2015/01/11 ルカの福音書20章27~40節「神に対してはみなが生きる」
イエス様が十字架につけられる数日前、ユダヤ当局の祭司長、律法学者たちが、何とかイエス様の尻尾(しっぽ)を捕まえようと、あれこれ難題をふっかけた三つ目の議論が、今日の箇所です。
27…復活があることを否定するサドカイ人たち…
がここでの言い出しっぺですが、最後の39節の「律法学者」やパリサイ人たちは、死者が最後の時によみがえるという聖書の言葉を信じていました。しかし、サドカイ人たちも聖書を重んじていまして、聖書の律法を考えたら、復活があるとしたらおかしな事になるじゃないか、と今日のような理屈をこねていたのです。
28節にあるように、長男の未亡人を弟が娶るというのはモーセが律法で命じていることで、家の名を継ぐ者を絶やしてはいけないということで、「レビラート婚」と呼ばれたシステムです。ですから、今日の箇所は、そういう時代背景や当時の文化的な動機を踏まえています。
しかし、ルカは福音書に続いて書いた「使徒の働き」でも、教会が「復活」を伝えることが躓きであった事実を伝えています。使徒の働き十七章の、アテネにおけるパウロの説教では、死者の復活のことを話した途端、それまで聞いていた聴衆たち(アテネの知識人たち)は聞く気が失せてしまったとあります。また、パウロがエルサレムで捕らえられて議会にかけられた時も、この復活の問題が議会を大混乱させる爆弾になります[1]。パウロが、イエス様の復活と、すべての人の復活を宣教したことは、ユダヤだけでなくあちこちで、嘲笑(あざわら)われたり、反発や論争を引き起こしたりするような、挑戦的なことでした[2]。そして、それは、現代の私たちにとっても、自分の生き方や幸福感を引っ繰り返してくるような、革命的なチャレンジなのです。
イエス様はここで、二つの反論でサドカイ人たちの言い分の穴を穿(うが)ちます。一つは、
34…「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、
35次の世に入るのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。
36彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いのようであり、また、復活の子として神の子どもだからです。
神様が終わりの日に、人に復活のからだを与えられると、そこにはもう結婚はない。なぜなら、死ぬことができないから、と言われます。とはいえ、これは、御使いは男でも女でもない、中性的な存在だということではないし、人は子どもを産むことのない、男性らしさも女性らしさもない、恋も個性も情熱もない、無色透明な存在になる、ということではありません。
神様は結婚を、子どもを産むためという以上に、人間がより人間らしく、神の栄光を現すために、言い換えれば、他者を愛する者として成長するために必要な関係として設けられました[3]。それは、人間がまだ、神の子として学ぶべき途上の、未熟な存在だからです。聖書が伝える御使いは、見るからに神々しく、栄光に輝いている圧倒的な存在であって、人間はその御使いを見たら、みな恐れずにはおれない、そういう存在です[4]。ここでイエス様は、復活の時には、その御使いのようにされるから死ぬことが出来ない、いや、御使い以上に、神の子どもとして聖く強く、逞(たくま)しくされる。だから結婚がもう必要ないと仰っているのです[5]。
しかし私たちは今「この世の子ら」です。娶ったり嫁いだり、別れを悲しんだり、人との関係に悩んだりせずにいられない者です。死後の世界を考えても、体のない魂であるはずなのに、体と同じ姿の魂しか想像することが出来ませんし、死後の世界で死に別れた人と再会できるぐらいしか考えつきません。でもそれだと、ここでの七人兄弟と一人のお嫁さんのような場合、本当に困ったことになりますね。レビ人が重箱の隅を突くような議論だと笑っていても、現代の人が思い描いている天国はどうでしょう。そんな十分ありそうなことには一切目を瞑りつつ、一方で、「天使は体が無いから詰まらない」なんて想像するしか出来ないでいます。
イエス様の言葉は気づかせてくれます。復活とは、今よりも強く、栄光ある者とされることなのだ。今の世界は、脆さがあり、その対応策も必要です。結婚に支えられたり、子孫を残さなければならなかったり、子どもが生まれないから弟と再婚したり、その末に、「復活しちゃって、前の夫たちと顔を合わせたらどうすればいいんだろう」と思い悩むしか考えつかない。そんな限りある今のモノサシで永遠を測ろうとするから、辻褄が合わなくて当然なのです。
イエス様は、ご自身を信じる者に「永遠のいのち」を約束なさいました。それは、結婚関係とかこの世の幸せや名誉や楽しみなど、この世のものを永遠に回復させてくださるという意味ではありません。朽ちるものは朽ちる。永遠とか神様の栄光といったものは、私たちの想像の及ばない大きな、素晴らしく、深いこと。そして、私たちの妬みとか比較とか、恐れや不安からも、いのちの神に向かう時に完全にきよめられるのです。復活する時、私たちは今よりも遥かに個性的になり、喜びに溢れ、強く深く愛する者、まさに「神の子ども」となるのです。
私たちが神様に期待し、願うことは何でしょうか。人生の幸せを願い、祝福を祈りつつも、それが永遠に続くことを夢見ることはやめて、私たちを生かし、今の束の間の人生さえも喜びを鏤(ちりば)めてくださっている神をますます心から信頼することを願いましょう。やがて死に、この体とともに殆どのものは過去になるのでしょう。でも、夫婦の繋がりさえ過去になるとしても、それよりも遥かに勝って、神が私たちの神となってくださった関係は永遠です。私たちを御使いのように輝かせ、神の子どもとして永遠に祝福してくださるのです。
37…「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」…
と名乗られた神は、死んだ彼ら族長をも、何らかの形で生かしておられる神が、私たちの神ともなられて、死んで肉体が焼かれても、やがては復活させてくださらない筈がないのです。
地上のものは移り変わり、朽ちて、廃れることをシッカリと心に焼き付けなければなりません。いいえ、私たちの未来や永遠や天国の幸せさえ、第一ではないのです。私たちが願い、信頼を寄せ、求めるのは、神ご自身です。永遠の神、栄光の神に向く時に、人は生きるのです。
38神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。」
イエス・キリストは私たちに、この「神に対して生きる」生き方を下さいます。神を未来の幸せの管理人ぐらいに考える傲慢な生き方から、神ご自身に対して生きる者として、私たちを造り変えてくださるためです。そのために、主イエスは十字架に掛かり、死なれ、新しい栄光の体でよみがえられました。そして主は、私たちをも死に向き合わせ、様々な喪失や苦難を通して、本当に信じ頼るべきお方、私たちを愛し、あらゆるものがはぎ取られて後もなお、私たちの心を慰め、満たしてくださる神を仰ぐようにと導かれます。それもまた、私たちが朽ちるべきものとともに滅びるのでなく、よみがえって、神に対して永遠に生きる備えなのです。
「アブラハムの神、イサクの神であり、私たちの神。あなた様が私共の神となってくださったゆえに、私たちは地上の命の儚さを見据え、復活の希望に生きる者とされています。『からだのよみがえり、永遠の命を信ず』と、私たちの理解を超えた、しかし素晴らしい栄光を信じた告白を、今日新たな思いでともにさせてください。この告白を生涯かけて深めさせてください」
[1] 使徒の働き二三章6-10節。ユダヤ議会に捕らえられたパウロが、議会の中に、今日出て来ました、復活も御使いも霊も信じないサドカイ人と、そうしたものがあると信じていたパリサイ人と、両方がいることを見て取って、「…私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。」(6節)と叫んだら、議会は真っ二つに分かれて衝突になって、パウロの裁判どころではなくなる、という出来事です。
[2] このルカ二〇章の箇所では、「次の世に入るのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たち」とあることから、「ここでは義人の復活であって、万人の復活は暗示されていない」、とも言われることがあります。しかし、万人の復活をルカは言うし(使徒二四15)、罪人は神に対して「生きる」のではなく、永遠の「死」を選ぶのだから、ここでは問題にされないだけでしょう。
[3] 創世記二18-25、参照。
[4] ルカ二9「すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼ら[羊飼いたち]はひどく恐れた。」、マタイ二八4「番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」。また、エゼキエル一4-28、ダニエル十5-9、黙示録十九10、二二8、ルカ一11、29なども参照。
[5] 榊原『ルカ福音書講解 5』、403頁。「「天使に等しい者」と訳されております言葉は、新約聖書ではここしか出てこない非常に珍しい表現で、「天使的」とか「天使風」とか、そういう感じの言葉が使ってあります。あの世に言った義人はどういう点で「天使的」なのかと言うと、ある人は「めとることも嫁ぐこともない」という点で天使的だとお考えになります。あるいは、肉体を持たない霊の存在という意味で天使的であるとお考えになる方もあります。むしろわたくしは、天使のような高貴さ、栄光、素晴らしさという点において天使的なのだと考えるのがよろしいと思います。/先ほども言いましたように、原文では「もはや死ぬことができない」という理由として、「なぜなら、天使に等しい者」という理由が書いてあるのです。「めとったり嫁いだりする」結婚のあるなしを「死ぬ」ことのあるなし、そこから世継ぎをもうける必要のあるなしと、こうずっとつなげていきますと、それを逆にすれば、“じゃあ、結婚は、ただ子どもをもうけるためのものなのか”という変な屁理屈が出てまいりますが、けれども旧約聖書は初めっから、「人が一人でいるのはよくない」というので結婚を神様は設けられたので、何も子供をもうけるためというよりも、まずとにかく「人」の完成、成長、成熟のために結婚があると教えてきたわけなのですね。ですから、その結婚がもうないということは、あの世では一人一人がもう人格的に完成している、そういう意味で「天使に等しい」「神の子」であると言えると、そういうお気持ちなのではないかと思います。」