2020/6/14 マタイ伝7章12~20節「してもらいたいことは何でも」
12ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。
今までにも何度もお話しして来たように、ここで
「律法と預言者」
と言われるのは、当時の聖書を指す言い方です。イエスが来たばかりですから、まだ新約聖書はありません。今で言う旧約聖書だけです。当時も大事にされていた律法(旧約聖書)のエッセンスを、イエスは大胆にも
「人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい」
だと仰ったのです。これはここで唐突に仰ったことではなく、「山上の説教」の最初5章から、イエスはずっと、聖書のメッセージを語ってこられたのです[1]。神が求めている生き方は何か。人が神の前に果たすべき生き方とはどんな生き方なのか。それを語ってきた末に、ここで、
「人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい」
と言い切られました。
この事は簡単なことではありません。ですから、続いて、こう言い換えられるのです。
13狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きくその道は広く、そこから入って行く者が多いのです。14いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。
人からしてもらいたいことを人にする。それは「狭い門」「細い道」と言われます。すっかり日本語になったこの言葉は、「難関」と言い換えられます。難しい、厳しい、頑張りの要求を思わせます。しかし、門が狭いということは、あれこれ荷物を持っていては入れない、という事です。身一つでなければ入れない、余計な者を脱ぎ捨てなければ通れない門。
5:3心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
「山上の説教」第一声はこの言葉でした。心が貧しい、本当に何もないスッカラカン。そういう者は幸い。天の御国を受け取れる。ならば「狭い門」とは難関とは違います。何も持たない貧しい者が、幼子のように通れるのが「狭い門」です。それが難しいのは、何故でしょうか。手放す方が難しいのです。貧しい自分ではダメだ。足りない自分が愛される筈がない。不安や弱さは恥じなくてはいけない。あるがままの心を押さえ込んで、良い人を演じたり、犠牲を払ったり、恥じない生き方を取り繕った方が良いに違いないと思い込む。もっと何かをした方が神様だって喜ぶ、という方が納得できる。でもそういう言葉は「偽預言者」だと言われます。
15偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。16あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。…
その偽預言者は、22節で自分たちはあれをした、これもしたと誇っています。自分の業績を握りしめて主に突きつけるように振り翳(かざ)しています。これが彼らの「実」です[2]。でも「自分はあれをした。貧しくはない」と握りしめていたら、その手に神が無償で下さる御国の贈り物を受け取ることは出来ません。狭い門は通れません。イエスはその真逆を仰っています。
人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。
私たちはこんなこと思いつきもせず、「こうすべきだ」「したいことも我慢すべきだ」と言いがちです。あるいは、してもらえなかったことを恨むとか、されて嫌だったことを思い知らせるとか、そもそも「してもらいたいこと」を封印していることを封印して、でもどこかで悶々としているものです。「俺だって我慢しているんだから、お前も我慢して、黙ってやるべきことをやれ」と当然のように言われます。そんな私たちにイエスは、あなたが「人からしてもらいたいこと」を問われます。誇りも経歴も義務も取っ払った素の自分が、してもらいたいこと。
「何でも」なのですから、妥協や遠慮は要りません。自分が本当にしてもらいたいことは何だろうか。そうイエスは、自分に目を向けさせます[3]。そして、他の人も同じく願い、心、求めを持っている人格であることに気づかせます。心に蓋をして「すべきこと」をして、「すべきこと」をしていない人を裁く生き方を一新されます。してほしいことを人にするのは、見返りに自分もしてもらえると当て込むのではないのです。自分が本当にしてほしいことを妥協や遠慮なく、深く自然に理解して、それを人に贈る-そういう行動です。毎日の生活で、失ったり、手放したり、握りしめたり、広い道に憧れたり、細い道の自由さを実感したりしながら、誰も何も誇ったり僻んだりしなくていいのだと気づかされていく。その先に、命があります。
箴言13:12期待が長引くと、心は病む。望みがかなうことは、いのちの木。[4]
こういう人間理解が聖書にあります。人の深い望みを主は叶えてくださる。自分の本当にしたいことに気づいて、自分も人も見る目が変わる。隣人も家族も、人種や国籍の違う人も、自分と同じ人と見て、関係が変わっていく。そのためにイエスは来られました。この言葉によって変えていただきましょう。まず自分の願いに目を向け、それを人にも贈りましょう[5]。
「主よ、あなたこそは、人に求めることを、自ら惜しみなくなさる方です。赦しと和解、日毎の養い、笑いや涙、配慮、愛、すべての良い贈り物を感謝します。私たちがそれに気づいて心を取り戻し、互いをあなたの愛の光の中で見せてください。細い道を見失わせる、人らしさも恵みも欠いた言葉や裁きや社会を、まず私たちを変えることによって、新しくしてください。主の愛をもって、私たちを満たし、断絶から救い、与える喜びへと押し出してください」[6]。
脚注
[1] マタイ5章17~20節「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。18まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。19ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。20わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」
[2] パリサイ人、律法学者、「偽善者たち」を念頭に置いている。彼らは、厳しい禁欲、戒律を重んじた。「狭き門」を厭わずに生きた。しかし、その「義」は「律法と預言者」の語る義とは違う、とイエスは仰った。同時に、「心の貧しい者は幸いです。神の国はその人のものだからです」。貧しい者には、狭い門も通れる。しかし、自分にはあれがある、これが自分の誇り・富だ、苦行・実績・犠牲・善行がある、としがみついている人は、狭い門をくぐれない。飛行場の搭乗ゲートのようなもの。
[3] してもらいたいことを、してもらうために、してあげるのではない。してあげることで、してもらいたい自分に気づいてもらおうとするのではない。してあげる人間に変わること、されるのを待ったり、されないことを嘆いたり、されて嫌なことを人に仕返して「どうだ、私がこんなに嫌な思いをしたか、分かったか。罪悪感を持てるか」と求める人間から、自分がしてほしいことを、人にすることによって、自分を変え、平安を得て、社会をも変える始まりになる。「世界を変えようと思ったら、あなた自身がその変化にならなければならない」(ガンジー)はこの山上の説教から産み出された言葉。まさにイエスは、私たちをその変化にしようとなさる。これこそが、「天の父のように完全になる」私たちの召命だ。これこそが、主イエスに学ぶことで、私たちが戴ける「安らぎ」なのだ。
[4] 命は、私たちの努力や善行によって得るものではなく、私たちの心の奥にある望みであり、その望みを満たし合う、人と人との生き生きとした交わりの中にあります。
[5] また、このようなイエスのあり方に倣うことこそが、マタイ11章28~30節「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。29わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」で言われている、安らぎでしょう。
[6] これもまた、私たちが自力でなせることでも、命じられていることでもない。既にイエスの周りに集まっている私たちは、ここへと召されている。この復活の命が注がれ、この神の聖なる恵みをいただいた子どもとされている。人によって満たされよう、人がしてくれないから満たされない、という生き方から、自分が何をして欲しいかを自覚し、それを人にすることによって満たせる、自立した、自由な生き方。