2019/11/10 マタイ伝5章1~12節「意外な幸いに踊る」
マタイはイエスの説教をいくつも載せていますが、その最初が5~7章の「山上の説教」で、最も長い説教です。そして、イエスが語った「御国の福音」がどんなものか、が十分に現されています。その導入は今読んだように「幸い」のオンパレードです。「幸い」が9回も繰り返されます。以前の文語訳聖書では
「幸いなるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり」
でした。元々がそういう言い方です。イエスの説教第一声は「幸いなるかな」。イエスの告げる「御国の福音」は幸いを告げる。そう思うだけでも、心が躍るような思いになります。
しかしその「幸い」が何を指すかというと、意外極まりないのです。
「心の貧しい者」「悲しむ者」「義に飢え渇く者」「義のために迫害されている者…わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口(あっこう)を浴びせるとき、あなたがたは幸いです」。
全く非常識な言葉です。心が豊かな方が幸せ、悲しみがない方が幸せ、迫害や罵り、悪口など欲しくありません。そんなものを喜ぶのは歪んだ考えです。しかしこの言葉をイエスの道徳、「山上の垂訓」と呼んで高潔に生きようとする人もいます。文豪トルストイがその1人です。彼は文字通りイエスの言葉を実践しようとして行き詰まり、家族にも別れを告げ、旅先で惨めな死を遂げます[1]。しかし、イエスは「幸い」を告げたのです。人から見れば不幸と思って当然の状況に「幸い」を告げました。それはイエスの権威による「幸い」の宣言です[2]。イエスしか語れない幸いです。2節に
「口を開き」
とわざわざあります。まるで天地創造の初めに神が口を開いて、世界を造られたように、イエスが天の御国をこの群衆の中に造り出すかのようだ、と読まれるのです。この言葉は道徳でも命令でもありません。イエスがどんな幸いを見つめて、そこに群衆や私たちを連れて行こうとしているか、イエスの見つめる旅路を示しています。幸いを犠牲にせよとか、一般的な道徳や、高潔な倫理とかではありません[3]。悲しみや迫害、そのままでは死で終わる不幸な状況を、イエスは幸いの道とすると言います。今の悲しみや飢え渇きも将来、確かに慰められ満ち足らされる。そんな確約ができる権威がイエスにはあるのです[4]。人は為す術のない不幸も、イエスは幸いへの道とするのです。
しかし3節と10節の
「天の御国はその人たちのものだから」
は未来の事ではありません。今の現実です。「天の御国」とは死んだら行く天国という意味ではなく、神が王として治めている国・支配のことです。神の支配だからこそ当然、死後や将来も心配は要りません。しかし、何よりも「天の御国」とは今ここで神が私の王であり、私は神の国の民として生かされ、歩み始めている、ということです[5]。その神の国は、どうしたら私たちのものになるのでしょうか。
「幸いなるかな、心の貧しい者。天の御国はその人たちのものだから」
と言われるのです。欄外に「霊において貧しい者」とあります。霊とは、霊である神と繋がる私たちの属性です。霊において貧しい、とは神と繋がることにおける貧しさです。信仰の貧しさと言い換えてもよいでしょうが、それは努力してどうなるものではない、私たちの存在の深い深い欠乏です。それもここではちょっと貧しいとか清貧というようなものではなく、極貧、物乞いをしなければ生きていけない瀕死の貧しさです。自分の信仰など誇れない、神の前に何も差し出せるものがなく、ただ神の憐れみを乞い求めるしかない。そういう者に、イエスは
「幸いなるかな。天の御国はその人たちのものだから」
と仰るのです。この反対は、ちょうどこの「山上の説教」最後、7章21節以下に天の御国に入れない人の姿として出て来ます。
「その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』
23 しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』」[6]
「俺は貧しくない」と言い張っている。「自分にはこれもある、神に誇れるものがある、貧しくはない」。それは天の御国、神の憐れみによって治められる御国とは真逆の思いです。以前「心が貧しい者とは、ひと言で言えば、「天の御国はあなたのもの」と言われて、「え、天の御国が私のもの? 嬉しい!」と思える人だ」と聞き、成(な)る程(ほど)と唸(うな)らされました。そんな嬉しさとは対照的に、「私には天国に入って当然」と文句を言うのは、神の国の土台である憐れみを否定しているのです。でも、私たちは憐れみよりも人間のわざを誇る世界にどっぷり浸っています。心貧しい者の幸いを仰ったイエスの言葉は、常に驚きであり続けます。驚かされ続け、そのイエスの眼差しに触れ、心貧しく生きる人たちに触れることで、私たちは根底から変わります[7]。心貧しい者に一方的に注がれる神の愛を知らされて、私たちは自分の貧しさを知り、その貧しい中にイエスがともにいることを知るのです。そして素直に悲しむ者となります。
「悲しむ者は幸いです」。
悲しみが幸いではありませんが避けられません。それを避けて、悲しみから逃げ、喜びだけを装おうとする生き方で行き詰まるのではない。人生の悲しみを十分に悲しみ、神の慰めを子どものように求める生き方になる。悲しみも絶えない私たちのところにイエスが来て下さった。何も差し出せるもののない私たちの所に来て、「天の御国はあなたのものだ」と約束してくださった。その幸いを受け止めつつ、それ以外の悲しみも(平気になれではなく)十分に悲しみながら、慰めの約束を聴きながら生きるようにされていくのです。それが柔和な生き方[8]、義に飢え渇き、憐れみ深くなり、心きよくされ、平和をつくる生き方とも通じてきます。(今回は端折りますが。)人が「イエスに従えば悲しみがなくなり、いつも満ち足りた生活が送れる」と期待して従ったとしても、自分の貧しさを痛感するような出来事、悲しみ、渇きはあります。出来合の平和より、平和が造られなければない状況を通るのです。安定や幸せがない、しかしそこでこそ、イエスがもっと深い幸いを創造される。それは、
「12大いに喜び(喜び踊り)なさい」
と言われるほどの幸いを言われるのです。
豊臣秀吉がキリシタンを迫害し、伴天連追放令を出したきっかけは、秀吉の寝床に女性を用意しようと臣下の者が少女たちに声を掛けた所、「いやです」と言われた事件だそうです。秀吉の誘いを断るなんてとんでもないことでした。しかし少女は「私はキリシタンですから」と言った。権力者の命令に対して小娘でさえ「ノー」と言わせるキリスト教。その結果が迫害や虐待だとしても、女性が自分の尊厳を主張するようになった。何と力強い幸いでしょうか[9]。
「神よ。あなたは私たちを、ご自身にむけてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです。」
先日の特別集会で板倉先生が最後に紹介した言葉です。4世紀のアウグスティヌスの言葉です。安らぎ、幸い、喜び、命。どれも私たちの創造主であり、幸いを語る神との関係にこそあります。豊かさや安心、環境にあるのではありませんし、誰とも無関係に自分の内面や気の持ちようで持てるものではありません。私たちは私たちを造られた神との関係抜きにはない。だから、せめて誰かが一緒にいてくれることが嬉しいのです。状況がどうあれ、自分がどんなに貧しく悲しんでいても、ともにいてくれる誰かがいる時、魂が躍り上がって喜ぶのです。その幸いが人に力を与え、小娘も心貧しい者にも「ノー」と言える自由、迫害や悲しみをも恐れない命をくれます[10]。アウグスティヌスの言葉とされる文にこんな言葉もあります。
「神は私たちが唯一の存在であるかのように一人一人を愛してくださる」[11]。
なんと幸いでしょう。イエスは、その幸いをここから作り始めてくださいました。まだまだ私たちは、このイエスの意外な言葉に驚き、戸惑い続けましょう。戸惑いつつ、既にイエスがここに来て幸いを始めておられることを聞いていきたい。そして、この幸いの約束に力づけられて、堂々と悲しみ、喜び躍りながら、御心がなりますようにと祈っていくのです。
「主よ。心貧しい私たちをあなたが愛し、御国を下さる幸いを感謝します。幸いとは程遠い場所で、その辛さも悲しみも痛みも十分に知りつつ思いも寄らない幸いを語り創造してくださる。私たちとともにいることを幸いと喜んでくださる。そのあなたがおられるから幸いです。この幸いを語り合い、ともに喜び祝い、踊るほどの喜びを戴いて、御国の証し人としてください」
[1] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[2] そして、この山上の説教の最後に示されるのは「7:28群衆はその教えに驚いた。29イエスが彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。」という驚きの反応です。
[3] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[4] 口語訳は「慰められるであろう」「受け継ぐであろう」としていました。未来形だからです。しかし「だろう」では不確かになってしまいます。ですから新改訳は「だろう」ではなく「慰められる」としました。確かな将来です。
[5] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[6] マタイ7:21~23「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。22その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』23しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』」
[7] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[8] マタイ11:28~30「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。29わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
[9] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[10] そして、イエスご自身がこの通りに生きてくださいました。心の貧しい者たちとともにおりつづけ、悲しみをともにし、柔和で、平和を作ってくださいました。それをイエスは義務感や正義感でなさったのではなく、喜んで、幸いとして生きてくださいました。イエスご自身が、まず幸いを語り、幸いを生き抜いてくださいました。そのイエスに従っていく者にも、その幸いが与えられるとイエスは約束しています。人には全く意外な幸い。しかし、人にとってどんなに心外な状況や自分の貧しさを痛感するような時にも、その時にこそますます幸いが溢れて、喜びになり、大いに喜ぶような歩みを、イエスは口を開いて創造し続けておられるのです。
[11] ただし、この言葉は、アウグスティヌスの言葉ではなく、サンスクリット語の引用だという論文も見つけました。http://lisadeam.com/what-i-wish-st-augustine-had-said/