2020/6/14 ローマ5章17節「選びの恵み」ニュー・シティ・カテキズム27
教会のシンボルは、色々あります。舟、魚、聖書、パンと葡萄酒、鳩…。
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第二七問 アダムによってすべての人が失われたように、すべての人がキリストによって救われるのですか?
答 そうではありません。神によって選ばれて、信仰によってキリストと一つとされた人だけです。それでもなお、神は憐れみ深く、罪の影響を抑え、人の幸福のためになされる文化の働きを可能にすることによって、選びを受けていない人にも一般恩恵を表されます。
すべての人が自動的に救われる、訳ではないのです。救いは、神の側からの贈り物で、キリストを信じる信仰を与えられた人だけのものです。キリストを信じる事を拒み、神も人の命も馬鹿にするような人まで、自動的に救われるのではありません。「自分は救われたくない。神を信じたくなんかない」という人まで救われるのであれば、おかしな話になりますね。神様との和解が救いです。神と和解したくない人が和解させられるとは、その人にとって有り難くもなんともないはずです。ただし、ここでは、「それでもなお神は憐れみ深く」と驚くべきことを語っています。この事に目を留めましょう。
それでも尚、神は憐れみ深く、罪の影響を抑え、人の幸福のためになされる文化の働きを可能にすることによって、選びを受けていない人にも一般恩恵を表されます。
神はこの世界の、罪の影響を抑えています。文化の働きを可能にしています。この中には、勉強している学問、科学や医療や技術があります。料理や衛生やインフラ、音楽や芸術やすばらしい文学もあります。スポーツや福祉活動もあります。そして、そうした働きを支えている、この世界の法則や、天候や、私たちの健康、身体の仕組みも、神の憐れみによることです。これを、神学の言葉では「一般恩恵」といいます。救いに至らせる恩恵(特別恩恵)とは別だけれども、自然やこの世界や、人の文化やカラダも心も、神の一般恩恵が支えているのです。主イエスはこの事をハッキリと宣言されました。
マタイ6:45…父(神)はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。
もっと遡ると、地の堕落を食い止めるための大洪水の後、生き残ったノアの家族に、
創世記8:21…主はこう言われた。「わたしは、決して再び人のゆえに、大地にのろいをもたらしはしない。人の心が思い図ることは、幼いときから悪であるからだ。わたしは、再び、わたしがしたように、生き物すべてを打ち滅ぼすことは決してしない。22この地が続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜がやむことはない。」
もし神が、世界を人の罪の故に罰したり、信仰者だけを憐れむという基準をもっていたりしたら、この世界はたちまち滅んでいたでしょう。種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜が今日もあるのは、神がこの世界を憐れんでおられるからです。また、神が人の心に働きかけて、罪の影響を抑えてくださらなければ、この世界はもっと自己中心で、滅茶苦茶で、犯罪の巣窟のようになっていたでしょう。教会でも、この世界をそのような堕落した悪の社会だと描くことがありますが、聖書の約束は違いますし、実際も世界には、神が悪を抑制し、人の幸福のための文化を育てておられる印が溢れています。私たちの食事、生活、楽しみ、幸せが、たくさんの人の努力や工夫や善意で成り立っています。新型コロナウイルス感染防止のために、病院で働いている人、自粛している人、自粛の中で、何とか楽しんだり安心して生活したり出来るように、知恵を凝らした仕事をしている人、そして、ワクチン開発のために働いている研究者…。そうした方々の善意、勇気、知恵、努力から、私たちはたくさん教えられ、励まされていますね。
ローマ5:17もし一人の違反により、一人によって死が支配するようになったのなら、なおさらのこと、恵みと義の賜物をあふれるばかり受けている人たちは、一人の人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するようになるのです。
アダムという一人の人の違反によって、その子孫の全人類が、死によって支配されました。しかし、その中の一部を救う、という小さな救出ではありません。すべての人が自動的に、強制的に救われるのではなくても、神の恵みと義の賜物は溢れるばかりに注がれているのであって、イエス・キリストを信じる私たちは、命にあって支配するようになるのです。私たちは、この世界の中に、神の憐れみが溢れているという事実を知らされて歩むことが出来ます。単純に、「救われた人」と「救われない人」と色分けはしないのです。それは、私たちには最後まで分かりません。なぜなら、この世界に、神は憐れみ深く働いておられるからです。多くの人の努力や、この世界の文化や、良心や、他宗教を信じる人の言葉や存在からさえ、本当にたくさん沢山助けられています。それは、神の一般恩恵であり、憐れみ深さです。だとしたら、その中にどんな救いの準備があるか、神の選びがそこに始まろうとしているか、大いに期待できるでしょう。
神が選んで下さったからこそ、私たちはこの世界が、神の憐れみによって支えられ、神の良いご計画を表していると信じることが出来ます。この世界を美しい世界として見ることが出来ます。イエス様が十字架にかかったのは、この世界の悲しみも暴力も放っておかずに、神様の美しい物語を届けて下さるためだと、信じる事が出来ます。
「全知全能なる救い主よ、あなた以外に救いはありません。あなたの御名を呼び求める者を、あなたは必ず救ってくださいます。あなたが私たちを死からいのちへと移してくださったからこそ、私たちはあなたの御名を呼ぶことができます。あなたの選びの愛を完全に理解することはできないかもしれません。しかし確かなことは、私たちも、また他の誰も、あなたの愛を受けるに相応しくない者であることです。ただ感謝します」