2014/10/12 ウェストミンスター小教理問答22 ルカの福音書一章35~37節
「キリストは人となられた」
聖書には書かれていないのに、週報に毎週書いてあって、礼拝で告白し、世界中の教会で二千年近く告白されてきたもの。それは、「使徒信条」です。その使徒信条の中で、
我は、我らの主イエス・キリストを信ず、主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ、…
と言います。イエス様は、聖霊によって、マリヤの胎に奇跡的に宿られました。今日のウェストミンスター小教理問答の23は、その事に触れています。
問 キリストは、神の御子でありながら、どのようにして人間となられましたか。
答 神の御子キリストは、聖霊の力によりおとめマリヤの胎に宿られ、彼女から生まれながら、しかし罪はないという仕方で、ご自身に真実の体と理性あるたましいを取ることにより、人間となられました。
母マリヤが、まだ結婚する前、夫になるヨセフといっしょにならないうちに、御使いガブリエルが来て、聖霊によって神の御子を宿すと告げたのですね。そして、聖霊の力によって、マリヤはイエス様を身ごもったことは、毎年クリスマスに聞くことです。
ところで、皆さんは、イエス様の母となったマリヤという女性は、どんな人だったと考えていますか。カトリック教会ではハッキリしています。マリヤは「聖母」(マドンナ)と呼ばれて、イエス様の母になったくらいの偉大な方、生まれたときから罪がなかった特別な人だと言われます。マリヤ様の生まれた時から死ぬときまでの、奇蹟の物語さえ信じています。カトリックではない、プロテスタントの教会の人も、マリヤ様と言えば、イエス様の母として選ばれるほどなのだから、ものすごく偉く、立派で、きよい人だったに違いないと思い込んでいるような気がします。
でも、実は聖書にはそのようなことは全然書いていません。それよりも、イエス様の母にふさわしい女性、というマリヤのイメージを引き上げる以上に大事なのは、イエス様が人間の所にまで低く低く降りて来てくださった、ということなのです。マリヤ様を持ち上げるのではなくて、イエス様が謙って貧しく、卑しめられるほどにこの世界に降りて来てくださった。その事に、心をとめていたい、と思うのです。
本当にイエス様は、人間になってくださいました。私たちと一つとなるために、本当にこの世界の一番底にまで降りて来られたのです。今日の告白に、
…ご自身に真実の体と理性あるたましいを取ることにより、人間となられました。
これは、本当に人間の体を取られたこと、そして、人間のたましいも持たれた、ということです。教会の中にも、イエス様は人間の体をした神様だ、とか、人間の魂や霊の部分に聖霊がおられるのだ、という人がいますが、それは間違いですね。人間になった、というのは、体だけでなくて、人間としての魂ももたれたことでなければなりません。私たちは、体だけの人間ではなく、人間としての心を持っています。イエス様も、体も心も、人間となられた、と言うことです。でも、罪はありませんでした。罪から救うために来られるのに、イエス様にも罪があったら、人を救うことなど出来ません。聖書にはハッキリと、イエス様に罪はないことが書かれています。
ルカ一35…聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。
マリヤはこのお告げにビックリしてしまいますが、最後にはこの言葉を受け入れるのですね。この時、マリヤは何歳ぐらいだったでしょうか。当時の結婚する年齢は、十五歳ぐらいだったそうですから、マリヤも十四か十五歳だったと考えられています。中学生ぐらいの、まだ少女でした。決して、神の御子の母となるという務めを、自分が相応しいからだったのだ、などとは思っていません。「神様をあがめます。主は私のような卑しい小さな者に目を留めてくださいました。私のことはずっと、幸せ者と言われるでしょう。力ある神様が私に大きな事をしてくださいました。でもそれは、私が特別だから、じゃない。主の憐れみは、主を恐れかしこむすべての人にいつまでも与えられます。主は、低い者、飢えた者を助けてくださるお方です。」と歌うのです(ルカ一46-55)。
もしかしたら、マリヤよりも相応しそうな女の子はいっぱいいたんじゃないでしょうか。マリヤは、自分が神様の目にとまるなんて思えないような、不器用で、器量よしでもなく、何に自信もないような子だったのかも知れない、とも想像するのです。それは間違った想像かも知れませんが、でも、後に、ひとりの女がイエス様に、
ルカ十一27…「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。」
と叫んだときに、イエス様はこう仰いました。
28…「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」
私たちが御言葉を頂いていると言うことは、マリヤがイエス様を宿した以上に幸いなことだといいます。では、私たちが神の言葉を聞かせていただいて、イエス様と交わりを持っているのは、私たちがそれに相応しいからですか。神様の救いをいただける立派な信仰を持っているからですか。そうではないですね。ただ、神様の恵みによることです。だったら、マリヤのことだって、特別だと考える必要は全くないのですね。
イエス様が、結婚する前のマリヤから不思議な方法でお生まれになったのは、それによって、お生まれになるイエス様が特別なお方だとよく分からせるためでした。御使いがマリヤに告げた言葉の最後は、こうでした。
ルカ一37神にとって不可能なことは一つもありません。
同じ事をイエス様は、「誰が救われることができるでしょう」という問に、
ルカ十八27…「人にはできないことが、神にはできるのです。」
とお答えになって、繰り返されます。私たち人間は、救いをいただくのに誰ひとり相応しくはなれません。でも、神様は、私たちを救うことがお出来になります。聖霊が、私たちのうちに働いて、救いを求めさせ、信じさせ、最後まで信じ続けて、救いに必ず与らせてくださいます。そのことを、確証させるためにも、御子イエス様は、聖霊の力によって、普通のおとめの胎に宿って、体も魂もある人間となってくださったのです。イエス様がこのようにお生まれになったことは、私たちにとっての慰めと勇気になります。