聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/11/14 マタイ伝26章17~25節「神の定めだとしても」

2021-11-13 12:21:11 | マタイの福音書講解
2021/11/14 マタイ伝26章17~25節「神の定めだとしても」

さて、種なしパンの祭りの最初の日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。「過越の食事の用意をなさるのに、どこに用意をしましょうか。」
 キリストの「最後の晩餐」の出来事です。これは「種なしパンの祭りの最初の日」に、「過越の食事」をする時の「晩餐」でした。エジプトで奴隷であった先祖が、神によって救い出された事を覚える、春の大事なお祭りでした。この時、都エルサレムには巡礼者が押し寄せて、普段の五倍もの人口に膨れ上がっていたそうです。それが「最後の晩餐」のあった時でした。

 今日の箇所では、17~19節でその食事の場所をどこにするか、弟子たちが尋ねて、イエスがいつのまにか既に、ある人と話をつけていたと語られます[1]。

18イエスは言われた。「都に入り、これこれの人のところに行って言いなさい。『わたしの時が近づいた。あなたのところで弟子たちと一緒に過越を祝いたい、と先生が言っております。』」19弟子たちはイエスが命じられたとおりにして、、過越の用意をした。

 マタイはイエスが既に場所を用意しておられた事を強調します[2]。また、「わたしの時が近づいた」と、この時、刻一刻と近づく十字架への意識がありました[3]。1節でも11節でも、イエスが十字架の死、「わたしの時」と言われる死へと近づいている。その意識で、この過越の食事の場所も用意されていました[4]。弟子たちの思惑を越えて、私たち人間の予測や鈍感さを越えて、神がイエスを遣わして果たされるご計画は、着々と進んでいる。そこに私たちも加えられ、もてなされることを覚えます。

20夕方になって、イエスは十二人と一緒に食卓に着かれた。21皆が食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ります。」22弟子たちはたいへん悲しんで、一人ひとりイエスに「主よ、まさか私ではないでしょう」と言い始めた。

 この食事の最初に、イエスがこんなことを仰るので、弟子たちは大変悲しんだのです。私たちはここで直ぐにユダのことを思い浮かべるでしょう。直前の14~16節でイスカリオテのユダがイエスを銀貨三十枚で引き渡そうとしていたことがありましたから。「引き渡す」と「裏切る」は同じ言葉です[5]。「これはユダの事だ」と思います。でもイエスはそういう言い方をしません。ユダを責めるのでも、弟子たちのうちに疑心暗鬼をもたらそうともしていません。

23イエスは答えられた。「わたしと一緒に手を鉢に浸した者がわたしを裏切ります。」
 これは「同じ釜の飯を食う」「一つ屋根の下に住む」という慣用句です[6]。イエスと一緒の鉢で手を洗い、ここまで寝食を共にしてきた弟子たちから、イエスを引き渡す者が出る。それはとてもショックなことです。ユダはその最たるものだとしても、他の弟子たちもイエスを見捨てて、逃げ出して、ペテロは三度もイエスを「知らない」と否定するのです。そのご自分を裏切る弟子たちとともに、イエスは過越の食事を迎えておられるのです[7]。パウロは言います[8]。

私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、24感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」 Ⅰコリント十一23~24

 「渡される夜」は「裏切られる夜」とも訳せるのです。聖餐は、人がイエスを引き渡した事、弟子たちが主を見捨てた事実、私たちも主を裏切りかねない事を思い起こします。「主イエスは渡される夜」という言葉から始まる聖餐は、私たちの罪、「裏切り」とも言い換えられる罪を持つ者たちを、イエスが集めて下さった最後の晩餐であり、この食卓だという前置きです。そう言われたら「まさか私ではないでしょう」と言いたくなりますが、それは悲しいからであり、でも否定しきれない不安もある私たちの、精一杯の言葉です。それでもやっぱり後で弟子たちは逃げてしまいます。そういう弟子たちだとご存じで、イエスは、過越の食事をされました。その事実を、聖餐の最初に、私たちは確認するのです。

24人の子は、自分について書かれているとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」

 イエスへの裏切りで「去って行く」ことも、救い主がその死を通して、救いの業を果たされると書かれている聖書の預言の成就です。とはいえ、それが裏切りや悪を正当化はしません。イエスはその人を強く悲しまれます。「生まれて来なければよかった」とは非道すぎます。誰も誰かのことをこんな風には言えません。
 聖書で「生まれて来なければ良かった」と嘆くのは、ヨブやエレミヤが「自分が生まれて来なければよかった」と嘆く場合のみです[9]。ユダも後で裏切りを強く後悔して首を吊ってしまいます[10]。それほど裏切るという事は悲しすぎることです。その苦しみを、イエスは先に汲み取って、ご自分の後悔のように嘆いておられるのでしょう。
 そして、ユダが
「まさか私では…」
と言う時も、イエスは彼に
「いや、そうだ」[11]
と言われるだけで、彼を責めたり追い出したりはしない。イエスがなさったのは、彼らにパンと杯を与え、そのパンと杯に託してご自身を与えて、聖餐式を定めることでした。まさしく
「主イエスは渡される夜」
 パンと杯を裏切る弟子たちに与えられた。その事を覚えるのが主の聖晩餐です。今、パンと杯を分け合うことに慎重になっていますが、だからこそ、主が渡される夜、ご自分を裏切る弟子たちのために、裏切ったユダにも深い深い心を傾けながら、最後の晩餐の席に着かれて、その弟子たちにご自身を与えられた。その聖餐を思い起こし、味わいたいのです。

 それは、主イエスが渡される夜、裏切られる夜に、その弟子たちを招いて、ご自分を与えてくださった事実を思い起こさせます。信仰深く忠実な弟子たちのためではなく、弱く、臆病で、卑怯な行動さえ取りかねない私たちだとご存じの主が、私たちを招いてくださったのです[12]。また、主はその裏切りの最たるユダのためにさえ、嘆かれました。神の定めで、その役割を担っていたのだ、と割り切りません[13]。人を裏切る、人に裏切られる、それは「生まれて来なかった方がよかった」とか、首を括りたくなるほどの事だとイエスはご存じです。私たちの罪、失敗、簡単に赦しなど出来ない後悔を、イエスは強い言葉で嘆かれます。そして、その私たちを、招いて、一つのパン、ひとつの杯をともに囲ませてくださるのです[14]。教会はこのイエスの招きに与って、赦し合い、最善を図りながら、ともに歩んでいく集まりです。自分もどの人も、この計り知れない主イエスの赦しと招きに与り、ともに主の食卓を囲んでいる。この聖餐の図は私たちを本当に謙虚に、そして希望を持たせてくれます。この恵みに立ち戻り続けるのです。

「主よ、今日もここに招いてくださり有り難うございます。あなたの不思議な定めは、私たち、弱く危うい弟子たちのためでした。どうぞ、その深い主の愛を心に刻ませてください。そして、裏切りや躓き、痛みや後悔で、赦しなど無理に思える中、あなたの血が私たちの罪の赦しのために流された、驚くばかりの恵みに立たせてください。私たちの心をきよめ、壊れた関係をあなたの御手の中で和解させてください。その希望を静かに信じる、この教会でありますように」



[1] この会場提供の人は、どんなに嬉しかったことだろう。この人にも、イエスは単なる連絡役・役割分担だけでなく、愛を与え、関わっていたはず。「あなたのところで過越を行いたいセロー」と言われるとは、なんと嬉しいことだろう。

[2] マルコやルカの福音書は、その人のところに行くのに、謎めいた指示があったと伝えます。マルコ14:12-16(13イエスは、こう言って弟子のうち二人を遣わされた。「都に入りなさい。すると、水がめを運んでいる人に出会います。その人について行きなさい。14そして、彼が入って行く家の主人に、『弟子たちと一緒に過越の食事をする、わたしの客間はどこかと先生が言っております』と言いなさい。15すると、その主人自ら、席が整えられて用意のできた二階の大広間を見せてくれます。そこでわたしたちのために用意をしなさい。」16弟子たちが出かけて行って都に入ると、イエスが彼らに言われたとおりであった。それで、彼らは過越の用意をした。)、ルカ22:7-13。しかし、マタイはそのミステリアスな要素を省き、主の用意の事実と、「わたしの時が近づいた」という、差し迫った十字架への意識が強調されます。

[3] 「わたしの時が近づいたホ・カイロス・ムー・エンギュス・エスティン」ヨハネ7:6、8、13:1、17:1 ヨハネ的な言い方。

[4] 直前の16節で「そのときから、ユダはイエスを引き渡す機会を狙っていた。」とあることが、20節以降の記事ともつながるように、ユダがイエスを引き渡す場所として、過越の食事をする場所は、「機会」となりえました。ですから、イエスはユダにも他の弟子にも直前まで知らせずに、この時まで隠しておられたのかもしれません。しかし、19節の「弟子たちはイエスが命じられたとおりにして、過越の食事の用意をした。」間に、ユダがその場所を当局に伝えることも出来なかったとは言い切れませんから、これは一つの想像力たくましい仮説に過ぎません。

[5] 21節欄外注参照。

[6] この時ユダがイエスと同じ水鉢で手を浸していた、という事ではありません。ヨハネの福音書では、詩篇四一9(私が信頼した親しい友が 私のパンを食べている者までが 私に向かって かかとを上げます。)を引用して、ユダの名指しを強調していますが、マタイ、マルコ、ルカはそれとは違う視点を持っています。

[7] ユダの裏切りは、イエスの最後の十二弟子の裏切りだ。イエスの監督責任、イエスの指導者としての限界をも表していよう。人として、私たちは他者を変えることは出来ない。イエスもそうではなかった。それでも、イエスはユダを愛し、ユダのつらさを嘆いてくださる。

[8] Ⅰコリント11章23~26節「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、24感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」25 食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」26ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。

[9]  ヨブ記3章(3節「私が生まれた日は滅び失せよ。「男の子が胎に宿った」と告げられたその夜も。(以下略))、エレミヤ書20章14~18節(「私の生まれた日は、のろわれよ。母が私を産んだその日は、祝福されるな。15のろわれよ。私の父に、『男の子が生まれた』と知らせて、大いに喜ばせた人は。16その人は、主があわれみもなく打ち倒す町々のようになれ。朝には彼に悲鳴を聞かせ、真昼には、ときの声を聞かせよ。17彼は、私が胎内にいるときにも私を殺さず、母を私の墓とせず、その胎を、永久に身ごもったままにしなかったからだ。18なぜ、私は労苦と悲しみにあうために胎を出たのか。私の一生は恥のうちに終わるのか。」)

[10] 27章3~5節、参照。

[11] 「いや、そうだ」の直訳は「あなたが言う」です。64節で「イエスは彼[大祭司]に言われた。「あなたが言ったとおりです。…」と同じです。聖書協会共同訳「イエスを裏切ろうとしていたユダが、「先生、まさか私のことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」」

[12] 端的な話、「ユダが裏切らなければ良かった」という事ではない。これは、神の定めなのだから。裏切るユダ、見捨てる弟子たち、後悔しても、罰して責めたりしても、過去を癒やすことは勿論、今後同じ過ちを繰り返さない保証はなく、別の形で裏切り、神の御心を損なうような人間。その私たちのために、イエスは来られた。その私たちだからこそ、神が恵みをもって贖ってくださる。

[13] ユダは自殺しました。しかし、自殺の罪を非難して、赦されると思えば良かった、と言えるでしょうか。私たちは、ここでユダを責めすぎると、自分自身が抜け出てくることが出来ないロジックに陥る。自殺も罪、告白する資格もない、赦されると思うのも調子が良すぎる…などとしたら、どうしたらいいのか。イエスは、このユダをも、弟子をも憐れんでくださっている。そこに、私たちは、常識や良心をこえた、神の希望を受け入れるしかない。それが出来るのが、キリストにある共同体、弟子たちの交わり。

[14] これは、マタイの福音書全体に繋がるテーマです。先の話になりますが、31~32節では「そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからです。32しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」と、弟子たちのつまずきがはっきりと言及された上で、その先の再会が備えられていることが予告されます。マタイの福音書の結び、28章16~20節では、まさにその復活のイエスと、裏切った弟子たちがガリラヤで再会する場面です。イエスの下さる再会、回復、そして派遣です。

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2021/11/7 士師記13-16章「力に溺れたサムソン」こども聖書㉞

2021-11-07 12:52:47 | こども聖書
2021/11/7 士師記13-16章「力に溺れたサムソン」こども聖書㉞

 今日のサムソンは、「士師記」に出て来る「士師(さばきつかさ)」の一人です。彼は最後のさばきつかさで、その生涯の事は、とても詳しく記されています。彼が生まれる前、イスラエルはペリシテ人と呼ばれる民族に侵略されていました。40年に亘って、ペリシテ人に支配されていたのです。
 その時、サムソンの母に御使いが現れました。

士師記13:3…見よ。あなたは不妊で、子を産んだことがない。しかし、あなたは身ごもって男の子を産む。…5…その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は胎内にいるときから、神に献げられたナジル人だから。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。」

 「ナジル人」というのは、聖書で、神様に特別な誓いをする人が、その間、お酒を飲まず、髪の毛も切らずに伸ばして、汚れた物には触らずに過ごすことを指しています。サムソンは、生まれながらのナジル人だ、というのです。ですから、サムソンは、小さい時から髪の毛を切らず、大人になりました。長い髪のまま、大きくなり、そしてイスラエルを治めて、ペリシテ人と少しずつ戦いを起こすようになります。そして、時々、サムソンは、神である主の霊が激しく下って、すごい力を発揮するようになります。
 最初は、襲ってきたライオンに、素手で戦って勝って、ライオンを引き裂きます。

 次に、大きな町にいって、30人の人を打ち倒してしまいます。
 その後、ジャッカルを三百匹捕らえて、二匹ずつ尻尾でつないで、松明をくくりつけて、ペリシテ人の麦畑を燃やし尽くしてしまいます。

 その報復でペリシテ人の所に、新しい縄二本で縛られて行った時、主の霊が激しく彼の上に下り、その綱が燃えた糸のように切れて、サムソンは立ち上がり、ロバの顎骨を拾って、千人ものペリシテ人を倒してしまいます。
ロバのあご骨

 それでは終わらず、サムソンは門の扉を門柱と閂ごと引き抜いて、肩に担ぎ、山の頂まで運んでしまいます。こんな凄いサムソンの名前は「怪力」とくっつけられています。


 しかし、それは「主の霊が激しく彼の上に下」った特別な時でした。いつもサムソンが怪力だったのではないのです。それなのに、自分の力を頼みとするようになると、人はもっともっと力がほしくなります。結局、力では、ペリシテ人との戦いは続く一方でした。いいえサムソンは自分自身をも見失って、心がどんどん空回りしてしまうのです。

 町の門を引き抜くほどの力を発揮したサムソンは、デリラというひとりの女性に心を奪われます。ペリシテ人がこれを知ると、デリラに近寄って、こう持ちかけました。

16:5…「サムソンを口説いて、彼の強い力がどこにあるのか、またどうしたら私たちが彼に勝ち、縛り上げて苦しめることができるかを調べなさい。そうすれば、私たち一人ひとり、あなたに銀千百枚をあげよう。」


 こう言われて、デリラはサムソンからヒミツを聞き出そうとするのです。

6…どうか私に教えてください。あなたの強い力はどこにあるのですか。どうすればあなたを縛って苦しめることができるのでしょうか。

 サムソンははぐらかして嘘を教えますが、ばれてまた誤魔化して、を繰り返します。

15彼女(デリラ)は…「あなたの心が私にはないのに、どうして『おまえを愛している』と言えるのでしょう。あなたはこれで三回も私をだまして、あなたの強い力がどこにあるのか教えてくださいませんでした。」
16こうして、毎日彼女が同じことばでしきりにせがみ、責め立てたので、彼は死ぬほど辛かった。

 そして、遂にサムソンは自分が生まれた時から、髪を剃った事がないと教えてしまうのです。デリラは、サムソンが今度こそ本当のことを言ったと分かりました。

19彼女は膝の上でサムソンを眠らせ、人を呼んで彼の髪の毛七房を剃り落とさせた。彼女は彼を苦しめ始め、彼の力は彼を離れた。…21ペリシテ人は彼を捕らえ、その両目をえぐり出した。そして彼を…引き立てて行って、青銅の足かせを掛けてつないだ。こうしてサムソンは牢の中で臼をひいていた。

 サムソンはすごい怪力で目覚ましい活躍をしました。だけど本当のサムソンは無力でした。デリラに愛されたくて自分の秘密を明かすほど、本当は弱かったのです。サムソンは、神が力を下さる事を忘れて、自分の髪の毛に力の秘密があるように勘違いして、デリラにその秘密を話しました。本当の問題は、髪の毛を剃られた事ではありません。サムソンが神様より自分の力を頼みとした時から、問題は始まっていたのです。

 しかし、あのサムソンが捕らえられた先で、神は最後にサムソンの願いを叶えてくださいます。捕らえられたサムソンを見世物にしようと神殿に集まっていた三千人のペリシテ人とともに、サムソンは神殿の大きな柱を手にして祈りました。

28…「神、主よ、どうか私を心に留めてください。ああ神よ、どうか、もう一度だけ私を強めてください。私の二つの目のために、一度にペリシテ人に復讐したいのです。」…「ペリシテ人と一緒に死のう」と言って、力を込めてそれを押し広げた。すると神殿は、その中にいた領主たちとすべての民の上に落ちた。


 力を頼みとしながら、デリラの言葉で死ぬほど辛くなって、裏切ったサムソンが、最後には神にもう一度祈り、自分の死でイスラエル人を救いました。力を誇ったサムソンが、最後には自分を献げて、本当に強い人、本当にイスラエルを救う働きをしました。神はサムソンに、怪力以上のもの、神に祈る心、神に立ち戻る人生を下さったのです。

 力、能力、お金や権力、いろんな力。そのどれも、強いようで限界があります。ますます心が強さを求めます。そして、誘惑にも弱くなります。イエスはそのような怪力のヒーローではありませんでした。奇蹟の力がありながら、それで人を変えようとしませんでした。イエスの救いは、ご自身を十字架に献げる愛によって果たされました。私たちの罪の身代わりに、十字架に死に、復活され、主の霊が私たちの心に注がれて、私たちを強めてくださる。それが本当のさばきつかさ、キリストです。

キリストは、神の御姿であられるのに、
神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
人間と同じようになられました。
人としての姿をもって現れ、
自分を低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
それゆえ神は、この方を高く上げて、
すべての名にまさる名をお与えになりました。
それは、イエスの御名によって、
天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが
膝をかがめ、すべての舌が、
「イエス・キリストは主です」と告白して、
父なる神に栄光を帰するためです。
ピリピ2:6-11

 私たちはサムソンや強い英雄(ヒーロー)に憧れます。イエスはその逆でした。そしてイエスはサムソンを変えたように、私たちも、このイエスの心で生きる者にしてくださるのです。


「主よ、サムソンの怪力は、人もサムソン自身も救いませんでした。私たちの救いは、力ではなく、あなたにあります。そしてあなたは私たちを強めもし、弱さや失敗も用いてもくださいます。どうぞ、成功に溺れたり、人の言葉に怯えたりする時、本当に力あるあなたに立ち帰らせてください。そして、私たちをあなたの道具としてください」
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2021/11/7 マタイ伝26章1~16節「無駄だと思いますか」

2021-11-06 12:54:30 | マタイの福音書講解
2021/11/7 マタイ伝26章1~16節「無駄だと思いますか」

 マタイの福音書26章に入ります。いよいよ、十字架に至る最後の数日が描かれます[1]。

2「あなたがたも知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。そして、人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」

 「過越の祭」は、二週間前にも聞きましたように、かつてイスラエルの民がエジプトで奴隷だった時に、主が彼らを救い出してくださったことを記念する祭りです。エジプトを出る前、イスラエルの家々で小羊を屠り、その血を家の門に塗りました。その小羊の血が塗られた家は、滅びを免れて、奴隷生活から自由の地への旅に出発しました。その過越の祭が二日後に迫っています。
 その過越祭において、イエスはご自分が十字架につけられると仰います。イエスが小羊となって、その血を流されて、私たちに罪の赦しと新しいいのちを下さる。その事がここで告げられ、17節から過越の祭が始まり、26節からの最後の晩餐の席では、特に28節で、多くの人の罪の赦しのために血が流されると言われる。そういう26章に入りました。

 ところが、3節では、祭司長や民の長老、当時のユダヤの権力者たちが集まっています。

4イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した。5彼らは、「祭りの間はやめておこう。民の間に騒ぎが起こるといけない」と話していた。

 彼らはイエスを脅したり、議論でやり込めたりして、引き下ろそうとしてきたのですが、それが悉く失敗で逆にやり込められたので、欺して捕らえて殺すしかないと考えた。でも、祭りの間は止めようと考えました[2]。イエスの予告とは違う考えを大祭司たちは決めていたのです。

 そんな時に起きた出来事が、ここに記されます。ひとりの女性の香油注ぎです。
6さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられると、[3]
7ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやって来た。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。8弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんな無駄なことをするのか。この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」[4]

 高価な香油を大切な人の頭に注ぐのは、当時の最大の歓迎や祝福の行為だったのでしょう[5]。それを見て「なんて無駄、勿体ない」と言う弟子たちに、この女性は困ってしまいます。[6]

10イエスはこれを知って彼らに言われた。
「なぜこの人を困らせるのですか。わたしに良いことをしてくれました。11貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいます。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。
12この人はこの香油をわたしのからだに注いで、わたしを埋葬する備えをしてくれたのです。

 そうです、イエスは、後二日で十字架につけられるため、引き渡されると予告していました。既にあと一日ぐらいでしょう。まもなく一緒にいられなくなるのに、弟子たちはその深刻なイエスの言葉を受け止めた様子がありません。この一分一秒も貴重な時に、弟子たちはいつまでも一緒にいられるように吞気でいます。貧しい人の援助はそれはそれで本当に大事な事ですが、弟子たちはの貴重さが見えていません[7]。
 そんな時に、この女性がイエスの頭に香油を注ぎました。それをイエスは、「わたしのからだに香油を注いでくれた、それはわたしの埋葬のためにしてくれた」と受け止めました。なぜなら、本当にこの時、イエスは、あと二日足らずで十字架に引き渡されようとしている、過越の小羊になろうとしていたからです。[8]

13まことに、あなたがたに言います。世界中どこででも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」

 彼女が「したこと」、このタイミングでの油注ぎが、引き渡され、十字架にかけられ、埋葬されるイエスの福音を裏付ける行為として、世界中で語り伝えられるのです[9]。そして、その根底にあるのは、神も神の子イエスも私たちを愛し、私たちを計算抜きに愛された、という計り知れない御心です。
 この香油を無駄とは思われなかったイエスは、私たちの罪を赦すための十字架の死も無駄とは思われませんでした[10]。人間を救うことに「得」はありません[11]。しかし、イエスは私たちのために人となり、私たちの罪の赦しのために十字架に死なれようとしていました。香油を注がれたその頭に「茨の冠」を被されて、香油よりも尊いご自身の血を私たちのために注がれ、香油の壺ではなく、ご自身を割ってくださいました。それは、イエスが惜しみない恵みの方だからです[12]。

 この「惜しみなさ」の出来事が、この後14節でイスカリオテのユダが祭司長たちに「私に何をくれますか」と取引して、イエスを銀貨三〇枚で売り渡すきっかけとなります[13]。でもこの出来事を「無駄」と言ったのはユダだけでなく、弟子たち全員です[14]。私たちにもある思いです[15]。イエスの愛にも救いの恵みにも鈍感なのです。しかし、そのユダの裏切りが却って議会の計画を前倒しさせて、イエスの言葉通り、過越の祭においてイエスが十字架にかかる。本当に過越の小羊となる、という展開になるのです[16]。本当に、神様のなさることは不思議です。

 そして今、世界中でこの出来事が語られています。それは、まさしくイエスが私たちのために過越の小羊となり、私たちのために血を流され、埋葬されたことを思い起こさせてくれます。それはイエスが私たちのための死を、無駄とは思われず、刻一刻と十字架に歩んでくださった証です。これは人の計算には受け入れがたいことですが、その神の惜しみなさに反発する人の悪意や裏切りさえ、神は不思議に益に変えてくださる方なのです。こういう福音です。そして、この惜しみない主は、私たちの献げる精一杯の献げ物をも、無駄や愚かとは思わず、喜ばれ、良いこととしてくださる、という証です。この福音が、全世界に告げられているのです。[17]



「主イエス様。あなたが十字架へと向かわれた最後の時間をともに読み始めました。弟子やユダの考えの及ばないあなたの深いご計画が、人々のため私たちのため、進んでいました。私たちの救いを無駄とは思わず、心から喜び、ご自身を献げてくださり、感謝します。今も、二度とは戻らぬこの時、あなたは私たちの贖いの御業を進めておられます。その事を信じて、私たちにその時その時の最善を献げさせてください。私たちの心も、愛によって満たしてください」

[1] 1節の「語り終えるテーレオー」は「目標を達成する」のニュアンスがあります。マタイの福音書のパターンでもある、長い説教の後に繰り返されるフレーズですが(7:28、11:1、13:53、等)、ここでは23~25章という最後の長い説教を果たされて、最後の十字架へと向かう、大事な言い回しです。

[2] エルサレムの人口は、過越の祭の時には、普段の五倍、二百万人にもなったと言います。

[3] ツァラアトは、聖書の中に度々登場する独特な皮膚病で、レビ記13章などに詳しく記される通り、民の汚れを象徴する病気でした。衛生的理由以上に、宗教的な意味を持ち、この病気になると、郊外に隔離されます。しかし、イエスは彼らを積極的に癒やされ、触れられて、その汚れをきよめて、神との和解と、人間社会の回復を始められました。まだ、そのような理解の浅い中で、イエスが「ツァラアトに冒された人シモンの家」に入られていた事自体が、驚くべき行動です。これは、先の25章31~46節の「羊とやぎの譬え」で、「病気をしたときに見舞い」と言われていた実践を、イエスご自身がなさっていたこととも言えましょう。

[4] マルコ14章3~9節、ヨハネ12章1~8節、参照。そこからは、これが「ナルドの香油」というインド産の香油で、「一リトラ」(約328グラム)の量があり、「売れば三百デナリにもなった」(約一年分の労賃)だということが分かります。また、この女性が「マルタとマリア」の姉妹のマリアであり、油を塗ったのが頭ではなくイエスの足にで、マリアの髪を使ったとも書かれています。

[5] 彼女がここでなぜこのような香油注ぎをしたのか、理由は書かれていません。弟子たちの批判に「困った」とあるのですから、確信をもって行動したのではないでしょう。弟子も、他のだれ一人も、イエスがキリストだとの確信などまだありません。「埋葬する備え」は、結果的にであり、イエスがそう仰ってくださったことであって、彼女の意図とは言われていません。ヨハネ12章では、香油注ぎをしたのは「マリア」だとあり、ルカ11章38-42節の「主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた」マリアと結びつけ、マリアはイエスの言葉に聞いていたので、十字架と埋葬を信じて、この行動を取ったのだ、と結論するのは憶測です。少なくとも、そのような事に言及していないマタイの記述では、行き過ぎた解釈となります。

[6] 「無駄アポーレイア」は「滅び」(7:13他)と訳されることが圧倒的に多い言葉です。単なる無駄以上に「台無し」とみたのです。

[7] 「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいます。」は、申命記15:11(貧しい人たちが国のうちから絶えることはないであろう。それゆえ私はあなたに命じる。「あなたの地にいるあなたの同胞で、困窮している人と貧しい人には、必ずあなたの手を開かなければならない。」)を踏まえています。しかし、弟子たちの言葉には「高くポリュス(=大きい)」があります。「大きい・偉い」は、弟子たちが陥りがちで、イエスが気づかせようとしてこられた、人間が陥りがちな過ちです。貧者・困窮者の救済を「慈善事業」「社会活動」と捕らえるなら、効率・統計・数量に囚われかねません。イエスがおっしゃるのは「最も小さいひとり」であり、その一人を「自分と同じように愛する」という、考えの根本的な刷新です。

[8] 「よい行い(施し)とイエスがおられる(弟子と、およびマタイの教会において「生けるキリスト」としての臨在)に為されることとの区別は、完全に的外れである。イエスは、貧しい人々への施しと、ご自身への惜しみない浪費とを、イエスがいつもそれを受けるためにそこにはいない事実に基づいて区別されたのである。教会におけるイエスの霊的臨在への言及とは無関係に、マタイはイエスの地上的な臨在と、昇天後の霊的な臨在を区別する(28:20)。その弟子たちは常に、助けを求める貧しい人々を見出す(民数記15:11)。彼らは、いつもともにいる受肉したイエスを見出すわけではない。」D. A. Carson, The Expositor’s Bible Commentary, Revised Edition, Matthew, Zondervan, 2010, 18181/20462

[9] この行為をした「女性」が覚えられるより、この人が「したこと」が、覚えられるのです。だからこそ、無名でもよいのです。私たちもここから、自分もイエスに(貧しい人たちによりも)すべてを献げましょう、という適用を引き出すよりも、イエスが私たちのために、引き渡され、十字架にかけられ、葬られたことを思いましょう。そのことが、私たちの生き方をも変えていくのです。

[10] 「よいことカロス」は「美しいこと」とも訳せます。

[11] これを、損得・理由で問いかけたのが、ヨブ記のサタンでした。ヨブ記1章、参照。

[12] だから、彼女の行為も無駄と思われず、イエスの最期の歩みに相応しい贈り物として受け取られたのです。それはこの女性のイエスへの愛から出たことです。この時点で、イエスの十字架やその意味がどれだけ分かっていたかは不明です。それでも自分に出来る事として献げたのは、彼女の愛です。「信仰とは、なりふりを構ってはいられないものであります。この婦人のように、はたの人の思惑などは、全然、問題にしないものである、と思います。信仰は、余り、熱狂的にならない方がいい、と分別くさいことを言う人があります。しかし、信仰は、ただ、神のことだけを考える生活です。それならば、時としては、人間の目には、愚かしいと思われることもあるにちがいありません。」竹森満佐一。加藤『マタイによる福音書4』、ヨルダン社、502頁。

[13] 銀貨三〇枚 1シェケルは四ドラクマ(四デナリ)。120日分の労賃。高価な香油と、銀貨三〇枚とが重なります。ユダから金の話を持ち出したと記すのは、マタイのみです。マルコ14:10「さて、十二人の一人であるイスカリオテのユダは、祭司長たちのところへ行った。イエスを引き渡すためであった。11彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすればイエスをうまく引き渡せるかと、その機をうかがっていた。」、ルカ22:3「ところで、十二人の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンが入った。4ユダは行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにしてイエスを彼らに引き渡すか相談した。5彼らは喜んで、ユダに金を与える約束をした。6ユダは承知し、群衆がいないときにイエスを彼らに引き渡そうと機会を狙っていた。」

[14] The disciples弟子たち全員が、この女に憤慨したのです。

[15] ここからタイトルをとられた、エリザベス・シュスラー・フィオレンツァ『彼女を記念して』(1983年、邦訳、山口里子訳、日本キリスト教団出版局、2003年)は、フェミニスト神学の代表作です。この意味でも、私たちは男性中心的な見方を覆されるテクストとしての本エピソードの解釈を忘れてはいけません。

[16] ユダの受け取った、年収三分の一の金額が、もっと多かったら良かった、というわけではないのと同様に、三〇〇デナリの香油がイエスに十分相応しかったわけでもない。イエスのいのちは、全世界をもっても釣り合わない、永遠の値があります。しかし、イエスは、私たちを、ご自分の死によって愛する価値があると見てくださいました。ですから大事なのは、私たちがイエスにふさわしい高価な犠牲を払うことにはありません。彼女のした行為が、イエスの埋葬を証しし、過越の引き渡しと結びついている、ということです。

[17] イエスこそ、私たちのために、血を流すことを「無駄」とは思わず、献げてくださった。それこそが「この福音」として世界が今聞いていること。

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