2019/3/17 創世記11章27節~12章4節「祝福の民 聖書の全体像12」
これまで創世記の1~11章を見てきました。この部分は、聖書の物語の導入となります。天地の創造と、そこに置かれた人間のこと。神が人間に親しく約束を下さったのに、人間がそれを破ったこと。人の悪や暴力が大洪水を余儀なくして、方舟で救われたノアの子孫も、「バベルの塔」を建ててしまったこの世界。人はどうしたら救われるのでしょうか。それが今日から始まるアブラハムとその子孫達の歴史となります。言わば、創世記の1章から11章までは、聖書全体の序論です。私たちが神の民とされるとはどういうことなのか、神はこの世界に何を願って、アブラハムから始まる民を起こしてくださったのか、が明らかにされていくのです。ある方は、アブラハム契約を指して、「旧約聖書だけでなく、新約聖書全体もこの神の約束がどのように成就されていくかを記していると言っても過言ではない」と言っています[1]。今日は、アブラハム契約の中身よりも、神がアブラハムを選ばれたことそのものに注目しましょう。
11章は10節から、ノアの息子のセムの系図が語られてきました。その末裔が27節からのテラで、テラにはアブラム(後のアブラハム)とナホルとハランの三人の子がいました。ハランは三人の子どもを持ち、ナホルも22章20節以下で八人の子どもを産んでいたことが分かります。そうした兄弟の中、残る一人のアブラムについて短く記す30節は意味深長です。
「サライは不妊の女で、彼女には子がいなかった。」
アブラムの妻サライは不妊の女性でした。現代これだけ核家族や個人主義が進んでも、不妊の女性は生き辛さを感じて、苦しむことが多くあります。「家社会」ではもっと厳しい目で見られます。昔も今と同じように不妊は起きえる事だったのに、表にされない恥でした。跡取りや労働力を産めないなら離縁も当然、という考えも罷(まか)り通っていたのです[2]。アブラムとサライの夫婦は、子どももないまま消えていくばかりの存在でした。アブラムはサライと別れて、違う女性と再婚、あるいは女奴隷に子どもを産ませて養子とすることも出来ました。でもそうはしなかったのは、妻への愛だったのかもしれませんが、逆に、相当変わり者の世捨て人だったからかもしれません[3]。アブラムを美化するより、神の選びの不思議さに目を留めましょう。不妊で高齢のアブラムとサライ夫婦は、神が将来を託すとは思えない、消えゆくばかりの存在でした。二人は父とともにウルからカナンに旅立ちましたが、途中のハランで父が死んだため、その中途半端な旅先で、死ぬまで生活を続けていけばいいと思っていたのでしょう。その心許ない姿が、11章の30節以降、最後まで描かれます。ところが、12章で、
1主はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
2そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。
3わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」
主がアブラムに声をかけるのです。アブラムを呼んで、大いなる国民とし、祝福しよう。あなたによって地の全ての部族は祝福される、と言われるのです。まだ子どもはいないアブラムを世界の回復の鍵として選ばれました。それは、世界そのものが、命を生み出す力がなく、悪や罪、破壊や暴力ばかりで、希望がないことに対する、生きたメッセージでした。アブラムを選ぶ事自体が、神は、何かを生み出す力のない所に命を始めてくださるお方。世界を創造されて、闇の中に光を輝かされた方が、今この世界にも働いてくださるというしるしでした。新しいことを始めるにも、私たちの目には不利な条件ばかりで、「到底無理だ、最も相応しくない、論外だ」と思うような中にも、神様は全能の力を働かせて、そこから新しい国民を起こされます。呪われたような世界にも、呪いよりも強い祝福を始められます。神は、地の全ての部族が神の祝福から大きく飛び出していったのに、それでもなお、裁きや呪い、怒りを受けるに相応しいとは思われず、祝福をしたいと願われました。そのために、アブラムを選んだのです。
4アブラムは、主が告げられたとおりに出て行った。ロトも彼と一緒であった。ハランを出たとき、アブラムは七十五歳であった。
アブラムは、この信じがたい主の言葉を受けて、立ち上がり、出て行きました。それは、尊い応答です。疑って笑い飛ばさずに従ったのです。七五歳での再出発でした。この応答は、主の言葉を信じた信仰によるものです。ですからアブラハムは「信仰の父」と呼ばれます。勿論、アブラハムは主の言葉を完全に理解したわけでもありませんし、心に全く疑いがなかったわけでもないでしょう。そして、この後のアブラハムの生涯でも、何度も主の御心を疑い、嘘や不信仰からの行動を取ってしまう、不完全なアブラハムです。そういう不十分なアブラハムを招いて、祝福の器となさり、失敗からも立ち上がらせて、祝福を与えてくださいました。
ヘブル11:8信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。
だから私たちも、自分の信仰や知識や能力に色々な欠けがあることを素直に認めつつ、明日を思い煩わないで生きてゆけるのです。そういう私たちを通して、神の祝福の歴史を築こうとなさる神を信頼して、今日もここに来て、ここから遣わされていくのです。それがアブラハムにもイエスにも見られる、神の方法だからです。イエス自身、結婚前のマリアから聖霊の力によって生まれました。ガリラヤの田舎ナザレから出て来られ、弟子たちも漁師や無学な凡人達を選びました。罪人や病人として疎外された人たちの友となりました。そして度々アブラハムに言及しました。病気の霊に長年苦しんでいた女性を
「アブラハムの娘」
と呼び[4]、憎いローマの手先となって税金取りとなっていたザアカイを
「アブラハムの子」
と呼びました[5]。また、
ルカ3:8『われわれの父はアブラハムだ』という考えを起こしてはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。
これは神が全能だからというよりも、アブラハムの選びこそが石ころから起こすような選びだった、ということでしょう。だとしたら、そのアブラハムの子孫だと自慢する事は、最初にアブラハムが選ばれた意味も踏みにじってしまいます。神は石ころから、相応しいとは思えない私たちをアブラハムの子孫として、キリストを信じる民となさいます。キリスト教は信じる者が魂の救いや死後の安息を得る宗教である以上に、神が造られたこの世界を祝福するため、私たちに出会ってくださり、私たちを通して神の祝福が届けられていくことを信じるのです。
今の私たちも、神を見ることを忘れて将来を考えがちです。不安要素が沢山あります。若者達を教会から送り出して、この先どうなるか、不安です。「子どもがいない老人所帯に希望があるはずない」とどこかで思っているかもしれません。勿論、勝手な楽観は聖書の信仰とは別物です。アブラハムの祝福は、人が願うようなバラ色の人生とは違いました。アブラハムは主がどこに導くかを知らずに、主を信頼して、夫婦で主の導かれる生き方へと出て行ったのです。主が一人一人をどう導かれるか、教会がどこに行くのか、分かりません。不妊や旅立ちであれ、障害や病気、失業や鬱、いろんな問題が付き物です。でもどんな問題でも、祟りや裁きとか、「もうお終いだ、お先真っ暗だ」と思わず、ここから主の業が始まる、これが主からの新しい旅になると信じられるとは、なんという幸いでしょう。また、キリストを信じたら、そうしたハンディから免れるわけではなく、むしろそうした痛みを抱える当事者の一人となって、そこで何かしらの主の祝福を担うよう導かれる事が多いのです。そして、どんな時も主の恵みを戴きながら、将来にも思い煩うより期待をして歩む存在そのものが、祝福の光となるのです。
「主よ、将来を悲観し、失望しそうになっても、あなたがアブラハムを選んで、命の業を始め、世界に祝福をもたらそうとされたご計画を続けてください。自分の状況に将来を悲観し、人を見下してしまう私たちを笑って、予想を超えた祝福を現してください。そしてどうぞ私たちもあなたの祝福を運ぶ「土の器」として用いて、あなたに栄光を帰する人生とならせてください」
[1] ジョン・ストット。引用元は、ヴォーン・ロバーツ『神の大いなる物語』(山崎ランサム和彦訳、いのちのことば社、2016年)79頁。
[2] それは聖書の中にも沢山見られる目線です。サラだけでなく、ルツ、ハンナ、エリサベツなど多数見受けられます。しかし、それが「例外」とされず、むしろそうした女性を通して神の歴史が綴られていく、という視点は聖書の特徴です。
[3] 後には女奴隷のハガルを代理母にしてしまいますし(16章)、サライの死後は再婚して、6人も子どもを儲けるのです。(創世記25章1~6節)
[4] ルカの福音書13章10~17節。「16この人はアブラハムの娘です。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日に、この束縛を解いてやるべきではありませんか。」
[5] ルカ19章9節。「イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。」