聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

イザヤ書9章1~7節「ひとりの男の子が生まれる」アドベント第二聖日

2018-12-09 20:23:26 | 聖書の物語の全体像

2018/12/9 イザヤ書9章1~7節「ひとりの男の子が生まれる」アドベント第二聖日

 イザヤ書は旧約でも「第五福音書」と呼ばれるほどキリストについて語っている書です。いくつものキリスト預言が出て来ますが、その有名な一つがこの9章6~7節です[1]。紀元前8世紀のイザヤが主に語られた言葉として、やがて一人の男の子が与えられる、と言われています。そしてそれはまさしくイエス・キリストがどのようなお方であるかを言い表しています[2]

 イザヤの時代、紀元前八世紀から七世紀は、イスラエルの国が南北に分裂していがみ合っていた「分裂王国」の最後の時代です。イザヤがいた南のユダ王国は、敬虔なウジヤ王が死んで、狡猾なアハズ王が王になり、イザヤと厳しく対立します。特に、国際情勢が大きく動いて、アッシリヤ帝国が台頭します。やがて北イスラエルがアッシリヤに滅ぼされて捕囚となり、南ユダもその勢力に呑み込まれそうになります。アハズ王は日和見的に、アッシリヤと手を組もうとしますが、イザヤはアハズに、動揺せずに主を信頼するよう勧めます。アハズ王はイザヤに耳を貸さずにアッシリヤとの同盟を結び、結局はアッシリヤに散々苦しめられることになりました。神を信頼するよりも、外国の勢力を頼み、結局自分の首を絞めてしまう。いや、そう言われていたのに、その言葉に聴かないアハズ王、そして国民全体の傾向があったのです。

 つまり、キリストの預言の言葉は、当時の国際情勢や政治を視野に入れて語られたものです。経済や生活の危機が迫っている中で、その情勢も神のもっと大きな御支配の中にある、と諭す意味を持っていました。ただの将来への希望ではなく、現実が大きく動く中での言葉でした。そして、そのようなイザヤの言葉を信頼せず、神ではないものに縋ろう、人間の権力とか戦争、計算だけで生きようとする王に対して、神の支配はどんなものかを語るものでもありました。神の支配を嫌がって、自分の力だけで何とかしよう、不正や自己保身を変えまいと思うアハズ王に対して、イザヤは主が王である事を語り続けたのです。少し前の八章の結びを読みます。

八20ただ、みおしえと証しに尋ねなければならない。もし、このことばにしたがって語らないなら、その人に夜明けはない。21その人は迫害され、飢えて国を歩き回り、飢えて怒りに身を委ねる。顔を上に向け、自分の王と神を呪う。

 主の言葉に従わないで、身の破滅になるような日和見や、強者に靡(なび)く落ち着かない生き方で、

「夜明けはない」

闇を迎えてしまう。迫害や飢えや放浪をする羽目になる。その上それで反省するのでなく、怒りに身を任せて、顔を上げて王や神を呪う。この時代の在り方を言い当てています。自分で拙速な判断をしておきながら、人や神に腹を立てている。そういう状況です。

22彼が地を見ると、見よ、苦難と暗闇、苦悩の闇、暗黒、追放された者。九1しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地と      ナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。

 神に従わない結果、見渡しても苦難と暗闇、苦悩の闇。しかし、その所に、神は光を輝かせてくださいます。大きな光、栄誉をもたらすと言われます。繁栄、喜び、平和が与えられる。しかし、この地名はイザヤのいたエルサレムからは遠い辺境の地、

「異邦の民のガリラヤ」

と言われるような僻(へき)地(ち)でした。アハズにとってはアッシリヤに滅ぼされてしまえ、と思うような敵地でした。アハズに大事だったのは、自分の国、いや自分の立場や保身だけでした。しかしイザヤが語るのは、主が人にとって意外な所から光を輝かせる、という予告です。中央からの回復よりも、地方からの回復です。自分の真上から光が照るのでなく、あんな所には行きたくないと思っていた所に光が照り始めるのです。闇の中に歩むのが自分だけであるかのように、他者や王を呪う者が、世界は真っ暗だと思っていると、神は、他の人も闇の中にいる事に目を留めておられ、そこに光を輝かせてくださる。そのこと自体が、アハズ王は勿論、人間に対しするチャレンジではないでしょうか。神は

「わたしはあなたが考えている神とは全く違う」

と仰るのです。神の言葉を侮って、自分のプライドや成功のために、権力とか暴力とかに縋り、弱者や外国人を虐げたり切り捨てたりして、争ったり結託したりする人間社会や、国家や国際情勢があります。神の言葉は、やがて来る王は、そんな方向とは全く違う王で、闇に光を照らし、苦しみを慰めるお方。一人の嬰児(みどりご)として現れる、不思議で柔和な王だと宣言するのです。

 生まれる子どもの「名」の最初は

「不思議な助言者」

ですが八18にも不思議がありました。

八17私は主を待ち望む。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に望みを置く。18見よ。私と、主が私に下さった子たちは、シオンの山に住む万軍の主からのイスラエルでのしるしとなり、また不思議となっている。[3]

 ここでイザヤは、自分たち家族がイスラエルにとってのしるし、不思議となっている、と言います。現状、主の御顔は隠れているようで見えない。人が争い、差別をし、弱者を排除している殺伐とした社会で、主の顔は見えない。けれども、私は主を待ち望む。こうした時代に主を信頼している自分が、そして主が与えてくださった自分の子どもたちが、この世界にある不思議なしるしだ。そう、権力とか武器とか経済ではなく、主が私に与えてくださった子どもたち。御顔を隠しておられるように思えても、この子どもたちは主が下さった宝物。この前、七章八章と主はイザヤに子どもたちをしるしとして同伴するよう告げています。主は子どもの存在そのものを示されます。隠れているように見えても、主はいのちを与えてくださっています。その恵みを忘れて、権力や暴力に走り、神を信頼するより大国に頼もうとするなら、何と勿体ないことでしょう。「神が見えない、キリストが主であるというなら、どうして自分の人生は苦しいんだ」と、何かあれば怒りを溜め込んでしまう。そんな勘違いした人々の中で、それでも神を待ち望み、小さな子どもたちを神の授かり物とするイザヤ一家の存在が、そのまましるしでした。その延長に、やがて

「ひとりのみどりごが生まれる」

という約束がありました。

 キリストは私たちのためにお生まれになり、私たちに与えられました。それも権力や魔法で私たちを幸せにするよりも、ご自身が嬰児となって、無力で素直で無防備な姿で、私たちのもとに来てくださいました。この無防備で無条件に私たちの所に来てくださったことこそ、その小さな赤ん坊の両肩にある主権でしょう。イザヤの子どもたちを通して平和を語られた主は、ご自身が赤ん坊となる事によって、神の支配がどんなものかをお示しになったのです。キリストは人が願う力や奇蹟で人の夢を叶えるサンタクロースではありません。人に手なずけられる王ではなく、私たちを新しくしてくださる王です。私たちの天国ではなく、お互いや多くの人もともに平和に与る栄光の御国という、大きな新しい夢を持たせなさる王です。私たちの願いに役立つ助言ではない、予想もつかない不思議な助言を語られるお方です。何より私たちのために赤ん坊となって生まれ、大人になっても幼子のようで、最後は裸で十字架にかけられました。イエスの柔和さ、無防備さ、憐れみこそが世界の光であり、イエスの主権です[4]

 聖書はキリスト者の心に、御言葉を聞き流して、助けにならないものに縋る現実を受け止めています。気に入らない人には目もくれない狭い思い上がりもあります。何かあれば、怒って神をさえ呪いかねません。そんな闇にキリストが来てくださったのです。そして今も、隠れているように見えても、主は私たちを治めておられ、私たちの願いそのものを新しくし始めておられます。神の国がどんなものかを知らないまま、今への感謝や他者への憐れみのないまま、ではないようにしてくださっています。御言葉や子どもたちや、交わりや学び、自分の怒りや痛みや失敗を通して、変えてくださっています。私の願いが叶わなくて怒るよりも、もっと広く大きな神の国を知らされて慰められ、主の御国を心から待ち望むようにされています[5]

「主よ。なんと不思議な名前で迫ってくださるのでしょう。どうか、思いをあなたに向けさせてください。人の痛みも、あなたの約束も棚に上げて、自分の本当の必要さえ押し殺して、痛々しい道を選ぶ生き方から自由にしてください。私たちはあなたを待ち望みます。その待望に相応しく今ここで平和を作り、子どもたちを喜び、いのちを育む生き方を歩ませてください」



[1]ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」

[2] それとともに、それが七百年も前の時代に語られたとはどういうことなのか、を思います。イザヤの時代の人々にとって、将来このような王が生まれるということが慰めになったのでしょうか。そして、実際にイエス・キリストがお生まれになって二千年経つ私たちにとっても、キリストが既にお生まれになって、その御業を果たされて、平和の君として治めておられる、という言葉がどれほどの意味を持っているのでしょうか。どこか虚しく、空々しい声にも聞こえてこないでしょうか。そんな疑問とも通じる文脈がここにあることを気づきたいのです。

[3] この二つの「不思議」は原文では違う言葉が使われています。ニュアンスは違っていますが、イザヤが七章以来、赤ん坊という見えるしるしを通して語っている延長上にある事として扱います。

[4] 世界の多くの権力者にとっては厄介極まりないことだとしてもです。

[5] マハトマ・ガンジーは「もしあなたが世界の変化を見たいのであれば、あなた自身がその変化にならなければならない」と言いました。キリストは、まず私たちをその「変化」としてくださいます。

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はじめての教理問答59~60 Ⅱコリント書7章5~13節「良い悲しみ 悪い悲しみ」

2018-12-02 15:50:00 | はじめての教理問答

2018/12/2 Ⅱコリント書7章5~13節「良い悲しみ 悪い悲しみ」はじめての教理問答59~60

 教会で良く聞く言葉の一つに「悔い改め」があります。「悔いる」とはどういうことでしょうか。自分がしたことを悪かった、間違っていたと考えることでしょう。しかし、今日の聖書には、こんな意外な言葉がありました。

「神の御心に沿った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせます」。

 後悔のない悔い改め。とても面白い言葉だと思います。そして、大事にしたい言葉です。教会で「悔い改め」が言われる時、ともすると、後悔と同じ意味で使われる言葉があります。後悔しても仕方が無いことをいつまでも悔やんで、謝罪し続けるのが神さまの御心だと思われていることもあります。聖書で言う「悔い改め」はもっと積極的で、もっと前向きなことです。

問59 罪を悔い改めるとはどういうことですか?

答 自分の罪を後悔し、憎み、捨て去ることです。

問60 どうして罪を憎み、捨て去らなければならいのですか?

答 神さまは、罪を喜ばないからです。

 神が罪を喜ばないから。この理由は、とても子どもっぽく思えますね。神が罪を喜ばないから、罪を憎み、捨て去るのだ。ここには、神との幼子のような信頼関係が前提にあります。「神が私を愛してくださっているので、私は神が喜ばないことを憎み、捨て去ります。」そう単純に言い切る、基本的な神との関係が大前提にあるのです。

 今日の問いよりも前では、私たちの救いは、私たちの行いによるのではない、神の恵みの契約による、という聖書の教えを確認してきました。救いは、私たちの行いに依るのではありません。悔い改めも、救いの条件ではありません。悔い改めなければ救われないとか、悔い改めなければ神との関係がなくなるから怖くて悔い改めるのではありません。神が私たちに救いを下さって、私たちを神の子どもとして下さいました。神が私たちを喜んで神の子どもにしてくださって、私たちが神と「天のお父さん!」と呼ぶことを喜んでくださるのです。神が私たちを喜んでくださっている。だからこそ、私たちは、自分の罪を後悔し、憎み、それを捨て去ろうとせずにはおれないのです。夕拝の「罪の告白」で引く聖句の一つを思い出してください。

詩篇三二3私は黙っていたときには、一日中うめいて、私の骨々は疲れ果てました。

 5…私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪を赦されました。

 罪を認めずに黙っている時、自分が悪くはないのだ、と思おうとしている間、心には呻きがあり、骨まで疲れてしまうのです。そういう強張った生き方から、自分の非を認めて、罪を知らせ、咎を隠さないで告白する。すると、その罪を主は赦してくださった。それはどんなに自由で、喜ばしい経験でしょうか。神の恵みを豊かに知らされて、味わう時に、私たちは、神に逆らっている罪を認めざるを得なくなります。それも、神さまに責められるような思いからではなく、自分の間違いだった、と認めて悔いることで、握りしめていた拳の力を抜いて、手を開くような悔い改めを持てるのです。そうして神の方を向き、罪を認めて、神に向き直ることは、黙っているよりも喜ばしい出来事です。その時には痛みがあるでしょう。罪を認めることは悲しみでしょう。神を知らなければ、その悲しみは重すぎる後悔になります。取り返しのつかない過ちの重さに絶望してしまいます。そういう悲しみは

「死をもたらす悲しみ」

です。

 神を知らない世界の悲しみは死をもたらします。しかし、神は命をもたらすお方です。私たちを喜び、死から命へと移して下さる方です。だからこそ、私たちの心を毒したり、関係を傷つけたりする罪を、神は喜ばれません。罪とは「悪いこと、ひどい思い」という以上に、神の御心に逆らうことです。神に造られ、神に生かされ、神に愛されていながら、私たちの心にはなお罪があります。神に逆らう思い、神よりも他のものを大きく考える生き方、高慢や嘘や憎しみ、醜い心、自分でもゾッとするような妄想などがあります。それは本当に恥ずかしい事、悲しむべき事です。しかし、そんな私たちをも神は愛して、神の方から救いを下さいました。悔い改めたら救ってやろうとか、お前のような罪人は滅びて当然だとか、救ってやるけど後悔して神妙にしていなさい、とは言われません。神は喜んで私たちを子にしてくださいました。だから私たちは安心して自分の非を認めることが出来ます。神に背を向ける罪から方向転換して、神へ向き直れます。それが悔い改めです。罪を認めることは、その時は途方もなく苦しく、黙って済ませたいと思います。一時的な悲しみをもたらします。しかし、悔い改めは悲しみで終わって、死に至る悲しみではなく、救いに至る悔い改めを生じさせるのです。罪を後悔することはあっても、過去をいつまでも後悔することはありません。自分を責めたり、神や誰かに責められているように思ったりして、いつまでもビクビクしている必要はないのです。

 悔い改めとは

「罪を後悔し、憎み、捨て去ること」

です。罪の重荷を十字架の元に下ろす事です。決して罪を背負う事ではありません。自分で罪を担おうとしたり、自分を罰したりすることではありません。「自分は罪人だ」と貶めて、絶望することではありません。「罪の告白」は主の前に罪を手放すことです。惨めになるのではなく、重荷を下ろして楽になるのです。勿論、罪が大きければ痛みも大きいです。大きな犯罪に手を染めたり、大事な人を傷つけたり、取り返しのつかない過ちさえ、私たちに無縁ではありません。その悲しみは深いでしょう。その時も赦しを受け取るのが悔い改めなのです。自分に「罪人」というレッテルを貼ると、却って罪を捨て去ることが難しくなります。私たちは罪を捨て去るよう招かれています。悔い改めとはそういう事なのです。

 悔い改めは、生涯に一度だけ神に方向転換すれば終わりなのではありません。私たちは生涯、自分の様々な罪、悪や高慢、過ちを持っています。毎日悔い改める必要があります。悔い改めなくなるのが理想なのではなく、もっと素直に悔い改めて神を見上げるようになることを目指すのです。何度悔い改めてもまた罪を犯してしまうものです。情けないほどの弱さや過ちを私も抱えています。それでも、神は私を赦して、溢れる恵みの中に生かしてくださっています。本当に深い神の赦しと恵みの中に生かされている事に感謝しながら、罪を悔い改めて、キリストを信じながら歩ませて頂いています。

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創世記3章14~21節「最初のキリスト預言」 アドベント第一聖日

2018-12-02 15:40:12 | 聖書の物語の全体像

2018/12/2 創世記3章14~21節「最初のキリスト預言」

 アドベント(待降節)はただのクリスマスへの準備ではありません。主の来られるのを待ち望んだ聖書の歩みを自分に重ね、今ももう一度主が来られるのを待ち望むのが「待降節」です。言わば、聖書の信仰は最初から今に至るまで、主の約束を待ち望む信仰なのです。

1.最初のキリスト預言

 イエス・キリストがおいでになったのは今から二千年ほど前、聖書の後半三分の一の、新約聖書冒頭です。そのイエスの誕生は、旧約聖書の随所で預言されていました。その預言の言葉を信じて、神がキリストを遣わして世界を治めてくださることを待ち望んでいた人がクリスマス物語には大勢出て来ます。そのキリストの預言が最初に出て来るのが、今日の創世記三章。アダムとエバが神の命令を破って、禁じられていた木の実を食べた直後の主の言葉です。

14神である主は蛇に言われた。「おまえは、このようなことをしたので、どんな家畜よりも、どんな野の生き物よりものろわれる。おまえは腹這いで動き回り、一生、ちりを食べることになる。15わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」

 ここで主は「蛇」に対して呪いを宣告して、蛇の頭を打ち砕く「女の子孫」がやがて来る事を予告しています。その「女の子孫」の踵(かかと)を蛇は打つ、つまり何らかのダメージを与えるけれども、

「女の子孫」

は蛇の頭を打つのですから、当然圧倒的なダメージを受けるのは蛇の方で、蛇は彼によって打ち砕かれる、という未来予想図がこの時点で描かれているのです[1]

 創世記で神が天地を創造され、アダムとエバをエデンの園に置かれたことから始まる物語は、早くも三章で人間が約束を破るという大失態を迎えます。そこから人間の罪や苦しみが始まります。しかしその最初の反逆の時点で、神は既に約束を語っているのです。将来の勝利を告げています。人間を背かせた蛇に呪いが告げられています。しかし、当の人には呪いや罰よりも、憐れみが注がれているのです。食べたら死ぬと食べることを禁じられていた木の実を食べたのです。それを食べた人間は、即刻死んでもおかしくはありませんでした。ところが、神は人間に死を宣告することはなさらずに、生かしておきます。苦しみや呻きは増されます。出産の痛みや、男と女の支配し操作しようという歪んだ関係も生じます。大地は呪われ、労働は苦しみになり、最後には死を迎えます。それでも、神は人間に即座の死ではなく、いのちを与えられます。先に15節の言葉を聴いたアダムとエバは、罪のもたらした罰の預言に神妙になりつつも、それでも生かして下さる主の測り知れない憐れみを痛感したのではないでしょうか。

2.妻の名を「いのち」と

 その証拠に、これを聴いた後のアダムは、妻の名をエバと呼んだのです。

人は妻の名をエバと呼んだ。彼女が、生きるものすべての母だからであった。(創世記3:20

とあるように、エバとは「生きるものの母、命の源であること」を込めた名前でしょう。先に12節でアダムは、彼女のことを「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女」と呼んでいました。「この女のせいで自分は約束を破ったのだ」と、ひどい言い草でした。16節の言葉を聴いて、彼女を「呪い」と呼び「いい気味だ」「俺がお前の支配者だ」と強気に出ることも考えなかったでしょうか。しかし、彼がしたのは

「妻の名をエバ(いのち、生きるものの母)と呼んだ」

でした[2]。エバには「誘惑者・魔性の女」とのニュアンスがありますが、アダムはそうは言いません。彼女自身も自分の罪の重荷で押し潰されそうだったかもしれません。しかし、夫から「堕落の母」ではなく「生きる者の母」と呼ばれて、どんなに慰められたでしょうか。聖書に従う者は、人を「罪人」とではなく、慰め、生かすように呼ぶはずで、妻もそれを辞退せずにその呼び名を受け入れるのです。それは私たちの優しさという以上に、主の言葉がどんな状況でも、約束を語っているから、なのです。

 そればかりではありません。21節で主は二人に

「皮の衣を作って彼らに着せられた」。

 皮の衣を作るには何かの動物を屠ったのです。神は二人に死を下す代わりに、動物の血を流して、二人に衣を着せてくれました。最初、二人は裸でしたが、禁断の木の実を食べた時に、裸である現実から目を背けて、隠すようになって、イチジクの葉で腰巻きを作っていた二人でした。もうイチジクも萎(しお)れていたでしょうに、主はその二人を優しく、温かく包む衣を作って、自ら着せて下さったのです。ここにも、主が人間に向ける憐れみが豊かに現されています。主はこの二人に自分の罪の結果を一部担わせると同時に、相応しいだけの厳しさや予想されるような重い罰よりも遥かに軽い扱いを与えます。この時点ですでに将来の勝利が予告されます。人間を敵と見なさないで、生きる者の役割を与えておられます。そして動物の血を流して、温かい皮衣を着せてくださいました。その動物が可哀想だと思うなら、私たち以上にその動物を可愛がっておられたのは主なのです。その動物の血を流した時、主ご自身も心を抉られる思いだったでしょう。いや、実際それは、やがて神がひとり子イエスを世に遣わされて、十字架に架かり血を流され、心を引き裂かれて、私たちに命を与えてくださることの予告だったのです。

3.主を待ち望む

 クリスマスは、この聖書の最初から予告されていた

「女の子孫」

の誕生でした[3]。それまでの間に、少しずつ主のご計画は明らかにされて、キリストがどんなお方かは具体的になっていきます。しかし、その一番初めの予告は創世記の三章、堕落の直後に告げられていたのです。聖書が語るのは、神が私たちを回復するために、神ご自身が近づき、痛みを背負い、王となってくださる、という確かなメッセージです。最初、神は人間を罰して反省させ、自浄努力を求められたけれども、その計画が悉く失敗したので、最終的にイエス・キリストが来られた、のではありません。神は最初から、やがて「彼」が現れて、蛇の頭を打つことを約束しています。そのキリストが遂にお生まれになったのがクリスマスだったのです。

 このキリストの誕生を迎えるまでの歴史が、旧約聖書に書かれています。その合間々々に、大きな出来事や新しい契約が更新されて、大切な御心が少しずつ明らかになっていきます[4]。神は一気に堕落後の問題を解決しようとされませんでした。そんなことをするぐらいなら、最初から人間の選択の自由や、この世界そのものの創造が無意味だったでしょう。神は人間に約束を与えられ、人間はその約束を破りました。その違反の痛みを人間は今も味わっています。時間を掛けて、苦労しながら、神の御心を味わい、自分や人と関わり、ますます神を待ち望む信仰を育てられたのです。しかしそれ以上に神ご自身が人間の違反を悲しみ、そのために血と涙を流され、長い痛みを背負っておられ、違反の償いと断絶の修復のために十分に時間をかけておられます。そしてそのようにしてまで神は私たちを回復して、いのちを与えようとなさいました。アダムとエバの子孫として罪や失敗を続けても、私たちを神は諦めないのです。

 私たちはこの世界で主の良き御支配を待ち望みます。沢山の問題があっても、あの最初に神はもう憐れみを示されたこと、そしてその約束通りにイエス・キリストが来られたことを思い出しましょう。イエスはこの世界の最も低い所に来られて、私たちの苦しみや呻きをともにしておられます。どんな人をもその罪でレッテル貼りをすることなく、温かい慰めに満ちた名前で呼んでくださいます。そして私たちを通しても、主のいのちの御業を生み出されます。今尚、苦しみや呻きがあり、夫婦や人間関係が軋んでいる現実の中で、ここに主が来て下さった事を、そしてやがてもう一度ハッキリと来てくださる事を信じるのです。それまでの間、今もこの神が世界を導いて、私たちとともに世界の物語を紡いでおられます。クリスマスを中心とする主の大いなる物語の中に生かされている事を覚えて、アドベントをご一緒に過ごしたいのです。

「主よ、アドベントを迎え、聖書の最初から主のおいでが予告され、それが成就された事を確かめ、今もその大きな主の約束に導かれている幸いを感謝します。主の苦しみ、悲しみ、憐れみがエデンの二人を包み、今も私たちに注がれています。主よ、あなたを待ち望みます。痛みや破れから目を逸らさず、その痛みを担われた主を仰いで、希望を語り届け合わせてください」



[1] これを「原福音」と呼ぶこともあります。

[2] しかも、これが、13節以降、アダムが語る唯一のセリフなのです。

[3] ガラテヤ書四章4節「しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。」

[4] 聖書の信仰の特徴は待つことにあります。そして、遂にキリストがおいでになり、その命をもって、蛇の頭を砕いて、勝利をなさいました。それでも、私たちはもう待たなくて良くなったわけではありません。やがてイエスがもう一度おいでになって、完全に王として世界を治めてくださる日を待ち望んでいます。私たちの信仰にとって「待つ」事は今も本質的なのです。アドベントはクリスマスの準備だけでなく、私たちの信仰の姿勢が待つことにあることを覚える時です。旧約の民がキリストのおいでを待ったように、私たちも王なるキリストの支配を待っています。そして、旧約の民がキリストをお迎えしたように、私たちもやがて必ず王なるキリストをお迎えする。その確かさを覚えるのです。

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