日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

刑務所

2012年11月12日 | Weblog

刑務所

刑法の罰というものの中身が見えない。刑務所に放り込まれて、その後一体どんな苦痛を受けるのか全く見えてこない。

刑務所では、娑婆の世界で人々に苦労を与えているわけだから、それに匹敵するような苦痛を、刑務所の中で与えられているのであろうか。

3食付で雨露しのげて、規則正しい生活をするのは、彼らの日常生活のようだが、彼らのしたことを考えると、 ずいぶんと恵まれた生活をさせるようなものだと思う。自由時間がないと言われるが、ソレは塀の外で過労死するくらい働いている人に比べればましだ。

犯罪者は物心両面にわたって、善良な人々を苦しめたのだから、まず食事メニューからでも締め上げてよいのではないか。3食食べさせる必要はない。人々に与えた苦痛を、己の身でしっかりしっかり味わわせることた。

刑務所の高い塀の周りを、僕はこんなことを考えながら歩いた。



井戸は水が湧くまでほれ

2012年11月10日 | Weblog
井戸は水が湧くまでほれ

ある程度の事前調査で水脈があると信じたならば,井戸は水が湧くまでほればよい。
せっかく水脈があっても、そこに達するまで掘らないと、水はわかない。が,
わかないとそれまでの作業は全て徒労に帰す。
新製品あるいは、新しい方法、手段を開発する企業において、あるいは受験勉強において、ここに問題がある。

第一に水脈の存在が確認できるか。
第2に水脈に達する作業の適否に置いて、10分の検討を加えねばならぬ事は、もちろんだが、果たして人の知恵で、それがわかるものか、どうだろうか。

結果が出ればわかるのだが、その道中で的確に結果を予測できるのだろうか。ソレは本人の信念だろうか。いや、どうもこの辺のことは、神の領域のような気がしてならない。という一方で、まだ現実には、現れていないものを心眼?で見える人もいる。金儲けするためには、道に落ちている金を拾えばいいだけだと彼は言う。勿論事業に成功している人だが。
つまりどのように事業を展開すれば、金が儲かるか判ると彼は言う。
こういう人も世の中にはいる。


護摩木と免罪符

2012年11月09日 | Weblog

護摩木と免罪符

護摩木にも色々とランクがある。特別御祈祷5000円也と書いた値段表を見ると考え込んでしまった。宗教改革の直接のきっかけとなった免罪符を連想したからだ。

祈祷をするお坊さんが秘術の限りを尽くして心願成就を願うならば、それはそれに対するご苦労賃であって、金高の多少によって神仏の守護に大小があるとは思えない。

ご5000円払うのか、1万円を払うのか、個人がそれで、ご利益があると納得するならば、あるいはそれで気が済むならば、それはそれで良いことだ。 神は金銭の多寡で力を発揮するというよりも、心願成就を願う人の願いにこめる熱意であると僕は思う。



海外旅行一人旅

2012年11月08日 | Weblog
海外旅行一人旅

現地を味わう
観光バスに乗って名所旧跡を観光して廻れば、快適だが、その代わり現地そのものを100%味わうことは出来ない 例えば現実に42度の暑さを味わおうと思ったら。クーラーの効いた観光バスの中からでは決して味わえない。

現地人の暮らしぶりも、ほとんど判らない。
ただ見知らぬ土地の風物や、景色を見るだけなら、ソレで満足だろうが、実際に、そこに暮らす人と同じ自然環境や、社会環境に身を置いて味わってみるのも旅の楽しみの1つになる。常にそこには自分ならどうするか?。という
問題意識が存在する。

一人旅は誰も助けてくれないから、自分の命と財産は自分で守らなければならない。言葉が通じたら、最低文字が読めたら、どれほど安心できるか。
自分以外はすべて沈黙の世界だから、細かいところでは、文明の力を借りることも出来ず、何をするにしても、自分が考えて行動しなくてはならない。
非常に神経を使う。「自分一人」を痛感して、すべての場面を無事にこなさないと、結果はすべて自分にはね返ってくる。だから今生きるこの瞬時に懸命になって心を砕く。
そういう状況だから、すべての矢は自分自身に向かう。問題が起きたら、人の知恵を借りずに、自分の頭で考えて、答えを出さなければならない。これは苦痛でもあるが、生きている実感が味わえて結構楽しい事でも在る。一人旅のいいところだ。そういう状態で、僕は何を見聞し、何を考えているのか,思ったか、ソレを克明に書いたのが、僕の旅日記である。何にも頼れない,誰にも頼れない。頼れるのは自分だけだ。
そこでは自分が生きている事を試されているような気がする。またリセットされた自分を見つけることが出来る。プライドや経歴は何の役にも立たないから玄関を出た瞬間からどこかへ飛んで行ってしまっている 。便りにするのは健康とお金くらいである。
こういうのが小心者の海外旅行一人旅という奴だ。

路上ミュジッシャン

2012年11月07日 | Weblog
路上ミュジッシャン

大阪駅北出口にはいつも二組のミュージシャンがあり、代わる代わる演奏をしている。
公共の場であるから、誰か管理者はいるのであろうが、こーゆー楽しい公共広場を作っているからこそ人憩わせる広場は大切であると思う。

今日注目したミュージシャンは南米の人で「コンドルは飛んでいく」とか「コーヒールンバ」をフエをふきながら踊ったり歌ったりしている。
伴奏はカラオケだが、彼のその腕前は大したものである。。
周には沢山、人が立って聞いている。終わると拍手。これは聞くものの当然の礼儀であろう。

演奏は30分ほど続いた、右手に笛、左手にリズム楽器をならしてリズムをとっていた。
終わったら日本語でありがとうございました、と挨拶をした。誰も一枚のCDも買わなかった。みんな音楽を聞いただけであった。

そしてこの場所は周りが車の通行も激しく、また大阪駅だから人の出入りも激しいなどのいろんな悪条件の中でもこうして音楽を楽しむというのは非常に私はいいことだと思った。

ところが交通の邪魔になるという嫌がらせをする人もいるらしい。時々警察が取り締まりをするらしい。こういう公共の広場で、音楽が演奏されること喜ぶのではなく、それをやかましいと受け止める心は貧しいなぁと思った。


>

最近の童謡

2012年11月06日 | Weblog
最近の童謡

私の感覚による判断では、以前歌われていたような価値の高い童謡が幼稚園では歌われなくなった。子供達は芸術的童謡に触れることがなくなった。

そしてそれは無理もない話である。近頃の幼稚園の先生は、芸術的童謡を知らないからである。加えて先生は芸術的音楽性が乏しい。

そこで私はひとこと言いたい。

教師となってまっ白な子供の心に、音楽と言う色を塗りながら、何色が子供の生涯にとって、良いものか研究してほしい。つまり生涯心に残る童謡の研究をしてほしい。そして自分が芸術的な質の高さを持つ童謡と流行歌的童謡との差をはっきり認識し、それを体得してほしい 。


半グレ

2012年11月04日 | Weblog
半グレ

聞き慣れない言葉だが、また厄介な連中が出てきた。暴力団対策法によって少しは浄化されるかと思っていると、その代替が出没しだした。

出身が暴走族だというから、彼らの振る舞いも想像ができよう。
「浜の真砂はつきぬとも、世に悪者の種は尽きまじ」か。
理由は何にせよ、乱暴狼藉をやって。世の人々に迷惑をかける。
そしてその行為は暴力団まがいと言うから、何らかの対策を取る必要がある。
山口組の組長であった田岡氏はこういった。
「どうしても世になじめずドロップアウトする輩がいる。暴力団は確かに世の中の嫌われ者だが、それでもドロップアウトしたものを受け入れている。」

確かに言われるように、世に不良がいる限り一般人は迷惑を被る。
それでも、彼らは暴力団ではないから、取り締まりが難しいらしい。

法治国家といえども、遵法ができないで脱落するものを、まともな人間にたたき直す役割は一体誰が引き受けるのだろうか。
現代社会の1つを課題である。



防犯カメラ

2012年11月03日 | Weblog
防犯カメラ

プライバシーの問題はあるが、これだけ犯罪が増えると防犯カメラでも設置したくなるのが人情だ。
設置台数は繁華街を中心にその地区の人びとの要望でどんどん設置されていくのは良い傾向だ。

ただ何時も滑稽に思うのは、防犯ベルや警報が鳴って五分くらいして警察が駆けつけると、もう強盗犯は逃げてしまった後だという。
防犯ベルが鳴り怪しいそぶりを察知したら防犯カメラが捕らえるだけじゃなくて、同時に犯人に向かって一旦染みついたら決して取れないカラーの水でも雨のように降らせるか、ものすごい閃光と同時に大音響を出して犯人がこしを抜かす事くらい考えても良さそうだ。
警察が到着したら犯人は一仕事を終えて逃走し、現場はもぬけの殻では何のための防犯ベルか、意味をなさない。
犯人の方が賢くて警察がよたよたして到着する姿は余りにも滑稽である。
悪事を働く奴らには、捕まえる前に何かの仕組みを研究した方が良い。そしてソレはそんななに難しい事では無い と思うが、、、、。

丁半の錯覚

2012年11月02日 | Weblog
丁半の錯覚




先日ある人から面白いことを習った

。サイコロの目は1から6までで、奇数偶数は3つずつ半々である。2つ寄せても奇数偶数の出る確率は半々だと思ったいたら、そうではないらしい。

サイコロ2つを茶碗に入れて振り、出る目を足した数字の丁半を考えてみると、1+1=2にはじまって6+6=12に終わる組み合わせは21通り。

数えてみるとそのうちの丁=奇数が12通り半=偶数は9通り。

直感的には丁半は5部5部だったのに。二つ寄せた丁半の組み合わせ、21通りの中身を見ると12通り対9通りになる。

1つのサイコロの目の丁半が半々だから、2つでも同じだろうと直感して早合点するが、それは錯覚である。

季節

2012年11月01日 | Weblog
季節


四季の移り変わる様子は何につけても心に沁みるものがあるが、特に心に染みる味わいは、秋が一番深いと誰でも思うだろう。

春や夏と違って、なんとなく物悲しい。落ち葉などの道を歩いていると、自分の行く末が見えるようで、淋しくなる。

秋に比べて春は、心が目覚める。鳥の声などもいかにも春らしく聞こえるし、陽の光を浴びて、草が芽を出し始める。
そうこうするうちに桜の華が咲いて、ソレも一夜の嵐で過ぎ去っていく。
新しく若葉の季節がやって来ては、通り過ぎていく。

ぎて、こうしている内に夏休みがやって来る。この時期はあれやこれや、心が弾むような生き生きとした、リフレッシュされた自分を発見する。

そうするとまもなく夏の暑さが退いて、山は頂上は緑から茶色に衣替えをし、里におりてくる頃になると、木枯らし一号がやって来る。
枯れ葉が舞い散る頃は、みぞれが雪に変わり、辺り一面が白銀の世界になる。こうして季節は移り変わっていく。 そして人びとはまたひとつ年をとる。