黄昏どき

老いていく日々のくらし 心の移ろいをありのままに

戦争のない平和な世界を

大寒 食事制限のお昼はゆで小豆缶のぜんざい

2024年01月21日 | たより
今朝の最低気温は-22℃ しばれたらしいが

朝6時にタイマーをかけてあるので 居間は+20℃と

寒さ知らずである




心筋梗塞後の心不全の身は食事制限が厳しいです

一日の塩分は6g以内 1食2g

カフェインはゼロ お茶・コーヒー・紅茶すべて飲めません

 味気ない食事に食欲がなくなったが

今は大分慣れてきました




今日のお昼は 

食塩量ゼロの ゆで小豆缶に 小さなお餅を入れたぜんざい

大根の酢漬けも塩分ゼロ

カフェインゼロの麦茶でした



あまり好きでなかったが 今は食べられることに感謝!

夫はお汁粉が好きでした

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私の心不全の症状

2024年01月20日 | たより
ICUには4日ほどいたが

看護師さんたちが実に素晴らしかった

2交代で長時間の勤務だが どの人も明るく機敏に

 そして適切に看護してくれた

少しずつ動くことが許され5日目には

10mくらいのトイレまでテストで歩き

一般病棟の個室に移った



次の日頃から37.5℃位の熱と乾いた咳がでるようになり

夜は寝汗と苦しさでよく眠られない

体重は増えていき おまけに下痢が続くようになってきた

コロナの検査を2回されたが陰性




つらい咳が出て胸が苦しい症状は???

ハット思い出した 75年前と同じようだ!



朝の回診時に

「胸に水が溜まっているようで苦しいです」と訴えた


レントゲン写真を撮り エコーの指示も出た


午後 研修医のS先生が見え

「昔アスベストに関係したことがないですか」と聞く

ないと答えながら気がついた

「75年くらい前 結核性肋膜炎で 第一肋骨付近まで
水が溜まり 痕が石灰化していると言われたことがあります」

答えると 「教えてくれてありがとう」とおっしゃる

今どきの先生は 結核を知らないのは当たり前かも知らない


次の日から 心不全の治療が始まった


 点滴は増えて利尿剤が多く投与された



娘に話すと 胸に水が溜まってるなんて 普通わからないよと言うが 
私は75年前の15歳の時の苦しさが ありありと思い出されていた


朝は頑張って食べたが 昼は食べたくない

食パン 半切れと ミニトマトの湯剥きを5個
やっと食べる

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どうしても家に帰りたかった

2024年01月19日 | たより

久しぶりに晴れて 大雪山が姿を現した

お昼頃長女が来て 手紙やミニトマトなどを置き

流しを片づけて帰って行った











退院してどうしても家に帰りたかった理由の


寒中見舞いを兼ねて

 夫の友人知人へ 亡くなった知らせと お礼の言葉を

終えることができました





 

これからは おまけです

「老いては子に従え」を素直に実行し

私が亡くなった後 子供たちが困らないように

具体的に記録して印刷しておく予定です

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介護されて

2024年01月18日 | たより
最近の私は 皆さんに助けてもらい

介護されています



今日は個人でお願いしているHさんの日


8時45分にに来てくれました

まずお風呂掃除をしてもらい お湯をはり

居間や寝室の掃除 済んだらキッチンの片づけなど


Hさんのいる間に私は入浴し

洗濯機を回し 疲れたので横になりました



 11時ころ 二人でお茶

おやつはお供えしてあった 中華まんじゅうです




水 土 は 45分 公的なヘルパーさんに

 買い物や 簡単な調理をしてもらいます




ゴミは 週1度 玄関まで取りに来てくれますし



夕食のおかずは毎日宅配を頼んでます



娘たちとは 毎日 電話やラインで連絡を取っていますが

心配らしく 週2回は来てくれます




いずれ施設に入る予定ですが

多くの人に支えられての生活です


感謝! 感謝!




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あきらめない

2024年01月17日 | たより
阪神淡路大震災から29年


能登半島地震の被害の全貌はまだ見えないまま


穏やかな日々が一日も早く来るように祈ってます


あきらめない  希望をもって 心を強くもって



昭和21年の1月

樺太からの引揚者の私たちは


住むところは与えられたけれど 食べるもの 着るものはない


母は夏物のセルに角巻代わりの軍隊毛布をかぶり


吹雪の中4kも離れた農家から分けてもらってくる 


ジャガイモの塩ゆでだけの食事


女学校1年生だった12歳の私は 休学して子守と炊事がかり


-30℃にもなる厳寒の町ですごした


父の消息はわからないまま


戦争が終わった安堵感が唯一の救いだった



朝ドラ ブギウギ にえがかれている敗戦後より

実際は もっと もっと 深刻だっだ

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運が良かったのか強いのか

2024年01月16日 | たより
ICUでは 

看護師のMさんがつきっきりで処置をしてくださる

慌しい時は助っ人も加わっている

体中管だらけで 両手は圧迫され動けない


時々大きな警報音が鳴るのを他人事のように聴いていたが


自分の警報音だと気がついたのはずっと後のこと


先生たちの話声が聞こえる 何故帰らないのだろうか


命の危険が去っていないとは思わなかった




3回目も助かった

運が良いのか強いのか

運命の不思議を感じている


災害で犠牲になられた人たちのことを思うと胸が痛む






笑い話のように

娘が 三途の川へは行かなかったのと聞くが

全然見なかったし 思いもしなかった

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救急車で運ばれた夜 2

2024年01月15日 | たより
 夜7時過ぎ

長女に付き添われ

30分ほどのK病院の救急外来に運ばれた


当直医の若い声の医師が診察後 素早く


循環器内科の医師たちが集まったようだった





痛みと吐き気と苦しさで 目を開けていられなかったので
すべて耳で感じたことである


「心筋梗塞らしいので 手首の血管から造影剤を入れて検査します

カテーテルを入れて血管の詰まった処を治療しますから

頑張ってくださいね」と耳元で優しく話してくれたのは

少し訛りがある若い男性医師だった



私は 叫ぶように言ってしまった

「90歳で平均寿命より年を取っているけれど

夫を看取りたいので 今は死にたくないんです!」


「わかったよ 助けてあげるから」と優しい声


ナースに 切ってくださいと言うと
上着下着もハサミで じょき じょき 切られ
丸裸にされ 消毒がはじまった



耳元で右の手首からカテーテルを入れますの説明がある


足元の方で声が聞こえる 右手首のから何かを入れはじめた

痛くはないが冷たく違和感がある 腋の下あたりで進まないらしい



右はダメなので 左手首からします ダメなら足の方からと
言われるが


左手首からはスムーズに入ったらしい


造影剤をいれても心配だった副作用はなかったが


治療の長い時間我慢は出来そうもない


「眠らせてほしい」と頼んだが


「反応を見ながら治療するので 我慢してね」と言われる



この時 頭の中で思ったことは

人間死ぬときって 
意識がだんだん無くなって死ぬと思っていたが 
こんなに意識がはっきりしていて すとんと死ぬのは
嫌だな~





長い長く感じた 治療は無事終わったらしく


 廊下で長女と会い DRの簡単な説明を聴き


 ICUに移動したのは 夜11時半を過ぎていた




 孫と同年配の若い主治医が頼もしく見えた



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月命日 とお赤飯 

2024年01月14日 | たより
月命日です


好物だったお赤飯を供え 遺影に話しかけてます


昨日ヘルパーさんに買ってもらったものです



お花はネットから
 






先ほど 長女夫婦が ヒレカツ弁当を届けてくれたので


一緒にお供えしました





今日は記録するエネルギーがありません

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救急車で運ばれた夜 1

2024年01月13日 | たより
昨年10月4日のことである


クラスメート3人で1年ぶりのおしゃべりランチを済ませ

2時過ぎバスで帰る


降りて50mくらい歩いたとき 心窩部あたりが痛くなってきた

いつも持ち歩いているニトロのテープを貼り

そろそろ歩いて家にたどり着いた

9月13日夜発作があったばかりなのに今回は早いなと思いながら

横になり休むと20分くらいで治まったが すっきりしないまま




夕方6時になり 簡単な夕食を食べ始めた時 又胸が痛くなりだした

胸全体が締めつけられるようで痛みが強くただごとではない




やっと ホットラインのボタンを押した


まもなく 「どうしました?」応答があったが


要請が多く郊外から行くので時間がかかるとのこと


置き忘れたAiphoneを探して 娘にも電話できた 
救急から連絡があり今向かっているとの事


ホットラインが近い 居間に寝転がって待つたが苦しかった



救急隊員と娘が同時くらいに到着


しかし インフルエンザ コロナなど患者が多く

受け入れてくれる病院が中々ないので

ここで病院に当たってみます と電話をかけ始めた


1軒目のS病院は満杯  2軒目 3軒目 4軒目 5軒目もダメ


6軒目のK病院が受け入れてくれると言うのを聞き涙が出そうになった




まだ死ねない 夫を残して死にたくない の一心だった

つづく

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今日も雪です リハビリはチョッピリしてます

2024年01月12日 | たより





今日も雪です 一歩も外へ出られないけれど


Appleウォッチがスタンドと知らせるので


リハビリをチョッピリしています









昨年10月4日の夜から 波乱万丈の日々が続きました



私の入院中に 夫が旅立ちました


辛い悲しい中で


一番大変だったのは 二人の娘夫婦だったと思います



最悪の条件の中でも 最良の方法で葬儀を行ってくれました





私の方は


病院の先生はじめスタッフの皆さんに助けていただき


 友人たち 二人の娘夫婦や孫の手助けで


退院することができ 夫の弔いをしております


皆さんに 感謝でいっぱいです







夫のアルバムから



ブログは休みながらでも 

戦争を体験した昭和ひと桁人として 日々の老い行くさまと


私の入院時の顛末を載せて行くつもりです


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