聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ルカの福音書20章27~40節「神に対してはみなが生きる」

2015-02-13 09:07:02 | ルカ

2015/01/11 ルカの福音書20章27~40節「神に対してはみなが生きる」

 

 イエス様が十字架につけられる数日前、ユダヤ当局の祭司長、律法学者たちが、何とかイエス様の尻尾(しっぽ)を捕まえようと、あれこれ難題をふっかけた三つ目の議論が、今日の箇所です。

27…復活があることを否定するサドカイ人たち…

がここでの言い出しっぺですが、最後の39節の「律法学者」やパリサイ人たちは、死者が最後の時によみがえるという聖書の言葉を信じていました。しかし、サドカイ人たちも聖書を重んじていまして、聖書の律法を考えたら、復活があるとしたらおかしな事になるじゃないか、と今日のような理屈をこねていたのです。

 28節にあるように、長男の未亡人を弟が娶るというのはモーセが律法で命じていることで、家の名を継ぐ者を絶やしてはいけないということで、「レビラート婚」と呼ばれたシステムです。ですから、今日の箇所は、そういう時代背景や当時の文化的な動機を踏まえています。

 しかし、ルカは福音書に続いて書いた「使徒の働き」でも、教会が「復活」を伝えることが躓きであった事実を伝えています。使徒の働き十七章の、アテネにおけるパウロの説教では、死者の復活のことを話した途端、それまで聞いていた聴衆たち(アテネの知識人たち)は聞く気が失せてしまったとあります。また、パウロがエルサレムで捕らえられて議会にかけられた時も、この復活の問題が議会を大混乱させる爆弾になります[1]。パウロが、イエス様の復活と、すべての人の復活を宣教したことは、ユダヤだけでなくあちこちで、嘲笑(あざわら)われたり、反発や論争を引き起こしたりするような、挑戦的なことでした[2]。そして、それは、現代の私たちにとっても、自分の生き方や幸福感を引っ繰り返してくるような、革命的なチャレンジなのです。

 イエス様はここで、二つの反論でサドカイ人たちの言い分の穴を穿(うが)ちます。一つは、

34…「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、

35次の世に入るのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。

36彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いのようであり、また、復活の子として神の子どもだからです。

 神様が終わりの日に、人に復活のからだを与えられると、そこにはもう結婚はない。なぜなら、死ぬことができないから、と言われます。とはいえ、これは、御使いは男でも女でもない、中性的な存在だということではないし、人は子どもを産むことのない、男性らしさも女性らしさもない、恋も個性も情熱もない、無色透明な存在になる、ということではありません。

 神様は結婚を、子どもを産むためという以上に、人間がより人間らしく、神の栄光を現すために、言い換えれば、他者を愛する者として成長するために必要な関係として設けられました[3]。それは、人間がまだ、神の子として学ぶべき途上の、未熟な存在だからです。聖書が伝える御使いは、見るからに神々しく、栄光に輝いている圧倒的な存在であって、人間はその御使いを見たら、みな恐れずにはおれない、そういう存在です[4]。ここでイエス様は、復活の時には、その御使いのようにされるから死ぬことが出来ない、いや、御使い以上に、神の子どもとして聖く強く、逞(たくま)しくされる。だから結婚がもう必要ないと仰っているのです[5]

 しかし私たちは今「この世の子ら」です。娶ったり嫁いだり、別れを悲しんだり、人との関係に悩んだりせずにいられない者です。死後の世界を考えても、体のない魂であるはずなのに、体と同じ姿の魂しか想像することが出来ませんし、死後の世界で死に別れた人と再会できるぐらいしか考えつきません。でもそれだと、ここでの七人兄弟と一人のお嫁さんのような場合、本当に困ったことになりますね。レビ人が重箱の隅を突くような議論だと笑っていても、現代の人が思い描いている天国はどうでしょう。そんな十分ありそうなことには一切目を瞑りつつ、一方で、「天使は体が無いから詰まらない」なんて想像するしか出来ないでいます。

 イエス様の言葉は気づかせてくれます。復活とは、今よりも強く、栄光ある者とされることなのだ。今の世界は、脆さがあり、その対応策も必要です。結婚に支えられたり、子孫を残さなければならなかったり、子どもが生まれないから弟と再婚したり、その末に、「復活しちゃって、前の夫たちと顔を合わせたらどうすればいいんだろう」と思い悩むしか考えつかない。そんな限りある今のモノサシで永遠を測ろうとするから、辻褄が合わなくて当然なのです。

 イエス様は、ご自身を信じる者に「永遠のいのち」を約束なさいました。それは、結婚関係とかこの世の幸せや名誉や楽しみなど、この世のものを永遠に回復させてくださるという意味ではありません。朽ちるものは朽ちる。永遠とか神様の栄光といったものは、私たちの想像の及ばない大きな、素晴らしく、深いこと。そして、私たちの妬みとか比較とか、恐れや不安からも、いのちの神に向かう時に完全にきよめられるのです。復活する時、私たちは今よりも遥かに個性的になり、喜びに溢れ、強く深く愛する者、まさに「神の子ども」となるのです。

 私たちが神様に期待し、願うことは何でしょうか。人生の幸せを願い、祝福を祈りつつも、それが永遠に続くことを夢見ることはやめて、私たちを生かし、今の束の間の人生さえも喜びを鏤(ちりば)めてくださっている神をますます心から信頼することを願いましょう。やがて死に、この体とともに殆どのものは過去になるのでしょう。でも、夫婦の繋がりさえ過去になるとしても、それよりも遥かに勝って、神が私たちの神となってくださった関係は永遠です。私たちを御使いのように輝かせ、神の子どもとして永遠に祝福してくださるのです。

37…「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」…

と名乗られた神は、死んだ彼ら族長をも、何らかの形で生かしておられる神が、私たちの神ともなられて、死んで肉体が焼かれても、やがては復活させてくださらない筈がないのです。

 地上のものは移り変わり、朽ちて、廃れることをシッカリと心に焼き付けなければなりません。いいえ、私たちの未来や永遠や天国の幸せさえ、第一ではないのです。私たちが願い、信頼を寄せ、求めるのは、神ご自身です。永遠の神、栄光の神に向く時に、人は生きるのです。

38神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。」

 イエス・キリストは私たちに、この「神に対して生きる」生き方を下さいます。神を未来の幸せの管理人ぐらいに考える傲慢な生き方から、神ご自身に対して生きる者として、私たちを造り変えてくださるためです。そのために、主イエスは十字架に掛かり、死なれ、新しい栄光の体でよみがえられました。そして主は、私たちをも死に向き合わせ、様々な喪失や苦難を通して、本当に信じ頼るべきお方、私たちを愛し、あらゆるものがはぎ取られて後もなお、私たちの心を慰め、満たしてくださる神を仰ぐようにと導かれます。それもまた、私たちが朽ちるべきものとともに滅びるのでなく、よみがえって、神に対して永遠に生きる備えなのです。

 

「アブラハムの神、イサクの神であり、私たちの神。あなた様が私共の神となってくださったゆえに、私たちは地上の命の儚さを見据え、復活の希望に生きる者とされています。『からだのよみがえり、永遠の命を信ず』と、私たちの理解を超えた、しかし素晴らしい栄光を信じた告白を、今日新たな思いでともにさせてください。この告白を生涯かけて深めさせてください」



[1] 使徒の働き二三章6-10節。ユダヤ議会に捕らえられたパウロが、議会の中に、今日出て来ました、復活も御使いも霊も信じないサドカイ人と、そうしたものがあると信じていたパリサイ人と、両方がいることを見て取って、「…私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。」(6節)と叫んだら、議会は真っ二つに分かれて衝突になって、パウロの裁判どころではなくなる、という出来事です。

[2] このルカ二〇章の箇所では、「次の世に入るのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たち」とあることから、「ここでは義人の復活であって、万人の復活は暗示されていない」、とも言われることがあります。しかし、万人の復活をルカは言うし(使徒二四15)、罪人は神に対して「生きる」のではなく、永遠の「死」を選ぶのだから、ここでは問題にされないだけでしょう。

[3] 創世記二18-25、参照。

[4] ルカ二9「すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼ら[羊飼いたち]はひどく恐れた。」、マタイ二八4「番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」。また、エゼキエル一4-28、ダニエル十5-9、黙示録十九10、二二8、ルカ一11、29なども参照。

[5] 榊原『ルカ福音書講解 5』、403頁。「「天使に等しい者」と訳されております言葉は、新約聖書ではここしか出てこない非常に珍しい表現で、「天使的」とか「天使風」とか、そういう感じの言葉が使ってあります。あの世に言った義人はどういう点で「天使的」なのかと言うと、ある人は「めとることも嫁ぐこともない」という点で天使的だとお考えになります。あるいは、肉体を持たない霊の存在という意味で天使的であるとお考えになる方もあります。むしろわたくしは、天使のような高貴さ、栄光、素晴らしさという点において天使的なのだと考えるのがよろしいと思います。/先ほども言いましたように、原文では「もはや死ぬことができない」という理由として、「なぜなら、天使に等しい者」という理由が書いてあるのです。「めとったり嫁いだりする」結婚のあるなしを「死ぬ」ことのあるなし、そこから世継ぎをもうける必要のあるなしと、こうずっとつなげていきますと、それを逆にすれば、“じゃあ、結婚は、ただ子どもをもうけるためのものなのか”という変な屁理屈が出てまいりますが、けれども旧約聖書は初めっから、「人が一人でいるのはよくない」というので結婚を神様は設けられたので、何も子供をもうけるためというよりも、まずとにかく「人」の完成、成長、成熟のために結婚があると教えてきたわけなのですね。ですから、その結婚がもうないということは、あの世では一人一人がもう人格的に完成している、そういう意味で「天使に等しい」「神の子」であると言えると、そういうお気持ちなのではないかと思います。」

 

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問35「変えられて行きます」

2015-02-11 09:21:53 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/02/08 ウェストミンスター小教理問答35「変えられて行きます」Ⅱコリント3章18節

 

 キリストの贖いの御業が、聖霊のお働きによって私たちに届けられる時の「益」の三回目です。今日は、「聖化」という益があると教えられるのです。

問 聖化とは、何ですか。

答 聖化とは、それによって私たちが、神のかたちにしたがって全人を新たにされ、ますます罪に対して死に、義に対して生きることができるようにされる、そのような、神の無償の恵みによる御業です。

 私たちが、新しくされ、罪に対して死に、義に対して生きるようになること、それが聖化です。実は、聖書の勧めのほとんどはこの聖化を励ます言葉なのです。私はそれも随分誤解していて、「イエス様を信じなさい、救いに入れて戴くために福音を受け入れなさい」という勧め、また、そういう伝道が大切だから「みんなも伝道しなさい」という勧めが聖書のメッセージだと思っていました。聖書を読み、学ぶ内に、そうじゃないんだ、聖書はクリスチャンになることの勧めではなくて、クリスチャンになった人のために、いろいろと丁寧な教えが書かれているのだと気づいて、ビックリしたのです。そして、聖書には、神さまが私たちに何を願っておられるのか、どのように生きて欲しいのか、教え諭す言葉で満ちています。

 勿論、聖書にある勧め、命令は、私たちが頑張って完全に行えるわけではありません。だから、中には、聖書にある勧めを初めから「無理々々、自分には出来ない。それに、そんなことをしなくても、ただ神様の恵みによって、信じるだけで救われるんでしょう。こんな戒めは守らなくても良いんだから、感謝々々」と脳天気に割り切る人もいます。でもそれは、救いの極一部しか見ていない、勿体ないことなのです。

 確かに、聖書の救いは、イエス様が十字架に掛かり、よみがえってくださったことによって成し遂げられ、聖霊が私たちにその救いを届けてくださるとき、ただ信じるだけで私たちに与えられると言います。前回と前々回に見たように、「義認」と「子とすること」の二つは、「神の無償の恵みによる決定」と言われていました。イエス様を信じる信仰を与えられた時点で、神様は私たちを義と宣言され、神の子として決定してくださったのです。それは、動かされることがありません。そして、私たちがどんな罪人であっても、イエス様の十字架のゆえに、すべての罪が赦されてしまって、神の子とされたという恵みは、本当にかけがえなく、有り難いものです。

 けれども、聖書はそれだけではない、と言うのです。

ローマ六10…キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。

11このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

12ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。

13また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

 イエス様の十字架と復活が、ただ私たちの罪の身代わりの死で、私たちの罪を赦し、罰しない、というだけではなく、今私たちがますます罪に対して死に、情欲から自由にされ、神の子として成長し、聖化されていくためでもあった。そうだとしたら、折角のその恵みを諦めてしまうことは、なんと勿体ないことでしょうか。

 イエス様の復活の力が、聖霊によって私たちのうちに働いて、今、ますます私たちが罪に死に、義に生きるようになるのが、聖化です。それもまた、「神の無償の恵みによる御業」と言われます。聖化は、神の恵みによる御業です。神様と人間が一緒に頑張らなければならない、と聖化を考える人もいますが、私たちはそうは信じません。聖化も、一方的な恵みです。そしてそれは、私たちが全人的に成長すること、神様が本来造られたように、神のかたちとして、心も思いも力も知性も尽くして、神様を愛し、神様の御心を行うようになっていくことです。努力したり、悩んだり、戦ったり、頑張るのです。でも、頑張らなければ聖化されない、のではなくて、喜んでベストを尽くすようになるのが聖化されることなのですね。

 神様は、私たち一人一人に、この聖化の道のりを用意されています。それは、一生涯掛けて続き、私たち一人一人をじっくりと取り扱う、神様の恵みの物語です。同じ筋書きは二つとありません。それは、聖書の登場人物の全員に当てはまることです。アブラハムもヤコブもヨセフも、モーセもサムソンも、ダビデもヨブも、一人一人の人生を神様とともに歩みました。大きな失敗をしたり、大変苦しい思いをしたり、喜んだり、幸せをいただいたりしました。そうやって、ますます神様を心から信頼して、罪を捨てるようになっていったのですね。

 聖化は、私たちの「全人が新たにされ」ることです。立派な人になるとか、「立派なクリスチャン」を上手に演じられるようになる、というようなうわべのことではないのです。(私は十代の頃は、早く成長して、みんなから「古川くんは素晴らしいクリスチャンだなぁ」と言われるようになりたい、と思っていました。今は、そんな事ではなくて、ただ神様が私の心を本当に深くきよめてくださって、自分がどう思われるかなんて考えずに、人や神様を喜び愛する者になりたい、と思うようになっています。)そして、聖化は、そうして心から新しくされることによって、心を喜びや感謝で満たすのです。心が汚れていると、うわべばかりを気にしながら、心には不平や妬みや恐れや後ろめたさ、隠し事があります。そこから聖化されていくことは、勇気や痛みを必要としますけれども、その後は心が明るくなるのです。恵みで心が強くなるのです。ますます神様を信頼し、神様の造られた本来の栄光へと近づくのです。

 神様の聖化の御業を信じる時、自分の人生に何が起ころうと、そこに神様の尊い計画がある物語として見るようになり、そして、自分の信仰と成長を願う祈りが生まれます。

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問34「神の子たちの特権にあずかる」

2015-02-11 09:18:12 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/02/01 ウェストミンスター小教理問答34「神の子たちの特権にあずかる」ヨハネ一12-13

 

 キリストの贖いに「有効召命」によってあずかった者に与えられる「益」にはどんなことがあるのか。前回は「義認」を見ましたが、今日は二つ目の「子とすること」です。

問 子とすることとは、何ですか。

答 子とすることとは、それによって私たちが、神の子たちの数に入れられ、神の子たちのすべての特権にあずかる権利を持つ者となる、そのような、神の無償の恵みによる決定です。

 お祈りの時に、「天のお父様」と神様に呼びかけますね。神様は、天のお父さんだ、とアタリマエのように思っているかも知れません。これは、実は、当たり前ではありません。これは、イエス様が私たちに与えて下さった、新しい関係です。イエス様は、永遠からの神様の御子です。三位一体の関係で、神の子として存在しておられるお方です。そのイエス様が、世界の中にいる私たちに、神の子どもたちという関係を与えてくださったのです。勿論、私たちがイエス様や神様になるという意味ではありません。私たちは造られた人間ですし、イエス様の恵みによって、神様との親子関係に入れて戴けるに過ぎません。でも、本当は、そんな立場なんて考えられないような小さな、小さな者でしかない私たちが、神の子どもたちに入れられるというのですから、素晴らしすぎるほどの恵みなのですね。

 もう一つ、私たちはイエス様の恵みに与らなければ、罪人であり、神様に逆らって生きる者でした。前回、義認を見ましたけれど、イエス様が私たちの罪を完全に赦し、義を与えてくださらなければ、聖なる神様の子どもになったり、神様を「お父さん」なんて馴れ馴れしくお呼びしたりすることは、到底許されなかったのです。イエス様の恵みや、罪の赦しを考えずに、「みんな神様の子ども」だとは聖書は言いません。勿論、イエス様は、どんな人でも招いてくださっていますし、私たちを神の子どもにしてくださいます。けれども、

ヨハネ一12しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

と言われるように、信じもしない、イエス様を受け入れようともしない人々も、神の子どもだ、とは言われていません。子としてくださる神様の恵みは、イエス様の十字架の贖いによって与えられた、測り知れない恵みだと思いましょう。

 そして、イエス様が私たちを神の子としてくださった、という恵みが、当たり前ではなく、特別なんだと分かると、もう一つ、大事なことが見えてきます。それは、本当に神様が私たちを、わが子として結びつけてくださったということです。この親子関係は、決して切ったり終わったりしない、強い絆なのですね。なんとなく「天のお父様」と言っているだけだとそれには気づかないのではないでしょうか。良い子でいる限りは可愛がってくれるけれど、神様から離れたり、恥をかかせるようなことをしたりしていると、親子関係も終わってしまうような、そんなイメージがあるのではないでしょうか。

イザヤ四九15女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の子をあわれまないだろうか。

たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。

詩篇二七10私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。

 こういう聖句もあるのです。私たちの親子関係を借りてきて、良い子でいる間だけ「天のお父様」と言える-そんな程度の事じゃないよ。私たちの親子関係よりももっと強い絆で、決して切れない親子になったのだよ。お父さんとお母さんとの関係が切られたとしても、神様は私たちをわが子としてくださることは永遠に変わらないのです。私たちはどんなことがあっても、神様に「天のお父様」と呼ぶことが出来るのですよ。私たちを愛し、必要を与え、喜び、心にかけてくださる。そして、私たちの成長のために訓練したり、しつけたり、間違った時には叱ったり、懲らしめたり、決して甘やかしはなさらない。でも、愛するからこそ怒ったり、考えさせたり、成長させようとなさるのですね。

ヘブル十二6主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。

 7訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。

 8もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生児であって、ほんとうの子ではないのです。

 お父さんお母さんは人間ですから、よかれと思って間違った躾をすることもあるけれど、天の神様は、私たちの最善をご存じで、また神様の聖さに与らせるために懲らしめをなさるのだから、間違いはないのですね。とはいえ、

ヘブル十二11すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

とも言われています。神様の子どもだからと言って嬉しい事ばかり起きるわけではない。かえって、悲しいこと、辛いこと、厳しいことも通る。でも、だからこそ、私たちはどんなことが起きても、神様を仰いで、希望を持ち、平安を持つことが出来る。神様がもう見捨てたんじゃないか、私を忘れたんじゃないか、もう諦めようか、投げだそうか…そんなふうに考えずに、ますます輝く生き方をするようになる。そう言われています。

 イエス様は天の神様を「アバ、父」と呼ばれました。この「アバ」というのは、「お父ちゃん」「パパ」というような本当に親しい呼び方なのです。そんな呼び方で神様に祈ったのは、イエス様が初めてだったのですね。そのイエス様が、私たちにも、神の子どもという関係を与えてくださいます。私たちにも、「天のお父様」と呼びかける幸せをくださいました。神様は、私たちを本当に深く強く愛しておられます。だから、私たちにも、祈って欲しい、神様を信頼して、呼びかけて、愛して欲しい、と願っておられるのです。「天のお父様」、信頼して、願い求め、感謝して、お呼びしましょう。

 

 

おんちちうえさま おんちちうえさまと唱うるなり

天にいます おんちちうえを呼びて

おんちちうえさま おんちちうえさまと唱えまつる

出ずる息に呼び 入りきたる息に呼びたてまつる

われは御名を呼ぶばかりのものにてあり

 

さて、赤んぼはなぜにあんあんあんあんなくのだろうか

ほんとにうるせえよ

あんあんあんあんあんあんあんあん

うるさかないよ

呼んでるんだよ かみさまを呼んでるんだよ

みんなも呼びな あんなにしつこく呼びな

八木重吉

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申命記五章「わたしは、あなたの神、主」

2015-02-11 09:16:20 | 申命記

2015/02/01 申命記五章(1~20節)「わたしは、あなたの神、主」

 

 今日の申命記五章6節から21節に、「十戒」が記されています。出エジプト記の二〇章にも十戒は書かれています。それを思い出す形ではありますが、申命記の五章も「十戒」を読むことの出来る箇所です。そして、特に申命記は、今日の五章からが本論となります。ここでは、この十戒が、神の民にとっての最も肝心な言葉であると強調されています。申命記のエッセンスが今日の箇所だと言ってもよいでしょう。これこそが「契約のことば」であり、これを守り行うことを、モーセは今ここで語っているのに他なりません。

 「十戒」という呼び方が表しているように、十の戒めが書かれています。けれども、これはそういう掟、束縛を求めてくる、厳しく雁(がん)字(じ)搦(がら)めの生活を言おうとしているのではありませんね。また、これらの戒めを守ったら神の民にしてあげる、と言われたのでもありませんでした。むしろその逆です。「してはならない」に先立って、こう言われるのです。

 6わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。

 これが土台なのですね。エジプトで奴隷となって「生かさず殺さず」の扱いをされてきたイスラエル人たちを、主が確かな御業をもって連れ出してくださいました。使い捨てられる奴隷から、神である主の民という立場をいただきました。その力強い御業、歴史のただ中で行われた出来事を思い出させています。人間が正しく真面目に生きるなら、神の民としてもらえる、という事では全くありません。人の行いや正しさを条件として、神様は私たちを愛してくださるのではないのです。神である主の、力強い働きかけ、主の御意志によって、連れ出して、主の民とされた。それが原点です。そして、だからこそその主の民として、他の神々を拝んだり、偶像を刻んだり、御名をみだりに唱えはしない、安息日を守る、父と母を敬う、殺さない、姦淫しない、盗まない、偽証をしない、隣人のものを欲しがらない…そういった律法が与えられているのですね。

 ここには私たちの「しあわせ」が強調されていますね。16節でも、33節でも、幸せと長寿と言われます。神様は、ご自分の民を幸せにしたいと願っておられます。十戒は、その幸せへの道なのです。十戒は、神様が下さった幸いを示しています。「律法を守らなければならないなんて、幸せじゃない、窮屈だ」と思うとしたら、それは間違いです。神様は、奴隷生活から連れ出されたイスラエルの民が、その心や生き方においても、もはや奴隷ではなくて、自由な民、伸び伸びと幸いに生きることが出来るようにと、十戒を下さったのです。

 「十戒とか律法なんて、束縛されるようで嫌だ」と私たちは思います。しかし、そう言いながら、私たちは無意識のうちに沢山の「ねばならない」に支配されているのではありませんか。「失敗者になるな」「馬鹿にされたら不幸だ」「嘘や発足(はったり)をかましてでも格好付けろ」そんな思いになっていませんか。「正直者は馬鹿を見る」と嘘を吐く。自分の感情や衝動に流されて、人を裏切り、忍耐しないことが「自分に正直に生きる」と言われる。「バレなければ何をしてもいい」。そんな考えで、バレたら困るような生き方をしてしまっている。それは、とても自由な生き方ではありません。欲や幻想に目が眩んだ、惨めな人生です。

 そういう騙し事から救い出そうと、主は、十戒を語られます。

 7あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

 神ならぬものを神としていないか。主の他に、全能の存在、幸せや将来を保証するようなものを考えて、振り回されていないか。それを神としてはならない。この神を恐れ、偶像を造らず、御名をみだりに唱えず、恐れをもって唱えるようにしなさい、と思い至らせてくださる。

 12節以下の安息日の第四戒は、申命記が出エジプト記二〇章と大きく違う点の一つです。出エジプト記版では、第七日の安息の根拠が創造の安息でしたが、申命記では、

15あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸ばされた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。

と言われる通り、エジプトから連れ出された救いの御業を覚えるために、安息日を守るのですね。自分が仕事をしないだけでなく、自分の家族や奴隷(使用人たち)も家畜も休ませることによって、仕事や儲けから自由になるのです。主が奴隷生活を止めさせてくださったのに、いつのまにか、「休まず働かなければ。自分は休んでも仕事は回しておこう」。そういう儲け主義になりやすいのが人間です。だから主は、安息日を守りなさい。自分の仕事よりも主を礼拝することが第一だと、七日毎に生活全体で覚えなさい、と言って下さっています。

 殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、以下もそうです。私たちを、ハッとさせ、自分の勝手な思いで間違った生き方に飛びつこうとすることから救い出してくれる言葉です。それでも私たちは、決してこれらを完全に行うことは出来ません。特に、最後の「欲しがってはならない」が示しているように、神様は私たちの心を問われるお方です。心の隠れた思いにおいてさえ、十戒を守ることなど、誰にも出来ません。けれども十戒は、そういう私たちを、駄目だ、もうオシマイだ、とは言いません。私たちはいつも、

 6わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。

 7あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

という言葉を聞かせて戴くのです。守ったから民にしてあげる、守らなかったからもう断絶、とは言われない。苦しみに会って、罰ではないか怒りではないかと恐れる必要もない。私たちを恵みによってご自身の民としてくださった主が、その恵みによって私たちに幸せの道、自由な生き方、新しい歩みを示してくださっています。確かに救いに与った者、そして、もはや奴隷ではなく、神の民とされた揺るぎない関係をいただいたものとして生かされていく者である。

 失敗もします。まだよく分からなくて、窮屈に思えてしまう時もあります。それでも、繰り返し、繰り返し、主が命じて下さった道に立ち返りながら、歩むことが許されています。

 主の戒めに従うことが損であるかのような、馬鹿馬鹿しく思えるような、色んな出来事も起こります。それでも、私たちの思いや理解よりも遥かに大きく、すべてをご存じである主を信じさせてくださるのです。主は、私たちにこの戒めを金科玉条として与えて、守った者だけに幸せをやろう、と仰ったのではありません。私たちを愛し、私たちを幸せにしよう、でも目の前の幸せに飛びつくのではなく、この地上の様々な戦い、苦しいことや理不尽な思いも尽きず、大切な者も失いながら、最後にはいつか必ず死ななければならない歩みを経て、なお主の民とされた喜びに生かそう。そう思われている方です。私たち一人一人の人生に深く関わり、長い時間を掛けて取り扱い、主への信頼に生きるよう、神の民として成長させて下さるお方です。

 

「主の戒めは、何と麗しく、慕わしいかとダビデが歌いましたように、私たちもこの戒めを喜び、その恵みを味わい知らせていただけますように。私たちの心を、虚しい思いから自由にしてください。主を恐れることを忘れた自己中心から、あなたが祝福を用意されていることを疑う虚しさから、どうぞ救い出して、信じる者の希望と感謝の歌を歌い続けさせてください」

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ルカの福音書20章41~44節「私の主」

2015-02-11 09:07:24 | ルカ

2015/01/18 ルカの福音書20章41~44節「私の主」

 

 イエス様は、当時の民衆にとっては人気があっても、指導者たちにとっては妬みと憎しみの対象でした。その指導者たちが、権威を振りかざしたり、一流の論客を送り込んだりしてイエス様を陥れようとしてきたのですが、その企みはことごとく失敗に終わり、40節ではもうそれ以上質問する勇気さえなくなったのでした。そこに、イエス様の方から質問をされます。

41すると、イエスが彼らに言われた。「どうして人々は、キリストをダビデの子と言うのですか。

42ダビデ自身が詩篇の中でこう言っています。『主は私の主に言われた。

43「わたしが、あなたの敵をあなたの足台とする時まで、わたしの右の座に着いていなさい。」』

44こういうわけで、ダビデがキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子でしょう。」

 どういう意味かと言いますと、「ダビデ」とは紀元前一千年頃にイスラエルの王となり、イスラエル王国の基礎を築いた人であり、神様との関係においてもモデルとなる歩みを残した人物です。イエス様の時代にも、遠い過去のダビデ王朝は大切な原点であって、ルカの福音書の最初にも「ダビデの家系、ダビデの王位、ダビデの町」という言い回しが出て来ます[1]。そして、やがて、そのダビデの時代を再興してくれるキリスト(メシヤ)がおいでになると待ち望んでいて、その方のことを「ダビデの子」と呼んでいたほどなのです。

 実際イエス様はダビデの家系からお生まれになったのですし、少し前に見た、エリコの町で見えない目を癒していただいた人も、イエス様に向かって「ダビデの子のイエスさま」と呼びかけたのですね[2]。ですから、今日の所でもイエス様は、「キリストはダビデの子ではない」と仰っているのではありません。そうではなくて、そのダビデが、やがておいでになるお方を、

「わたしが、あなたの敵をあなたの足台とする時まで、わたしの右の座に着いていなさい。」

と言われた大いなるお方、「私の主」(自分の御主人)、神の右の座に就かれた方(つまり、王と共に治める「皇太子」)だと言っている。そう思い出させているのです。

 裏を返せば、これを言われている「彼ら」の念頭にあったのは、キリストを「ダビデの子」とは呼びつつも、「主」とか神の右に座する方とは考えない、小さな理解しかしていなかった、ということでしょう。昔のイスラエルの黄金時代を再興してくださるお方。「古き良き時代」をリバイバルさせてくれるお方、過去の栄光を懐かしみ、昔を美化して「昔は良かったなぁ」と振り返っている、そういう感覚です。「ダビデの子」という響きには、ダビデの再来、現代のダビデ、というニュアンスが強くあったのでしょうか。

 でも、そのダビデ自身が、自分の再来とか後継者という以上のお方を仰いでいたのです。実際、ダビデの時代は黄金時代ではありませんでしたし、ダビデ自身もいくつもの大きな失敗を重ね、子どもたちをちゃんと育てられず、国を引っかき回した王様でした。ここに引用される詩篇百十篇は、そういうダビデの呻き・悲願でもありました[3]。自分が王として一流だとか立派だとかとても思えない中で、私の主なるお方が天で治めておられる。敵をもやがて必ず足台として屈服させなさる。その時まで、主の民をお守りくださり、整えて、喜ばせてくださる。そういう希望を歌った詩篇です。自分の駄目さ加減もつくづく知った上で、やがて来られるキリストの完全な御支配を望み見ていました。そういう意味で、ダビデはキリストを「主」「私の主」と呼んでいたのです。この事を忘れて、ただダビデ王の再来、往年の栄光よ再び、と夢見るだけ-自分たち自身の問題、足りなさ、支配者としての失格ぶりを弁える謙虚さが抜け落ちているなら、その期待は虚しい白昼夢です。

 このルカの二〇章は、彼ら指導者たちの傲慢を浮き彫りにしてきました。イエス様の権威を問い質しつつ、自分たちが権威の座に胡座をかいて濫用していました。イエス様は彼らに、「神のものは神に返しなさい」と迫られ、人間が死んだ後の、想像を越えた世界をも支配しておられる「生きている者の神」を語られ、彼らはぐうの音も出なかったのです。ここでもイエス様は、その彼らに、キリストが、主であられること、ダビデさえも「私の主」と呼び、神の右の座について、完全に治め、その敵をことごとく征服なさるお方であると言われるのです。

 私たちはどうでしょうか。神様にどんな期待をしているでしょうか。自分の過去の栄光を取り戻してくださるとか、自分の思いや願い、権力や地位を吹き返させてくださること。そういう期待は、お門違いですね。また、キリストが「主」であって、私が「主」ではないのです。現代の私たちには、「お客様意識」というものがあります。お金を出すのはこっちなのだから、好きなように見させてもらおう、という感覚です。これが神様への信仰や教会生活にも入り込むと、根本的な間違いになります。イエス様も私の意見を聞く「義務」がある筈だ、とか考えるなら間違いですね。自分の「権利」を認め、人間を幸せにする「義務」がある「神」を考えているなら、それは真の神様ではありません。自分は人間に過ぎない。自分の小ささ、間違い、そして、罪や限界を深く弁えた上で、大いなる神様を礼拝するのです。でもそれは屈辱ではありません。真の「主」を礼拝させていただけることは、当然でもあり、特権でもあります。

 イエス様は、私たちが思い上がって神様を引きずり下ろそうとする罪から救い出してくださいます。その傲慢が受けるべき神の御怒りの罰を十字架の上で、自らが引き受けてくださいました。そして、私たちの心を教え、新しくして、神様を恐れ、信じ、礼拝する心を下さいました。私たちは、自分の支配を手放して、私の主であるイエス様が、私たちのために十字架に掛かってくださり、よみがえられて、今も世界を支配しておられる事を、感謝と希望とともに告白するのです。そして、私たちの思いも生き方も、神様の御心に従って変えて戴くのです。

 同時に、イエス様に逆らう「敵」が「足台」として完全に屈服するのは、まだ先でもあります。イエス様は既に治めておられますが、敵はまだ征服される途中です。ジタバタと悪あがきしています[4]。イエス様を十字架に殺した敵がおり、私たちをも苦しめます。私たちは、イエス様の御支配を信じますが、それは、人生がバラ色でハッピーな事しか起きないという意味ではありません。人からの反対、病気、災害、死(それも十字架の苦しみの死さえ)もあるのです。でも、様々な攻撃を受けるとしても、それはイエス様が治めておられない証拠ではありません。悪がのさばっているようでも、イエス様の十字架さえも、主の敗北ではありません。主が、私たちの主として治めておられます。悪も決して好き勝手には出来ず、やがて裁かれます。

 ここでイエス様は、ダビデが歌った告白を私たちにも持たせてくださっています。神様の敵が強いように見えても、その中で神に栄光を帰して、主イエス様を王として崇める信仰です。私の願いや思いよりも大きなお方を、私たちも「私の主」と告白させて戴けるのです。

 

「主よ。まもなく十字架に掛けられる時にも、なおご自身の栄光の支配をお語りになったこの宣言が、私たちの心を明るく照らしますように。闇に希望を、恐れずに勇気を、悲しみにも力を、下さいますように。ダビデのように欠けだらけの私たちですが、謙って自分の手を開き、あなた様の招きに従って、委ねて仕える者、主の恵みの僕として歩む者とならせてください。」



[1] ルカ一27、32、69、二4、11。ルカで十二回、続巻の「使徒の働き」で十回、「ダビデ」の名が登場します。

[2] ルカ十八38、、39。

[3] この詩篇一一〇篇は、新約でもっとも多く引用される聖句です(マタイ二二44、二六64、マルコ十二36、ルカ二〇42-43、使徒二34-35、Ⅰコリント十五25、エペソ一20、22、コロサイ三1、ヘブル一3、13、八1、十12、十二2)。使徒信条の「主は…三日目によみがえり、天に上り、全能の父なる神の右の座に就き給えり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とをさばきたまわん」の元々の句でもあります。

[4] ルカは、イエス様が十字架に殺され、復活なさり、天に上られた後のペンテコステの説教でも、ペテロがこの詩篇百十篇を引きながら、群衆に迫った説教を伝えています。使徒二25-36「ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。26それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。27あなたは私のたましいをハデスに捨て置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。28あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。』29兄弟たち。父祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。30彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。31それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨て置かれず、その肉体は朽ち果てない』と語ったのです。32神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。33ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。34ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。『主は私の主に言われた。35わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。』36ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」 そして、このペンテコステの説教によって、エルサレムの三千人の人々が悔い改め、弟子に加えられたのです。

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