聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2019/11/10 マタイ伝4章18~25節「始まりはペテロ」

2019-11-12 09:36:15 | ニュー・シティ・カテキズム
2019/11/10 マタイ伝4章18~25節「始まりはペテロ」
 来週末からカトリック教会のローマ法王が来日する予定です。私たちプロテスタントには、隣人教会の大イベントという程度のことですが、カトリック教会は歴代のローマ法王(教皇)を使徒ペテロの継承者として重んじています。今日はそのペテロの召命という記事です。
 そう考えても、イエスが招かれた最初の人物が、シモンとアンデレの兄弟という漁師であったことは、驚きだなぁと思います。イエスの宣教が始まって最初になさったのが、立派で有能な弟子を神殿や王宮で探すことではなく、湖で網を打っていた漁師、ペテロとアンデレの兄弟、更に別の兄弟、ヤコブとヨハネという人選でした。勿論、ここだけを読むと偶然出会って、いきなり声を掛けて、四人とも
「すぐに」
今までの生活を捨てたような無茶苦茶に思えます。実際には、ヨハネの福音書を見ると、彼らは以前から既に洗礼者ヨハネの弟子としての生活をしていました。洗礼者ヨハネから教えを受け、イエスも紹介されていました。またルカの福音書5章では、イエスがペテロの舟に乗って、網が破れそうな位の沢山の魚が捕れた奇跡が出て来ます[1]。ここには書かれていない別の経緯もあってペテロたちは従ったのです。
 ただ、この記事があの大漁の奇蹟を省いた召命の記事だったにせよ、それとも二つは別で二段階あったにせよ、マタイはあの奇蹟を省略したのですね。奇蹟を見たからイエスに従ったのではなく、奇蹟があろうとなかろうと、イエスが招いて、ペテロたちがすぐに応える、それが肝心なのだというようです。今でも
「聖書にあるような奇蹟が起これば…神が証拠を見せてくだされば…自分の願いを叶えてくだされば…信じられるのに」
と無い物ねだりをして、自分が信じられない理屈や、誰かに信じてもらうのが難しい理由にしたりすることがあります。しかし、どんな奇蹟を見ても、人の心はそれでイエスに従うわけではない。それこそ、聖書の奇蹟の出来事が語るメッセージです。大事なのは、イエスが私たちに目を留めて、呼んでくださること。そしてそれは、奇蹟がなかろうと起きるし、神殿でなく職場でも起きるし、様々な形で起きるのです。
 ここでもそうです。イエスは、シモンとアンデレの兄弟を呼び、
「人間を捕る漁師にしよう」
と言われました。今までの生活を捨てた面ばかりが強調されがちですが、それ以上に「人間の漁師にしよう」[2]と、漁師の彼らならではの呼びかけをされましたし、兄弟を兄弟として招きました。兄弟を切り離すのではなく、兄弟として招かれて、当然その兄弟関係も、今までとは違うものになったでしょう。この後の五章以降の「山上の説教」では、「兄弟に対して」というフレーズが繰り返されますし[3]、それは実の兄弟以上の広がりを持つのですが、しかし一番弟子のペテロとアンデレ二人、ヤコブとヨハネの兄弟にとっては、まずお互いを思ったことでしょう。イエスは、弟子たちを今までの関係から断ち切り、過去を全く捨てて出家させたのではなく、それぞれの家族関係、漁師の仕事や経験を踏まえて、新しい生き方に招かれたのです。
 それは、まだペテロたちには十分分かっていたわけではないでしょう。ペテロはこの後、弟子の筆頭として、よく登場します。しかし、その発言はいつも背伸びや負けず嫌いな独り歩きです。湖の上を歩くイエスを見て「私にも水の上を歩かせてください」とのぼせ上がります[4]。16章では、イエスをキリストと告白する大切な告白をします[5]。そこでのイエスの言葉に基づいて、天の御国の鍵を代々のローマ教皇は与っていると考える、大事な告白です。しかし、その直後に、イエスがご自分の向かっているのが苦難の最後であるという予告を聞くと、ペテロはイエスを諫(いさ)めてしまう[6]。そして、最後の晩餐の席では、イエスを知らないなどとはたとえ一緒に死ななければならないとしても絶対に言わないと意地を張り、その夜には三度、イエスを知らないと裏切ってしまう。それがペテロの名前が出て来る最後になります。
 ペテロは主の一番弟子として選ばれて、初代教会のリーダーとなります。でも、競争心や自己顕示欲が強い人だったのかもしれません。本名はシモンで、ペテロはあだ名。
「岩」
という意味で、良く言えば動じない不屈さ、悪く言えば石頭、頑固者だというニックネームです[7]。そういうシモンにイエスが声を掛けたのは、シモンの欠けも問題もご存じの上で愛される、イエスの眼差し、神の国の懐の広さです。後々、優れたリーダーになるのも、イエスご自身が彼を辛抱強く訓練し、成長させたからに他なりません。3章でも4章でも「石ころからアブラハムの子らを起こす」「石がパンになるように命じなさい」という言い方がありましたが[8]、石以上に変わりがたいのが岩です。イエスは「岩」を「人間の漁師」になさいます。シモンという石頭から「神の国の最初の弟子」を起こし、おっちょこちょいの漁師を「人間を捕る漁師」、命のパンの宅配人に変え始めたのです。しかも偉そうに、力尽くで人を集めて食い物にする漁師ではありません。自分も人間臭さをプンプンさせながらイエスに招かれ、その後もその弟子の中でも「団栗の背比べ」をし、イエスをさえ諫め、裏切りながら、そこから頑固さを砕かれて立ち上がった。そう証しして、人の心に寄り添って励ます「人間の漁師」でした。それはこの時点でのシモンたちには誰一人思いも寄らないことでした。次もそうです。
23イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。24その評判はシリア全域[9]に広まって、人々は様々な病や痛みに苦しむ人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人など病人たちをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らを癒やされた。25こうして大勢の群衆が、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、およびヨルダンの川向こうから来て、イエスに従った。
 ペテロとアンデレが従い、ヤコブとヨハネが従い、大勢の群衆もイエスに従いました[10]。イエスがそこで教えていた内容は、5章以下の「山上の説教」で明らかにされます。そして、その最後に出て来るのは、イエスの語る説教を聞いた群衆達の、ビックリ仰天した姿です。
7:28イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。
29イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。
 イエスの説教が魅力的だとか納得したではなく、驚いたのです。信じれば救われると語る、入信の勧め、入口の「伝道説教」でなく、神の国がどんなものかという、度肝を抜くようなゴールの幻を描いたのです。しかも「それを信じろ」でさえなく、イエスは無条件に病気や痛みを癒やされましたし、ついて来た群衆に対しては、もうすでにあなたがたは神の国の一員だという宣言でした。このイエスに従う人々が、そのままイエスの宣教の本質を物語っています。

 イエスに従うきっかけは人それぞれです。ペテロにはペテロの思惑があり、ヤコブとヨハネはイエスの右と左の地位が欲しいと取り入りました。自分の病気の癒やし、誰かの痛みの回復、というきっかけもあるかもしれません。教えに惹かれる人もいれば、自分捜しとか自分を変えたいとか、始まりは人の数だけ違うでしょう。初めのペテロがそうでした。石頭の漁師でした。礼拝や教会に来る求道からイエスに出会う場合もありますが、イエスは仕事をしているペテロに会いに来て招いたのです。また、群衆は病気や痛みがきっかけで集まりました。その、悲しみを知る人々を、イエスはすべて受け入れてくださった。そして動機は何であれ、ペテロも群衆もイエスに従ったことで、イエスの言葉に驚かされ続け、イエスによって変えられ続け、最初に求めていた幸いよりも遥かに素晴らしい幸いに生きるようになるのです。
 始まりがペテロだったとは、私たちには慰めです。ローマ教皇がペテロの直系なのではなく、私たち全員がペテロの直系なのです。簡単に変わらない石頭でも、イエスはわたしに従ってきなさいと仰る。その神の国の豊かな招きで私たちもここにいます。色々な思惑があり、恵みならざる思いを持ちつつ、それでもイエスの言葉やイエスの働きに惹かれて、ここに集められ、主に従う歩みをしています。そして、この群衆とも一緒に、山上の説教を聴き、御言葉を聞きます。私たちには驚くしかない、力強い言葉を語り、私たちも変えてくださるイエスに聴いていくのです。

 こうも言えないでしょうか。イエスこそ、シモンを取る漁師になってくださったのだ、シモンがまずイエスの最初の「収穫」だったのだ、と…。
 「人間をとる漁師に」というと、なんだか人間を魚扱いするようです。多くの人を信者にし、またその人たちを伝道の使命に生きるよう駆り立てる、というイメージが浮かんでしまいます。それは、恐ろしいことです。人を、人ではなく、魚や商品扱いするなんて。でも、実際、ペテロも私たちも、人間を人間扱いせず、商品やモノ扱いし合っていることが多いのではないでしょうか。
 そのままであれば、人間を魚か何かのように扱う伝道者になることもあるでしょう。しかし、イエスはペテロを、モノ扱い、働き人扱い、使いっ走り扱いはしませんでした。イエスはペテロを人として愛されました。だからペテロも、初めて、人を、イエスが愛したように愛し、イエスが回復させたように回復させる、「人間の漁師」として立ち得たのだ・・とも言えましょう。
 「人間を捕る漁師」とは、イエスがしてくださったように、人を呼ぶ働きに加わることです。イエスはシモンを無理矢理、弟子にしたり、ご自分の働きのための道具になるような人材集めではなく、シモンその人を愛し、喜び、そしてシモンも人間に人として向き合う生き方をさせたかった。だから、彼を呼び、あだ名をつけ、彼ならではの「人間を取る漁師」なんてフレーズで呼ばれたのです。同じように、ペテロも、人を取る漁師になる。主が自分を呼ばれたように、人にあなたを呼んでくださる主を伝える。ペテロ自身が、その人を愛し、その人の家族や経験を尊重して、その人と共に歩み、その人の失敗や問題に振り回されながらも、その人の変化、成長に寄り添っていく。そういう「人間を取る漁師」へと、ペテロは召されました。そして、私たちも、イエスが私たちを招いてくださったように、互いを招き合い、他の人にも、人として大切にしていく生き方へと変えられて行くのです。

「主よ。私たちもあなたに招かれてお従いし、今ここにある民です。痛みがあり願いがあり、誤解も罪もありますが、あなたが私たちに触れて癒やし、癒やし以上の幸いを下さる事を待ち望んで、お従いしたいのです。その私たちを、あなたの器としようとのご計画があなたにあることに、驚きつつ、心から受け止め、差し出します。先立つあなたとともにお遣わしください」

[1] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[2] 「人間をとる漁師」は意訳で、原文は、「人間の漁師」です。ルカ版では「今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」(5:10)ですから、あわせると「人間を捕る漁師」の意味でしょう。ただ、「とる」という言葉よりも、「人間性」が込められた表現とも読みたいのです。

[3] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[4] マタイ14章28節「するとペテロが答えて、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。29イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。」

[5] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[6] マタイ16:章21節以下「そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。22すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」前回、サタンの誘惑を退けたのに、最初に選んだペテロがサタンと重なるような足を引っ張る傾向を持っていた、という皮肉です。そんなペテロを、イエスは選んでくださったのです。

[7] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[8] 3章9節、4章3節。

[9] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[10] 「従う」(アコリューセオー)はマタイに24回使われます。

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ニュー・シティ・カテキズム4 創世記1章26節~2章3節「神の傑作である私たち」

2019-11-03 16:47:12 | ニュー・シティ・カテキズム
2019/10/27 創世記1章26節~2章3節「神の傑作である私たち」
ニュー・シティ・カテキズム4

 先週は「三位一体」をお話ししました。今でも「三位一体」という言葉はマンガやビジネスでも使われますが、その原点はキリスト教です。神は三位一体の神。神はただおひとりでもあるし、父・子・聖霊の三つの位格を持つお方でもあります。神は愛し合い、友情を育み、チームワークをなさるお方です。その神が人間を造ったのはどうしてでしょうか。それは、先の聖書にあったように、人間をご自身のかたちとするためでした。
創世記1:26神は仰せられた。
「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」
27神は人をご自身のかたちとして創造された。
     神のかたちとして人を創造し、
     男と女に彼らを創造された。
 ここにはハッキリと「神のかたち」が繰り返された上で、それが「男と女に」と平行されています。男と女に造られた事を通して、神は神ご自身の形を表されます。聖書の書かれた最初の頃、紀元前の時代、イスラエルの周辺の文化にも「神の形」という言葉はありました。しかしそれは、エジプトの王だけとか、ごく一部の限られた人を指していました。他の人は、神の形ではなく、奴隷のように扱われていたのです。特別な人だけが「神のかたち」を名乗れるのが当たり前。そうした中で、聖書は「すべての人が神のかたちであり、男と女とに造られた両方があっての、神のかたちなのだ」と言います。
第四問 神は私たちを、なぜ、どのように創造されましたか?
答 神は私たちを神ご自身のかたちとして男性と女性とに造られ、神を知り、愛し、共に生き、栄光を表す為に造られました。神に造られた私たちが神の栄光を表わす為に生きる事は正しいことです。
 男性も女性も、みんなが神のかたちです。そして、男性と女性が一緒に造られて、一緒に過ごすことを通して、当然、会話をしたり、喧嘩をしたり、愛する事、愛されることを学びながら、共に生きることが、神を知り、神を愛し、神とともに生きることにつながる。そうして神の栄光を現すことが、人間が創造された目的だったのです。神が人間を、男性と女性とにお造りになったのは、そうすることで、人が神の栄光を現すためでした。皆が神の作品、傑作です。人は神の栄光を現すために生きているのです。
 先週、ニュースで、フランスの高齢女性の台所にあった絵が、29億円で落札されたことが話題になっていました。持ち主は、ずっとその絵を台所に飾ったまま、「ただの宗教画だと思っていた」そうですが、実は、八百年前にチマブーエという画家が描いた貴重な絵だったのです。この落札額は、中世の絵としては最高金額だそうです。ただの絵だと思っていたら、最高の価値があった。

 それと同じ発見がすべての人間に言えます。ただの人、平凡な人間。そう思っているすべての人が、神の形に作られています。台所で働いていようと、老人でも、見知らぬ人でも、どんな人でも、神がご自分の形に作られた、最高に価値がある人なのです。私たちは皆、神の最高傑作品です。その価値は、神ご自身の価値にも等しいのです。だから、神は私たちを取り戻すために、神の子イエス・キリストが人間になり、身代わりとなって死ぬほどの代償を厭いませんでした。私たちを買い戻すために、神ご自身の命が支払われたのです。それほどの価値が、すべての男性と女性とに与えられているのです。その価値を、私たちは気づかないだけです。

 神が私たちをお造りになったのは神の栄光を現すためで、私たちが生きているのも神の栄光を現すためです。造り主である神を忘れて、自分の栄光やこの世界で一番になること、名誉や賞賛を受けることを人生の目的や最高の幸せとして求めるのは、大きな勘違いですし、虚しい結果しかもたらしません。人は神の栄光を現すために造られたのですから、神の栄光を現すために生きることが最も幸せであり、自然なのです。一方で、私たちが頑張って神の栄光を現さなければならない、というのでもありません。神の栄光はこの世界や私たちに十分に現されています。私たちはただ、その神をますます知り、ますます誉め称えるだけです。自分も、神様の栄光を現すために造られたことを受け入れて、神を知り、神を愛し、神とともに歩む。頑張るのでなく、正直に、自分を喜び、すべての人を喜んで、神を礼拝しながら生きることが神の栄光を現すのです。
Ⅱコリント3:18私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
 これも三位一体のチームワークですね。神が、私たちを神のかたちにするため、御霊なる主が働かれます。神が人間を神のかたちにお造りになったのですから、人間任せではないのです。私たちは主イエスの栄光を見ながら、神のかたちに変えられます。愛なる神の栄光が最も豊かに現されているのは、キリストの福音です。イエスは、私たちのために、ご自身を与えてくださり、罪の赦し、永遠のいのち、互いに愛し合い、神の家族とされる恵みを下さいました。このキリストこそ、愛である神のかたちです。
Ⅱコリント4: 4…神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせ…。
 「神のかたちであるキリスト」とあります。そのキリストの溢れるような愛の福音を私たちが受け取り、赦しや憐れみを頂いている者として自分を世界に差し出す時、神のかたちを映し出します。自分の栄光を輝かせようとしたり、その逆に、自分なんか輝けない、孤独だ、将来なんて諦めた、そう思ったりフラフラしている人が沢山います。そんなバラバラな世界を三位一体の神は、キリストの福音によって、生き返らせます。罪の赦しを知り、自分の価値を知らされ、お互いに尊び合い、生かし合うようになり、共に生きるようにされる。それが福音です。神は私たちを通して、その栄光を現されます。愛し合い、赦しや希望を育てて行くことで、私たちは神の栄光を現す存在となるのです。

「すべての造り主よ、私たちが、自分もすべての人も、あなたがあなた自身の形に造られたという視座を失わないように助けてください。これを自分についても疑うことがありませんように。他の男性にも女性にも、疑うことがありませんように。その疑いは、あなたの御名にふさわしい栄光を否定することなのですから。私たちのうちにきらめくあなたの形が、私たちの体も魂もすべてあなたのものであることを証ししますように」
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マタイ伝4章1~17節「大きな光」

2019-11-03 16:42:51 | マタイの福音書講解
2019/11/3 マタイ伝4章1~17節「大きな光」
17この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」…。
 こう言われた17節からイエスの宣教が始まりますが、その前に
御霊はイエスを荒野に導いて悪魔の試みを受けさせた」
とあります。前回の洗礼で、すぐに宣教を始めて良かったろうに、その前に四十日の断食と、サタンから厳しい試みを受けて勝つ遠回りをイエスはなさいました。それは、イエスの宣教、キリスト教のメッセージそのものにとって、この試みが大きな意味をもっていたからです。そもそも創世記の3章で、エデンの園にいたアダムとエバを、ヘビが誘惑して成功した所から、人間の堕落、放蕩、闇が始まり、それを追いかける神の物語も続いていました。試みる者、神との関係を試して壊そうとする存在、人を騙して神から引き離そうとする悪しき力が働いている。「主の祈り」の最後に、イエスは私たちに
「試みに遭わせず悪(悪い者)からお救い下さい」
と祈るよう教えられました。そのイエスご自身が、まず試みに遭われ、悪い者からの挑戦を受けて、退散させ、その上で、宣教を開始されたのです。
 その意味でも、この記事が全部文字通りの事かどうかは問題ではありません。
「四十日四十夜の断食」
は疑う必要がないとしても[1]、サタンが近づいて見えたのか、どんな姿だったのか、と想像するのはお門違いでしょう。エルサレム神殿の屋根の端に本当に立たせたのか、神殿の参拝客たちは見上げたら見えたのか。非常に高い山に本当に連れて行ったのか、この世のすべての王国とその栄華を見せる山が本当にあるのか。そういう問題はどうでも良いのですね。
 また、この三つの誘惑も沢山の面を持ちます。最初の誘惑、
「石をパンに変えよ」
の誘いは御霊の導きを疑わせる面もありました。またイエス自身だけでなく、これから出会う民衆の空腹を満たしてやりたい、当座の要求に応える能力を求める誘惑でもあったでしょう。自分たちの欲求を求めるポピュリズム、期待に応えたいという英雄願望。そして勿論、「食べ物の誘惑」という身近なことも重なります[2]。これに対してイエスは、御言葉をもって応じました。神の言葉の約束が十分な答でした。しかし次の誘惑では御言葉が誘惑になります。詩篇九一篇を掲げて「聖書にこう書いてあるんだから、下に身を投げて見なさい」と言います。これは、高い所から飛び降りて人々をアッと言わせ、一気に民心を掌握しようという誘惑でもあるでしょう。自分のために聖書の言葉を都合良く引用する、という誘惑でもあります。或いはイエスが答えたように、聖書の言葉で「主を試みよう」とする誘惑も思い起こさせます。三番目の誘惑は、権力を得ようという誘惑。サタンにひれ伏して、妥協して、近道を行こうという誘惑も考えさせられます。9節の
「もしひれ伏して私を拝むなら」
には「一度だけ拝めば」という言い方ですが、「一度ぐらい大丈夫」という誘惑も誰もが思い当たるでしょう。「近道」というのはそれ自体誘惑であり得ます。もう一つ大事な事があります。後にイエスが初めて、苦難と死に至る将来を明らかにした時、ペテロは真面目にイエスを窘(たしな)めました[3]。イエスはここと同じ言葉で
「下がれ、サタン」
とペテロを厳しく叱ります[4]。神が選んだ十字架に至る苦難の道、偽りのない愛の道ではなく、サタンに頭を下げて楽な道を行こう、それは誘惑でした。
 私たちはここに自分の様々な誘惑を重ね合わせられますし、イエスにとっての誘惑の意味も様々に推測できます[5]。アダム以来、あらゆる場所で誘惑に晒(さら)されている私たちのために、イエスは自ら厳しい試みを受けてくださいました。そこで、「神の子」としての特別な力に頼らず、どこまでも「人」として立ち、御言葉で勝利して下さった。そのイエスが私たちとともにおられます。私たちを支え守り、闇の中でともにおられる事を、この恵みを覚えたいのです[6]。
 この後12節で、イエスは洗礼者ヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退きます。ヨハネを捕らえたのは、ガリラヤの領主ヘロデです[7]。イエスは危険から逃れて退かれたのではなく、ヘロデのお膝元である危険なガリラヤに退きました。それも住み慣れた故郷で寛(くつろ)ぐためではなく、領主ヘロデの下で生きざるを得ない人々の所に来て住むためでした。支配者の不法な振る舞いにも何も言えずお先真っ暗な思いでいる人々、ヨハネが捕まって「ヨハネの声など何にもならなかった、ヨハネから洗礼を受けたこと自体、なかったことにしたい」と思っていたかもしれない。そこにイエスは来て住まわれました。それはイザヤの預言の成就でした。
4:15「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。
16闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。
 「大きな光」。それは、イエスの存在そのものでした。石をパンに変えるわけでも、ヘロデを王位から追い出すこともありませんでした。神殿の頂から飛び降りたり、神の約束を力強く成就したりもしませんでした。しかし、イエスはそこに来られて、一緒に住んで下さり、ヘロデのお膝元のガリラヤで、「あなたがたの王は神である。神の国があなたがたの側に来た」。
4:17…宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。
 「あなたがたも神の国の市民として生きよ」と仰る。そしてこの後、天の御国とはどんな国か、どれほど意外で、どれほどこの世界と違うかを丁寧に説き明かす宣教がガリラヤで続くのです[8]。神の国の福音がどんなものか、暗い心を照らす光のような言葉や力ある業の数々をこれからこのガリラヤで行われるのです。イエスは奇跡や癒やしを行われますが、自分のための奇跡や、人気集めのための癒やしをしたことは一度もありません[9]。自分のために名声や楽や権力を求めるのでなく、民とともに歩むことを求めました[10]。
 でも、ガリラヤの人々にとっての闇は、ヘロデだけでなく、自分たちの中にもありました。弟子たちを見ると、彼らがいかにイエスの願う所とは違う方向を見ていたかが分かります。サタンが騙す以前に、石をパンに変えられるものなら変えたい。自分たちの力を見せたい。この中で誰が一番かをいつも考えている。立派なクリスチャンだ、信仰のある人だ、神が愛であるなら、力や癒やしや奇跡がほしい。恥や闇や痛みは避けたい。そういう思いそのものが、実は「闇」でしょう。イエスが来られた時、そうした人間の闇、神を求めるよりも神の代わりになるもの、神の言葉を信頼するより一時的な実感できる何かを手に入れようとする闇が露わになっていきます。弟子たちもそうでした。もし弟子たちがサタンにこんな挑発をされたら簡単に力や照明を求めたでしょう。いいえ、弟子たちがサタンの代わりになって、神を試し、証拠を求めることさえある。[11]
 ここに私たちは、自分を誘惑される立場に重ねる以前に、私たちがイエスを試みるという事実を重ねずにはおれません。「主がおられるだけでは足りない、私の願うものをくれなければ信じない」という態度でいるのです。でも、有り難い事に、イエスはそんな私たちの挑発には乗りません。イエスは、私たちの必要を十分にご存じであり、必要以上の恵みを豊かに下さる天の父なる神への信頼から、祈り願うようにと教えました[12]。そして、それがなかなか出来ず、すぐに誘惑に負けて、闇を埋めようとする弟子たちとも、ずっとともにいて、弟子たちを育ててくださいました。神の国とは何かを教えてくださいます。試みに遭わせないよう、誘惑に陥らないよう祈る事を教えます[13]。言い換えれば、闇に必要なのは、それを隠す立派な蓋ではなく、闇の中に神が来て下さることだと教えるのです。それはとても地味な働きですが、そういう地味で回りくどい歩みこそが、人の闇を本当に照らします。うわべの繋がりより、その裏にある闇や恥、隠している所に来てくれる人がいる。それは本当の光、慰めです。それゆえにイエスが来たことが
「大いなる光」
と呼ばれるのです[14]。このイエスの「大いなる光」が、私たちの中に輝き始めた。それが
「天の御国は近づいた」
という現実です。私たちはそれを信頼します。そのために、誘惑に弱く、闇もあるままの私たちを、お捧げしますし、イエスも私たちを誘惑を通しても成長させ、深く変えて、救い出してくださるのです。

「主よ。私たちのために、苦難の道を歩み抜いてくださり、私たちとともにいて、試みからお救いくださることを感謝します。私たちの心を照らして下さい。虚しい誘惑を求めているなら、光によって露わにしてください。何が誘惑かも分からず迷う時も、素直にあなたを信じて委ねます。たとえ御心が見えなくても、それを通してなさろうとしていることをなしてください」

[1] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[2] イエスの働き全体を無視してはこの誘惑の理解も間違うように、イエスとは違う召しを与えられた私たちも、それぞれに立場や成熟度によって、誘惑の内容・方向性も当然変わってきます。飢えた状況でと、飽食の時代とでは、誘惑の内容は全く異なるだろう私たちは、イエスの味わったこれほど深い誘惑以前に、もっと手前の欲望で誘惑されるものです。弟子たちは、「誰が一番偉いか」や、人を見下す誘惑にしょっちゅう流されている。そのすべての誘惑も含めて、イエスは勝って下さった。「わたしは、大学生の時にシベリアの抑留体験をした山中良知先生が、「足立君、人間にとって一番恐ろしいことは何かわかるかね」と尋ねられ、「飢えだよ、だから、イエスさまは悪魔に最初に試みられたのは飢えの時だったんだ」と言われました。その言葉を今も忘れることができません。シベリアの抑留生活において先生は、人間が飢えという極限状況の中で多くの同胞が死に、また生きるためにどんなに醜い姿になるかを、その恐ろしい現実を体験されたのでしょう。」上諏訪湖畔教会説教HPより。

[3] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[4] 「下がれ」も、ヒュパゲ。山上の説教で(5:24、41)、癒やされた人に(8:4)、百人隊長に(8:13)、悪霊に(8:32)、ペテロに(16:23)、罪の戒規の場面で(18:15)、富める青年に(19:21)、ぶどう園の譬え(20:4、7、14)、などなど。

[5] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[6] しかし単純に、《イエスがしたようにすれば、私たちも誘惑に打ち勝つことが出来る》という読み方は、しなくてもよいことも強調しておきたいのです。

[7] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[8] 14章1節で、ヘロデがイエスのうわさを聞いて、おびえるくだりが出て来ます。ヘロデがイエスの活躍に気づくまではそれなりに時間がかかったようですが、それでも確かにイエスの働きは、ヘロデを怯えさせるほどにふくれていきました。イエスはそれまで、ヘロデの足元のガリラヤで語り、その人々を説教で驚かせ、神の国の力を示し、神への信頼、御国の世界を見せ続けられました。しかし、そこでは、この荒野の誘惑でサタンが誘いかけたような、神への信頼を試したり背を向けたりするような姿勢は終始退けていました。

[9] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:9.0pt;text-align:justify;text-indent:-9.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[10]  このイエスが来てくださったこと、私たちの誘惑を体験的に知り、最も厳しい誘惑に晒されて、私たちの弱さを知っているお方が、私たちとともにおられること。これこそが、私たちにとっての慰めであり、希望です。勿論、それだけでなく、主は私たちの必要を満たし、喜びや恵みを具体的に下さっています。そして私たちは自分が願うものを、主への信頼から祈るようにとさえ言われています。そういう深く強い関係を、イエスはもたらしてくださいました。イエスが私たちを今もこれからも助けてくださる。このイエスへの信頼をいただくのです。「ヘブル4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。16ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」 この「折に叶った助け」は神の子どもとしての特権で、石をパンに変えたり何かすごい能力を持ったりすることではありません。聖書の言葉を掲げて神を試して、人気や楽な道を行く、というのも誘惑です。その逆に「自分の力で誘惑を退けよう、御言葉を知っているから絶対大丈夫」と考えるのも、弟子たちと変わらない勘違いです。でもそういう勘違いをし続ける弟子たちをイエスは変えてくださいました。弟子たちの俗物根性や、十字架に向かうのとは反対の道にすぐ目を向けてしまう傾向に釘を刺しつつ、その弟子たちとともにいてくださいました。そして、自分のために能力や名誉を求める生き方から、イエスとともに、闇の中にいる人に光を届ける働きに派遣されました。そのためにはまず、弟子たちが自分の闇に来て下さったイエスを、誘惑に負けたりしくじったりする中で味わい知っていく、長い道を通ったのです。

[11] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[12] ただし、マタイ6章によれば、それは人に見せるためにでもないし、長々と祈る事で神を動かせるかのような不信(神を小さくする罪)からでもない、と釘を刺されています。

[13] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[14] それを忘れては、神の力を試そう、神からのしるしを求めようとするのは根本的な勘違いですし、聖書の言葉を並べ立てていてもサタンの思う壺に填まるし、例え人生を成功して終わったように思えても神の心とは全く違う歩みだったということもあり得る、というマタイのメッセージなのです。神の子イエスは自分のために奇跡や楽を求めず、神を無条件で信頼されて、私たちのために十字架に至る苦難の道を歩まれました。そして、私たちにも、神の力を試す切りのない生き方、虚しい生き方ではなく、主に愛されている者として自分を捧げる歩みへと招かれます。

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