黄昏どき

老いていく日々のくらし 心の移ろいをありのままに

戦争のない平和な世界を

二人で 又 ドジを踏む

2015年08月11日 | つぶやき

先月の海の日

夫は黙って ふらりと出かけて行った

間もなく S医院で処方の薬を持って帰る

不思議に思っていたら

 医院に着いてから 休みに気がつき

帰ろうとしたが


在宅だった先生が

特別に診て下さった(院内処方です)

 


今日は私が受診

 

先日のお礼を言うと

先生は笑いながら

「自転車の止まる音が聞こえたので・・・」

と話される

 

二人を

親身になって気にしてくださる優しい先生

いつもの降圧剤を貰い

タクシーで帰る

 

お金を払おうとしたら 小銭入れが見当たらないが

たいして気にもせずお札で払い

スーパーに寄ってから帰宅した

 

アレ テーブルに小銭入れがある

仕事部屋から出てきた夫が

 

「今医院の奥さんが持ってきてくれたぞ

待合室のソファーにあったそうだ」

 

忘れてきたことに気がつかなかった私

慌てて お礼の電話をかける

電話口で奥様は笑い声で

「暇だったので・・・・」

二人揃ってドジを踏むでしまったが

親切なS先生と奥様に助けられた

感謝 感謝

 

ドジの数も年々多くなってきた



手毬をアレンジしたフレーム

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フレーム遊び(手毬)

2015年08月10日 | 写真

フレーム遊び

末摘花様のイラスト手毬 を参考にして

色を変えて手毬を作ってみる

Jさんがフレームを作ったので

真似してみた

暑さでバテ気味

炊事は手抜きどころか 出来合いを買ってくる

今夜のおかずは

焼き魚 大学芋 冷奴 レタスとトマト 味噌汁

味噌汁と 野菜以外は 買ってきたもの

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昭和20年8月9日の頃

2015年08月09日 | つぶやき

昭和20年

物資は益々不足しており 食糧難もひどくなっていた

4月

樺太庁豊原高等女学校へ入学

 

制服も校章も姉のお下がりで  無い人の方が多かった

憧れの学校に入学できた喜びと期待に満ちていたが・・・

教室で勉強したのは 4月ひと月と雨の日だけ

 

自給自足のため

5月からは1里(3.75km)位離れた所の原野を開墾する作業だった

 

2年生以上は泊まり込みで ニシン場 や 援農に行っている

 

1年生が5組 1クラス1ヘクタールくらいの原野を開墾しなければならない

 

木を切り倒し 根っこを取り除き  麦やジャガイモをを蒔く

道具は ノコギリや 鍬 

早生まれで小さく体力がないので 皆より作業も手鈍い

空腹であり いやで よく仮病を使い 睨まれた

 

学校の校庭には

避難用の タコツボ(一人だけはいれる防空壕)を掘った

 

ソ連の参戦が脅威だったが 

 

8月9日ソ連が宣戦布告 とうとう不安が現実になった

宗谷海峡が封鎖されたら

樺太は孤立する

 

その日

長崎に新型爆弾が投下されたことを知る

 

原野に植えた麦が 雑草の中で ポツン ポツンと 割りばしくらいに延びていた

 

被害に遭われた方のご冥福と

戦争がない平和が続くことを祈る

 

 

美しい花が観られるのは幸せなこと




Sさんから頂いた写真

レースのカーテンは 末摘む花さまを参考にしました

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食糧難の日々

2015年08月08日 | つぶやき

戦争時 昭和18年頃(1943年)から食料は不足だった

 

お米は配給で足りなく

ジャガイモや麦を混ぜるのが当たり前

 

代用食と言って ジャガイモ カボチャ だけの時も多かった

 

砂糖も配給で 甘いものには飢えていた

 

ご飯は盛り切りでお代わりなんて出来ないし

いつもお腹が空いていた

 

何処の家でも空き地に植え 道路の端にも植え

 

鑑賞用の花など植えている所はなかった

 

昭和19年(1944年)

 

樺太豊原の国民学校6年生だったが

4年生以上が全員 ゴミ捨て場に

ジャガイモ カボチャ ルタバカ(大きな蕪のよう)を作り

沢山収穫した

 

みそ汁の給食になり(主食はなし)嬉しかった

 

自給自足 が当たり前だった




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七夕に亡くなった義弟

2015年08月07日 | つぶやき

8月7日が七夕の北海道

77歳の誕生日  8月7日の 七夕に義弟(夫の弟)は亡くなった

 生涯独身で過ごした義弟は

 兄(夫)と姪(我が家の娘たち)に見守られての 静かな最後だった

 

 義弟も戦争の犠牲だった一人である

 敗戦直後 11歳の時 樺太から両親 兄妹と一緒に

道北の寒村に引揚げた

教職を断念した 義父は 開拓農家となり

荒れ地を耕し牛を飼った

 

夫は 寄宿舎生活で勉学を続けられたが

義弟は進学を諦めて 両親を手伝った

 

義父は慣れない仕事で病気になり

私達が結婚する前に亡くなった

働き手が足りないこと 僅かな収穫しか望めない寒い荒れ地

 離農するが 二束三文の値打しかなかったらしい


札幌に出て

職に就いたが学歴がないことや

 病気など 不運が重なり 恵まれない 一生だった 


70歳ころから毎年 我家で 一緒に年を越していたが

物静かで 夫と性格は対照的だった


 

絵を描くことが好きで 自然を愛した義弟


 

天国で幸せに暮らしているだろう

 

フレーム

ほしの文字を色を変えて作り連結する

RGBで色を変えた3枚をアニメにする

チョット賑やか過ぎるが・・・

甲子園高校野球

北海高校は大敗したが

100年目の記念大会に出場できてよかった

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原爆&甲子園高校野球

2015年08月06日 | つぶやき

広島に原爆が落とされた日

70年前のその日

ラジオのニュースでは 「新型爆弾が落とされた」 だけ

詳しい被害などは報道されなかった

 

二度と繰り返してはいけない戦争 原爆

犠牲者のご冥福と 平和を 祈る

 

夏の甲子園高校野球がはじまった

南北海道代表の北海高校は

第一試合で鹿児島実業と対戦する

 

娘時代(60年以上前のこと)

 

北海高校は甲子園の常連で 大ファンだった

 

札幌に住んでいた頃

 

N選手の家が近くにあった

遠くから憧れていただけだったが

 

お母さんやお兄さんとは何度か話しをしたことがある

 

どのチームとの対戦で 春か夏の大会の記憶も定かでないが

外野手だったN選手の落球で 1対0で負けてしまった

 

その後お母さんにお会いした時

自分のことのように謝っていた姿が忘れられない

 

今年は勝ち進んでほしい

北海高校の健闘を祈る

 

我が家のヘブンリーヘブンは哀れな咲き方

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解約手続きはメンドクサイ

2015年08月05日 | つぶやき

詩吟仲間の84歳のNさん

家を会場に貸して下さってから 数年経つ

一緒にパソコンも楽しんできたが

 目下入院中

 

治療が終わり退院しても

独り暮らしは無理になった

 

インターネットももう使わないからと

 キャンセルの手続きを頼まれ 自宅へ赴く

本人は手続きに必要な重要書類の記憶がなく

何処に仕舞ったかも覚えていない

パソコンに保存しておいた メモと領収書を頼りに

解約手続きに必要な電話番号を探し

電話したが・・・・・

とうとう 出来なかった

契約者が 亡くなった奥さん名義になっており

除籍の謄本が必要だそう

 

繋ぐ時は 簡単だが

解約は手続きがメンドクサイ

 

 

Sさんから頂いた写真で作る 

 





 

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融けてしまったアイスキャンデー

2015年08月04日 | つぶやき

父がいない

つましい生活の中で

 お小遣いを貰うことなどなかったし

まして 買い食いなどしたことがなかった

釧路にしたら暑い 確かお祭りだったと思う

 

母がはじめて アイスキャンデーを沢山買ってくれた

外で食べるのはダメ 家に帰ってかららと言われ

新聞紙に包んで貰っった

 

 我が家までは 30分以上もあったと思うが 遠かった

 

汗だくになって家に戻り

びしょびしょの 聞紙を開いたら・・・・ 

 

アイスキャンデーは ほとんど融けてしまい

割りばしに名残が僅かについているだけだった

 

それでも嬉しくて

割りばしをしゃぶり続けた

 

後にも先にも 買ってもらったのは その時だけである


 

Sさんからいただいたポピー

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卵焼きが沢庵

2015年08月03日 | つぶやき

日中戦争の頃は

まだ食糧難ではなかったが

多くの人たちの食生活はつましいものだった

今は スーパーの目玉商品で安い卵

貴重品で 

病気にならなければ 食べさせて貰えなかった

 

母は

 私たちを喜ばせるように工夫してくれた

御弁当に ちらしずしを持たせてくれたが

いつも卵焼きの代わりに 沢庵を細く切ったものだった

ボリボリ音がするのが恥ずかしくて

音をたてないように 丸呑みした



Sさんからいただいた写真で作る

今日は“花とき”例会だった

夏休みのTさまが ご馳走持参で出席されたので

彩が綺麗な本物の卵焼きを 美味しくいただき

いつもより華やかで若返った会でした

 

 

 

 

 

 

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私が子供だった頃(日中戦争)

2015年08月02日 | つぶやき

戦後70年

高齢社会になったが 戦争を知っている年代は少なくなった

 

 子供の頃経験した暗い時代のことを振り返ってみたい

昭和12年(1937年)8月

私が4歳の時 

父は出征した

当時は“支那事変”と言っていた

大好きだった父がいなくなることが悲しくて

泣いたことを覚えている

 

それから3年 父は無事帰ってきたが

小学校入学の時もいなかったし

淋しい生活だった

 

母は30歳と若く

10歳から乳飲み子まで4人の子供を抱えて

 つらい苦しい生活だった

 

祖父を亡くしたばかりで 頼る身内もなく 

収入も僅かで

精神的にも経済的にも 一番苦しかったと思う

 

大きな家を売って郊外の借家に移り住み

和裁の内職をし

親子5人 つましく ひっそりと 過ごした

 

年老いてからは明るい母だったが

あの頃は 恐い厳しい母だった

 

母は亡くなる少し前に

「生きていて一番つらかった時」 と語っていた

 

それでも我が家は恵まれた方である

父は生きて帰ってきたが

 

戦死された方たちの家族は悲惨で 気の毒な生活をした人が多い

現在のように 社会保障がなく

幼い子供が働いたり どん底の生活を送った

 

戦争は国民すべてを不幸にするのです



父が出征する前の晩写した

遺影になるかもしれない写真

 

私も一緒に写すと ごろつき 

父の前に座り写したが 写真は暗くぼかされている

次の日 大勢の人に見送られ 祝出征ののぼりや 日の丸の旗が振られ

「勝ってくるぞと勇ましく~~・・・」

軍歌に送られて行った

 

平和だから花も見られる

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