聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/6/14 ローマ5章17節「選びの恵み」ニュー・シティ・カテキズム27

2020-06-13 17:48:37 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/6/14 ローマ5章17節「選びの恵み」ニュー・シティ・カテキズム27

 教会のシンボルは、色々あります。舟、魚、聖書、パンと葡萄酒、鳩…。
 その中でも最も有名なのは、十字架です。十字架は、イエス・キリストが磔にされた処刑道具です。神の子であり、最も聖なるお方が、十字架に死なれました。でもそれは、敗北や恨めしやの十字架ではなく、神が私たちを、最悪の死さえ惜しまなかったほどに愛しておられる、という証しです。また、神の子イエスが死なれた以上、私たちは必ず生きる、という希望です。私たちだけではなく、この世界全体が、キリストの命によって新しくされる。そういう希望をもって、教会は十字架を掲げています。では、キリストの死は、全ての人が、救われるという証しなのでしょうか。イエス様を信じようとしない人も、神の愛も人の命も大事にしない人も、すべての人が救われるのでしょうか。

第二七問 アダムによってすべての人が失われたように、すべての人がキリストによって救われるのですか? 
答 そうではありません。神によって選ばれて、信仰によってキリストと一つとされた人だけです。それでもなお、神は憐れみ深く、罪の影響を抑え、人の幸福のためになされる文化の働きを可能にすることによって、選びを受けていない人にも一般恩恵を表されます。

 すべての人が自動的に救われる、訳ではないのです。救いは、神の側からの贈り物で、キリストを信じる信仰を与えられた人だけのものです。キリストを信じる事を拒み、神も人の命も馬鹿にするような人まで、自動的に救われるのではありません。「自分は救われたくない。神を信じたくなんかない」という人まで救われるのであれば、おかしな話になりますね。神様との和解が救いです。神と和解したくない人が和解させられるとは、その人にとって有り難くもなんともないはずです。ただし、ここでは、「それでもなお神は憐れみ深く」と驚くべきことを語っています。この事に目を留めましょう。
それでも尚、神は憐れみ深く、罪の影響を抑え、人の幸福のためになされる文化の働きを可能にすることによって、選びを受けていない人にも一般恩恵を表されます。
 神はこの世界の、罪の影響を抑えています。文化の働きを可能にしています。この中には、勉強している学問、科学や医療や技術があります。料理や衛生やインフラ、音楽や芸術やすばらしい文学もあります。スポーツや福祉活動もあります。そして、そうした働きを支えている、この世界の法則や、天候や、私たちの健康、身体の仕組みも、神の憐れみによることです。これを、神学の言葉では「一般恩恵」といいます。救いに至らせる恩恵(特別恩恵)とは別だけれども、自然やこの世界や、人の文化やカラダも心も、神の一般恩恵が支えているのです。主イエスはこの事をハッキリと宣言されました。
マタイ6:45…父(神)はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。
 もっと遡ると、地の堕落を食い止めるための大洪水の後、生き残ったノアの家族に、
創世記8:21…主はこう言われた。「わたしは、決して再び人のゆえに、大地にのろいをもたらしはしない。人の心が思い図ることは、幼いときから悪であるからだ。わたしは、再び、わたしがしたように、生き物すべてを打ち滅ぼすことは決してしない。22この地が続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜がやむことはない。」
 もし神が、世界を人の罪の故に罰したり、信仰者だけを憐れむという基準をもっていたりしたら、この世界はたちまち滅んでいたでしょう。種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜が今日もあるのは、神がこの世界を憐れんでおられるからです。また、神が人の心に働きかけて、罪の影響を抑えてくださらなければ、この世界はもっと自己中心で、滅茶苦茶で、犯罪の巣窟のようになっていたでしょう。教会でも、この世界をそのような堕落した悪の社会だと描くことがありますが、聖書の約束は違いますし、実際も世界には、神が悪を抑制し、人の幸福のための文化を育てておられる印が溢れています。私たちの食事、生活、楽しみ、幸せが、たくさんの人の努力や工夫や善意で成り立っています。新型コロナウイルス感染防止のために、病院で働いている人、自粛している人、自粛の中で、何とか楽しんだり安心して生活したり出来るように、知恵を凝らした仕事をしている人、そして、ワクチン開発のために働いている研究者…。そうした方々の善意、勇気、知恵、努力から、私たちはたくさん教えられ、励まされていますね。
ローマ5:17もし一人の違反により、一人によって死が支配するようになったのなら、なおさらのこと、恵みと義の賜物をあふれるばかり受けている人たちは、一人の人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するようになるのです。
 アダムという一人の人の違反によって、その子孫の全人類が、死によって支配されました。しかし、その中の一部を救う、という小さな救出ではありません。すべての人が自動的に、強制的に救われるのではなくても、神の恵みと義の賜物は溢れるばかりに注がれているのであって、イエス・キリストを信じる私たちは、命にあって支配するようになるのです。私たちは、この世界の中に、神の憐れみが溢れているという事実を知らされて歩むことが出来ます。単純に、「救われた人」と「救われない人」と色分けはしないのです。それは、私たちには最後まで分かりません。なぜなら、この世界に、神は憐れみ深く働いておられるからです。多くの人の努力や、この世界の文化や、良心や、他宗教を信じる人の言葉や存在からさえ、本当にたくさん沢山助けられています。それは、神の一般恩恵であり、憐れみ深さです。だとしたら、その中にどんな救いの準備があるか、神の選びがそこに始まろうとしているか、大いに期待できるでしょう。
 神が選んで下さったからこそ、私たちはこの世界が、神の憐れみによって支えられ、神の良いご計画を表していると信じることが出来ます。この世界を美しい世界として見ることが出来ます。イエス様が十字架にかかったのは、この世界の悲しみも暴力も放っておかずに、神様の美しい物語を届けて下さるためだと、信じる事が出来ます。

「全知全能なる救い主よ、あなた以外に救いはありません。あなたの御名を呼び求める者を、あなたは必ず救ってくださいます。あなたが私たちを死からいのちへと移してくださったからこそ、私たちはあなたの御名を呼ぶことができます。あなたの選びの愛を完全に理解することはできないかもしれません。しかし確かなことは、私たちも、また他の誰も、あなたの愛を受けるに相応しくない者であることです。ただ感謝します」
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2020/6/14 マタイ伝7章12~20節「してもらいたいことは何でも」

2020-06-13 17:23:59 | マタイの福音書講解
2020/6/14 マタイ伝7章12~20節「してもらいたいことは何でも」
12ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。
 今までにも何度もお話しして来たように、ここで
「律法と預言者」
と言われるのは、当時の聖書を指す言い方です。イエスが来たばかりですから、まだ新約聖書はありません。今で言う旧約聖書だけです。当時も大事にされていた律法(旧約聖書)のエッセンスを、イエスは大胆にも
「人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい」
だと仰ったのです。これはここで唐突に仰ったことではなく、「山上の説教」の最初5章から、イエスはずっと、聖書のメッセージを語ってこられたのです[1]。神が求めている生き方は何か。人が神の前に果たすべき生き方とはどんな生き方なのか。それを語ってきた末に、ここで、
「人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい」
と言い切られました。
 この事は簡単なことではありません。ですから、続いて、こう言い換えられるのです。
13狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きくその道は広く、そこから入って行く者が多いのです。14いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。
 人からしてもらいたいことを人にする。それは「狭い門」「細い道」と言われます。すっかり日本語になったこの言葉は、「難関」と言い換えられます。難しい、厳しい、頑張りの要求を思わせます。しかし、門が狭いということは、あれこれ荷物を持っていては入れない、という事です。身一つでなければ入れない、余計な者を脱ぎ捨てなければ通れない門。
5:3心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
 「山上の説教」第一声はこの言葉でした。心が貧しい、本当に何もないスッカラカン。そういう者は幸い。天の御国を受け取れる。ならば「狭い門」とは難関とは違います。何も持たない貧しい者が、幼子のように通れるのが「狭い門」です。それが難しいのは、何故でしょうか。手放す方が難しいのです。貧しい自分ではダメだ。足りない自分が愛される筈がない。不安や弱さは恥じなくてはいけない。あるがままの心を押さえ込んで、良い人を演じたり、犠牲を払ったり、恥じない生き方を取り繕った方が良いに違いないと思い込む。もっと何かをした方が神様だって喜ぶ、という方が納得できる。でもそういう言葉は「偽預言者」だと言われます。
15偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。16あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。…
 その偽預言者は、22節で自分たちはあれをした、これもしたと誇っています。自分の業績を握りしめて主に突きつけるように振り翳(かざ)しています。これが彼らの「実」です[2]。でも「自分はあれをした。貧しくはない」と握りしめていたら、その手に神が無償で下さる御国の贈り物を受け取ることは出来ません。狭い門は通れません。イエスはその真逆を仰っています。
人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。
 私たちはこんなこと思いつきもせず、「こうすべきだ」「したいことも我慢すべきだ」と言いがちです。あるいは、してもらえなかったことを恨むとか、されて嫌だったことを思い知らせるとか、そもそも「してもらいたいこと」を封印していることを封印して、でもどこかで悶々としているものです。「俺だって我慢しているんだから、お前も我慢して、黙ってやるべきことをやれ」と当然のように言われます。そんな私たちにイエスは、あなたが「人からしてもらいたいこと」を問われます。誇りも経歴も義務も取っ払った素の自分が、してもらいたいこと。
 「何でも」なのですから、妥協や遠慮は要りません。自分が本当にしてもらいたいことは何だろうか。そうイエスは、自分に目を向けさせます[3]。そして、他の人も同じく願い、心、求めを持っている人格であることに気づかせます。心に蓋をして「すべきこと」をして、「すべきこと」をしていない人を裁く生き方を一新されます。してほしいことを人にするのは、見返りに自分もしてもらえると当て込むのではないのです。自分が本当にしてほしいことを妥協や遠慮なく、深く自然に理解して、それを人に贈る-そういう行動です。毎日の生活で、失ったり、手放したり、握りしめたり、広い道に憧れたり、細い道の自由さを実感したりしながら、誰も何も誇ったり僻んだりしなくていいのだと気づかされていく。その先に、命があります。
箴言13:12期待が長引くと、心は病む。望みがかなうことは、いのちの木。[4]
 こういう人間理解が聖書にあります。人の深い望みを主は叶えてくださる。自分の本当にしたいことに気づいて、自分も人も見る目が変わる。隣人も家族も、人種や国籍の違う人も、自分と同じ人と見て、関係が変わっていく。そのためにイエスは来られました。この言葉によって変えていただきましょう。まず自分の願いに目を向け、それを人にも贈りましょう[5]。

「主よ、あなたこそは、人に求めることを、自ら惜しみなくなさる方です。赦しと和解、日毎の養い、笑いや涙、配慮、愛、すべての良い贈り物を感謝します。私たちがそれに気づいて心を取り戻し、互いをあなたの愛の光の中で見せてください。細い道を見失わせる、人らしさも恵みも欠いた言葉や裁きや社会を、まず私たちを変えることによって、新しくしてください。主の愛をもって、私たちを満たし、断絶から救い、与える喜びへと押し出してください」[6]。

脚注

[1] マタイ5章17~20節「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。18まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。19ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。20わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」
[2] パリサイ人、律法学者、「偽善者たち」を念頭に置いている。彼らは、厳しい禁欲、戒律を重んじた。「狭き門」を厭わずに生きた。しかし、その「義」は「律法と預言者」の語る義とは違う、とイエスは仰った。同時に、「心の貧しい者は幸いです。神の国はその人のものだからです」。貧しい者には、狭い門も通れる。しかし、自分にはあれがある、これが自分の誇り・富だ、苦行・実績・犠牲・善行がある、としがみついている人は、狭い門をくぐれない。飛行場の搭乗ゲートのようなもの。
[3] してもらいたいことを、してもらうために、してあげるのではない。してあげることで、してもらいたい自分に気づいてもらおうとするのではない。してあげる人間に変わること、されるのを待ったり、されないことを嘆いたり、されて嫌なことを人に仕返して「どうだ、私がこんなに嫌な思いをしたか、分かったか。罪悪感を持てるか」と求める人間から、自分がしてほしいことを、人にすることによって、自分を変え、平安を得て、社会をも変える始まりになる。「世界を変えようと思ったら、あなた自身がその変化にならなければならない」(ガンジー)はこの山上の説教から産み出された言葉。まさにイエスは、私たちをその変化にしようとなさる。これこそが、「天の父のように完全になる」私たちの召命だ。これこそが、主イエスに学ぶことで、私たちが戴ける「安らぎ」なのだ。
[4] 命は、私たちの努力や善行によって得るものではなく、私たちの心の奥にある望みであり、その望みを満たし合う、人と人との生き生きとした交わりの中にあります。
[5] また、このようなイエスのあり方に倣うことこそが、マタイ11章28~30節「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。29わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」で言われている、安らぎでしょう。
[6] これもまた、私たちが自力でなせることでも、命じられていることでもない。既にイエスの周りに集まっている私たちは、ここへと召されている。この復活の命が注がれ、この神の聖なる恵みをいただいた子どもとされている。人によって満たされよう、人がしてくれないから満たされない、という生き方から、自分が何をして欲しいかを自覚し、それを人にすることによって満たせる、自立した、自由な生き方。
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