聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/12/27 マタイ伝14章13~21節「五つのパンと二匹の魚」

2020-12-26 12:17:21 | マタイの福音書講解
2020/12/27 マタイ伝14章13~21節「五つのパンと二匹の魚」

 「五つのパンと二匹の魚」。よく知られ、子どもにも話すのに聞かせ易い記事です。また聖書の福音書四つが揃って記している奇蹟は、主イエスの復活とこの「五つのパンと二匹の魚」の奇蹟だけです。どの福音書も記すような、主イエスがどんなお方かを最もよく現していると言える奇蹟がこの「五つのパンと二匹の魚」もしくは「五千人の給食」の出来事なのです。
14:13それを聞くと、イエスは舟でそこを去り、自分だけで寂しいところに行かれた。群衆はそれを聞き、町々から歩いてイエスの後を追った。14イエスは舟から上がり、大勢の群衆をご覧になった。そして彼らを深くあわれんで、彼らの中の病人たちを癒やされた。

 最初に
「それを聞くと」
とあります。この前にある14章1~12節で、領主ヘロデが、イエスの噂を聞いて
「あれは自分が首をはねた洗礼者ヨハネが死人の中からよみがえったのだ」
と言ったとあります。そして、ヨハネの首をはねた顛末が書かれていますが、このヨハネの死は、ヨハネの弟子を通して、イエスは既にご存じでした。ここで「それを聞くと」とあるのは、ヘロデがイエスに目をつけ始めたことです。身の危険を感じて、イエスは避難されました。状況が緊迫し始めた中、それでも群衆はイエスの後を追って集まって来ました。
 イエスが彼らを見て
「深くあわれんで」
とあるのは、「内蔵」を表す、深く強い情動の言葉です[1]。歩いて、イエスの癒やしや教えを求めて来る人々を見て、内臓を揺さぶられる思いをなさったのです。
15夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここは人里離れたところですし、時刻ももう遅くなっています。村に行って自分たちで食べ物を買うことができるように、群衆を解散させてください。」
 弟子たちは、群衆の食事・空腹が気になってきました。弟子たちは冷たく言ったのではなく、むしろ心配して「もうお開きにしましょう」と言ったのでしょう。しかし、イエスは言います。
16…「彼らが行く必要はありません。あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい。」
 弟子たちはビックリします。彼らには
「五つのパンと二匹の魚しかありません」。
 それさえ、ヨハネの福音書によれば少年のお弁当でした[2]。とても足りません。それを知っている筈のイエスは
「あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい」
とビックリする事を言われました。
 この後、イエスは
「それをここに持ってきなさい」
と言われ、群衆を草の上に座らせて、
19…五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神を*ほめたたえ、パンを裂いて弟子たちにお与えになったので、弟子たちは群衆に配った*。
とあります。「神を」と「配った」に星印がついており、欄外を見ると、この二つが「補足」で原文にないと分かります。天を見上げてほめたたえた。「ほめたたえ」は「良い言葉を言う」という言葉で「祝福する」とも訳せます。五つのパンと二匹の魚を手に取って、天を見上げて、良い言葉を言う。そのイエスのお姿には、神に対するおおらかな信頼があります。
 「配った」も補足で、イエスがパンを弟子たちに与え、弟子たちが群衆に、という流れです。19節の
「与え」
と16節の
「あげなさい」
は同じ言葉です。弟子たちに「あなたがたが与えなさい」と、サラッと凄いことを仰有った意図を、イエスはその通り実行させなさいました。
20…そして余ったパン切れを集めると、十二のかごがいっぱいになった。
 これも十二人の弟子が一人ずつ籠を持って集めたので、それぞれの籠が一杯になったのです。

 主がこんな給食の奇蹟をなさったのは、3年の活動の中で二度だけです。それは、イエスが人々の心と体の深い飢え渇きに、内臓を動かされるような痛みを持たれること、その渇きを天の父は必ず満たしてくださることを味わい知らされた体験でした。そして、その器として弟子たちが用いられる。
「あなたがたが与えなさい」「それをここに持ってきなさい」
 弟子たちが配る役目をしました。同じ奇蹟が起きるかどうかは大事な事ではないのです。弟子たちも、彼らの信仰で奇蹟を起こしたのではありません。彼らが信じもせず、期待もしなかったことを、イエスは彼らの手を通し、小さなお弁当でしてくださる。
 そのパンと魚が、ご馳走に替わったのではありません。イエスは石をパンに変えよ、という誘惑を退けました。この直前にはヘロデの誕生祝いの場面が置かれます。贅沢な宴会で、ご馳走も鱈腹(たらふく)あって、大勢の賓客が心配なく満腹できたでしょう。権力に酔い痴れた、豪勢な大宴会の後で、「寂しいところ」での食べ物に事欠く場所での集まりが記されます。繰り返しますが、ご馳走ではないのです。でも、彼らが持っていた貧しいすべてが差し出されて、全員が満たされたのです。石をパンにしたり、貧しい弁当をご馳走に変えたりする奇蹟はイエスが退けた誘惑です。イエスがなさったのは、弟子たちが持っている貧しい物を差し出し、それをまたイエスから受け取って、人に与えていく。そのように弟子たちを、私たちを変える奇蹟です。

 1年の結びに、私たちの必要を満たしてくださった主を仰ぎます。決して王様や華やかで安定した生活ではありませんでした。「もうちょっとこうだったら良かったのに」を言えばきりが無い毎日が、今年は特について行けないほどの変化が重なった一年でした。その私たちのただ中で、主は必要を満たしてくださって、私たちはここにあります。そして、必要を満たしてくださる主が私たちの持つものも、私たちも用いてくださる。主は私の持つ僅かな貧しい物を通して、人を満たしたり生き返らせたりしてくださる。そのような御業に信頼するのです。

「主よ。この一年、あなたが私たちを生かして、今日をともに迎えさせてくださいました。天を仰いで感謝し、ほめたたえます。困難や悲しみ、不足もある中、あなたは私たちを導き、養ってくださいます。どうか、私たちの持つものも、あなたの御手の中で祝福し、御心のままに用いてください。私たちの魂だけでなく、空腹も、心も、壊れた関係も、すべての必要をあなたはご存じです。この年も、また来る年も、あなたのその御業に私たちを与らせてください」

脚注:

[1] マタイの福音書9:36、15:32、18:27、20:34。
[2] ヨハネの福音書6章8-9節「弟子の一人、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」」
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