2021/9/19 出エジプト記16章「天からの食べ物」こども聖書㉘
今から3,500年ほど前、エジプトの国で奴隷とされていたイスラエル人を、神である主は解放させ、彼らは、エジプトから荒野を通る旅に出かけたのです。
出13:21~22 主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。
神は見える形で、民とともにいてくださった。羨ましいですね。でも、彼らはそれで神様を信頼できた、とはなりませんでした。食べ物が、無くなってきたのです。そこで
16:2そのとき、イスラエルの全会衆は、この荒野でモーセとアロンに向かって不平を言った。3イスラエルの子らは彼らに言った。「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。事実、あなたがたは、われわれをこの荒野から導き出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている。」
なんという言い分でしょう。エジプトの奴隷生活で、肉鍋とかパンなんて滅多に無かったはずです。なのにこんな口を叩いて、神様の恩を踏みにじります。だけど、お腹が空くのは辛いですね。体の必要は、私たちにとってとても大事な基本です。腹ぺこや喉がカラカラだと心まで弱くなり、誘惑にも負けやすいのです。だからイエス様も、
「私たちの日毎の糧をきょうもお与えください」
と祈るよう教えられました。私たちの生涯は日々神に養われて生かされる歩みです。
4主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたがたのために天からパンを降らせる。民は外に出て行って、毎日、その日の分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを試みるためである。5六日目に彼らが持ち帰って調えるものは、日ごとに集める分の二倍である。」
神は、民の不平に対して、食べ物を与えることによって、ご自身を示してくださいました。この夕方、早速神は、何十万人もいる民のために、肉を下さいました。
13すると、その夕方、うずらが飛んで来て宿営をおおった。
空から、沢山の鶉(うずら)が飛んできて、人々はその鶉を捕まえて、食べる事が出来ました。
また、朝になると、宿営の周り一面に露が降りた。14その一面の露が消えると、見よ、荒野の面には薄く細かいもの、地に降りた霜のような細かいものがあった。15イスラエルの子らはこれを見て、「これは何だろう」と言い合った。それが何なのかを知らなかったからであった。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として下さったパンだ。…
これが、この後もその次の日も、そのまた次の日も、そのまた次の日も降りました。「これは何だろう」、ヘブル語で「マーン・フー」と言ったので、「マナ」と名づけました。
※ これに因んだマンナビスケット
それなのに、翌朝まで取っておいたら、それは虫が湧いて臭くなりました。神は毎日毎日、食べるものを下さる。
しかし、主は先に六日目は二倍だと仰っていました。
16:23…『明日は全き休みの日、主の聖なる安息である。…彼らはそれを朝まで取っておいた。しかし、それは臭くもならず、そこにうじ虫もわかなかった。
六日目は2日分が与えられる。それは、七日目を休むためでした。神は、食事も休みも与えて、民の体も魂も養ってくださったのです。以前はそうではありませんでした。エジプトでは彼らは奴隷で、休みも与えられず、仕事を押しつけられていました。
5:5ファラオはまた言った。「見よ、今やこの地の民は多い。だからおまえたちは、彼らに労役をやめさせよう(シャーバット)としているのだ。」
そう言って、レンガを焼くための藁も与えず、燃料さえ自分で集めさせていました。そこから導き出してくださった本当の王、神である主は、労役を止めさせてくださった。この「止めさせる」から出来たのが「安息日(シャバット)」という言葉です。神は、働かなければ食べ物も与えられない奴隷生活を終わらせて、毎日、神がパンを与えて養い、疲れた者には休みを与えられる事を教えてくださいました。五日間、その日のパンが与えられ、六日目は倍を与えられ、七日目はマナが降らない。それが、イスラエルの民がこの後荒野を四十年、旅し続けた間、欠かすこと無くあった出来事でした。
その終わりにあって、マナが与えられ続けた意味をこう振り返っています。
申命記8:3 それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。
雲の柱や火の柱があっても、民は不平を言いました。マナが降っていても、民は神を信頼せず、何度も逆らいました。今も、雲の柱やマナがなくても、神は私たちを導いて、私たちを生かしてくださっています。その事に信頼して、命と食べ物と休みを下さる主を信頼して、私たちも互いに生かし合い、休みを与え合う毎日毎週を重ねるのです。主イエス様は、このマナの教えを思い出させるようなことを仰いました。
マタイ6:31何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。…明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。
そして、イエスはご自分こそ、マナに勝るいのちのパンだと仰いました。
ヨハネ6:31 [ユダヤ人がイエスに言った]私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです。」
32それで、イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。33 神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。…
35「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
「天の父なる神。荒野でマナを降らせて民を養われたように、私たちに日毎の糧を与え、休みをお恵み下さり有り難うございます。あなたこそ私たちの神、私たちの命です。どうぞあなたの豊かな養いの中で、旅を続けさせてください。私たちが互いの食べ物を奪い合い、休みを取り上げてしまうことがありませんよう。今、息詰まる思いをしている世界の私たちを憐れんでください。この日曜日、安息の日として覚えさせてください」