2015/02/08 ウェストミンスター小教理問答35「変えられて行きます」Ⅱコリント3章18節
キリストの贖いの御業が、聖霊のお働きによって私たちに届けられる時の「益」の三回目です。今日は、「聖化」という益があると教えられるのです。
問 聖化とは、何ですか。
答 聖化とは、それによって私たちが、神のかたちにしたがって全人を新たにされ、ますます罪に対して死に、義に対して生きることができるようにされる、そのような、神の無償の恵みによる御業です。
私たちが、新しくされ、罪に対して死に、義に対して生きるようになること、それが聖化です。実は、聖書の勧めのほとんどはこの聖化を励ます言葉なのです。私はそれも随分誤解していて、「イエス様を信じなさい、救いに入れて戴くために福音を受け入れなさい」という勧め、また、そういう伝道が大切だから「みんなも伝道しなさい」という勧めが聖書のメッセージだと思っていました。聖書を読み、学ぶ内に、そうじゃないんだ、聖書はクリスチャンになることの勧めではなくて、クリスチャンになった人のために、いろいろと丁寧な教えが書かれているのだと気づいて、ビックリしたのです。そして、聖書には、神さまが私たちに何を願っておられるのか、どのように生きて欲しいのか、教え諭す言葉で満ちています。
勿論、聖書にある勧め、命令は、私たちが頑張って完全に行えるわけではありません。だから、中には、聖書にある勧めを初めから「無理々々、自分には出来ない。それに、そんなことをしなくても、ただ神様の恵みによって、信じるだけで救われるんでしょう。こんな戒めは守らなくても良いんだから、感謝々々」と脳天気に割り切る人もいます。でもそれは、救いの極一部しか見ていない、勿体ないことなのです。
確かに、聖書の救いは、イエス様が十字架に掛かり、よみがえってくださったことによって成し遂げられ、聖霊が私たちにその救いを届けてくださるとき、ただ信じるだけで私たちに与えられると言います。前回と前々回に見たように、「義認」と「子とすること」の二つは、「神の無償の恵みによる決定」と言われていました。イエス様を信じる信仰を与えられた時点で、神様は私たちを義と宣言され、神の子として決定してくださったのです。それは、動かされることがありません。そして、私たちがどんな罪人であっても、イエス様の十字架のゆえに、すべての罪が赦されてしまって、神の子とされたという恵みは、本当にかけがえなく、有り難いものです。
けれども、聖書はそれだけではない、と言うのです。
ローマ六10…キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
11このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
12ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。
13また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。
イエス様の十字架と復活が、ただ私たちの罪の身代わりの死で、私たちの罪を赦し、罰しない、というだけではなく、今私たちがますます罪に対して死に、情欲から自由にされ、神の子として成長し、聖化されていくためでもあった。そうだとしたら、折角のその恵みを諦めてしまうことは、なんと勿体ないことでしょうか。
イエス様の復活の力が、聖霊によって私たちのうちに働いて、今、ますます私たちが罪に死に、義に生きるようになるのが、聖化です。それもまた、「神の無償の恵みによる御業」と言われます。聖化は、神の恵みによる御業です。神様と人間が一緒に頑張らなければならない、と聖化を考える人もいますが、私たちはそうは信じません。聖化も、一方的な恵みです。そしてそれは、私たちが全人的に成長すること、神様が本来造られたように、神のかたちとして、心も思いも力も知性も尽くして、神様を愛し、神様の御心を行うようになっていくことです。努力したり、悩んだり、戦ったり、頑張るのです。でも、頑張らなければ聖化されない、のではなくて、喜んでベストを尽くすようになるのが聖化されることなのですね。
神様は、私たち一人一人に、この聖化の道のりを用意されています。それは、一生涯掛けて続き、私たち一人一人をじっくりと取り扱う、神様の恵みの物語です。同じ筋書きは二つとありません。それは、聖書の登場人物の全員に当てはまることです。アブラハムもヤコブもヨセフも、モーセもサムソンも、ダビデもヨブも、一人一人の人生を神様とともに歩みました。大きな失敗をしたり、大変苦しい思いをしたり、喜んだり、幸せをいただいたりしました。そうやって、ますます神様を心から信頼して、罪を捨てるようになっていったのですね。
聖化は、私たちの「全人が新たにされ」ることです。立派な人になるとか、「立派なクリスチャン」を上手に演じられるようになる、というようなうわべのことではないのです。(私は十代の頃は、早く成長して、みんなから「古川くんは素晴らしいクリスチャンだなぁ」と言われるようになりたい、と思っていました。今は、そんな事ではなくて、ただ神様が私の心を本当に深くきよめてくださって、自分がどう思われるかなんて考えずに、人や神様を喜び愛する者になりたい、と思うようになっています。)そして、聖化は、そうして心から新しくされることによって、心を喜びや感謝で満たすのです。心が汚れていると、うわべばかりを気にしながら、心には不平や妬みや恐れや後ろめたさ、隠し事があります。そこから聖化されていくことは、勇気や痛みを必要としますけれども、その後は心が明るくなるのです。恵みで心が強くなるのです。ますます神様を信頼し、神様の造られた本来の栄光へと近づくのです。
神様の聖化の御業を信じる時、自分の人生に何が起ころうと、そこに神様の尊い計画がある物語として見るようになり、そして、自分の信仰と成長を願う祈りが生まれます。