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聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

使徒の働き二七章27-44節「嵐の中をくぐり抜け」

2018-07-09 15:31:06 | 使徒の働き

2018/7/8 使徒の働き二七章27-44節「嵐の中をくぐり抜け」[1]

1.二転三転

 嵐で二週間漂流して、最後の夜から翌日の上陸までの一日が、今日の出来事です。直前の26節でパウロが

「私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます」

と言ったとおりになります。けれど船を操る水夫たちも、パウロを護送するローマ兵たちも、パウロの言葉を信じたわけではないし、パウロに一目置くようになっていたわけでもありません。もうパウロが信頼されていたと勘違いしそうになりますが、まだです。水夫たちはベテランの感覚で陸地が近いと気づいて水深から確かめました。ところがそれなら自分たちだけ助かろうと、錨を降ろすように見せかけて小舟を海に降ろすのですね。これに気づいてパウロが注意を促すと、兵士たちは早合点して、小舟の綱を断ち切って避難の手段を失ってしまいます。この兵士たちもパウロを信頼したわけではなくてピリピリしています。42節では、囚人達が逃げないよう殺してしまおうと計ります。最後まで「パウロの言う通り助かった」と思った様子はありません。まだ不安や疑心が渦巻く中で一喜一憂が続きます。陸地が近いらしいと喜んだり、朝まで待ったり、朝になって見たらどこの陸地かよく分からず、砂浜のある入り江が見えて、錨も舵の綱も切って船を軽くし、帆を上げて風に乗って進む。すると見えない浅瀬に座礁して船首がめり込み、船尾が壊されるほど激しい波に打たれる。最後は、泳げる者は泳ぎ、泳げない者は何かに捕まって、もう本当に二転三転、船も気持ちも浮き沈みを繰り返しての上陸だったのです。

 私は泳げないカナヅチですから、この場にいたら最後まで生きた心地がしなかったでしょう。パウロの言葉があっても、いいえ直接主が幻で現れて、

「恐れることはありません」

と言ってくださったとしても、それでも次々に起きる困難に、意気消沈したり怖じ気づいたり、泣き喚いたかもしれません。主がともにいてくださるとは、すべて順調でスムーズに行くことではありませんね。まさに下が見えない海の船旅です。浅いのか深いのか。凪かと思えば嵐になり、遠くまで運ばれて、そう旅立った人が二度と帰ってこない。聖書で海は恐怖や死と結びつけられていて、黙示録には

「新しい天と新しい地」

には

「海がない」

と言われるぐらいです。(ヨハネの黙示録二一章一節)そういう「海」の旅路を、翻弄されつつ、色々な出来事や嵐の中でも主はともにおられて歩み続けるのです。

 それは「人間の努力が無意味だ」ということではありません。パニック映画には、祈るだけで何もしない信心深い人たちが出て来ますが[2]、パウロは「天命を信じて人事を尽くす」人でした。水夫たちの働き、経験値や役割を認めています。水夫が逃げようとするのを放っては置かず、「助かるためには彼らが必要だ」と逃がさせない。現実的なパウロの姿が印象的です。

2.パンを裂き

 何よりもパウロの行動は、食事を勧めたことですね。嵐で絶望して食欲も失せていたのか、取っておいたのか。十四日丸々絶食していたかはともかく、腹ぺこでは上陸出来ません。パウロが食事を勧め、自分からパンを取って、神に感謝の祈りをささげて、裂いてパクパク食べ始めた。その姿に

36それで皆も元気づけられ、食事をした。」

のです。22節でも25節でもパウロは

「元気を出しなさい」

と言っていました。その言葉がやっと今パウロの食事の姿を通して、届いたのです。ここでパウロがパンを取り、感謝の祈りをささげて、裂いて、食べた、というのは明らかに聖餐式を思わせます。教会の礼拝で、パンを取り裂いてキリストが十字架で裂かれた体を覚える、あの聖餐式と同じ言葉遣いです。とはいえぶどう酒はなかったのですし、パウロは一人で食べ始めていますから「聖餐式を行った」のではないでしょう。それでも聖餐式を思わせます。主がご自分のいのちを献げて、苦しみの死をもってしてまで、私たちに救いを下さいました。キリストの十字架を思う時、私たちは希望を持つことが出来ます。パンを裂く時、私たちはキリストによって、一つとされていることをありありと味わいます。聖餐式ではなくとも、パウロが嵐の中で、希望をもってみんなに食事を勧めて、神への感謝を祈りつつパンを裂き、飄々とムシャムシャ食べている姿は、確かに皆を元気づけました。私たちも嵐の中でもパンを食べ、キリストからの命を味わって証しをするのです。

 この時パウロは34節で

「あなたがたは助かります。頭から髪の毛一本失われることはありません」

と言います。これはイエスも使われた「失うことは何もない」という強調表現です。文字通りとは思いません。人は何がなくても、毎日50本から100本の髪の毛が抜けるそうです。それ以上に、積み荷は失い、船も失い、手荷物も持ち出せなかった。こういう状態は「何もかも失った」と言わないでしょうか? 「髪の毛一本失われない」よりも荷物を、自分の財産、地位、人生を返してくれ、と言われるとは思わなかったのでしょうか。

 ここに大事なポイントがあります。荷物も船も、髪の毛と同じくいずれは必ず失われます。私たちの持ち物や仕事、立場や生活スタイル、健康や人間関係、多くのものは脆いものなのです。私たちはそれを失った時に愕然として、「どうして?」と不公平な目にあったように思ったり、神は意地悪だと腹を立てたりしますが、神が「失われることはない」と仰ったのは、そういう人間の期待とは違う意味でした。イエスは

「人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではない」[3]

と仰いました。それは、積み荷より何より大事な体験です。

3.全員が無事に

 船長たちは積み荷や商売の事に目が眩んで、無謀にも嵐の中に船出してしまいました。結局そのために、積み荷も船も海の藻屑にしてしまいました。最後には、全員のいのちだけが助かりました。嵐の中をくぐり抜けて、いのちだけが助かり、他のものはすべて失ったようでした。でもその人に対してパウロは言うのです。「髪の毛一本も失われなかったね。よかったねぇ~」と。「生きてくれて良かった。助かってくれて良かった。あなたがいるだけで良かった。失ったと言わなきゃならないものなんて何もない」。それは何と有り難いことでしょう[4]

 先にパウロはコリント人への手紙で、人生を建物に例えてこう書いていました。

「だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。」[5]

 木や草や藁、焼けてなくなるようなものを頼みとして生きてきて、最後は全部を失ってしまうこともある。なくなるものを頼みにしてきて、最後に全部を失うことはひどい損害です。でも、「だからその人もダメだ」ではなくて、

「その人自身は火の中をくぐるようにして助かります」。

 人生を無駄にしたとしても神はその私たちを受け入れてくださる。喜んで迎えてくださるのが神です。パウロはそういう言葉を語っています。そして、この最後で、人々が上陸したことを

「こうして全員が無事に陸に着いた」

と言い切っていますね。

 自分さえ助かればと小舟に乗ろうとした水夫もいました。兵士たちは、保身のため囚人達を殺そうとしました。でも、そういう企みも、船や積み荷ごと神は引っ繰り返されました。人の命よりも物や面子を重んじてしまうような生き方を神は引っ繰り返されます。私たちも、失うようなものを全部失って、嵐の中をくぐり抜けた時、「あの時、あんなことさえしなければ」とか「積み荷も船も失った」と損を数え上げたり、失敗を非難し合ったりするのでしょうか。いいえ、何もかも失ったようでも、「あなたが無事で善かった、命が助かったのだから、何も失わなかった」と言えるなんて素晴らしいことではないでしょうか。この神との出会いが、今ここでの私たちの生き方も変え始めています[6]。私たちの命を喜ばれる神の視点によって、今ここで、嵐の中でも神に感謝を献げ、パンを分け合う場が教会です。嵐の中、一喜一憂する中、パウロのように「元気を出そう」と励まし、助け合うように変えられましょう。浮き沈みの絶えない世界だからこそ、お互いの無事を喜び、神に感謝していく。そのための教会です。

「主よ。外に嵐がある中、今日も私たちはここであなたの善き力に信頼をし、感謝と希望を確かめています。パンを裂き、主の恵みを分かち合っています。嵐や困難に揉まれ、最後には死をくぐって、何も持って行くことは出来ませんが、失ったと言えるものは何一つないと言えるゴールがあります。その途上で、どうぞ助け合い励まし合う歩みを今週も育てさせてください」



[1] 「使徒の働き」を一章ずつ読んで来ましたが、最後の二七、二八章はじっくりと二回ずつ読みたいと思いました。今日は二七章の後半、嵐にあって船が流され絶望した状況から、陸地に辿り着いて、最後は全員が助かるという顛末です。リアルな映画で観たいシーンです。

[2] 「タイタニック」「ポセイドンアドベンチャー」など。「神が守ってくださるのだから」と無理をするか何もしないか、どっちか極端になりがちです。

[3] ルカ十二15「そして人々に言われた。「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」

[4] ルカ二一18にも「しかし、あなたがたの髪の毛一本も失われることはありません。」とイエスが同じ言葉を仰っていますが、その前後関係は「10「それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、11大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます。12しかし、これらのことすべてが起こる前に、人々はあなたがたに手をかけて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出します。13それは、あなたがたにとって証しをする機会となります。14ですから、どう弁明するかは、あらかじめ考えない、と心に決めておきなさい。15あなたがたに反対するどんな人も、対抗したり反論したりできないことばと知恵を、わたしが与えるからです。16あなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにも裏切られます。中には殺される人もいます。17また、わたしの名のために、すべての人に憎まれます。18しかし、あなたがたの髪の毛一本も失われることはありません。19あなたがたは、忍耐することによって自分のいのちを勝ち取りなさい。」という迫害の文脈です。

[5] Ⅰコリント十13。

[6] この経験は、船や積み荷は失う、という知恵をもたらしてくれました。また、自分だけ助かればいい、という水夫たちのような個人主義でもないし、集団として助かるためには囚人は殺して逃がさないという兵士たちのような全体主義でもないことを学ぶ経験でもありました。それぞれが協力し合いつつ、全員を生かすようなあり方へと導かれて行く物語です。

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問129「アーメンってどういう意味?」Ⅰコリント1章4-9節

2018-07-01 16:15:26 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/7/1 ハ信仰問答129「アーメンってどういう意味?」Ⅰコリント1章4-9節

 今日でハイデルベルグ信仰問答の最後になります。「主の祈り」の最後の「アーメン」の話です。祈りの最後「アーメン」と言います。そう言わなければならない訳ではありませんが「アーメン」と付け加えます。「アーメン」は「これで終わりです」という意味でしょうか? お祈りの最後の挨拶とか、「いいね!」だと思っている人もいました。そして、キリスト教といえば「ああ、アーメンか」と言われて、ちょっとカチンときた経験もあるかも知れません。しかし、このハイデルベルグ信仰問答も、アーメンで結ぶのです。それはキリスト者にとって、アーメンが一番相応しいから、と言うようです。

問129 「アーメン」という言葉は何を意味していますか。

答 「アーメン」とは、それが真実であり確実である、ということです。なぜなら、これらのことを神に願い求めているとわたしが心の中で感じているよりもはるかに確実に、わたしの祈りはこの方に聞かれているからです。

 アーメンとは「真実です・本当です・確実です」という意味です。嘘ではありません、心からの願いです、という意味だとも言えます。そうすると、祈りの最後にアーメンと言うのは、今まで祈ってきた事が本当です、私の心からの願いです、という意味かと思いそうになります。けれども、ここではそうは言いません。むしろ、

「これらのことを神に願い求めていると私が心の中で感じているよりもはるかに確実に、わたしの祈りはこの方に聞かれているから」

と言います。私たち祈る者たちの真実さのアーメンではなくて、神さまご自身の真実さを指して、アーメンというのです。神が真実であられます、そういう意味でも、最後の言葉

「国と力と栄えは永久にあなたのものだからです」

とセットになっている

「アーメン」

です。「あなたのものだからです、本当に」なのです。

 聖書には「アーメン」という言葉が何カ所にも出て来ます。そして、イエスが何度も仰っているのです。新約聖書はヘブル語でなく、ギリシャ語で書かれているのですが、ヘブル語のアーメンが、旧約聖書の何倍も多く出て来ます。そして、その多くがイエスの言葉でした。日本語の聖書では「まことにまことに」と訳されていますが、イエスが繰り返して仰ったのが、本当に、という言葉での念押しでした。弟子たちに何度も「まことにあなたがたに言います」とゆっくり、力強く、丁寧に仰ったのです。

 そこで、後に沢山の手紙を書いたパウロは、イエスの事を真実な方と呼びます。

Ⅱコリント一20神の約束はことごとく、この方において「はい」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです。

 神の約束が、イエスにおいて事実になった。イエスは、本当に神の約束そのもので、その言葉には何一つ偽りがなかった。だから、私たちが「アーメン」というのは、神に栄光を帰することです。神が真実な方でいらっしゃることを告白する賛美なのです。今読みましたⅠコリントの一章ではこのような言い方をしていました。

Ⅰコリント一8主はあなたがたを最後まで堅く保って、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところがない者としてくださいます。

神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。

 神は真実です。神は真実です。この真実な主が、私たちをイエス・キリストとの交わりに入れて下さって、最後まで堅く保って、終わりの日にも責められる事がない者としてくださる。それは、私たちが真実であれば、という私たちの真実さ次第、私たちの信仰さえあれば、という事ではなく、神が真実なお方だから、なのです。黙示録にも

黙示録三14また、ラオディキアにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、確かで真実な証人、神による創造の源である方がこう言われる-。

 イエスの名前が「アーメンである方」と言われています。イエスは、神の約束をすべて果たしてくださいました。口先で「まことにまことに言います」アーメン、アーメンと繰り返しただけでなく、ご自身が主の約束を本当にしてくださいました。

 人間が大切な手紙を書いた最後に、自分の署名をしたり、印鑑を押したりするのは、この内容が本当に嘘偽りないことを誓います、という意味ですね。誓約です。ここで偽りがあると、「公文書偽造罪」という罪に問われる場合があります。私たちが祈りの最後に「アーメン」というのは、これとは違います。私たちの側の嘘偽りなさを誓うのではありません。私たちの願い以上に、イエス・キリストが真実であられます。神が王であられます。だから、そのイエスの真実にお任せして、私の祈りや願いも、生き方や人生、私そのものもあなたにお捧げしますと祈るのです。そして、神が私たちの願いを聞いてくださる。私の側の問題や不十分さを責めて、公文書偽造罪を正されるのではないかと恐れなくて良いのです。この私の祈りも、イエス・キリストのゆえに聞いて戴ける。

 主の祈りは祈りの土台です。御名が聖とされますように、御国が来ますように、御心が天でのように地で行われますように、日毎の糧を与えてください、負い目をお赦しください、試みに遭わせず悪からお救いください、と祈りました。その祈りを授けてくださったイエスご自身が真実な方、アーメンのお方です。本当にそうなるのです。御名が聖とされ、御国が来る。皆にパンが与えられ、罪が赦され、互いにも赦し合い、悪から救い出されるゴールなのです。聖書の約束は、すべて確実に成就します。私たちがそれを信じられなくても、私たちが神の約束を十分理解できていないとしても、老人になって忘れたり何も覚えていなくなったりしたとしても、イエスは神の約束を果たしてくださる。この世界の歩みも、この宇宙そのものも、神の約束の完成に向かっています。

 人の言葉は変わります。人の言葉を信じて騙された経験があるでしょうか。親切そうな言葉や強い言葉が流行しては消えていくうちに、私たちは神の言葉もどこかで疑ってしまいます。けれども、そういう私たちの体験には収まりきらないほど、神の言葉は真実では。神は決して私たちを裏切りません。神の素晴らしい約束は今も変わりなく、やがて完全に現されます。そして私たちもそこに確実に入れられる。そういう約束を神は下さっています。アーメンは、祈りの結びだけではありません。私たちの人生の最後にも、この世界の歴史が終わる時にも、神は真実であられた、アーメンと言う日が来ます。神の真実がすべてを新しくする日が必ず来ます。その事を信じる告白でもあるのです。

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使徒の働き二七章1-20節「絶望の中の希望」

2018-07-01 16:05:50 | 使徒の働き

2018/7/1 使徒の働き二七章1-20節「絶望の中の希望」

 使徒の働きの最後の二章はパウロがローマまで辿り着く旅行記です。あっさり省略して「嵐もあったがローマに着いた」でも良いのにあえて詳しく書きます。聖歌の「人生の海の嵐に」を思い起こす、そしてあの聖歌のように人生の嵐に悩む時の慰めになってくれる結びです。

1.旅の流れ

 この27章前半は地図を見ながら読んだ方が分かるでしょう[1]。カイサリアからシドン、キプロスの島陰、キリキアとパンフィリアの沖、リキアのミラ港に入港というコースです。

「アドラミティオ」

はエーゲ海北東の町でそこに帰って行く船を利用したのでしょう。そしてミラでアレクサンドリアの船に乗り換え、クニドへ、四国ほどの幅のクレタ島の島陰に入り

「良い港」

に着いた。二度も

「やっとのことで」

と相当風向きに難儀をして、1400kmの旅は、予定よりも大幅に遅れてしまったのです。

9節「かなりの時が経過し、断食の日もすでに過ぎていた」。

 この「断食の日」はイスラエルのカレンダーで10月頃に祝われる「贖いの日」の事ですが、地中海の船旅は9月の半ばを過ぎるともう危険で、11月11日から3月10日までは航海は行わなかったそうです。既にここまでで風は強い年でしたから、危険は予測できました。ですが、船長や船主はもう少し西の港に行きたいと欲を出してしまう。13節で穏やかな南風が吹いたのをこれ幸いと船を出します。しかし直ぐに暴風が叩き付けて船は流されてしまう。小舟を引き寄せ、綱を巻き、浅瀬に乗り上げないように、と必死です。翌日には積み荷を捨て、三日目には船具さえ投げ捨てますが、何日も真っ暗な中を揉まれながら過ごします。

「私たちが助かる望みも今や完全に断たれようとしていた」

という心境で何日もした頃[2]、パウロが立ち、

21…言った。「皆さん。あなたがたが私の言うことを聞き入れて、クレタから船出しないでいたら、こんな危害や損失を被らなくてすんだのです。

22しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う人は一人もいません。失われるのは船だけです。

23昨夜、私の主で、私が仕えている神の御使いが私のそばに立って、

24こう言ったのです。『恐れることはありません、パウロよ。あなたは必ずカエサルの前に立ちます。見なさい。神は同船している人たちを、みなあなたに与えておられます。』

25ですから、皆さん、元気を出しなさい。私は神を信じています。私に語られたことは、そのとおりになるのです。

26私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます。

2.パウロの発言

 確かにパウロが最初に言ったように、クレタの港でパウロは警告していました。その通りになりました。パウロは船乗りではありませんが、船旅をして、Ⅱコリント十一25では

「難船したことも三度」

と言うほどの経験がありました[3]。また、船乗りの判断を当てにしたら危険なことも経験していたのでしょう。あそこで向こう見ずに船を出さず、賢く行動していたら良かった。そうすればこんな嵐に遭って結局積み荷も捨てて命まで絶望的な思いをすることはなかったでしょう。愚かな行動の結果、どんなに悔やんでも取り返しは付かないのです。

 しかし、パウロの要点はその非難ではありません。責めて後悔させて、自分が正しかったのだと今更の発言をしたかったのではないのです。その後の

「元気を出しなさい」

がパウロの要点なのです。この絶望的な状況も、絶望ではない、そこから希望を持つことが出来る。神は人間にとって、望みが絶たれたように思える状況、愚かな選択のどうしようもない結果、太陽も星も見えない真っ暗な嵐の中でさえ、希望を語ってくださる神です。パウロはその希望を宣言するのです。元気を出しなさい、と語るために立ったのであって、責めるためではありません。

 パウロがただ宗教熱心なだけでこの生ける神、創造主なる神を知らなかったらどうでしょう。ここで人々を非難して「やっぱり私が正しかった」と見下したでしょう。その後の希望も、「悔い改めたら救われる」と条件付きの救いだったような気もします。でもそうではなかった。パウロがこの時に語ったのは、夕べ主がパウロの枕元に立って

「恐れることはありません。パウロよ」

と語って、将来を約束してくださったからです。そして、パウロは自分だけが助かってローマに行けたら良い、こんな傲慢で罰当たりな連中は滅びたらいい、などとは思っていなかった。だからこそ、主との間に同船者たちの安全も話題になったのでしょう。そして、この希望が語れるまで、パウロは黙っていました。「だから言ったのに」という嫌みならいつでも言えたのに、そんな言っても仕方のないことは言わなかった。主の幻で希望がハッキリした時、初めて、立ち上がって語りかけたのです。責めるためではなく、また、この機に乗じて悔い改めや信仰を持たせるためではなく、あるいは空望みや曖昧な慰めを語るためでもなく、自分の神である方がハッキリと与えてくださった希望を、一人一人に語るため、励ますためでした。

3.神の冒険

 「使徒の働き」の最初でルカは本書の内容を

「イエスが行い始め、教え始められたこと」

と切り出しました。イエスがなさったことはもう終わったのではなく、始まりでした。イエスは今も教会に、また教会を通して働いておられ、教えておられる。人を変え、ユダヤ人と異邦人を和解させ、絶望の中に希望を語られます。死で終わりでなく、復活という望みがある。ただの道徳や宗教ではない、イエスが生きておられ、今も働いて、命の業をなさっている。そういう御業が、この最後のパウロのローマへ行く旅路に本当に力強く現されているのです。

 今も舟は人間社会や人生の譬えに使われますが[4]、聖書にも船は度々出て来ます。弟子たちは既にイエスの話を聞いて、神の国の教えやイエスの語る素晴らしい希望に心燃やされる思いをしていたはずです。群衆がその話を聞きに大挙してきたぐらい、イエスの話に元気をもらっていたのです。しかしその後、船に乗って嵐に遭ったら、途端に恐れて信仰も吹っ飛んでしまいました。でも「だからダメ」じゃない。しくじって、間違ってしまうのが人間です。そしてそういう弟子たちとイエスはいてくださる。今日の箇所もそうです。パウロの語るイエスが、嵐の中でもともにおられて、絶望的な状況から生還させてくださったのです。

 パウロは「自分の言ったとおりにしなかったから嵐に遭った」とは言いません。最初から強い向かい風だったのです。パウロは現実主義者です。「信じて祈れば嵐も恐れない」と強行突破しようとはしません。嵐がある、思うままにならない。

「良い港」

と思ったら冬を越すには適さない。それでも待った方がよい時があります。ちょっと穏やかな風が吹いて、やったと思って動き出したら暴風に襲われる。判断を間違えてしまう。そういうあれもこれもひっくるめた冒険なのです。そして神はそういう歩みを紡がれるのです。向かい風に悩まされ、明らかな警告無視で漂ったりしても、そこからさえイエスは道を開いてくださる。望みが完全に絶たれたような中にも、そこで新しい事を創造してくださる。希望を持たせて下さる。私たちが信じられなくても、神は私たちを導いて、船旅を最後まで導いてくださる。そして私たちが無謀な愚かな行動をしたり、絶望したりせず、人生に十分取り組めるよう助けてくださるのです。

 海外宣教週間です。宣教師の報告には、その働きが順調で、成果が見えることばかりを期待しやすいものです。実際には、そこにいる方々との個人的な関わりや思うままにならない状況で待たされたり思いがけない関わりをしたり、宣教師やご家族が深く心を探られたり取り扱われている様子が伝えられます。単純ではない、人間的で人が大事にされる出来事が、今も続けられています。イエスは今も生きて働き続けておられます。待ちきれず、欲を出して判断を誤り、嵐にもまれて神も希望も失ってしまうような私たちの中に、イエスは働いて下さっています。この方から希望を戴いて、元気を戴いて、その元気を無条件に分かち合っていきましょう。

「主よ、あなたは私たちの主、私たちはあなたのものです。造り主なるあなたが、今も私たちの旅路にあなたの物語を紡いでおられます。船もこの体も世界も壊れますが、そこにもあなたの御手を信じて手を開きます。変えられない過去を責める思いから救い出してください。失敗や嵐や絶望を見据え、そこにもあなたの創造の御業を信じて、慎みをもって歩ませてください」



[1] ルカはこの「使徒の働き」を、当時の地理感覚がある読者に書いています。ですから、その地理感覚がない読者は、地図や資料で理解した方がより分かります。それがないままだと、全く見当違いな読み方をしかねません。

[2] 19節には「三日目」、27節には「十四日目」とありますから、その間、一週間か十日経った頃でしょう。

[3] Ⅱコリント十一25「ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。」

[4] 古歌に「世は海よ身は浮き舟よ 心をば 舵とぞ思い 心して漕げ」というのがあるそうですが、その他多数・・・。

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