秋の奈良公園
近鉄電車は、奈良市の中心部へ地下鉄となって乗り入れる。階段を上って地上に出ると、奈良公園はすぐ近くだ。駅前の行基菩薩の噴水を右手に、みながら、坂道を東の方に、200mも歩いていくと、左手に県庁. 右手に公園が広がる。寒い風に当たりながら、晩秋のよわよわしい日光を浴びて、右折して公園を横切る形で突き進むと、東の方に興福寺の五重塔が見える。
興福寺五重塔
五重塔の原型は、スツーパである。釈迦が入滅したとき、遺骨は八つに分けられて、その一つが、インドのパトナーの近くにある北側バイシャーリー遺跡の発掘によってここに、納められていたことが最近の調査で分かったらしい。
釈迦の遺骨を収めたのが、スツーパで、それが時代を経て、塔になり、今僕の目の前にある。興福寺の五重塔がそうである。これはインドへ行って見て来なきゃ。気のつかないことだ。
インドの旅がきつかった。自然条件の違いもさることながら、僕と接触する、インドの人々(インド人かどうかわからない。)面々とは、心情的に違うものを感じて、最後まで、気が許せないで、合わなかった。、釈迦を尊敬し、合掌してその教えを日常生活の中で、隅々まで染み込んで、できたはずの日本人の心情とはまったく異質なものがあると思った。
なぜだろう。
日本には現れず、聖なる大地マハーバーラタのインドに、聖人は現れたというのに、インドに生まれた、正確には、ネパール、ルンビニに生まれた釈迦。その人の教えを精神生活の支柱ともしているというのに。
そこで僕は考えた。その他大勢の雑魚は、インド人でも、日本人の僕でも、普遍的なことを考える前に、各々の立場を最重要視するために、言い換えると、己にこだわるために、溶け合わない部分が目立つのではないか。と、そういう理屈をつけてみても、じゃ 握手という訳にはいかない。まだ心に引っかかるものがある。
目の前の国宝のこの五重塔を見ていると、やはり日本をみてしまう。ネパールでよく見かけた特に、カトマンズ郊外のバクタプルで見かけた、木造建築の塔ともまた違う。しかし基本である尊いものをまつるというスツーパの原理は石造か木造か。スケールの大小か。そんなことには関係なく、仏教では重要な建造物である。
せっかくインドの仏跡めぐりの旅に出て、サルナートまで来ながらサルナートにある有名な石造のスツーパを見逃したのは、なんとしても、残念で悔しい。
バラナシには、何日も滞在したのに、サルナートの見学は1日で済ませた。なぜだろう。多分相当疲れていたのだ。境内にあるマハーボデイ寺院では、日本語を話せるインドの若い修行僧がいたし、僕が生まれる1年前に亡くなっている画家・香雪が、この寺に、壁画で釈迦の一代記を残している。
サルナートは、バラナシの北約15キロのところにある。境内は芝生の緑が眩しい。そしてなによりも静かである。小さい動物園があり、池にかかった橋を渡るとき、水面を見ると、小魚がたくさん泳いでいる。パンをポケットから取り出して、水面にほうり込むと、小魚がソレを知って、銀鱗が踊る。心が和む。一瞬だ。そして境内には、釈迦が初めて説法したときの様子が像で表されている。釈迦の説法を聞いている5人の弟子たちの像が、等身大で、設置されている。像は日本人の僕から見ると、ちゃちである。日本では、釈迦であろうと、その高弟であろうと、荘厳であり威厳があるのを見慣れているので、物足りないものを感じた。
どうしてあの大聖人をこんな軽いタッチの像にするのだろうか。人種によって美的感覚が違うのだろうか。
まず最初に、ブッタガヤのマハーボーテイ大塔にある釈迦の大像を見た時の第一印象は、日本のそれと比べてなんと軽いタッチの像だろう。まるでおっちょこちょいに仕上がっている。と不思議に思った。その印象が尾を引いているのだろうかとも思ったが、それは違う。
作りそのものが荘厳なものではなく、僕の目から見れば、軽いタッチで、作るのが、インド人の国民性なのかもしれないと思い直した。
どうしたわけか。興福寺の五重塔を目の前にして、次々と頭の中を駆け巡るのはインドの仏跡のことだった。ブッタガヤ、ラージギル ナーランダバラナシ サルナート。、、、
やがて初冬の西日を浴びて、塔は輝きだした。これを見納めに帰途についた。
近鉄電車は、奈良市の中心部へ地下鉄となって乗り入れる。階段を上って地上に出ると、奈良公園はすぐ近くだ。駅前の行基菩薩の噴水を右手に、みながら、坂道を東の方に、200mも歩いていくと、左手に県庁. 右手に公園が広がる。寒い風に当たりながら、晩秋のよわよわしい日光を浴びて、右折して公園を横切る形で突き進むと、東の方に興福寺の五重塔が見える。
興福寺五重塔
五重塔の原型は、スツーパである。釈迦が入滅したとき、遺骨は八つに分けられて、その一つが、インドのパトナーの近くにある北側バイシャーリー遺跡の発掘によってここに、納められていたことが最近の調査で分かったらしい。
釈迦の遺骨を収めたのが、スツーパで、それが時代を経て、塔になり、今僕の目の前にある。興福寺の五重塔がそうである。これはインドへ行って見て来なきゃ。気のつかないことだ。
インドの旅がきつかった。自然条件の違いもさることながら、僕と接触する、インドの人々(インド人かどうかわからない。)面々とは、心情的に違うものを感じて、最後まで、気が許せないで、合わなかった。、釈迦を尊敬し、合掌してその教えを日常生活の中で、隅々まで染み込んで、できたはずの日本人の心情とはまったく異質なものがあると思った。
なぜだろう。
日本には現れず、聖なる大地マハーバーラタのインドに、聖人は現れたというのに、インドに生まれた、正確には、ネパール、ルンビニに生まれた釈迦。その人の教えを精神生活の支柱ともしているというのに。
そこで僕は考えた。その他大勢の雑魚は、インド人でも、日本人の僕でも、普遍的なことを考える前に、各々の立場を最重要視するために、言い換えると、己にこだわるために、溶け合わない部分が目立つのではないか。と、そういう理屈をつけてみても、じゃ 握手という訳にはいかない。まだ心に引っかかるものがある。
目の前の国宝のこの五重塔を見ていると、やはり日本をみてしまう。ネパールでよく見かけた特に、カトマンズ郊外のバクタプルで見かけた、木造建築の塔ともまた違う。しかし基本である尊いものをまつるというスツーパの原理は石造か木造か。スケールの大小か。そんなことには関係なく、仏教では重要な建造物である。
せっかくインドの仏跡めぐりの旅に出て、サルナートまで来ながらサルナートにある有名な石造のスツーパを見逃したのは、なんとしても、残念で悔しい。
バラナシには、何日も滞在したのに、サルナートの見学は1日で済ませた。なぜだろう。多分相当疲れていたのだ。境内にあるマハーボデイ寺院では、日本語を話せるインドの若い修行僧がいたし、僕が生まれる1年前に亡くなっている画家・香雪が、この寺に、壁画で釈迦の一代記を残している。
サルナートは、バラナシの北約15キロのところにある。境内は芝生の緑が眩しい。そしてなによりも静かである。小さい動物園があり、池にかかった橋を渡るとき、水面を見ると、小魚がたくさん泳いでいる。パンをポケットから取り出して、水面にほうり込むと、小魚がソレを知って、銀鱗が踊る。心が和む。一瞬だ。そして境内には、釈迦が初めて説法したときの様子が像で表されている。釈迦の説法を聞いている5人の弟子たちの像が、等身大で、設置されている。像は日本人の僕から見ると、ちゃちである。日本では、釈迦であろうと、その高弟であろうと、荘厳であり威厳があるのを見慣れているので、物足りないものを感じた。
どうしてあの大聖人をこんな軽いタッチの像にするのだろうか。人種によって美的感覚が違うのだろうか。
まず最初に、ブッタガヤのマハーボーテイ大塔にある釈迦の大像を見た時の第一印象は、日本のそれと比べてなんと軽いタッチの像だろう。まるでおっちょこちょいに仕上がっている。と不思議に思った。その印象が尾を引いているのだろうかとも思ったが、それは違う。
作りそのものが荘厳なものではなく、僕の目から見れば、軽いタッチで、作るのが、インド人の国民性なのかもしれないと思い直した。
どうしたわけか。興福寺の五重塔を目の前にして、次々と頭の中を駆け巡るのはインドの仏跡のことだった。ブッタガヤ、ラージギル ナーランダバラナシ サルナート。、、、
やがて初冬の西日を浴びて、塔は輝きだした。これを見納めに帰途についた。