聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

創世記11章27節~12章4節「祝福の民 聖書の全体像12」

2019-03-17 20:15:29 | 聖書の物語の全体像

2019/3/17 創世記11章27節~12章4節「祝福の民 聖書の全体像12」

 これまで創世記の1~11章を見てきました。この部分は、聖書の物語の導入となります。天地の創造と、そこに置かれた人間のこと。神が人間に親しく約束を下さったのに、人間がそれを破ったこと。人の悪や暴力が大洪水を余儀なくして、方舟で救われたノアの子孫も、「バベルの塔」を建ててしまったこの世界。人はどうしたら救われるのでしょうか。それが今日から始まるアブラハムとその子孫達の歴史となります。言わば、創世記の1章から11章までは、聖書全体の序論です。私たちが神の民とされるとはどういうことなのか、神はこの世界に何を願って、アブラハムから始まる民を起こしてくださったのか、が明らかにされていくのです。ある方は、アブラハム契約を指して、「旧約聖書だけでなく、新約聖書全体もこの神の約束がどのように成就されていくかを記していると言っても過言ではない」と言っています[1]。今日は、アブラハム契約の中身よりも、神がアブラハムを選ばれたことそのものに注目しましょう。

 11章は10節から、ノアの息子のセムの系図が語られてきました。その末裔が27節からのテラで、テラにはアブラム(後のアブラハム)とナホルとハランの三人の子がいました。ハランは三人の子どもを持ち、ナホルも22章20節以下で八人の子どもを産んでいたことが分かります。そうした兄弟の中、残る一人のアブラムについて短く記す30節は意味深長です。

「サライは不妊の女で、彼女には子がいなかった。」

 アブラムの妻サライは不妊の女性でした。現代これだけ核家族や個人主義が進んでも、不妊の女性は生き辛さを感じて、苦しむことが多くあります。「家社会」ではもっと厳しい目で見られます。昔も今と同じように不妊は起きえる事だったのに、表にされない恥でした。跡取りや労働力を産めないなら離縁も当然、という考えも罷(まか)り通っていたのです[2]。アブラムとサライの夫婦は、子どももないまま消えていくばかりの存在でした。アブラムはサライと別れて、違う女性と再婚、あるいは女奴隷に子どもを産ませて養子とすることも出来ました。でもそうはしなかったのは、妻への愛だったのかもしれませんが、逆に、相当変わり者の世捨て人だったからかもしれません[3]。アブラムを美化するより、神の選びの不思議さに目を留めましょう。不妊で高齢のアブラムとサライ夫婦は、神が将来を託すとは思えない、消えゆくばかりの存在でした。二人は父とともにウルからカナンに旅立ちましたが、途中のハランで父が死んだため、その中途半端な旅先で、死ぬまで生活を続けていけばいいと思っていたのでしょう。その心許ない姿が、11章の30節以降、最後まで描かれます。ところが、12章で、

主はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。

そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。

わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」

 主がアブラムに声をかけるのです。アブラムを呼んで、大いなる国民とし、祝福しよう。あなたによって地の全ての部族は祝福される、と言われるのです。まだ子どもはいないアブラムを世界の回復の鍵として選ばれました。それは、世界そのものが、命を生み出す力がなく、悪や罪、破壊や暴力ばかりで、希望がないことに対する、生きたメッセージでした。アブラムを選ぶ事自体が、神は、何かを生み出す力のない所に命を始めてくださるお方。世界を創造されて、闇の中に光を輝かされた方が、今この世界にも働いてくださるというしるしでした。新しいことを始めるにも、私たちの目には不利な条件ばかりで、「到底無理だ、最も相応しくない、論外だ」と思うような中にも、神様は全能の力を働かせて、そこから新しい国民を起こされます。呪われたような世界にも、呪いよりも強い祝福を始められます。神は、地の全ての部族が神の祝福から大きく飛び出していったのに、それでもなお、裁きや呪い、怒りを受けるに相応しいとは思われず、祝福をしたいと願われました。そのために、アブラムを選んだのです。

アブラムは、主が告げられたとおりに出て行った。ロトも彼と一緒であった。ハランを出たとき、アブラムは七十五歳であった。

 アブラムは、この信じがたい主の言葉を受けて、立ち上がり、出て行きました。それは、尊い応答です。疑って笑い飛ばさずに従ったのです。七五歳での再出発でした。この応答は、主の言葉を信じた信仰によるものです。ですからアブラハムは「信仰の父」と呼ばれます。勿論、アブラハムは主の言葉を完全に理解したわけでもありませんし、心に全く疑いがなかったわけでもないでしょう。そして、この後のアブラハムの生涯でも、何度も主の御心を疑い、嘘や不信仰からの行動を取ってしまう、不完全なアブラハムです。そういう不十分なアブラハムを招いて、祝福の器となさり、失敗からも立ち上がらせて、祝福を与えてくださいました。

ヘブル11:8信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。

 だから私たちも、自分の信仰や知識や能力に色々な欠けがあることを素直に認めつつ、明日を思い煩わないで生きてゆけるのです。そういう私たちを通して、神の祝福の歴史を築こうとなさる神を信頼して、今日もここに来て、ここから遣わされていくのです。それがアブラハムにもイエスにも見られる、神の方法だからです。イエス自身、結婚前のマリアから聖霊の力によって生まれました。ガリラヤの田舎ナザレから出て来られ、弟子たちも漁師や無学な凡人達を選びました。罪人や病人として疎外された人たちの友となりました。そして度々アブラハムに言及しました。病気の霊に長年苦しんでいた女性を

「アブラハムの娘」

と呼び[4]、憎いローマの手先となって税金取りとなっていたザアカイを

「アブラハムの子」

と呼びました[5]。また、

ルカ3:8『われわれの父はアブラハムだ』という考えを起こしてはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。

 これは神が全能だからというよりも、アブラハムの選びこそが石ころから起こすような選びだった、ということでしょう。だとしたら、そのアブラハムの子孫だと自慢する事は、最初にアブラハムが選ばれた意味も踏みにじってしまいます。神は石ころから、相応しいとは思えない私たちをアブラハムの子孫として、キリストを信じる民となさいます。キリスト教は信じる者が魂の救いや死後の安息を得る宗教である以上に、神が造られたこの世界を祝福するため、私たちに出会ってくださり、私たちを通して神の祝福が届けられていくことを信じるのです。

 今の私たちも、神を見ることを忘れて将来を考えがちです。不安要素が沢山あります。若者達を教会から送り出して、この先どうなるか、不安です。「子どもがいない老人所帯に希望があるはずない」とどこかで思っているかもしれません。勿論、勝手な楽観は聖書の信仰とは別物です。アブラハムの祝福は、人が願うようなバラ色の人生とは違いました。アブラハムは主がどこに導くかを知らずに、主を信頼して、夫婦で主の導かれる生き方へと出て行ったのです。主が一人一人をどう導かれるか、教会がどこに行くのか、分かりません。不妊や旅立ちであれ、障害や病気、失業や鬱、いろんな問題が付き物です。でもどんな問題でも、祟りや裁きとか、「もうお終いだ、お先真っ暗だ」と思わず、ここから主の業が始まる、これが主からの新しい旅になると信じられるとは、なんという幸いでしょう。また、キリストを信じたら、そうしたハンディから免れるわけではなく、むしろそうした痛みを抱える当事者の一人となって、そこで何かしらの主の祝福を担うよう導かれる事が多いのです。そして、どんな時も主の恵みを戴きながら、将来にも思い煩うより期待をして歩む存在そのものが、祝福の光となるのです。

「主よ、将来を悲観し、失望しそうになっても、あなたがアブラハムを選んで、命の業を始め、世界に祝福をもたらそうとされたご計画を続けてください。自分の状況に将来を悲観し、人を見下してしまう私たちを笑って、予想を超えた祝福を現してください。そしてどうぞ私たちもあなたの祝福を運ぶ「土の器」として用いて、あなたに栄光を帰する人生とならせてください」



[1] ジョン・ストット。引用元は、ヴォーン・ロバーツ『神の大いなる物語』(山崎ランサム和彦訳、いのちのことば社、2016年)79頁。

[2] それは聖書の中にも沢山見られる目線です。サラだけでなく、ルツ、ハンナ、エリサベツなど多数見受けられます。しかし、それが「例外」とされず、むしろそうした女性を通して神の歴史が綴られていく、という視点は聖書の特徴です。

[3] 後には女奴隷のハガルを代理母にしてしまいますし(16章)、サライの死後は再婚して、6人も子どもを儲けるのです。(創世記25章1~6節)

[4] ルカの福音書13章10~17節。「16この人はアブラハムの娘です。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日に、この束縛を解いてやるべきではありませんか。」

[5] ルカ19章9節。「イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。」

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はじめての教理問答84~85ヨハネ4章21~26節「神を礼拝するマナー」

2019-03-10 18:23:30 | はじめての教理問答

2019/3/10 ヨハネ4章21~26節「神を礼拝するマナー」はじめての教理問答84~85

 今日は十戒の第二戒を見ていきましょう。第一戒は、神が「わたしの他に神があってはならない」と言われたものでした。第二戒は、本当の神を拝むにしても、その場合の方法について教えています。つまり、「神を礼拝するマナー」ということです。

問86 第二の戒めはどういうものですか?

答 第二の戒めは、「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである」です(出エジプト20:4-6)。

問87 第二の戒めは、あなたになにを教えていますか?

答 神さまのみを、神さまの命じられた通りに拝すること、そして偶像や絵を使って神さまを拝してはならないことを教えています。

 第二戒は、偶像を礼拝することの禁止、とも言えます。ただ、その「偶像」とは、神さま以外の別のものを神にする、石や銅像や形あるものを神として拝むこと、という以上に、本当の神、主を礼拝するためであっても、神が命じたのではない形を持ち込んでしまうことを指しています。仏像や神社での儀式で礼拝しないことは、第一戒で言われていました。第二戒は、本当の神さまを礼拝するのであっても、私たちが自分のために「偶像」を造ってしまうことに注意を向けています。

 「神さまの命じられた通りに拝すること、偶像や絵を使って神さまを拝してはならないこと」

なのです。

 これは特に宗教改革のことを考えると、大事な強調点でした。十六世紀の宗教改革まで、中世のヨーロッパはキリスト教社会と言われるぐらいキリスト教が広まって、ほとんどの人は洗礼を受け、どこの町にも大きな会堂が建っていました。しかし、その会堂の中にはたくさんの像や絵が飾られていました。ロウソクが焚かれ、きらびやかなステンドグラスがあり、カラフルな服をまとった司祭や聖歌隊の人々がいました。そうした雰囲気や見える形が、礼拝の重要な要素になっていたのです。

 また、当時はまだ学校がなく、文字を読めない人も多く、教会側も聖書を丁寧に教えるよりも、聖書の物語を描いた絵を飾っていました。学問のない人には、言葉よりも、絵や像の方が神を教えるにはよく分かる、と言われていたのです。けれども、実際には、人々はその絵を拝んだり、キリストへの信仰よりも聖母マリアや聖人たちに祈ったり、教会の儀式によって祝福に与れると考えたりしていたのです。そして、宗教改革が進んでいくと、会堂に絵や像がないことで物足りない思いをしたり、立派な会堂や厳かな聖歌隊を求めたり、という感覚があったことも想像できます。今でも、教会の礼拝に、神さまを礼拝するよりも、立派な会堂かどうか、自分が礼拝した気分になれるかどうか、何かそういうものに引き寄せてしまうことは多くあるのだと思います。第二戒は、私たちが、神さまとの礼拝に、自分に都合の良いイメージを持ち込んでしまう危険を思い起こさせてくれます。

 今日のヨハネの福音書では、イエスがユダヤの隣のサマリアに行って、そこにいた女性と話している会話が書かれています。彼女たちサマリア人は、エルサレムではなく、サマリアの山に神殿を持って、神を礼拝していました。聖書も最初の五つの書だけを読んでいて、ユダヤ人とは違いも沢山あったのです。サマリア人とユダヤ人のどっちが正しいのかは決着のつかない論争でした。しかし、イエスは仰ったのです。

「この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。…まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。」

 神が求めておられるのは、場所や立派な会堂や礼拝した雰囲気になる礼拝ではなく、御霊と真理によって父を礼拝する、そういう礼拝者です。神の御霊が私たちの心を導いて、真理によって神を礼拝させて下さる。どこで、どんな会場で、どんな服装で、ということは関係なく、目には見えない神と出会い、心の交わりを持つ。そういう関係を私たちとの間に求めてくださるのが神なのです。ですから、その

 「御霊と真理によって父を礼拝する」

を脇に置いて、自分にとって好ましい形を持ち込むことが窘められるのです。それが立派な会堂や聖画や服装であれ、格好いい牧師やセンスのいい音楽であれ、もしそれが神との出会いよりも大事な礼拝の要素になるなら、どんなものでも「偶像」として神が禁じられるものとなるのです。或いは、私たちの中に、神の偶像が造られているかもしれません。優しすぎる神、自分の願いを叶えてくださるだけの神、無関心な神、怖くて怒りっぽい神…そうした神の像を自分の心に造り上げていることはありますね。人との関係でも、「あの人は自分勝手」「あの人は弱虫」とかイメージがあると、話をするのは難しくなりますね。友だちになるのに、レッテル貼りをしてしまうことは邪魔になります。神との関係も同じです。神にイメージを造ってしまうと、神が私たちに出会うことを妨げてしまいます。友だちも、神も、あなた自身も、決して小さな枠には収めきらない、生き生きとして、複雑で、沢山の面がある人格なのです。

 十戒は「してはならない」というよりも

 「しない」

という言葉遣いで描かれています。第二戒も「偶像を造るな」という命令・規則よりも

 「あなたは偶像を造らない」

という神からの宣言なのです。私たちは神の偶像を持ちやすいものです。人の事も自分のイメージでレッテル貼りをして、友情を塞いでしまいます。神は、しかしそんな私たちの像よりも遥かに大きく深く、驚きに満ちたお方です。キリストは、来られてサマリアの女と会いました。彼女は人目を避けるような人生を送ってきた人です。彼女にキリストが会うなんて、誰も想像もしないことでした。しかしイエスは「わたしがそれです」と仰いました。

「神は偉大な偶像破壊者である」(C・S・ルイス)

 イエスは私たちにも遭って下さいます。イエスが私たちと会うことで、私たちの偶像やイメージは壊されます。生涯掛けて、神さまイメージが新しくされ、驚きに満ちていきます。私たちの思い描く神ではなく、神がもっと偉大で恵みに溢れ、強いお方、そして私たちに出会い、御霊と真理による礼拝を求めてくださっているとは、なんという幸いでしょうか。

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創世記11章1~7節「バベルの塔 聖書の全体像11」

2019-03-10 17:08:10 | 聖書の物語の全体像

2019/3/10 創世記11章1~7節「バベルの塔 聖書の全体像11」

 「バベルの塔」は、ノアの洪水の後の出来事として登場します。ノアの子孫が増えていった時、レンガを造るような技術を身につけて、天にまで届く塔を建てて、名を上げよう。地の前面に散らされないようにしよう、と考え始めました。それをご覧になった神は、彼らの言葉を混乱させて、話し言葉が通じないようにしました。それで、人はその町を建てるのも止めて、地の全面に散っていきました。1節が

「全地は一つの話し言葉、一つの共通のことばであった」

と始まるのが、9節は

「主が全地の話しことばを混乱させ、そこから主が人々を地の全面に散らされた」

と結ばれる、そういう括り・大枠で語られている話です。

 しかし、この話の結論はどう読めば良いのでしょう。若い頃、この話を紙芝居に描いた事がありますが、最後のシーンは壊れた塔、廃墟のゴーストタウンでした。殺伐としたお話しにしてしまいました。しかし神が人を罰して散り散りにさせたのではなく、主はノアに

九1生めよ、増えよ、地に満ちよ」

と、地に増え広がることを命じていました。神が造られた地を愛し、喜び、育てる管理者としての

「地に満ちよ」

です。一つ所に留まって小さく生きるのではなく、神が造られた全地を見て、驚くため、造り主なる神の御名を崇めるため、逆説的に言えば、自分の小ささを知るために、神の造られた世界に出て行くよう、神は派遣されたのです。

 ところが、ここで人は

「全地に散らされるといけないから」

と塔を建て始めました。神の御名を崇めるよりも

「自分たちのため、自分たちの名をあげるため、頂が天に届く塔を建てよう」

と考え始めました。頂が天に届く塔、という目論見(もくろみ)には、明らかに宗教性が臭いますね。「自分たちは天の神々に並ぶ力がある。神に散らされてたまるもんか」と思い上がっています。現在でも超高層ビルを建てる人間の上昇志向は続いています。それでも、天に届くどころか、地球のシミにも見えません。ここでも5節で

「主は、人が建てた町と塔を見るために降りて来られた」

とあります。塔が完成していたにしろ建設途中にしろ、主がわざわざ降りて来られてやっと見えたほど、ちっぽけな背伸びでしかない。ですから6節の「見よ。彼らは一つの民で、みな同じ話しことばを持っている。このようなことをし始めたのなら、今や、彼らがしようと企てることで、不可能なことは何もない。」は神の焦りや危機感ではなく皮肉でしょう。天に届く塔は今でも不可能です。ただ、彼らが企てたのは、物理的に天に届く塔を建築する以上に、名を上げたい、人々を集めたい欲望です。そして、巨大な建造物を建てるには、今も昔も、労働者の過酷な重労働が必要です。一部の人間の欲望のために、多くの人が酷使されていく。後のエジプトやソロモンの神殿建設と同様です[1]。バベルの塔は、権力とか中央集権、帝国主義、官僚主義の象徴です。そういう企ては、命令系統があって可能になります。主は、その言葉を混乱させて、命令系統を混乱させました。だからその建設はもう続かず、人は散り散りになりました。でもそれは、酷使されていた労働者達にとってはむしろ解放だったのではありませんか。言葉で命じられるだけの生活からの解放だったはずです。ただの労働力やロボットのように見なされる生活から、地に散らされて、多くの人がほっと息を吐いたことでしょう。

 言葉が通じないのは大変です。それでも言葉が通じない相手を精一杯理解しようとしたり、相手を大事に思っている気持ちを伝えたりしたければ、それは出来ます。言葉が伝わらないからこそ生まれる笑いや温かさや気持ちはあります。しかし、相手を大切に思うよりも、自分がしたいこと、自分の欲望の企てが大切で、人はそのための手段としか見ないなら、言葉は用件を伝えるだけです。コミュニケーションの手段ではなくて、命令系統やコンピュータと変わりません。主が言葉を混乱させて、塔を建てることが出来なくされたのは、神の罰というよりも、人の暴力からの解放でした。言葉が通じないことは厄介で、困ることがあります。もどかしい思いもします。でも、どの言葉も訳しきれない、微妙なニュアンスを持っているのですね。日本語の持っている美しさや素晴らしさもあります。それを全部無視して、困らないようにどれか一つの言葉にしようとしたら、猛反対が起きるでしょう。人が命令系統だけで繋がる存在ではないから、神は一つの言葉を終わらせて、人間らしい混乱を始めてくださったのです。

 洪水後の世界は神が仰った通り、人の心には幼いときから悪があって、自分のために塔を建てる横暴な世界になっていきました。言葉が通じるのは本来すばらしい事なのに、その言葉を用いて人を扱(こ)き使(つか)い、自分の名を上げようとして、神の名はひと言も口にしない。そういう人々の企てによって、巨大な塔が建て上がっていく、恐ろしい全体主義が生まれました。主は人々を地の全面に散らされました。それは「さばき」ではなく、解放でした。全地に散らして、それぞれの場所で生活し、文化を営む歴史が始まりました。でもそれからどうなるのでしょう。神は何を始めようとするのでしょうか。それが次の12章から、神がアブラハム(この時点ではアブラム)を選んで始めようとなさるご計画です。詳しくは次回から見ていきますが、

十二2そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」

 神は裁いて散らしたのではないのです。解放して、地の各地に住まわせ、そこにアブラハムの子孫が祝福をもって追いかけるようにと考えておいでだったのです。やがてはイエス・キリストが地に降りて来られました。人はこの時も誰が一番偉いかを話題にし、黄金の神殿を誇っていましたが、イエスは人を祝福するため、争いや背伸びから解放して、互いに愛し合わせるために、天から降りて最も低くなってくださったのです。そして聖霊が注がれたときも、弟子たちは集まっている人々の言葉で語りました[2]。終わりに訪れる永遠の御国も、

「すべての民族、言語」

[3]の人々が集められるのですね。天国語という共通言語で話すより、私たちも日本語で阿波弁や馴染みの言葉そのままで話せる。その知らせが、私たちにも届けられて、日本語で福音を聞くことが出来ます。そして、世界の色々な言葉を話す人たちとの出会いも教会では与えられていますね。言葉が通じなくても、心が通じるのです。パウロも言います。

使徒の働き十七26神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました。27それは神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。[4]

 神が人を地に散らしたのは、そこでの生活で神を求めさせるため。一人一人に神は近くいてくださり、神を見出す。そういう神のご計画の鍵となる家系としてアブラハムが選ばれ、聖書の歴史が続いていくのです。慣れた言葉でさえ、本当に言いたいことを伝えるのは難しいものです。そして、夫婦や親子や世代間でも話が通じない思いをしています。「話が通じない」と嘆きたくなります。それでも言葉が通じなくても祝福することは出来ます。自分の用件を分からせようとするより、相手の言葉の奥にあるものを理解しようとした方がずっと良いのです。分かってくれないと腹を立てるより、相手の言葉の奥にある呻きを汲み取るのが神なのです。

 沢山の言葉がある世界は大変です。でも一つの言葉しか無い世界であれば、もっと恐ろしい全体主義、画一的な恐怖政治になっていた。今この社会で、言葉や思いが通じず、思いどおりにならない中だからこそ、人を大事にする生き方をしたい。この混乱の中から、主が何か本当に人間らしく生きられる在り方を始めようとしていることを信じたい。そのためにも、私たちが自分の名声や夢のためではなく、主の御名を崇めて、祈りつつ語って行きましょう。

「平和の主よ。あなたの恵みによって私たちの心を結び合わせてください。そして、あなたの祝福のために、私たちをここに留めず、この世界に送り出してください。言葉を、命令や用件のためではなく、人を生かすために用いていけるように、あなたの愛を教えてください。あらゆる言葉であなたの御名が崇められますように。人を道具にしたり、神を忘れたりしたら、強いてでもその企てを挫いて、人が生かされるための道具として、私たちを整え用いてください」



[1] Ⅰ列王記12章。

[2] 使徒の働き2章。

[3] ヨハネの黙示録7章9節「その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。」

[4] 使徒の働き十七26「神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました。27それは神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。28『私たちは神の中に生き、動き、存在している』のです。あなたがたのうちのある詩人たちも、『私たちもまた、その子孫である』と言ったとおりです。」

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はじめての教理問答84~85 イザヤ書37章15~20節「ただひとりの神」

2019-03-03 15:06:19 | はじめての教理問答

2019/3/3 イザヤ書37章15~20節「ただひとりの神」はじめての教理問答84~85

 神が私たちに、生きていくための大切な教えを与えてくださいました。それが「十戒」です。その内容は、神を愛し、人を愛することです。今日から、十の戒めを一つずつ見ていきます。今日は第一の戒めです。

問84 第一の戒めはどういうものですか?

答 第一の戒めは、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」です(出エジプト20:3)。

問85 第一の戒めは、あなたになにを教えていますか?

答 ほんとうの神さまだけを拝することを教えています。

 神は私たちも、この世界もお造りになった大いなるお方です。その神以外に、他の神々があってはならない。本当の神ではないものを神々にしてはならない。本当の神だけを礼拝しなさい。それが第一の戒め。なんだか当たり前のような話ですね。

 しかし、実際には、私たちの周りには沢山の「神」が溢れていますね。神社や迷信、占い、今時は何かあると「神だ」と言います。聖書の「十戒」の書かれている前後でも、エジプトでは太陽が神として拝まれて、王ファラオが神の子として崇められていました。また、そこから救い出されたイスラエルの民達も、すぐに金の子牛を造ったり、他の民族の宗教や神々を拝んだりしました。聖書には、人間が、本当の神ではないものを神としてしまうことが、繰り返されて書かれていると言うことも出来ます。

 今日のイザヤ書では、イスラエルの国に北のアッシリアの王が大軍を率いて攻めてきたときのことが取り上げられています。アッシリアは当時、勢力を伸ばし、周囲の国々を打ち負かして、支配下に治めていました。その勢いで、イスラエルまで南下してきて、エルサレムを包囲したのです。アッシリアの王は、他の町にも神はあったのに自分のほうが強かった。自分はどの国の王や神よりも強かった。エルサレムの民も、自分たちの神が助けてくれるなんて、嘘を頼みとするな、と豪語したのです。それを聞いたエルサレムの王ヒゼキヤは、主のもとに言って祈りました。それが、先ほど読んだ言葉です。

三七16「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。

 イスラエルの神は、天と地を造られた神。地の全ての王国の神です。十戒も、ただ主なる神だけを神としなさいと始まったのではありません。最初にあったのは、主がエジプトで奴隷となっていたイスラエルの民を救い出してくださった事実でした。主は、虐げられていたイスラエルの民を、確かに救い出してくれました。エジプトで神のように振る舞っていたファラオや祭司たちが抵抗し続けても勝つことが出来なかった、本当に力強く、実際にその救いを見せてくださったお方です。他の神々のような、人間が作った宗教とは根本的に違う、生きたお方。そして、天と地を造ったと証言しておられるお方です。世界には沢山の宗教があります。どの宗教を信じても同じだとか、キリスト教もその一つだとか考える人も沢山います。確かにキリスト教が一つの宗教であれば、どれを信じても同じでしょう。また、どの宗教も「自分たちの教えこそ、唯一の真理だから、他の宗教を信じてもダメだ」と言っていとしても、キリスト教がそういうのも同じなのでしょうか。キリスト教は、人間が考え出した神ではなく、世界を造った神が、この世界に働いておられて、イスラエルの民を選び、エジプトの奴隷生活から救い出し、聖書に書いてある通りの不思議な出来事を見せられたと信じています。神がひとり子イエスをこの世界に遣わし、弟子たちとともに過ごし、最後は十字架に架けられて死に、三日目によみがえったと告白しています。そして、その神が聖霊を世界に送って、今に至るまで、この世界を創造した目的を完成しようと働いておられる。そう信じているのです。たとえ、私たちがそれを信じず、誰一人、キリストの神を認めなかったとしても、この神が神である事に変わりはなく、他に神はいない。そう信じているのです。

三七19彼らはその神々を火に投げ込みました。それらが神ではなく、人の手のわざ、木や石にすぎなかったので、彼らはこれを滅ぼすことができたのです。

 アッシリア軍に降参してきた他の町々の神々は、神ではなく、人の手の業でした。気や石に過ぎませんでした。だから頼りにならなかったのは当然です。イスラエルの神とは違うのです。しかし、注意してください。イスラエルの神は、他の国々を「神ではない神を拝んでいる」と言って非難したり、その国に攻めていって滅ぼそうとしたりはしませんでした。それをしたのは、アッシリアの王です。聖書は、自分たちの神、イエス・キリストの神こそが、天地を造られた真実の神であると言いつつ、他の神々を破壊したり否定したりするようなことは滅多にしません。聖書には「他の神々を悪く言ってはならない」という言葉さえあります。では何でも良いのでしょうか。ここでは、

20私たちの神、主よ。今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、あなただけが主であることを知るでしょう。」

と言うのです。思い上がって他の国々と争い、踏みつけて、破壊しようとする国から救ってください。自分たちの祈りに耳を傾けてください。あなたが私たちの祈りに応えて、私たちを救ってくだされば、地の全ての王国はあなただけが主であることを知るでしょう、というのです。力尽くで、間違った宗教を否定して、争うようなことはしない。神が天地を造られた全能の主、大いなる神だとしても、その力で他国と争って屈服させるのではないのです。ただ、自分たちの祈りに応え、悪い者から守ってくださる神の業を通して、全ての王国が、自分たちの宗教、神ならぬ神々を手放して、本当の神を知るようになる。それが、本当の神を知る民の祈りです。

 本当の神はお一人。そう言いつつ、神ならぬものを神としてしまうのが人間です。偶像や宗教に限らず、お金や仕事や家族を神としてしまうこともあります。最後に勝つと思っているもの、自分に幸せをくれると思っているもの、そう期待して沢山の犠牲を注ぎ込んでいるもの、それは何であれ、神にしているのです。しかし、本当の神以外の何者も、あなたを救ってはくれませんし、頼りにはなりませんし、あなたの信頼を求めもしません。本当の神は、天地を作り、また私たちの祈りを聴き、私たちに幸せを下さり、最後には必ず圧倒的に勝利なさるお方です。私たちにそう約束してくださる神だけを神として、この方を信頼できる喜びを他に寄せることなく、歩んでいきましょう。

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創世記9章8~17節「雲の中の虹はしるし 聖書の全体像10」

2019-03-03 14:59:57 | 聖書の物語の全体像

2019/3/3 創世記9章8~17節「雲の中の虹はしるし 聖書の全体像10」

 「聖書の物語の全体像」を続けています。今日は

「ノア契約」

をお話しします。前回、6章でノアに方舟を造るよう命じた時に、主は「契約」という言葉を使っていましたが、洪水が起こり、1年方舟にいて出て来たこの9章でも「契約」という言葉が出て来ます。これは別々の契約ではなく、ノアに与えられた一つの契約です。ノアだけでなく、ノアの後の子孫と、すべての生き物との間に、主はこの契約を立てると仰っています。それは、再び大洪水や大きな禍によって、地の生き物、すべての肉なるものを滅ぼすことはしない、という契約です。「契約」というと、両者がそれぞれの義務を果たす、というものもありますが、主の契約はまず主ご自身の一方的な宣言があります。無条件の約束があります。そして、それに対して応答する生き方が人間に求められます。ここでは、4節から7節で言われるように、人が動物を食べる時にも血を抜くことで動物の命に敬意を払うこと、そして殺人は犯人が死罪を求められる程、重い罪、ひとのいのちを尊ぶ、という在り方です。それは、命を守る神に対する、人の応答です。

 ノア契約は、神が世界を大洪水で決して滅ぼさないと強く約束されることを通して、神がこの世界のいのちを大事にしていること、積極的にこの世界を保持し、いのちで満たそうとしていることを明らかにしています。8章21節22節でも

「…わたしは、再び、わたしがしたように、生き物すべてを打ち滅ぼすことは決してしない。
22この地が続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜がやむことはない。」

と神は決心を言われました。生き物を討ち滅ぼさないだけでなく、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、季節や自然のサイクルを循環させなさる。その収穫によって、動物も生きていきますし、人間も農業や生活が可能になって生きていけます。神は、消極的に「滅ぼさない」だけでなく、積極的に季節を巡らせて、食べ物を与え、

9:7あなたがたは生めよ。増えよ。地に群がり、地に増えよ」

と言われるのです。洪水前の世界は、人が暴虐で弱者を滅ぼすような社会でした。洪水後の再出発に当たって神が明言されるのは、人のいのちの尊さ、動物の命への敬意です。そして、命への尊厳を踏まえて、地に群がり、地に増えていくことが、ノアへの契約に込められた神の御心でした。

 そこで神が改めて、契約のしるしとして与えられるのは「虹」です。

九12~15…「わたしとあなたがたとの間に、また、あなたがたとともにいるすべての生き物との間に、代々にわたり永遠にわたしが与えるその契約のしるしは、これである。わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それが、わたしと地との間の契約のしるしである。
わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現れる。そのとき、わたしは、わたしとあなたがたとの間、すべての肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い起こす。大水は、再び、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水となることはない。」

 神は雲の中の虹を見て、契約を思い起こして、大洪水は起こさない、命を滅ぼさないと誓った契約を果たす、と仰るのですね。虹を見たらこの箇所を思いだしてください。ただの自然現象だとかキレイだなぁと思うだけでなく、

「神が虹を見て『契約を思い出す』と約束してくださった」

と思い出してください。今でも、大雨や豪雨被害はあちこちで起きます。それを「神の怒りだ、天罰だ」「誰かの罪のせいだ」などと無神経に口走りたがる人がいます。ノア契約はそれとは正反対のことを語ります。神は、人のうちに悪があることを十分承知の上で、決して私たちが滅びることを願ってはおられない。神はこの世界を保持して、雨を止ませて、虹を立てて、命を祝福しようと願うのです。私たちが虹を見つけなくても、神が虹を見て、契約を思い起こす、と言われます[1]

 更に「虹」という言葉は元々のヘブル語では弓矢の「弓」です。雲の中の弓といえば虹なのですが、あのアーチは武器の弓を思わせます。その弓が雲の中に現れる時、神はそれで人を攻撃したり罰したりせず、滅ぼさない約束を思い出されるのです。だから私たちが見る虹は、人を狙って地に向かう向きではありません[2]。神は、人の悪や問題を熟知した上で、それゆえに滅ぼすぞ罰するぞと脅しても解決にならないことをご存じです。

 神が私たちに覚えさえられるのは、神が世界を保っていることです。天候や季節や自然のサイクルを保って、私たちを生かしてくださっている。そのメッセージを、大空の虹-美しい弓に託して、神の私たちに対する愛、恵みへと心を向けさせなさるのです。勿論、このノア契約だけでは終わりません。やがてノアの子孫からアブラハムが選ばれてアブラハム契約が結ばれ、モーセ契約、ダビデ契約、最終的にはイエス・キリストの「新しい契約」で、神の契約は完全に現されることになります。その最初の段階で、神は「ノア契約」を与えて、神の契約の土台、大前提を示されました。それは、神はこの世界を保って、そこにいる人間も動物も、大事な命を滅ぼしたくない、その命を生かしたい、という契約でした。そして、私たちにも命を大事にし、植物や動物を頂く時も感謝して丁寧に戴き、互いにも生かし合うこと、命を損なってはならない。そういう「ノア契約」という土台・大枠が、ここで示されたのです。

 今日交読したイザヤ書も、ノアの契約を根拠に、神の恵みを確証していました。

イザヤ五四9-10これは、わたしにはノアの日のようだ。ノアの洪水が、再び地にやって来ることはないと、わたしは誓った。そのように、わたしはあなたを怒らず、あなたを責めないと、わたしは誓う。10たとえ山が移り、丘が動いても、わたしの真実の愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。──あなたをあわれむ方、主は言われる。」

 ノアに誓った契約、つまり今この世界があり、地が保たれ、命が営まれていること自体、神の平和の契約、主の憐れみの確かな証拠なのです。他にもエレミヤ書で主はこう言われます。

三三25もしも、わたしが昼と夜と契約を結ばず、天と地の諸法則をわたしが定めなかったのであれば、26わたしは、ヤコブの子孫とわたしのしもべダビデの子孫を退け、その子孫の中から、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ぶということはない。しかし、わたしは彼らを回復させ、彼らをあわれむ。[3]

 昼と夜が来ること、天地の自然法則、全てが神の御真実のしるしです。それも、一般的な意味で宇宙が神の御業だ、というのではありません。神に逆らい、世界も、人間同士も傷つけ合ってしまう人間を、神は憐れんでおられる。何としてでも人を回復させる目的に向けて、神は今日も昼と夜を巡らせています。太陽を上らせ、雨を降らせています[4]。虹を見なさい、空の鳥を見なさい、野の花を観察しなさい、とイエスも言われました。それは、「上手な物の譬え」でなくて、虹も太陽も鳥も花も私たちの命も体も、神が一つ一つ支えているからです。それも、人間を愛して、人の悪を深く悲しんで、そこから回復させよう、神との関係も世界や他者や自分との関係も回復させようという、神の側の決心があっての、この世界なのです[5]

 世界の全てのものは、神が支えている舞台です。世界が滅びないよう、必要なものや良いもの、美しいものがあり、人の心や生き方に喜びや優しさや良心があるのも、全ては神の恵みによります。これを「一般恩恵」と言います。何一つ自然で当たり前で、神とは関係なくあるものはなく、神の積極的な御業があり、神の真実を証言しています。奇蹟や特別な出来事だけで「神はいるなぁ」と言うばかりでなく、毎日の自然の営みや、私たちの体が規則正しく動いていることが神の御業、「奇蹟」一般恩恵であり、それは神が私たちを選び、回復させ、あわれんでくださることの証拠なのです。そして虹を見るときには、主が雲の中の虹を見て、この契約を思い起こしているのだよ、と言われます。そういうしるしまで与えて、私たちを励ましてくくださる主なのです。この世界を見る目を開かれましょう。禍があってもそれでも世界の営みに、希望を持てる眼差しを、神は宣言されています。それが「ノア契約」なのです。

「天地万物の主よ。日が昇り、春が訪れ、食べ物を戴き、世界の輝きを通して、あなたの恵みを戴いています。支えてくださる憐れみを感謝します。今から新しい契約のしるし、聖餐に与ります。パンも杯も、この体も、あなたの御手が真実な証しです。私たちへの揺るがない恵みを信頼して、私たちも小さな事を喜び、環境を守り、命を尊び育む歩みをさせてください。」



[1] いやそれどころか、神が雲を起こすとき、雲の中に虹が現れるというのは、雨の後の虹とは違います。大雨を降らせた後に、虹が起きて、それを神が見て契約を起こす、じゃ「後の祭り」かも知れません。だからここで言われているのは、雨の前の虹です。雨の前、神が雲を起こすとき、そこに現れる「雲の中の虹」は神だけが見るでしょう。その虹を見て、雨が起きる前から、神はそれで地を滅ぼすような大雨にはしないと思い出す、という約束です。私たちが雨の後に虹を見るとき、私たちが虹を見て契約を思い出すことが大事なのではなくて、その雨の前に、すでに神は虹を見て、契約を思い出してくださっている。神は私たちへのいのちの約束を、世界に対するよいご計画を決して忘れるお方ではない。そう思い起こさせて戴けるから有り難いのですね。

[2] サリー・ロイドジョーンズ『ジーザス・バイブル・ストーリー』では、虹が天に向けられていることを強調して忘れがたい解説をしています。「神さまは、今でもにくしみ、悲しみ、死がだいきらいだ。この世界からすべて悪いことをとりさるための戦いにいどむため、神さまはあの大空においた、美しい弓矢を手に取られる。矢をつがえて、弓をきりきりとひいてねらうまとは、人間でも、この世界でもない。それは、ただまっすぐに天国の中心にむけられている。」(廣橋麻子訳、いのちのことば社、2009年)47頁。

[3] また、エレミヤ書三三19以下「エレミヤに次のような主のことばがあった。20主はこう言われる。「もしもあなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約を破ることができ、昼と夜が、定まった時に来ないようにすることができるのであれば、21わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、ダビデにはその王座に就く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちと結んだわたしの契約も破られる。22天の万象は数えきれず、海の砂は量れない。そのようにわたしは、わたしのしもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビ人を増やす。」23エレミヤに次のような主のことばがあった。24「あなたはこの民が、『主は自分で選んだ二つの部族を退けた』と話しているのを知らないのか。彼らはわたしの民を侮っている。『自分たちの目には、もはや一つの国民ではないのだ』と。」25主はこう言われる。「もしも、わたしが昼と夜と契約を結ばず、天と地の諸法則をわたしが定めなかったのであれば、26わたしは、ヤコブの子孫とわたしのしもべダビデの子孫を退け、その子孫の中から、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ぶということはない。しかし、わたしは彼らを回復させ、彼らをあわれむ。」。またホセア二18以下「その日、わたしは彼らのために、野の獣、空の鳥、地面を這うものと契約を結ぶ。わたしは弓と剣と戦いを地から絶やし、彼らを安らかに休ませる。19わたしは永遠に、あなたと契りを結ぶ。義とさばきと、恵みとあわれみをもって、あなたと契りを結ぶ。20真実をもって、あなたと契りを結ぶ。このとき、あなたは主を知る。21その日、わたしは応えて言う。──主のことば──わたしは天に応え、天は地に応え、22地は、穀物と新しいぶどう酒と油に応え、それらはイズレエルに応える。23わたしは、わたしのために地に彼女を蒔き、あわれまれない者をあわれむ。わたしは、わたしの民ではない者に「あなたはわたしの民」と言い、彼は「あなたは私の神」と応える。」

[4] マタイ五45「天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。」

[5] ヨハネの黙示録では、4章3節に「その方は碧玉や赤めのうのように見え、御座の周りには、エメラルドのように見える虹があった」とあります。天地を裁く義なる方の御座の周りに「エメラルドのように見える虹があった」。神の良き計画のしるしと証印が、キリストが終わりの日に就く場所の周りを取り囲むのです。(ロバートソン)

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