2017/6/11 使徒の働き2章1-21節「夢を抱かせる神」
先週のペンテコステ記念礼拝から「使徒の働き」を読んでいます。今日の二章1節の「五旬節の日」というのがペンテコステという祝日を訳したものです。このお祭りの日に、キリストが約束されていた聖霊が弟子達に降って、弟子達はキリストの証しをし始めたのです。
弟子たちはイエスの言葉通り、約束の聖霊が来るのを待っていました。そこに、
2すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
3また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。
4すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話だした。
そこに集まってきた人々が、自分の母国語で弟子達が話しているのを聞いて驚き呆れ、中には酔っているのだと嘲る人もいましたが、14節以下、弟子のペテロが声を張り上げて語り、これは朝からお酒で出来上がったのではなく、聖書で預言されていたことの成就だ、と大胆に宣言し始めるのです。それが21節以下も詳しく記されるペンテコステの説教です。激しい風のような響きとか、炎のような分かれた舌が一人一人に留まったとか、他国の言葉で話し出したとか、そういう見た目の出来事の激しさは印象的です。けれども、集まってきた人々に対して、使徒ペテロはこの出来事そのものを解説したりしませんし、同じ体験をするにはどうしたらいいか、という勧め方もしません。そうではなく、この出来事を通して、イエスこそ主であることを力強く証しして語るのです[1]。今日は16節以下のヨエル書の引用までを見ましょう[2]。
預言者ヨエルが活動したのは、旧約聖書でもいつの時代かハッキリ分かりません。南王国ユダに語ってはいますが、紀元前十世紀か九世紀頃だろう、と不詳です。でもそのメッセージは明らかに希望です。
「終わりの日」
に神が全ての人にご自分の霊を注いでくださる。すると、子どもたちは預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
「幻」
や
「夢」
には良い意味もありますが、現実離れした意味もあります。
「老人は夢を見る」
という説教題は誤解されるなぁと止めたのですが、勿論ここでは良い、積極的な意味です。老人ばかりか青年も子どもたちまでも、夢が持てない、諦めや絶望で生きている。そういう世界に対して、神はヨエルを通して預言されました。神は終わりの日にご自分の霊をすべての人に注いでくださる。あなたがたは自分の子どもたちが神の言葉を語るのを見る。青年はビジョンを持つ。老人でさえ、夢を抱く。いや、奴隷や女奴隷でさえ、神の言葉を頂いて、それを語るようになる、というのです。
奴隷でさえ、は意味深長です。本当にすべての人が、ということです。この場にいたなら、皆さん一人一人が聖霊によって幻や夢を持ち、神の言葉を語るのです。牧師だけ、長老や執事だけ、ではありません。子どもも老人もみんなです。熱心な信徒やよく祈っていた人だけではない。それは今も、教会が特別な人だけでなく、全ての人が主の御霊に満たされて、新しい心、夢や希望を与えられている、ということなのです[3]。絶望が希望に代わる、というだけでなく、身分や社会制度の上下関係もひっくり返して、すべてのものが神の霊によって新しくなる。そういう昔からの預言がこの時に成就したのです。
更にそこでは一人一人が他国の言葉で話し出しました。これは、聞いた諸外国から来た人々が自分の国の言葉だと分かったように、ハッキリとした民族の言語でした[4]。他国の言葉で話す体験を、皆さんはしたいですか。英語やフランス語なら憧れるかもしれません。でも、ここ9節では、パルテヤ、メディヤ、エラム、メソポタミヤ、リビヤ、アラビヤなどの地名リストが出て来ます。自分には興味もない、言葉を学ぶ気もない国の方が多いでしょう。当時は既にギリシャ語という万国共通語がありました。あるいはユダヤ教に帰依した人がヘブル語を習うことはあっても[5]、ユダヤ人が「異邦人」の言葉をわざわざ習うなんて論外だったでしょう。しかし今、弟子達は諸外国の言葉を話しています。これはこの時だけのことで、14章ではルステラで伝道するパウロとバルナバは当地のルカオニヤ語が理解できなかったため、慌てるハプニングが起きるのですね。ずっと諸外国の言葉を操る能力を身につけたわけではありません。教会は今も世界に宣教師を送り、少数民族の言葉に聖書を翻訳し、日本語への聖書の翻訳さえ、苦労しながら続けています。そんな言語の問題は、聖霊が働けば、祈りさえすればペンテコステの日のようにたちまち解決する…わけではありません。大事なのは、聖霊によって奇跡的な能力を身につける事ではないのです。聖霊に導かれて、言葉や文化や習慣の異なる人ともキリストの福音を分かち合い、ともにキリストを呼び求めるよう、私たちの心が変えられる事です。誰一人分け隔てなく、神が御自身の霊を注いで、幻を見させ、夢を抱かせて下さるのです。それは人間にとって眩しすぎる約束です。けれども、主であるイエス・キリスト御自身が、この人間の世界の真っ只中に人となって来て下さり、全ての汚れや人間の現実を経験された上で、私たちの友となり、御自身を与えてくださいました。それゆえ、私たちはこの信じがたい約束を、私たちを愛し、夢を与えると言われる神の約束として有り難く頂くのです。
これはこのペンテコステというスタートで力強く示された、特別な出来事でした。それこそ、神のご計画のゴールの幻(ビジョン)でした。その測り知れない慰めを伝える教会は、教会自身が差別や壁を取っ払われていくプロセスにあります。この後、3章から28章まで、教会はまだまだ途上にあって四苦八苦します。私たちもまた、夢を持てない、ビジョンが信じられない、言葉や文化の違いで苦労し、差別意識に傷つきます。20節で言うように
20主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。
子どもは夢を持てず、色々な悲しみや困難も襲ってくるでしょう。でもそういう中でも、
21しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。」
この「救い」は明らかに17節の言い換えです。主が霊を注いで下さって、夢を持つようになる救いです。太陽が闇となり、色々な禍が起きても、主の名を呼ぶ者は夢を持って、希望を歌いながら生きるのです。ユダヤ人だ若者だ、人生をうまく渉ってきたとか、奴隷や卑しい身分ではないとか、そんな頼みの綱は悉(ことごと)く役に立たなくなっても、主はどこの誰であれ信じる者を必ず助けて、支えてくださる。そういう「主」が、実はイエスなのだ、と言うのがこの説教の趣旨です。この最初の証しに際して、聖霊が激しい風のように降ったり、炎のような舌が一人一人に色々な言葉を語らせてくださったりして、デモンストレーションをなさいました。神が世界を癒やし、一つになさるという結末の先取り。それがペンテコステの出来事でした。
宣教師だけでなく全ての弟子が、他国の人と語る幻を与えられ、しるしとされるのです。伝道者だけでなく、聖霊は皆さん一人一人のうちにおられて、幻や夢を抱かせて下さいます。私が幻や特別な力を持つ以上に、神が救いを与えられる、言葉や文化の異なる全ての人に心を開く者となる。その途上に私たちはいます。まだまだ主のゴールには程遠く、怯えたり逃げたりする者です。ペテロもそうでした。つい2ヶ月前にイエスを三度も知らないと否定した裏切り者です。他の弟子もみんなイエスを見捨てて逃げた臆病者です。彼ら自身、夢も幻も希望も失っていたでしょう。その弱い弟子達が、ここで実に不思議にキリストの証人となっています。神はそんな弟子や私たちにご自身の霊を注いでくださいます。そして、人間には輝かしすぎて信じられないような将来の慰めの証しを私たちにさせてくださいます。全世界を覆う喜びが来る、全ての人が一緒に喜びを歌い、主イエスの御名を心から慕い呼び求める日が待っている。その日を夢見て生きる者にしてくださる、という神の約束を分かち合うのが教会なのです[6]。
「大いなる主よ。ペンテコステの出来事は、あなたのご計画のゴールを見せています。世界を造られ支えたもう主は、全地を喜びの歌で満たし、全ての人を尊く慰める方。私たちに測り知れない大団円を約束してくださいました。主よ、どうぞその恵みで私たちを今も強め、新しくしてください。主の御名を呼び求める私たちを支え、あなたの約束を果たしてください」
[1] この使徒2章と同じような出来事を現代に求めたり、特別な体験を強調したりする教会もあります。しかし、それはペテロの説教の趣旨ではありません。ポイントは、「イエスこそ主である」です。信じたら、同じ能力が持てる、などという論旨は皆無です。それを忘れて、現象を考えても勿体ないことです。
[2] 約束と成就、というルカが強調するメッセージがここにも。キリストの苦難と死、そして復活が聖書のメッセージである(ルカ二四44-48)。
[3] 私たちは既に聖霊が降られたからこそ、キリストの証しを届けられ、またそれを信じて、ここにいるに他なりません。
[4] 訳の分からない「異言」や神秘的な言葉とは違うものです。
[5] あるいは「アラム語」といったほうが精確です。
[6] 「血と火と立ち上る煙」キリストの血と、聖霊が「炎のような分かれた舌」であらわれた。ジョイ・デビッドマンは自らのことを「山上の煙」と呼んだが、キリスト者は「煙」ではないか。ヨエルの意図とはかなり違うかもしれない。しかし、この日、これが成就したのだとすると、人が抱きがちな力尽くの神とは違い、徹底して救いと喜びの出来事だった。