聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

使徒の働き2章1-21節「夢を抱かせる神」

2017-06-11 17:58:54 | 使徒の働き

2017/6/11 使徒の働き2章1-21節「夢を抱かせる神」

 先週のペンテコステ記念礼拝から「使徒の働き」を読んでいます。今日の二章1節の「五旬節の日」というのがペンテコステという祝日を訳したものです。このお祭りの日に、キリストが約束されていた聖霊が弟子達に降って、弟子達はキリストの証しをし始めたのです。

 弟子たちはイエスの言葉通り、約束の聖霊が来るのを待っていました。そこに、

 2すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。

 3また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。

 4すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話だした。

 そこに集まってきた人々が、自分の母国語で弟子達が話しているのを聞いて驚き呆れ、中には酔っているのだと嘲る人もいましたが、14節以下、弟子のペテロが声を張り上げて語り、これは朝からお酒で出来上がったのではなく、聖書で預言されていたことの成就だ、と大胆に宣言し始めるのです。それが21節以下も詳しく記されるペンテコステの説教です。激しい風のような響きとか、炎のような分かれた舌が一人一人に留まったとか、他国の言葉で話し出したとか、そういう見た目の出来事の激しさは印象的です。けれども、集まってきた人々に対して、使徒ペテロはこの出来事そのものを解説したりしませんし、同じ体験をするにはどうしたらいいか、という勧め方もしません。そうではなく、この出来事を通して、イエスこそ主であることを力強く証しして語るのです[1]。今日は16節以下のヨエル書の引用までを見ましょう[2]

 預言者ヨエルが活動したのは、旧約聖書でもいつの時代かハッキリ分かりません。南王国ユダに語ってはいますが、紀元前十世紀か九世紀頃だろう、と不詳です。でもそのメッセージは明らかに希望です。

「終わりの日」

に神が全ての人にご自分の霊を注いでくださる。すると、子どもたちは預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。

「幻」

「夢」

には良い意味もありますが、現実離れした意味もあります。

「老人は夢を見る」

という説教題は誤解されるなぁと止めたのですが、勿論ここでは良い、積極的な意味です。老人ばかりか青年も子どもたちまでも、夢が持てない、諦めや絶望で生きている。そういう世界に対して、神はヨエルを通して預言されました。神は終わりの日にご自分の霊をすべての人に注いでくださる。あなたがたは自分の子どもたちが神の言葉を語るのを見る。青年はビジョンを持つ。老人でさえ、夢を抱く。いや、奴隷や女奴隷でさえ、神の言葉を頂いて、それを語るようになる、というのです。

 奴隷でさえ、は意味深長です。本当にすべての人が、ということです。この場にいたなら、皆さん一人一人が聖霊によって幻や夢を持ち、神の言葉を語るのです。牧師だけ、長老や執事だけ、ではありません。子どもも老人もみんなです。熱心な信徒やよく祈っていた人だけではない。それは今も、教会が特別な人だけでなく、全ての人が主の御霊に満たされて、新しい心、夢や希望を与えられている、ということなのです[3]。絶望が希望に代わる、というだけでなく、身分や社会制度の上下関係もひっくり返して、すべてのものが神の霊によって新しくなる。そういう昔からの預言がこの時に成就したのです。

 更にそこでは一人一人が他国の言葉で話し出しました。これは、聞いた諸外国から来た人々が自分の国の言葉だと分かったように、ハッキリとした民族の言語でした[4]。他国の言葉で話す体験を、皆さんはしたいですか。英語やフランス語なら憧れるかもしれません。でも、ここ9節では、パルテヤ、メディヤ、エラム、メソポタミヤ、リビヤ、アラビヤなどの地名リストが出て来ます。自分には興味もない、言葉を学ぶ気もない国の方が多いでしょう。当時は既にギリシャ語という万国共通語がありました。あるいはユダヤ教に帰依した人がヘブル語を習うことはあっても[5]、ユダヤ人が「異邦人」の言葉をわざわざ習うなんて論外だったでしょう。しかし今、弟子達は諸外国の言葉を話しています。これはこの時だけのことで、14章ではルステラで伝道するパウロとバルナバは当地のルカオニヤ語が理解できなかったため、慌てるハプニングが起きるのですね。ずっと諸外国の言葉を操る能力を身につけたわけではありません。教会は今も世界に宣教師を送り、少数民族の言葉に聖書を翻訳し、日本語への聖書の翻訳さえ、苦労しながら続けています。そんな言語の問題は、聖霊が働けば、祈りさえすればペンテコステの日のようにたちまち解決する…わけではありません。大事なのは、聖霊によって奇跡的な能力を身につける事ではないのです。聖霊に導かれて、言葉や文化や習慣の異なる人ともキリストの福音を分かち合い、ともにキリストを呼び求めるよう、私たちの心が変えられる事です。誰一人分け隔てなく、神が御自身の霊を注いで、幻を見させ、夢を抱かせて下さるのです。それは人間にとって眩しすぎる約束です。けれども、主であるイエス・キリスト御自身が、この人間の世界の真っ只中に人となって来て下さり、全ての汚れや人間の現実を経験された上で、私たちの友となり、御自身を与えてくださいました。それゆえ、私たちはこの信じがたい約束を、私たちを愛し、夢を与えると言われる神の約束として有り難く頂くのです。

 これはこのペンテコステというスタートで力強く示された、特別な出来事でした。それこそ、神のご計画のゴールの幻(ビジョン)でした。その測り知れない慰めを伝える教会は、教会自身が差別や壁を取っ払われていくプロセスにあります。この後、3章から28章まで、教会はまだまだ途上にあって四苦八苦します。私たちもまた、夢を持てない、ビジョンが信じられない、言葉や文化の違いで苦労し、差別意識に傷つきます。20節で言うように

20主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。

 子どもは夢を持てず、色々な悲しみや困難も襲ってくるでしょう。でもそういう中でも、

21しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。」

 この「救い」は明らかに17節の言い換えです。主が霊を注いで下さって、夢を持つようになる救いです。太陽が闇となり、色々な禍が起きても、主の名を呼ぶ者は夢を持って、希望を歌いながら生きるのです。ユダヤ人だ若者だ、人生をうまく渉ってきたとか、奴隷や卑しい身分ではないとか、そんな頼みの綱は悉(ことごと)く役に立たなくなっても、主はどこの誰であれ信じる者を必ず助けて、支えてくださる。そういう「主」が、実はイエスなのだ、と言うのがこの説教の趣旨です。この最初の証しに際して、聖霊が激しい風のように降ったり、炎のような舌が一人一人に色々な言葉を語らせてくださったりして、デモンストレーションをなさいました。神が世界を癒やし、一つになさるという結末の先取り。それがペンテコステの出来事でした。

 宣教師だけでなく全ての弟子が、他国の人と語る幻を与えられ、しるしとされるのです。伝道者だけでなく、聖霊は皆さん一人一人のうちにおられて、幻や夢を抱かせて下さいます。私が幻や特別な力を持つ以上に、神が救いを与えられる、言葉や文化の異なる全ての人に心を開く者となる。その途上に私たちはいます。まだまだ主のゴールには程遠く、怯えたり逃げたりする者です。ペテロもそうでした。つい2ヶ月前にイエスを三度も知らないと否定した裏切り者です。他の弟子もみんなイエスを見捨てて逃げた臆病者です。彼ら自身、夢も幻も希望も失っていたでしょう。その弱い弟子達が、ここで実に不思議にキリストの証人となっています。神はそんな弟子や私たちにご自身の霊を注いでくださいます。そして、人間には輝かしすぎて信じられないような将来の慰めの証しを私たちにさせてくださいます。全世界を覆う喜びが来る、全ての人が一緒に喜びを歌い、主イエスの御名を心から慕い呼び求める日が待っている。その日を夢見て生きる者にしてくださる、という神の約束を分かち合うのが教会なのです[6]

「大いなる主よ。ペンテコステの出来事は、あなたのご計画のゴールを見せています。世界を造られ支えたもう主は、全地を喜びの歌で満たし、全ての人を尊く慰める方。私たちに測り知れない大団円を約束してくださいました。主よ、どうぞその恵みで私たちを今も強め、新しくしてください。主の御名を呼び求める私たちを支え、あなたの約束を果たしてください」



[1] この使徒2章と同じような出来事を現代に求めたり、特別な体験を強調したりする教会もあります。しかし、それはペテロの説教の趣旨ではありません。ポイントは、「イエスこそ主である」です。信じたら、同じ能力が持てる、などという論旨は皆無です。それを忘れて、現象を考えても勿体ないことです。

[2] 約束と成就、というルカが強調するメッセージがここにも。キリストの苦難と死、そして復活が聖書のメッセージである(ルカ二四44-48)。

[3] 私たちは既に聖霊が降られたからこそ、キリストの証しを届けられ、またそれを信じて、ここにいるに他なりません。

[4] 訳の分からない「異言」や神秘的な言葉とは違うものです。

[5] あるいは「アラム語」といったほうが精確です。

[6] 「血と火と立ち上る煙」キリストの血と、聖霊が「炎のような分かれた舌」であらわれた。ジョイ・デビッドマンは自らのことを「山上の煙」と呼んだが、キリスト者は「煙」ではないか。ヨエルの意図とはかなり違うかもしれない。しかし、この日、これが成就したのだとすると、人が抱きがちな力尽くの神とは違い、徹底して救いと喜びの出来事だった。

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問71「洗礼に込められた約束」マルコ16章15~18節

2017-06-06 10:52:45 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/6/4 ハ信仰問答71「洗礼に込められた約束」マルコ16章15~18節 

 洗礼についてお話ししていますが、繰り返して、イエス・キリストの血とその聖霊とによって私たちが確実に洗って戴けることを確認しています。洗礼は、その印であり封印です。今日の問71では改めて、これが本当にキリストの約束であると答えています。

問71 わたしたちが洗礼の水によるのと同じく、この方の血と霊とによって確実に洗っていただけるということを、キリストはどこで約束なさいましたか。

答 洗礼の制定の箇所に次のように記されています。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」。この約束は、聖書が洗礼を「新たに造りかえる洗い」とか「罪の洗い清め」と呼んでいる箇所でも繰り返されています。

 ここには、マタイ28章18節、マルコ16章16節、テトス3章15節、「使徒の働き」22章16節の四つの御言葉が挙げられています。教会の教えは聖書の言葉に基づいて、聖書のハッキリとした教えに基づいて組み立てられるものです。くどくなるので毎回全部は引用しませんけれども、聖書の教えを土台として、丁寧に教えられるものです。その事を今日の所で改めて明らかにしてくれるのは、とても有り難いことです。

 ただこの問71は、次の72、73に繋がります。聖書の言葉を字面だけ取り上げて、洗礼そのものに力や魔力があるような問題です。それはまた来週話します。今日はマルコの言葉に集中します。

「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びます」。

 この言葉を読んでどう思うでしょう。

「信じて洗礼を受ければ救われるけれど、信じなければ滅びるなんてひどいなぁ。そんな脅しなんか真っ平だ」

と思うかもしれません。それはとても自然なことです。イエスは、「信じなければ滅びを宣告するぞ、と脅して信仰を持たせよ」と仰ったのでしょうか。そんなことではないと思います。むしろ、イエスは脅したり、強制したり、なさらず、ご自分に背く人々の所に来て、友となってくださいました。誰に対しても分け隔てなく近寄られ、神の恵みを示してくださいました。力や恐怖で支配する国家とは根本的に違う、神の国を明らかにしてくださったのです。

 イエスが語られた「神の国の福音」は驚くべきものでした。当時の考えでは、「神の国」は、神に選ばれたユダヤ人たちだけのもの、自分たちは神の国に入り、永遠のいのちをいただけるが、ユダヤ人以外の人々、これをまとめて「異邦人」と呼び、異邦人は生まれつき呪われている、と考えていたのです。こういう考えですとどうでしょう。

 ユダヤ人は、イエスの福音を信じても信じなくても救われます。逆に、異邦人は信じて洗礼を受けても救われないし、信じなければやっぱり救われません。洗礼を受けてもダメです。割礼というそれはそれは痛い儀式をしてユダヤ人にならなければいけない。こういう考え方は、教会の中にも根強くあったと「使徒の働き」には書かれています。けれども、イエスはこうは仰いませんでした。もう一つ、洗礼そのものに力があるという誤解もあるでしょう。ユダヤ人だろうと異邦人だろうと、洗礼を受ければ、信じていなくても救われる、という考え方です。これもイエスの言葉とは違います。

 イエスが仰ったのは、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、信じて洗礼を受けるなら、それだけで救われる、という約束でした。なのに「自分は選民だ、ユダヤ人だ、異邦人とは違うのだ、自分も洗礼を受けなければならないとか、異邦人と変わらないなんて屈辱だ、そんな教えは信じられるものか」というならば、神の国を否定するのです。そうしてそんな思い上がった選択は滅びを宣告される、というのです。「私はユダヤ人だ。イエスの福音がどんなにすばらしくても、自分はそんなものを信じなくても、特別扱いしてもらえるのだ」。そういう考え方は出来ない、とイエスは仰います。ユダヤ人だけでなく、異邦人も、お金持ちも、有名人も「自分は特別だ、自分は他の人とは違う」と頑張っても、イエスを信じて洗礼を受けるかどうか、という福音の前では平等です。犯罪者、貧乏人、その他どんな人も、イエスの前には例外扱いや特別に免責されることなどはないのです。男女も民族も身分も関係なく、イエスはすべての人をお招きになります。それは、驚くべき福音でした。驚くべき、広く、力強い招きでした。

 でもここで当然

「信じても洗礼を受けなければダメなのか?」

という疑問が出て来るでしょう。イエスを信じて、洗礼を受けなかった人はダメなのでしょうか。現実にそういう場合はありますね。洗礼を受けたくても受けられない場合はあるでしょう。でもイエスはここで洗礼を条件として仰っているのではありません。むしろ、

「信じて洗礼を受ける」

ということをとてもスムーズにお語りになっています。信じても洗礼を受けない、ということは想定もしないような、無邪気な言い方ですね。ここに大事なポイントがあるのではないでしょうか。信じる、とは私たちの「同意」ではありません。私たちが信仰を選んだり共感したりするという以前に、イエスが私たちに下さる「招き」です。

 私たちが、私たちをお造りくださった神に立ち帰り、神の子どもとして生きるという救いに与るために、イエスはご自身を十字架にお捧げになりました。私たちにはそれに相応しい資格などありませんでした。生まれや民族がどうであろうと、どんな立派な生き方をしていようと、胸を張れる人はいません。私たちの中に染みついた罪や闇、神に対する疑いや冒涜は、神のあわれみがなければ、救いようがないものです。それをイエスは憐れんで下さり、ご自身がこの地上に人間となっておいでになり、十字架の死にまでご自身を与えてくださいました。イエスが十字架で血を流してくださったことで、私たちは罪を洗われ、新しい命を頂けるのです。救いも信仰も洗礼もイエスが差し出されるのです。信仰も洗礼も、私たちのオプションではなく、イエスからの恵みなのです。

 そのイエスの招きを、私たちは受け取るだけです。そのために私たちがするのは、信じて、洗礼を受けるだけです。その洗礼によって、イエスは、本当に私たちがイエスの血によって清められ、聖霊によって新しいいのちを戴いた約束を、体で味わわせ、確証させてくださるのです。イエスは信じて洗礼を受ければ、と素朴に仰いました。そこに、私たちも、理屈をこねるよりももっと素直になって、洗礼を確かな救いのしるしとして頂けばよいのです。洗礼と聖餐というしるしがあるから、教会は今も、イエスの確かな約束に経つことが出来ます。私たちは主の恵みを味わいながら、ここから出て行けます。

 

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使徒の働き1章1-11節「地の果てまでも」

2017-06-06 10:49:36 | 使徒の働き

2017/6/4 使徒の働き1章1-11節「地の果てまでも」

 今日から「使徒の働き」から説教をします。新訳聖書では第五番目の本ですが、三つ目の「ルカの福音書」を書いたルカが著者です。ルカは福音書を第一部、「使徒の働き」を第二部として書きました。この上下二巻全体では、新約聖書の四分の一を占めます。パウロよりも多い量なのです。キリストの生涯の延長に私たちがあることをハッキリと教えられるのです。[1]

1.イエスが行い始め(1節)

一1テオピロよ。私は前の書で、イエスが行い始め、教え始められたすべてのことについて書き、

とあるのは、最初の福音書の事を指しています。ルカはテオピロさんという恐らく求道者か入信したばかりの方のために、イエスの生涯をまとめて書きました。それに続けて、教会が始まっていき、広がっていった様子を、この「使徒の働き」で綴っていくのです。この1節で

「イエスが行い始め、教え始められた」

とある言葉はそういう意味です。イエスがその生涯で行われ、教えられた事は「始め」でした。イエスは天に上げられた後、そこから弟子達に働かれて、教会を生み出され、弟子達とともにいて、宣教の働きをなさったのです。「使徒の働き」というタイトルはついていますが、実際には使徒よりも強調されているのは「主」のお働きです。主の十字架と復活は、主のお働きの前半、言わば半面です。その続きの教会の歩み出しがもう半面、言ってみれば、本論とさえ言えるような書き方をルカはするのです。

 この事は、私たちの信仰にとっても、大切な気づきをくれます。ルカはテオピロが福音書と使徒の働きを知ることで、主に対して確かな信仰が養われると考えたのです。主イエスのお働きを書く福音書だけでは不十分であって、その後の教会の歩みについても書きました。主イエスが直接なさった事だけでなく、教会の歩みも主イエスのお働きだと知ってほしい。主イエスの御生涯だけでなく、教会の歩みにも主が生き生きと働いて下さっていて、その証拠を観ることが出来る。いいえ、それを知らなければ、私たちの信仰はとてもあやふやで、心許ないものになる。そういう視点を私たちも持ちたいと思うのです。

 今も主イエスは私たちの教会の歩みに働いておられます。それを忘れて

「主イエスの教えを伝えるのだけれども、それをするのは私たちの力で、誰かの立派な功績で教会が活動をしているのだ」

と考えると間違いになります。そして、そういう間違いは、いつのまにか教会が主のためではなく、自分たちのため、自分たちの居心地の良さや、教会の活動の存続自体を目的にするようになってしまうのです。しかし、そのような自己中心そのものから主イエスは私たちを解放して下さった。実はそれこそが、イエスの与えてくださった、神の国の福音なのでした。

2.神の国を伝えるために

 ルカの福音書と言えば、クリスマスのマリヤや羊飼いのエピソードが有名です。「良きサマリヤ人」や「放蕩息子」などのドラマチックな例え話もルカにあります。「ザアカイ」や「イエスの隣の強盗」「エマオ途上」など、忘れがたいストーリーも満載です。そのような記事を通して、ルカは神がどんなお方かを、豊かに生き生きと提示してくださったイエスを強調しています。イエスが全世界の王、支配者でありながら、小さな者を愛されるお方、罪深いとされた者や社会の除け者、弱者を引き上げるお方、そのためにご自身を捧げてくださったお方であったことがよく分かるのがルカの福音書です。特に明言されている箇所の一つは、

ルカ十九10人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。

でしょう。イエスは、正しい人や善良な人や信仰熱心な人を採用するのでなく、失われた人を捜されて救われる方、そのために、ご自身がこの世に来られる労を厭わないお方です。赤ん坊として生まれ、血と汗を流され、人から笑われたり、罵られたり、文句や中傷、最後には十字架の苦しみさえ浴びせられることをも構いませんでした。そのようなお方としておいでになったイエスは、神から離れてさ迷う人間を、捜し出して、神の御支配の中に取り戻されるのです。そのイエスこそ王である、というのが「神の国」でした。3節に、イエスは復活から昇天までの四十日にそのことを教えました。それこそ教会が証ししていくメッセージだからです。

 8しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

 これも教会が「キリスト教」という宗教を広めたり、教会を宣伝したり、入信者を獲得することとは根本的に違います。失われた人を捜して救うために来られたイエスを証しするのです。実際、使徒の働きでは、どんな人が出て来るのでしょうか。物乞いをしていた障害のある人、悪霊に憑かれて占い師をさせられていた女性、監獄で働いて自殺しかけた看守…。しかしなんと言っても一番は使徒パウロです。彼は教会の迫害者でした。キリスト者をとっ捕まえて苦しめてイエスを捨てさせるのが正義だと思っていました。その彼に主イエスが現れて、彼は変えられ、軽蔑して止まなかったはずの異邦人にイエスを伝える人になります。それ自体が、使徒の働きが伝える「神の国」の宣教がどんなものか、教会の宣教のユニークさの物語です。

3.変えられて行く弟子たち

 この一章の最初を見てもう一つ気づくのは、弟子達の鈍さ、勘違いではないでしょうか。彼らはイエスの十字架と復活を見て、よみがえったイエスから神の国のことを聞かされてもなお、

 6…「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」

などと今更のことを聞いています。まだ自分の民族や国家のことしか考えられません。10節では、イエスが天に見えなくなってもボーッと天を仰いでいて窘(たしな)められます[2]。彼らは

「サマリヤや地の果てまでわたしの証人となります」

と言われてワクワクするどころかドン引きで、行きたいとも思わず、上の空で聞いていただけでしょう[3]。パウロの入信も教会には受け入れがたい出来事でした。民族や言葉の壁、過去の問題に教会は免疫を持ち合わせませんでした。しかし主は、そのような私たち人間側の持っている枠組を常に壊しながら、もっと広く、何の差別も分け隔てもなく、どんな民族の人も、どんな過去がある人も、神の国へと招き入れられるのです。当然ながら、そこには問題が起きてきます。人間の集まりとして、文化や言葉が違えば、意思の疎通がうまく出来なかったり、不公平が生じたりします。ですから、教会の中にはいつもすったもんだがあります。外からも批判や疎外が起きます。でもそれが教会です[4]。そして、キリストはそのような私たちの狭くちっぽけな考えよりも大きい王です。人の予想も付かない展開で、神の国の福音を失われた人に伝えさせ、また様々な人を教会に集められます。

 教会は、私たち人間の力や善意や計画ではとても進みません。イエスが4節で命じたのも約束を待つことでした。「頑張れ、分からないのか」よりむしろ、信頼し、静まることでした。聖霊を約束されました。8節も

「わたしの証人となれ」

との命令ではなく、聖霊によって証人となる、との約束でした。そして、後の日には再び同じ有様で戻ってくると11節で約束されます。「使徒の働き」の教会は勝利もあれば失敗もします。福音が前進しますが、むしろ教会はそれに戸惑い、驚かされ、主を崇める。そんな繰り返しです。でもそのような教会の歩みにも、主は働かれて、聖霊によって御業を果たし、地の果てまでも、失われた人を捜して救う御業を為し続けられるのです。

 私たち自身がそのような神の国の展開の中で、今ここにいます。失われた者ではなく、イエスに見つけていただいた者。民族や身分や財産や過去や、そんないっさいに囚われることなく、愛され、神の家族としてともにここにあり、世界の方々と繋がっています。その御業を知ることは、本当に私たちの信仰を確かにしてくれます。

「教会の主よ。あなた様の素晴らしさ、その愛の深さ、赦しと回復は、私たちの思いを遙かに超えています。その尊い恵みの栄光を現したイエス・キリストが、教会の歩みを通して今も働かれ、教えられ、私どもを証人として御業を進めたもうことを感謝します。聖霊が力をお与えくださり、狭く堅い心を温め、主が戻られる日まで恵みを全ての人と分かち合わせてください」



[1] ルカの福音書一1「私たちの間ですでに確信されている出来事については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、3私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。4それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。」

[2] ここには明らかに、ルカ九章の「山上の変貌」でイエスの栄光を見た弟子たちが「ここに残って天幕を建てて住みましょう」と発言したのを窘められた出来事が、並行関係にあるでしょう。

[3] 実際、八章ではサマリヤに、十章からは異邦人に信者が増えていきますが、エルサレム教会の人々は半信半疑だったり注文をつけたりするのです。パウロの異邦人伝道にも抵抗勢力はありました。

[4] 私たちは人間として自分を良く見せたいし、居心地が良い人生を望みます。自分とは異なる人との面倒はなしで済ませたいものです。それがキリスト者の人間としての実際です。

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