意とねたみのうちに生活し、人から憎まれ、互いに憎み合う者でした。
私たちの生き方が、権威を重んじ、中傷や争いを捨てなさい、という生き方が語られていました。また、自分たちが神を知らない時に、いかに愚かで、分断した生き方をしていたかを思い出させます。そこから、恵み深い神によって一方的な救いを戴きました。それは、私たちの生き方を根底から変えました。ですから、私たちの関係も、もう愚かに思い上がった生き方をせず、人に尊敬を与える生き方をしなさい、と勧められるのですね。聖書は「いのち」について教えてくれます。正直であること、人を妬まないこと、欲望や誘惑に従わず、正しいことを選ぶこと。貧しい人や弱い人を虐げたり、違う人を批判したり陰口を叩いたりしない。そうした命令が書かれています。そうした道を軽んじて生きるなら、神が招いてくださった豊かないのちに背を向けてしまうのです。
神は私たちに、今もいのちの道を示してくださっています。それは、私たち自身が、神から戴いたのが、裁きや軽蔑や脅しではなく、いのちだからです。あわれみと恵みの救いを戴いたからです。だから、私たちにも、憎み合う生き方ではなく、自分をも人をも大事にする生き方が示されているのです。神は、難しい要求を命じません。私たちにいのちを与え、また、ともにいのちを育てる歩みを選んで欲しいと願ってくださっています。決して諦めることなく、長い目で、私たちがいのちを選ぶよう励まし助けてくださるお方です。神は、いのちの契約と恵みの契約をくださったお方です。