日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

宴の後

2013年06月15日 | Weblog

宴の後

他の銀行よりは金利が高かった。そのためかそこらのおばちゃんがよく出入りしていた。にぎわった店だった。
 ところが今日支店の前を車で走ったら、シャッターが降りたままで、横の空き地にはぺんぺん草が生えて空しいというのか、はかないというのか、寂しさが漂っていた。
にぎわいの落差がおおきいだけに寂れようはうらびれもはなはだしい。
今振り返ってみると、一夜の夢と言うべきか。人生万般かくの如しか。

 金余り現象が分かったのは専門家、玄人のはなしで日本の経済がどっち向こうが一向にかまわない庶民にはバブルが始まったころには、バブルのバの字も分からなかった。そして庶民はその程度で良かったのである。というのはどっちに転んでも物の値段はあれよあれよと毎日のように上がり、日本列島は株も土地も絵画もとにかく1億総投機家になり金もうけに奔走したのである。土地が値上がりし、株が値上がりし、おうよそ資産と名のつくものはそろって値上がりしたし、値上がり曲線は右肩上がりだったから、よほどの玄人でない限り皆このカーブの延長線上で経済を考え、わが家の財産価値が増えるのを喜んでいた。

 そしてバブルが弾ける前に投機を畳んだ者は確実にもうけてうまく逃げた。1部ではあるが、そんな目先の利いた奴らや、運の良い奴はうまくおいしいところだけをつまみぐいして逃げ切った。
 後は日本国民が全員金持ちになって何が悪いとまじめに思い、バブルとは知らないで最後まで付き合った連中がそろってババくじを引いた。もちろん専門家の間でもタイムラグのため大きな痛手を被ったところが、銀行を中心に続出した。

 最終は金が戻って行くところ、銀行が不良債権をしこたま抱えることになった。経営者の乱脈経営によって、あるいは不正な経営によって、庶民相手の体力のない信用金庫がまず倒れた。今から考えるとこんな経済状態がいつまでも続くはずがないのだが、バブルの最中にはバブルが弾けるなんて丸で気がつかなかったのだ。
国民全体がうなりをあげてバブルの中に飛び込んで行った。それはあたかも華やかな宴であった。 素人は日本経済の順調な発展成長としか考えなかった。今から考えると皆よくぼけだった。こうなってみて初めて金が人を支配する力の大きさは想像以上のものであることが分かる。

 急激な右肩上がりの経済環境のなかで、何をやってももうかるとなれば事業を拡大するのは当然で、その渦中にいては先の判断などでできない。それを求めたら求め過ぎというものだ。

 まじな男だと定評があった男の地位と金が人生を狂わせた。よもやこの年になって手錠をかけられる羽目になるとはだれが想像したであろうか。
ある信用金庫の話である。

精神を集中していると

2013年06月14日 | Weblog
精神を集中していると

「あの岸の方を見てみると、さざ波が立っている。あれは魚だが、戯れている証拠だから、周りを取り囲むもうように網を入れ、岸の方から網に追い込むようにしかけて網に魚を追い込む。」
彼はそう言ったが、私には水面が平らで、さざ波が立っているように思えない。またこんなこともあった。

窓を開けて、車で橋を渡っていると、彼はとつぜん魚の匂いがすると言って車を停めた。そこでも私には何もにおわない。

川岸に降りて網を入れながら「魚の居所が分かるのか」たずねた。彼が言うには、精神を集中していると、見えてくるし、におってくると言うのだ。これは意識でもなんでもない。意識の統一ができるが、集中できるか。どうかにかかっている。
君も精神統一をしてみれば、と彼は言う。いや、私にはそれはできないことだ。私は即座に断る。
彼のものすごい集中力には驚いたし、本当にそんなことができるのだろうか。今でも疑問に思う

立場。肩書き

2013年06月13日 | Weblog

立場。肩書き


人間に色をつけるのは、その人がいる立場である。立場にはすでに色つきがなされており、その色の人間として人は判断を下す。
たとえば、僧は人に説教する立場の人だから不道徳なことはしないと決めてかかっているが、現実はどうか。

お布施で生活ができない僧が窃盗罪で捕まったじゃないか。
警官が泥棒したり、万引きしたりしているではないか。

それは僧や警察官は不道徳、反社会的行動をしないと、勝手にこちら側で決めてかかっているだけで、つまり信頼しているだけのことで、実際肩書きをはずせば、神と悪魔が同居する人間のことだから、本来あって当たり前の話である。

別に驚くには当たらない。表に出ている色を見て中身まで同一の色だと判断する方が完全に錯覚しているのである。             



自然の一部

2013年06月12日 | Weblog
自然の一部

2月15日  涅槃の日 僕は京都東山にある清水寺に居た。障子を通して見える冬景色は透き通っている。
枝振りの好い松はすでに雪がうっすらと積もっている。曇った空からは牡丹雪が舞い降りてくる。僕は座敷に黙って座っているだけだのに自然は雪を降らせ雪景色を作ってくれる雪景色を見て僕は自分が自然の一部であることに気が付いた。自然に包み込まれて、自然の中にいて自然の一部を構成している。自然のコウセイメンバーである。今まで自分がいて自然があると想っていたが二者対立的な存在ではなくて一体混然とした融合体であることを知った.
自然の大きな流れの中に僕が居るが僕と意識したときにのみ自分がいて意識しないときは自然一部になっている

花供養

2013年06月11日 | Weblog
花供養

これは司馬遼太郎先生が色紙に書かれたものです。余りにも感動的であり、魂に触れる内容だったので、直ぐ曲が付いてしまいました。女性3部合唱にしてあります。 自分が直感したのは、京都にある三十三間堂の千一体の観音菩薩で、御仏の足下には、美しい花畑が広がっていました。 あの花畑はどこかのコスモス園ではなかったか。いまそんな風に思います。

  振り向けば また咲いている 花三千 仏三千

                     司馬遼太郎作詩  

並み居る金ぴかの観音像と、美しい花との取り合わせの世界こそ、極楽世界なのでしょう。娑婆世界で、あくせくする手を少し休めて、花と仏の世界に想いを寄せては,いかがでしょうか。 西国33カ所の観音様、壷阪寺にインドから招来された、大きな石造観音像を見上げながら,拝むのも、京都にある平清盛ゆかりの1001体の観音像を、お祀りしてある三十三間堂の観音様をおもいうかべるのもいいでしょう。この曲の背景には、このような様々な観音様への,私の想いが織り込まれています。 なおこの詩が彫られた碑が、司馬遼太郎記念館に寄贈され、現在館内にあるそうです。美しい花畑と観音様。それを私は女性3部合唱曲に仕上げました。




ご同輩

2013年06月10日 | Weblog

ご同輩

鏡を見ては、まるで敵討ちでもするかのような憎しみを込めて、一本、また一本と抜いていた白髪も、こう多くなると手の施しようもなく、後は白髪染めを使うことしか方法がないようだ。

暦年齢からすると、人生の折り返し地点を少し過ぎたくらいだが、白髪の数に反して僕は自分の人生にたいして、まだ充実感を味わっていない。
 天下取りのような、だいそれた野望など持ち合わせていないのだが、名もなき庶民の身にも、それなりの夢というものがある。毎日それを追いかけながら、齢を重ねて行くのが、大半の人間の実相というものであろう。
僕もささやかな夢を追い求めつつ、今日まで生きてきた。心の渇きは満たされないままに夜を迎え、朝に希望をつないで、日を送っている。

四十代というと、社会的にも、家庭的にも責任が重くのしかかる世代である。会社ではいやが応でも、責任ある立場に立たされ、家に帰るとローンの支払いやら、子供の教育やら、早いところでは、娘の結婚問題にも神経を使わなければならない。重い責任が二重にも三重にも、のしかかってきて、考えようによっては、大変な世代である。

これら物心両面の重責に耐え兼ねて、時々この世代の人達が蒸発する事件を新聞紙上で見かけるが、身につまされる思いがする。
しかし我々40代の誰もが背負っているこの宿命みたいなものを、投げ出す訳にはいかないから、つらいけれども、歯を食いしばり、明日に向かって頑張っているのである。

俳優の柳生博氏は僕と同い年である。近ごろ彼が新聞紙上で、ある眼鏡会社の宣伝をしているのを見つけた。腰の辺りまで水につかり、魚を釣っている彼の写真が大きく載っていた。よく見ると彼も白髪交じりである。我々みな同じなんだなーと僕は一人で苦笑した。
恐らく彼も仕事上の、あるいは家庭上の責任の重圧にあえぎながら毎日頑張っているのに違いないと思うと、遠い存在であった彼に、急に親しみを覚えるようになった。
新聞紙上の彼は我々同年配の世代に向かって“御同輩"と呼びかけているが、この御同輩と言う言葉の響きがいやに耳に付いて頭から離れなかった。
御同輩か。眼鏡も、白髪もか。

 フトンの上に寝っ転がって、この新聞の中の彼を見ていたら、ある詞が思い浮かんで来た。それは彼を反射鏡にして映した僕の心境でもあった。
もともと僕の心情を詞にしたものだから、これに曲をつけることはたやすいことである。我々世代に向けての応援歌を作るつもりで作曲してみた。

詞の内容からすると、当然我々男性、40代の世代に共感を得ると思いきや、この作品はもっと若い世代にも共感を呼ぶらしい。特に三十代後半のミセスに受けたのには驚いた。きっとそろそろ倦怠期を迎えつつある奥さんがたの、ハートをゆさぶるような甘い声の歌い手がこれを歌っているから、うけているのであって、作品の内容からすると詞も、曲も若奥さんに受ける要素は何もないように思う。
 
 作曲するに当たってはいくつか注意したことはあった。
四十男の人生の悲哀を前半で歌い上げ、ご同輩、という行(くだり)から短調を長調に転調して、曲想を明るくして希望の感じを出してみた。

ごく最近の事であるが、ある長寿者に
「あなたは自分の人生のなかで、何歳くらいの時が、最も充実して楽しかったか」 というアンケートの集計をしたら、四十代から五十代も最もすばらしい、という答えが圧倒的に多かったと新聞は報じている。

 人生の甘いも酸っぱいも、解りかけてくるのは、やはり四、五十年生きてみて、というところなんだろう。実態としては存在しても、表面に浮かんで来ない、人生の本質的な部分まで見えてくるのは、人の親になって少なくとも、20年はかかるというのであろうか。
苦も多いが、今まで見えなかったものが見え出すということでは、確かに人生においては一番すばらしい時であり、かつ一番潤いのある時節なんだ。
 
 見果てない夢を追い求め、幾春秋を当てなくさまよい、いつの日が大空を駆け巡ろう。
悩みは果てなく尽きぬとも、ご同輩よ、地上には花が、そして天上には星があるではないか。
酒酌み交わし人生を語れる友もいるし、家では女房と子供があなたをの帰りを待っているではないか。

 さあ、元気を出して、声高らかに、明日に向かって突っ走ろう。
きっとお主の人生が琥珀色に輝くときがくることを信じて。
また明日も頑張ろうじゃないか。 御同輩。

           ご同輩
          
            (一)

長い時の流れの中にいて、いつの間にか白髪まじり

果てない夢を追い続け 幾春秋を 当てなくさまよう

だけど、ご同輩 今こそ人生の 一番華やかな 潤いの時

地上に 花あり 天上に星あり
          
            (二)

いつの日か 大空を駆け巡る わずかな望みを 追い求め

昨日の憂いを 心に残し 今日も見果てぬ 夢を追う

だけどご同輩 今こそ人生の一番すばらしい、潤いの時

あせるな、あわてるな、道は まだはるか
    
           (三)

流れ去り行く 無言の時 静かに響く 鐘の音

短い年月、果てない悩み 昨日も 今日も また明日も

だけど ご同輩 今こそ人生の 一番楽しい 潤いの時

外には 友あり 内には 女房あり。

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2ご同輩2007-05-02 05:19:17

カテゴリー: Weblog

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暦年齢からすると、人生の折り返し地点を少し過ぎたくらいだが、白髪の数に反して僕は自分の人生にたいして、まだ充実感を味わっていない。
 天下取りのような、だいそれた野望など持ち合わせていないのだが、名もなき庶民の身にも、それなりの夢というものがある。毎日それを追いかけながら、齢を重ねて行くのが、大半の人間の実相というものであろう。
僕もささやかな夢を追い求めつつ、今日まで生きてきた。心の渇きは満たされないままに夜を迎え、朝に希望をつないで、日を送っている。

四十代というと、社会的にも、家庭的にも責任が重くのしかかる世代である。会社ではいやが応でも、責任ある立場に立たされ、家に帰るとローンの支払いやら、子供の教育やら、早いところでは、娘の結婚問題にも神経を使わなければならない。重い責任が二重にも三重にも、のしかかってきて、考えようによっては、大変な世代である。

これら物心両面の重責に耐え兼ねて、時々この世代の人達が蒸発する事件を新聞紙上で見かけるが、身につまされる思いがする。
しかし我々40代の誰もが背負っているこの宿命みたいなものを、投げ出す訳にはいかないから、つらいけれども、歯を食いしばり、明日に向かって頑張っているのである。

俳優の柳生博氏は僕と同い年である。近ごろ彼が新聞紙上で、ある眼鏡会社の宣伝をしているのを見つけた。腰の辺りまで水につかり、魚を釣っている彼の写真が大きく載っていた。よく見ると彼も白髪交じりである。我々みな同じなんだなーと僕は一人で苦笑した。
恐らく彼も仕事上の、あるいは家庭上の責任の重圧にあえぎながら毎日頑張っているのに違いないと思うと、遠い存在であった彼に、急に親しみを覚えるようになった。
新聞紙上の彼は我々同年配の世代に向かって“御同輩"と呼びかけているが、この御同輩と言う言葉の響きがいやに耳に付いて頭から離れなかった。
御同輩か。眼鏡も、白髪もか。

 フトンの上に寝っ転がって、この新聞の中の彼を見ていたら、ある詞が思い浮かんで来た。それは彼を反射鏡にして映した僕の心境でもあった。
もともと僕の心情を詞にしたものだから、これに曲をつけることはたやすいことである。我々世代に向けての応援歌を作るつもりで作曲してみた。

詞の内容からすると、当然我々男性、40代の世代に共感を得ると思いきや、この作品はもっと若い世代にも共感を呼ぶらしい。特に三十代後半のミセスに受けたのには驚いた。きっとそろそろ倦怠期を迎えつつある奥さんがたの、ハートをゆさぶるような甘い声の歌い手がこれを歌っているから、うけているのであって、作品の内容からすると詞も、曲も若奥さんに受ける要素は何もないように思う。
 
 作曲するに当たってはいくつか注意したことはあった。
四十男の人生の悲哀を前半で歌い上げ、ご同輩、という行(くだり)から短調を長調に転調して、曲想を明るくして希望の感じを出してみた。

ごく最近の事であるが、ある長寿者に
「あなたは自分の人生のなかで、何歳くらいの時が、最も充実して楽しかったか」 というアンケートの集計をしたら、四十代から五十代も最もすばらしい、という答えが圧倒的に多かったと新聞は報じている。

 人生の甘いも酸っぱいも、解りかけてくるのは、やはり四、五十年生きてみて、というところなんだろう。実態としては存在しても、表面に浮かんで来ない、人生の本質的な部分まで見えてくるのは、人の親になって少なくとも、20年はかかるというのであろうか。
苦も多いが、今まで見えなかったものが見え出すということでは、確かに人生においては一番すばらしい時であり、かつ一番潤いのある時節なんだ。
 
 見果てない夢を追い求め、幾春秋を当てなくさまよい、いつの日が大空を駆け巡ろう。
悩みは果てなく尽きぬとも、ご同輩よ、地上には花が、そして天上には星があるではないか。
酒酌み交わし人生を語れる友もいるし、家では女房と子供があなたをの帰りを待っているではないか。

 さあ、元気を出して、声高らかに、明日に向かって突っ走ろう。
きっとお主の人生が琥珀色に輝くときがくることを信じて。
また明日も頑張ろうじゃないか。 御同輩。

           ご同輩
          
            (一)

長い時の流れの中にいて、いつの間にか白髪まじり

果てない夢を追い続け 幾春秋を 当てなくさまよう

だけど、ご同輩 今こそ人生の 一番華やかな 潤いの時

地上に 花あり 天上に星あり
          
            (二)

いつの日か 大空を駆け巡る わずかな望みを 追い求め

昨日の憂いを 心に残し 今日も見果てぬ 夢を追う

だけどご同輩 今こそ人生の一番すばらしい、潤いの時

あせるな、あわてるな、道は まだはるか
    
           (三)

流れ去り行く 無言の時 静かに響く 鐘の音

短い年月、果てない悩み 昨日も 今日も また明日も

だけど ご同輩 今こそ人生の 一番楽しい 潤いの時

外には 友あり 内には 女房あり。

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万引き6-53

2013年06月10日 | Weblog
万引き

 片手にたばこをはさんでいる。だぶだぶのジーパン上下。
陳列棚の値札のついた財布を握りしめている。僕はじっとにらみつけてやった。彼はその財布を手放して、その辺りそこらを、一周してすぐ舞い戻ってきた。

「 やるなー」と僕は思った。また彼の手は、例の財布のところに伸びている 。
 よほどを欲しいのだろう。僕はまた彼をにやみつけた。彼はとらずに立ち去ったが、また財布のあるところへ戻ってきた。
僕は相変わらず目で牽制球を投げ続けた。僕の目は「万引するんじゃない。」という、言葉を彼に送り続けた。

しかし今回の彼は蛙を飲みこんだ蛇のように財布は、そで口からのぞいている。そのまま彼は、人波に消えた。おそらく彼は歩きながら、そで口にその財布を押し込んだことだろう 。僕は彼が盗もうとしている財布の値札を見た。1380円。

 彼ば僕の目の前で1380円の財布を、堂々と万引した。それはちっとも、鮮やか手つきではなかったが、大胆であった。
この場面を、注視していた僕は、異常な興奮で体が熱くなった。
芝居ではなく、本物の万引である 。おそらく生涯て、何回もお目にかかることはあるまい。一部始終を鋭く観察していて記録にとどめておきたいという気持ちと、犯罪を未然に防がなければならないという相反する気持ちが、相互に入れ替わって、複雑そのものであった。

 動物から人間に、発展を遂げている過程で、人のものをとらない、とってはいけないという規律は生まれたが、人間は[動物の部分]を盲腸のように体に宿している。
理性によって抑えてはいるが、ふつふつとして、わき上がってくる、このアニマリテイは抑えのきかないものなのであろう。

 盗む楽しみ。禁を犯す楽しみ。これも自然がわれわれに与えた本能みたいなものだろう。要はブレーキと、アクセルの問題なのである。
欲望と理性との、バランス・ダイナミズムがうまく働くか否か。
それが人生を塀の外か内かに分ける

メルヘン

2013年06月09日 | Weblog
メルヘン

大人になって考えてみると、子供のころには大人が、理解できないようなことを考えたり、信じたりにするものだ。

現実にはおそらく、この世には存在しないであろう世界に自分を引きずりこんで、その世界を現実の世界だと信じこむ。

つまり、客観的な世界と主観的な世界の未分化である。そしてこの未分化の世界こそが、メルヘンの世界である。

 メルヘンの世界は意図的・無意図的に願望の世界であるから、主観性が非常に強い世界であり、これは我々大人になって、客観的な世界に飛び込んで生活をするにもかかわらず、へその緒みたいに、我々の心の中に強く結びついている。

 本質的に主観性が強いとされる、女性においては、このへその緒は、かなり太いのであろうか。往々にして、女性はこの世界に足をおろして立ちながら、現実の世界で生じるもろもろの事象に対し、判断を下すのでほほえましい場面が生ずる。

 「そんなのはメルヘンの世界だ」という言い方で、その世界に住むことがあたかも悪い、少なくともレベルが低俗だと、我々は言うが、一概には悪いとも言えないようである。

 それどころか、厳しい現実ばかりを眺めていると、我々は人生に夢を見いだすことが難しくて、悲観的になってしまうが、おそらく現実には存在し得ないであろう観念の世界に浸って、我々は航海で疲れた船が港で休むように、メルヘンの世界に遊ぶことによって、心が癒される事も経験する。

 極端につらい現実に浸かってもそうだし、冬の日差しを背にうけて、うつらうつらする時も、メルヘンの世界に遊んでいることが非常に多い。そしてこのことは後になって気がつくことが多い。

ともあれ、神は我々人間、男にも、女にも、メルヘンを与えてくれた。現実の場面で、メルヘンの世界の話をされると腹立たしく思うこともあるが、なかなか楽しいものだから、これは大切にしたい世界である。






金沢旅情

2013年06月08日 | Weblog

金沢旅情

彼はブラジルで悠々自適、おそらく好きな本を買い込んでは、自分のアトリエに持ち込み、読書三昧の日々を過ごしていることだろう。

本社の重役からブラジルにある子会社の社長に出向して、そのまま居ついてしまった。風聞では、一人娘のお嬢さんも今では、ブラジルの市民権を持った日系三世と結婚されたということであるから、故国日本の家に足が遠のき、骨を埋める気になったのだろう。

彼と私はひとまわり以上も年が離れていたし、平社員と重役という立場もあって、私にはそれなりの遠慮があったが、オフタイムには個人的な付き合いがあった。

彼のことを私は、大陸浪人とあだ名していた。満州の荒野に着流しになわの帯でも巻きセッタをはいて、夕日を背にてして立ち、夢を語り、ロマン語り、人生を語るそんな姿が彼には1番似つかわしいと思える魅力的な雰囲気があった。

 彼の上司に対する言動にも部下に対する言動にも、その雰囲気が出ていたから、会社人間としての恣意的な演出やポーズでは決してなかった。
彼の風貌も言動も所詮、彼の個性や人生観や価値観によってきたるものであり、それが彼独特の持ち味をみだしていたのであった。
とはいっても、際立って突出した、何かがあるという訳でもなく、当たり前のことを当たり前のように言う、凡人だったと私は評している。

そんなSさんに,私は青春の輝きを見つけ,自分の夢を重ね合わせていたのであろう、私は彼が好きだった。

彼は金沢の4高で学び、東大の経済学部へ進んだ。卒業後当時の花形産業と言われた繊維会社への就職した。そして太平洋戦争に学徒出陣したが、無傷で帰ってきた。

戦争といえば空襲しか知らない我々世代とは違い、無傷と言っても鉄砲の弾丸をかいくぐった経験はあっただろうから,人間が生きることの厳しさの自覚と言ったら、我々世代とは比べ物にならなかった。

私が自分よりも、もう1世代前に生まれた、先輩たちの学生生活、特に旧制高校の生活には関心があった。というのは、青年としての純粋さや、理想を求め、苦悩し、人生に悩むその姿が私の理想であり、弊衣破帽のバンカラは私の憧れであったからである。

 彼が持っている雰囲気は私の求めているものをふんだんに持ち合わせていた。雀100まで踊り忘れずか。三つ子の魂100までか。

青春

私が「金沢旅情」を作詞作曲しようと思ったのは、金沢への憧れからであったが、その奥には金沢がSさんの青春の地であったということが前提となっている

短かめの北陸の夏は、ここ兼六園にも影を落とし、霞池から敷いた噴水はさびしげだった。

兼六園随一の石灯ろうは小さくみえて、霞池はさざ波がたっている。水面を渡る風が頬を過ぎゆく。この風に吹かれて、池のほとりにたたずみながら、私は自分の青春を思い返し、幻と消えた夢と重ねてSさんの青春を思いやった。いや四高生の青春に思いをはせた。

 四高といえば、私は何の関係もない。私は単なる通りすがりの旅人である。それにもかかわらず、私は自分の青春と四高生の青春を重ね合わせていた。
池を散策しながら私は自分の若き日を思い返してみた。

はるかな青春、今はもう遠い過去になりつつあるが懐かしい。そこには夢と希望が満ちあふれ、詞があり、歌があった。純白の画布におろす絵筆を握る手には胸の思いがあふれていた。

意のママにならない現実と違って、時は苦みを分散して、苦みを脱落させ、過去の華美なものだけが重層的に残っていて、ノスタルジアは心を憩わせてくれる。
私はいつの間にか、Sさんになり変わっていたのかもしれない。

 霞池に水面に映り流れゆく雲を見ながら、そして時計の針を逆に回して、人生の意味を問い、人間存在の根源的なものを尋ねてみた。しかし浮かびくるのは、その昔あこがれた、同級生の女の子の面影のみだった

美少女。不幸なアイドル

男女7歳にして席を同じうせず、という社会規範がどれほど人の心を縛ったか知らないが、いつの時代でも美少女への憧れは青年の煩悶の日々に、みずみずしい感覚を注いでくれる。
彼の話によると、彼が四高生だったころ、近くの喫茶店に美しい娘が働いていた。当時喫茶店で働いていたという事実から推測するに、それほど恵まれた生活環境にはなかった女性だろう。

 さんさんと輝く太陽の下に何の苦労もなく育った、深窓の令嬢にも心惹かれるが、何らかの不幸を背負いこみ、グレイの憂いを含んでいる陰性の美少女にはことのほか、心惹かれるのでは無かろうか。と言うのは、社会正義に目覚め、理想に走りがちの青年にとっては、彼女をこの俺が幸せにしなくちゃという意気込みと自負があり、おそらく四高生の幾人かはそう思ったことだろう。

 50年の時が流れて、その美少女もいい年のおばあさんになっていた。
彼が見せてくれたその写真を見て、これだけの美人を男が放っておくはずがないと私は思ったが、彼女のその後の人生は相変わらず苦労の多いもので、ついに幸福の女神は彼女に微笑みかけなかったようである。

そういえば、何も四高生に限らず、我が青春にも似たような思い出がある。このダブリのおかげで、私の旅は一層豊かなものになった。

私はこの旅情や心境を次のような詞に託した。そして不幸な彼女の境遇と私の苦渋に満ちた青春を重ね合わせてみると、やはり短調のメロディーをつけざるを得なかった。


金沢旅情

1,昔の夢は   懐かしく
  
  はるばるたどる 北陸路

  今も微笑む  かの人を

  尋ねて、金沢  一人旅

2,霞池の   さざ波に

  映る面影  懐かしいや

  たたずみ、おれば 身にしみて

  今なお聞こえる  青春賦(はるのうた)


3,幾春秋が    めぐれども

  昔のままよ    兼六園

  100万石の   城跡に

  聞くは松風    セミ時雨







JR西日本のこの感覚はいったい何だ

2013年06月07日 | Weblog
JR西日本のこの感覚はいったい何だ

去年の夏。といっても大部昔の話だが、(多分10年くらい前だったと想うが)サンダーバードの車内で強姦事件が起こった。

乗客は安全に目的地まで行けることを信じて運賃を払ったはずだ。ところが暴漢によって安全は完全に破られた。車内でこういう事件が起こったのは1度だけではないらしい。想定外のことでと言うことは1度は言い訳として使えるかも知れないが、2度3度と起こったら安全対策はどうなっているのかと問題にしたい。

朝日新聞は社説で「遺族の不信感に応えよ」と問題点を指摘している。その中に他にも首をかしげたくなる事があると指摘しているが、今回の事件についても「列車内の犯罪、自分が居合わせたら」と社説に載せている。
社説氏曰く。乗客は冷淡な傍観者だとこの指摘は当っていると思う。
細かく見てみよう

1,男に注意する。被害が自分に及んでくる場合は誰もが見てみないふりをするものだ。これが世間の常識。この常識を破って勇気ある行動をもとめることはもとめすぎだ。

2,非常ボタンをおせばいい。非常ボタンがどこにあるか周知徹底されていないのが現状だ。押すことは簡単だがそこに至る過程に困難がある。

3,乗務員に知らせばよい。理屈の上では可能だ。現実にはそれが出来るか。今回は誰もやらなかったではないか。乗客は冷淡な傍観者であることを忘れてものを言っているのじゃないか。

4,携帯電話で110番すればよい。その通り。しかし現実には誰もしなかった。めんどくさい。関わりを持ちたくない。気がつかない。という冷淡な傍観者心理が読めていない。

最後にこういう場合はどうすれば良いか一人ひとりに突きつけられている。と結んでいる。

社説氏よ。

これは乗客に向かって言う前に、乗客にこれをもとめる前に、この指摘事項をなぜ運行責任者であるJR西日本に突きつけないのか。

安全についての責任は運行会社にあるわけで、乗客にあるわけではない。指摘事項は全て会社にもとめる事項ではないか。会社は責任者として当然の具体策を回答すべきである。

この件について私は会社に電話した。受け付けた人は「係に伝えます」で終わりだ。こういう体質が問題だ。担当部署に直ぐつなぎ、「社内だけでは気のつかない安全管理上のご意見を聞きます」という姿勢が何故とれないのだ。「係に伝えます」という返事に「録音機を置いておく方がましだ」と怒ってやった。
安全に対する社内の責任感覚が欠如している。

宝塚線の事故といい、今回の社内犯罪といい、責任者が「冷淡な傍観者」になっているのではないかとさえ思う。
車内放送で車内犯罪時における乗客へのお願いとして防犯や緊急事態の行動を事細かく放送するのも1つの方法だし、マスコミを使ってあらゆる人への広報もその手段ではないか。

総括してみるとこういう事になると思う。
会社は乗客の善意など当てにしないで「冷淡なる傍観者だ」という前提の下に、
車内犯罪については安全対策を見直して、それを乗客にわかりやすく伝える事が大切だ。

例の強姦事件発生から後に会社から事件防止の広報がなされたのか。再度会社の車内犯罪防止や緊急事態発生時の対応マニュアルを一般乗客に徹底するのが責任者のすることだ。

そして願わくば乗客も勇気を出して行動してほしいとは思うが、さて自分がとなると、冷静沈着に行動できるかどうか自信がない。これが本音である。

自分自身もお粗末だとは思うが、携帯から110番に電話するという事はすっぽり抜け落ちていた。

城崎温泉 まんだら湯

2013年06月06日 | Weblog

城崎温泉 まんだら湯

駅を出て、通りを300mも行くと、川につき当る。架かった橋を渡らずに、手前を左におれて、川の両岸にある川端柳をめでながら、上流へさかのぼっていくと、橋があり、それを渡ると、そこが一の湯だ。

一の湯を通りこして、街中を4・5OOmも行くと道は月見橋のたもとで、ほゞ直角に近い角度で、右折する。そこからもと来た道を4・50m、引きかえすと、巾は広いが、露路のような感じのする道がある。その奥の突き当りがマンダラ湯である。
玄関前に立っている由緒書を読むと、その昔、ありがたい聖の力で適温の湯が湧き出したとか。

 城崎温泉は外湯がうれしい。それも外湯が七湯もあり、宿泊客は竹で編んだ手さげの竹カゴに、タオルや石けんを入れて、カラコロ、カラコロ下駄の音をひびかせながら、外湯めぐりをして、温泉情緒を楽しんでいる。
それもボンボリに灯が入って、人の顔もさだかでない、かはたれ時には温泉情緒は一気に盛りあがる。立ちのぼる湯煙に、温泉街特有のあの艶めかしさが漂う。七湯のほとんどが道にそって点在するのだが、マンダラ湯は道からほんのわずかではあるが、奥まったところにある。それだけに、静かであり、人のざわつきも少く、ここだけは孤立しているというのか、孤高を保つというのか、そんな雰囲気がある。
 マンダラ湯の中の造りは、そこらそんじょの銭湯と同じようなもので、あまり変わり映えはしない。湯舟の広さも、洗い場も殆ど変わらない。これでも温泉か。私は少々がっかりした。知ってか、しらでか、お客は少なく、私を入れて五人だけだった。
 
 にわかに戸があいて、一団になった男がどやどやと入って来た。一見してどういう集団かすぐ分かった。入れ墨、目付き、言葉などからすると、ヤの字の衆である。
 彼らが入って来たために、のんびり入浴を楽しんでいた雰囲気は一変した。一人減り、二人減りして、ヤの字の衆と私だけになってしまうと、彼らは遠慮なくしゃべり出した。

「なんや、これは。町の銭湯と、えろ変らへんやんか。これでも温泉け。」
「温泉ちゅうたら、広々してのんびり出来る所と違うんか。」
言葉の訛りからすると、シマは関西らしい。
「こんなとこ、あかん。温泉に入った気分になれへん。はよ、上がって温泉へいこ。」

遠慮、気兼ねのない自由奔放な会話に、私も同感で、心のそこでうなずいた。ヤの字がいうように、銭湯くらいの大きさしかないうえに、温泉情緒を醸し出す大道具も、小道具も、何一つとしてない。これは温泉ではない、という云い方は粗雑ではあるが、その通りである。
温泉と云えば、湯の花の香りがしたり、それらしい雰囲気があったりするものであるが、この湯は聖人、それも仏弟子が開いたとされるだけに、質素に出来ているのだろう。長居は無用と、私も先客の後を追った。

 鴻の湯は、その昔、傷を負った鴻の鳥が、この湯に足をつけて、傷をいやしたところに因んで付けられた名前とか。
外湯七湯のうちで、駅から最も遠い所にあるが、と云っても歩いて、せいぜい15分か、20分ぐらいの所にあるのだが、ここはいつ来ても、賑わっている。恐らく露天風呂があるからだろう。
 この露天風呂はピリッとした熱さで、十分も湯舟に浸かっていると、額から大粒の汗がしたたり落ちるし、湯上がり後は、足の爪先あたりがジンジンしてくる。いかにも温泉に浸かったという実感があり、それにもまして、露天風呂の風情は、温泉情緒と旅情を感じさせてくれる。
岩と岩がつなぎ合わさって、湯舟ができていて、湯舟にしだれかかる真っ赤な紅葉に、夕陽が美しい。

フツフツと沸いてくる温泉に、体をどっぷりつけて、タオルを頭に乗せて目をつぶっていると、極楽の住人になる。これでこそ、はるばる城崎温泉にやってきた甲斐があるというものだ。身についた垢とともに、心にこびりついた、この世の垢も、この湯の中に洗い流してしまいたいと念じた。たった六畳二間くらいの広さのこの温泉が、娑婆世界の住人を極楽世界まで連れて行ってくれる。この実感は、城崎温泉の御利益と云っても過言ではない。一人旅の温泉旅行は何の気遣いも、気配りも必要ないので、一番くつろげる旅である。
黄昏の空を渡り鳥が、くの字を描いて北を指して飛んでいった。
              
 私の後を追いかけるようにして、先程の一団が入って来た。
一団は完全に私を無視して話し出した。

「やっぱり露天風呂はえーなー。」
「雪がちらちら舞う時に、この湯に浸かり徳利を盆に載せて、くっと一杯やったら極楽や」
「そこの岩みてみい。真っ赤な紅葉が夕日に映えとるやろ。体をどっぷりつけて、 一 節うなったら最高や。胸のむしゃくしゃはいっぺんに取れてしまうで。」
「お前、日頃に似合わず、えー事をいうなー」
「いや、ほんまですねん。」

 会話を聞いているぶんには、まともである。こんな心をもっているのに、何故ヤの字なのか。正業についたら、もっと心安らかに入浴出来るのに。
マンダラ湯では、一方的に恐れてはいたが、慣れて来たというのか、私は会話の続きが聞きたかった。度胸がついて来たのだろうか、私は積極的に耳を傾けた。ヤの字の衆といっても、所詮は人間。渡世の仕方がちがうだけとは思いつつも、渡世の仕方の違いが、私からすると、天国と地獄ほどの違いなのである。

世渡りは、いわゆるカタギの世界からはみ出した、あるいはドロップアウトした世界の住人だけに、感情的には敏感に研ぎ澄まされたところがあるのかもしれない。心の中では、自分が住んでいたカタギの世界への未練を残しながら、この娑婆の世界で集団をなして、暮らしていることを自覚しているが故に、日ごろの渡世の緊張感から解き放たれて、こうして温泉で束の間の安らぎを得ているのだろう。

 その昔、奥の細道の道中で、芭蕉と同宿した遊女は、私は人間の端にもおいて貰えない人間だが、、、とへりくだって声をかけた、という「奥の細道」の一節が頭をかすめた。さしずめ私が芭蕉で、ヤの字の衆が遊女か。
ハッハッハッー。私は翔んでいる自分に気が付いて苦笑した。
 それにしても、なんとまんが悪いのだろう。ゆっくり、のんびり、リラックスするために、リフレッシュするために、はるばるここまで来たというのに、余計な緊張を強いられるとは。!こわい物みたさで、私はヤの字の衆の言動に神経を集中させた。
 
お陰ですっかりくたびれた。
それにしても人の世の縁の不思議なことよ。そこで一句。
ヤーさんと背中合わせの曼陀羅湯

世間虚仮

2013年06月05日 | Weblog
世間虚仮

南九州は暖かい。冬は2月までで終わり、3月になると、ぐっと暖かくなる。
ぽかぽか陽気に誘われて、春先になると冬眠していた蛇が、太陽に照らされて暖かくなった、人の通り道に寝そべっていることがよくある。
 
 たぶん中学生ぐらいの時のことだったと思うが、鼻歌を歌いながら歩いていたら グニャと異様な感覚が足の裏から伝わってきた。私は咄嗟に蛇をふんだんに違いないと思って大急ぎでその場を逃げた。

 恐る恐るもとの場所に戻ってみると蛇は動かないで、そのままじっとしている 。近づいてよく見ると、それは大きさも色も蛇によく似た縄切れだった。蛇と縄切れはとてもよく似ていた。
「なんだ。縄か」。一安心したが、ふんずけだときは実にびっくりした。足の裏には、まだあのぐにゃっとした感覚は残っている
 縄切れなのにどうして蛇とに間違ったのか。僕はこのことを今でも考え続けている。目には縄として映っていたはずである。 だが私はそれを蛇と認識してしまった。

 明らかに事実と、認識したものとでは、違いが生じている。目に映った物体の事実が、認識される過程において類似のものに変更されてしまったのである。
だとすれば認識の主体は何だろうか、たぶんそれは脳だろうか、それ以外のどこかにある種の意志が働いて縄が蛇になってしまったのだろう 。これは縄と蛇に限らず、枯れ尾花を幽霊に見間違うことと、同じ理屈に違いない。

じゃ脳に働く意思とはなんだろう 。目に映った像に対して脳のどこかに命令判断する部分があるのではないか。たいていは見たものをそのままに認識するようになっているが、時として映った像を別のものとして認識することが起こる。
目に映った像は紛れもなく縄であるが、認識する脳が認識する過程で、ある種の力が働いて 縄を蛇と認識してしまうのだ。
ある種の力とは、その時の置かれている状況によって心の奥底に潜む心理的な力が、意思として働き、誤った認識を生じさせるのではないかと思う。
ただしこの場合、自分の意志を自覚できないままに、人は自分が見たものは真実だと思う。

 縄(真実)を蛇(判断が加味された真実)と認識するから次の行動として、びっくりとびっくり声が出るのだ。つまり人は真実を真実として認識するとは限らない。言い換えれば人の認識には真実の認識と錯覚による認識がある。

 人の見た事実は、それが真実である場合もある、錯覚によって作られた事実の場合もある。ところが人は自これは聖徳太子の言葉である。

 人間の世界は真実で満たされているのではなく、人間そのものが不確かで、時として錯覚の上に世界を構築、展開する。これは不確かな世界で、あてにはできないにもかかわらず、人は自分の認識の正しいことに拘泥する。だから人間世界は矛盾に満ちているのである。

 つまり我々が住むこの世には、もちろん真実もあるが、それを認識する主体、言い換えれば、人間は不確かなものであるということに、気づくべきだ。

 今まで私は自分の五感に触れるものは、それがそのまま真実と思ってきたが、こういうことを考えると、果たして自分の認識に100%の信頼を置いて良いものかどうか。自信が無くなってきた。もし自分の五感があてにならないということになればいったい何を信じただよいのか。
 
 あいまいな自分の認識や、それに基づく判断から身を守るためには、物事に頑迷にこだわる態度を改めるべきだ。ということは頭のどこか片隅に、疑念を抱く部分を残しておくということだ。

 今後起こりうる自分のこと、他人のことを判断する際には、すでにこの部分から光を当ててみる習慣が必要だ。そしてそれはすべてに対して、猜疑心を持ち続けるということではない。
そういう次元ではなくて、人間は不完全なものだということをすでに念頭に持っておくということが大切だと思った。

 聖徳太子の言葉 「 世間虚仮 唯仏是真 」
こういうことを考えてみると、改めて聖徳太子の偉大さが身にひしひしとしみこんでくる。




選択の問題だろうか

2013年06月04日 | Weblog
選択の問題だろうか

梅里雪山日中合同登山隊、17名全員が遭難した。
救援隊が派遣されたが、結論は空しかった。厳しい自然に阻まれて捜索できないままに、死亡通知書が中国から送られて来て、我が国でも死亡通知書が発行された。前途有為な青壮年17名もの命が梅里雪山の白峰の中に消えた。捜索は今年の夏頃に再開するという。17名の御霊よ。いずこにおわすか。

 冬山は厳しい。見た目には美しくとも、白銀の山々は心臓も凍る寒さである。白雪に覆われている険しい岩盤はいつも大きな口を開けて、転落死という餌食を待ち構え、また雪崩もいつも人の生命を餌食にしている。冬山から命をねらわれて、登山者は常に生と死の綱渡りを強いられているのである。

 なぜそんな危険な冬山に命を的にして登るのか。答えはそこに「山があるから」、というのだが。こんな訳の分かったような、分からないような理屈では私は到底、命を的には出来ない。私からみれば、冬山に登る人の気が知れないのである。それが率直な気持ちである。

山が高ければ高いほど、またスピードが早ければ早いほど、危険は増す。だのに人々は高い山を目指しては危険を承知のうえで次から次ぎへと登って行く。またスピードを挙げて走りたがる。車のメーカーは人命の安全よりもスピードに関心を向けている。何故ならばそのほうがユーザーのニーズに応えることになるから。つまり人の関心は高い山や、より早いスピードに向いているのである。登山家に限らず、例えば日常、車で生活道路を走っているとき、前方が空くとスピードアップしたくなる気持ちに駆り立てられたという経験は大半の人がもっている。

 スピード狂、高所狂。これらは恐らく人類の本能なのだろう。本能ならば理屈はない。山があろうが、なかろうがもろもろの悪条件を克服することに挑戦したがるのは避けられない。危険を承知の上で命を張り、挑戦して冒険心や征服欲を満足させながらハラハラ生きるか、それとも、より安全を求めて無難に生きるか、これは
“生き方"の選択の問題である。 50も後半に入るという世代と、好奇心に満ちあふれ血が沸きかえっている二十代とでは興味も関心も違って当前だが、さればとて、こんなことでこの貴重な生命の灯火を消すことには私は納得しかねる。年齢や世代を問わず、この世のことはすべて命あっての物種である、と思うからである。

 私のようにすべてにおいて無難と安全のみを求める立場に立てば、いくら好きだからとは言え、またいくら興味や関心があるからといっても、命を的にすることは決して誉めたことではない。
自分の意志に従って、その通り生き、そして世を去った人に弔辞を贈るのは生きている者のセンチメンタルな気持ち以外の何物でもないと言えば言い過ぎになるだろうか。

 そんな気もするがあの梅里雪山の山奥で雪女に命の華を吸い取られた日中両国の登山隊に矛盾を感じつつも、やっぱり哀悼の意を捧げたい。
今際の際に来迎された諸菩薩よ。雪山に雄々しく消えた益荒男の御霊を極楽へ導きたまえ。

南無阿弥陀仏、なむあみだぶつ、ナムアミダブツ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

一語(期)一会

2013年06月03日 | Weblog
一語(期)一会

一期一会とは辞書的な意味でしかわからない。茶道や禅などの精神世界における人との出会いの際の心の持ち方や心がけのことを言うのだと理解しているが、実際にそういう精神になったことがない。
 ぼくなりに、解釈するならば、突き詰めていうと、人の出会いは刹那の出会い、瞬間の出会いとでも、いえばよいのだろうか。要するに後はないのだからベストを尽くして応接すべしということになる。

 人生の出会いというものは、人は同じ状態で、相間見えることは文字どおり、一回しかない。2回以上の出会いもあるが、厳密に言うならば、限りなく似た人が同一人物だと錯覚することが前提となる。
最初の出会いとまったく同じ状態で何回も出会うことは不可能である。

 時々刻々、移りかわる人間の姿は、一瞬たりとも留まるところも知らない。常に流れ、移り変わっている。留まるところがない限り、同じものと言うわけにはいかない。
 その一瞬が、たった一回きりの出会いというものである。だから、人は出会いそのものを大切にしてもてなすことが、必要であり、たとえこの出会いが、後々禍の元となり、尾を引いたとしても、人生の出会いというのは、瞬間、刹那の出来事でそれなりの重みのあるものだ。

一期一会という言葉について、思い出すことがある。
ずいぶん昔の話だが、ひとりで千葉県にある姥山遺跡の見学をしたことがある。船橋の近くなんだが、地理については、詳しくないので、バスで、偶然前の席に座った、若い女性に地理の案内を乞うた。歴史上有名な場所だけれど、一般人にとっては、遺跡は、たとえとなりにあるものでも、公園という程度の認識でしか知らない人が多かった。

 彼女は、遺跡に、興味や関心があるらしく、目を輝かせながら案内をしてくれた。道順を聞いたので、あとはひとりで訪ね行けば、良いので、ほんのちょっとの間の出会いで、そのまま別れた。彼女は、別れしな「一期一会ですね」いう言葉を残して、街の中に消えた。

 僕は、共通の話題で、ここまで気分が盛り上がったので、このまま別れるのはとても残念で、彼女が残した言葉「一期一会」を何回も心の中で繰り返した。今から、思うに、たぶんどこかの大学院で歴史を学んでいる学生だろうと思う。

 話は変わるが、僕にとっては一期一会は一語一会のほうが身近である。文章の中でもっともふさわしい一つの言葉には、1回きりしか出会わないという意味である。特段こだわっているわけではないが、文章を書いているときに、筆に乗って出てくる言葉のほかに、急に頭をよぎる言葉がある。文章を書くときには、できるだけ、流れや表現に沿って適切だと思われる語を使うのが当然である。
 
 そういう語やフレーズは、ふっと現れて、あっという間に、消えてしまう。そしていったんのがしてしまうと、再び思い出して捕まえることは難しい。そういう語やフレーズと死闘を繰り返しながら、積み重なって、文章は完成されていく。

 筆の先に乗ってくる語は、文章の中に、パズルの様に、うまく、パシパシッとハマっていくそのときの快感は、心が踊る思いであるが、この一語に、出会えない時には胃が痛くなるような思いがする。そして、筆はそこまででとまってしまう。

 心を見つめながら一語を捕まえる場合、そこには何か禅や茶道の精神の奥義に通ずる基本原則があるような気がしてならない。
真剣に取り組んでいないとスルット身をかわして一期一会の精神からかけ離れて逃げていくような思いがするのである。

 お化け物語6-54

2013年06月02日 | Weblog
 お化け物語
首相公邸に幽霊が出るという森元首相の体験談をテレビで見た。似た様な体験があるのでそれを書いてみる。

がちゃ、がちゃ、がちゃ、がちゃーん。
 
食器棚がひっくり返って、かなりの数の茶碗が割れるような音だ。
 ぎゃおー  ギャオー 、ウウウー   わー、ぎゃおー
猫とも虎ともはっきりしないが、野獣のうなり声だった。とにかくものすごい音がして眼が覚めた。
 はっと身を半分、布団の上に起こして、入り口の方を見ると、ふすまに片手をかけてオンナが立っている。ものすごい形相だ。噴火山のように怒りで髪の毛は逆立っている。顔は赤い。
ほんの一瞬だが、僕と眼があった。それからにらみ合いが始まったのだが、彼女はすうーっと静かに姿を消した。彼女は十二単衣のように着物を何枚も重ね着していて、一番上は白の羽二重の打ち掛けみたいな着物だった。

 夢か。僕は頭に手をやって、いましがたの出来事を頭の中で反芻した。
本当に夢なのだろうか、現実なのだろうか、両者の判別は30年を経た今でもはっきりしない。しかし半身を起こして確認したのだから、決して夢ではないと信じている。
布団の上に身を横たえて天井を見ながら、夢の続きを見ていたのとは訳が違う。

 本拠地は大阪にあったが、仕事の関係で東京にはよく出張した。仕事先への交通の便を考えて僕は四谷に定宿をとった。
 交通の便利が良いにもかかわらず、辻が一ッ本、路地の奥へ入っていたので、不思議にも、信じられないくらい静かだった。
女将は典型的な江戸っ子で、気っ風がよく、そのちゃきちゃきの歯切れ良さが、僕の気性にマッチして、いつのまにか、したしく口を利く間柄になった。
 
四谷と言えば四谷怪談が有名で、たいていの人は内容の中身は詳しくないにしても、四谷の地名くらいは知っている。
東京に詳しくない僕は、気安くなった女将に四谷にかこつけて、四谷怪談の事について話を差し向けたことがあった。彼女は独断偏見もいいところで、物語を聞かせてくれた。
 
 あらすじはこんな事になろうか。
江戸時代の話。この四谷に、この物語のネタになった事件が実際に起こった。
おとなしい一人の女のもとへ養子がきたが、こいつが性悪な奴で、妻になった女をいじめたおし、挙げ句の果ては、その女房を毒殺する。その後、妻は怨念の固まりとなって、幽霊という姿をとってこの夫に復讐をするというストリーである。

因果応報説がそれなりに定着していた江戸時代だけでなく、いつの時代にも、程度の差こそあれ、こういう話は実際に起こっていることだ。
現代ならもっとえげつない事件だって新聞やテレビで報道されている。
 どうしたことか、人間関係の中では、すべからく、どんなに意を尽くしたところで、どこかにおいて、行き違いが生じる事が多く、これは人間がこの世にいる限り、起こる事だから今後もこの種の事件は絶えることが無く、発生するものと思われる。
 ずいぶんひどい奴もいるもんだ。こんな奴にひっかっかって犠牲になったら、お岩さんだけでなく俺だって、この世に幽霊となった現れて復讐の鬼になってやる。
僕は義憤に似たものを感じながら、こうつぶやいた。

 話は話として、ある日、僕は四谷怪談に付いて考えてみた。鶴屋南北がこの物語を創作するに至った経緯をさぐると、この物語りの筋書きには、何がしかのネタがあるはずだ。そのネタが怪談のストーリーと、どのくらいの関係を持つものか。発生した事件そのものを、忠実に再現したものか、あるいは作者が考え出した虚構であるか、いずれにせよ、全く空の状態から、すなわち根も葉もないところから、この作品がわき出たものでないことは確かである。原型はどんな形にせよ、あったはずだ。この作品と一致するような事件が起こっていたかもしれないし、これに似たようなような事件が起こって、それをヒントに脚色したのかもしれない。

 いずれにせよ、男と女の悲しい物語があったのだ。それはなにも昔に限ったことではない。今の世の中でも起こりうる事件だし、事実たぶん起こっていることだろう。ただし四谷怪談を地で行くような形ではなくて、本質は同じでも現代流にアレンジされてはいるだろうが。

                 女の幽霊
 
この村にある墓地が削られて道路になってから、幽霊が出る、という地元の報道が割に頻繁に流れた。僕はこの道路を何回も通ったことがあり、知っているだけに、この報道に吸い込まれた。
 
時節は忘れた。梅雨の頃だったかもしれないし、秋雨前線が居座るころだったかもしれない。ある日、このうわさを聞きつけて、東京から取材に来たテレビ局は中継 車をだして、夜ライト照らしてその現場を撮影し放映した。墓の横の細い道に中継車を乗り入れて、地面には筵がしかれ、そこでは霊能者が待機していた。当日は雨だった。が、いよいよ中継がはじまった。僕は食い入るようにテレビに釘付けになった。レポーターは女性で、しかもうら若い、ちょっと気の弱そうな人だった。傘も差さずに髪の毛を濡らしながら、幽霊出没のその場所を右手で指さしていたが、表情は恐怖感が一杯で見ていて、気の毒だった。出るとマークされたところは、墓と道路が接している所なのだが、声もひきつっていたし、第一、指し示す指がわなわなとふるえていた、同時にマイクを持つ手もまたふるえていた。あれは演技では出来ないふるえかただ。彼女は余程こわがっていたのだろう。
 それに加えて、途中で電源が切れるというハプニングもあった。
一瞬真っ暗闇、演出かと勘ぐったが、場面はすぐ切り替わったものの、それは原因不明の停電であった。事後の解説では、起こり得ない故障、ということでミステリーにされた。
 やがてその場所の撮影並びに放映は済んだが、次は幽霊と霊能者の話が始まった。
 再現してみるとこうなる。
アナウンサー「今はどうなってますか。」
霊能者「はい。今ここへ来ておられます。」
アナウンサー「では聞いて下さい。なぜこんな所に、夜な夜な現れて来るのか。一体何が言いたいのか。その辺の所をしっかり聞いて下さい。」
 
 霊能者と幽霊の会話が始まった。逐一霊能者はアナウンサーに会話の内容を伝えている。
幽霊「私は本来、この土地の人間ではありません。東京で散髪屋をしていました。主人は戦争にとられ、技術のない私は主人の商売を引き継ぐ事もできず、また空襲があって、疎開しなくてはならず、縁者を求めたが誰もおらず、縁もゆかりもないここまでやってきました。当時私には乳飲み子と幼い女の子がいて、背中に子供を負いながら、もう一人の子供の手を引いてここまでやってきました。女の子は栄養失調であるにも拘わらず、食事も満足に与えることが出来ず、ここへ来るまでに死にました。
葬式もしてやれず、山の墓地に隠すようにしてほってきました。それから、ここ迄たどり着きましたが、親類縁者など知り合いはなく、誰も助けてくれる人もなく、食べるものも本当になくなってしまいました。背中の子もどんなにかお腹を空かしていたことでしょう、お乳をほしがってずいぶん泣きましたが、私が何も食べていないから、乳も出ません。そしてついにその時が来ました。まず子供が死んだのです。子供は二人とも死んでしまいました。この時点で私は自分がもうダメだと言うことを悟りました。
背中の子供が死んだとき、今ここの墓地に捨てるより他に方法が無かったのです。そして私もここで倒れました。それからのことは、はっきりしませんが、たぶんこの村の方が私たち親子の事に気がつかれ、この墓地の隅っこに葬ってくれたのでしょう。」

霊能者「おうおう、そうでしたか。お気の毒に。そしたらお子たちと二人はここにおられて、もう一人の子供はどこかわからないのですね。大変だったのですね。ご同情申しあげます。  
それでお尋ねしますが、いまどうしてあげたらよいのでしょうか。
出来ることはさせていただきますので、何なりとおっしゃっていただけますか。」

幽霊「話の分かるよいお方と巡り会いました。幸運です。これがもっと早く巡りあっていたら、こんなことにはなっていなかったでしょうに。 縁がなかったのですね。
 さて本題に入りますが、近頃私の上を人やら車やらがひっきりなしに通り、気の休まる事がありません。もともと生前にも、信心気は全然なかったもんだから、今私がいる世界から抜け出ることができません。いま私は地獄だか極楽だか知らないが、とにかく苦しい苦しい所に閉じこめられているのです。この苦しみから逃れたいために私は今回のように皆さんに知ってもらおうと必死になって、姿形をとったのです。迷惑は十分承知していますが、人の迷惑に考えが及ばないほど苦しんでいるのです。そこでお願いですが、私をこの苦しみから助けると思って力を貸して下さい。

 一つは小さい石の地蔵さんを彫って、さっきあのリポーターが立っていた付近に建てて下さい。そしてもう一つは、徳の高いお坊さんに21日の間、ありがたいお経を供えてもらいたいということです。こうすることによって私の苦しみは大分軽減する事でしょう。もし生前にこんな事を知っていたなら出来るだけのことはしたでしょうに。何も訳が分からなくて、こちらの世界の方には丸で無関心。だからなんの徳も積んでいません。
 まことに手前勝手なお願いかもしれませんが、どうぞよろしくお願いします。どうか私を助けてください。」

「ああ、ああ。わかりました。わかりました。地蔵さんの件とお経の件でしたね。必ずやりますのでどうか安心して下さい。」
 話はここで終わった。そして姿をすーうと消したと霊能者はアナウンサーに話した。いやとぎれたと言うべきかもしれない。本当は子供のことなど、もっとしゃべりたかったに違いない。ここまでやってくる途中で亡くなって、みもしらずの墓地に捨ててきた子供のことや、ここで飢え死にした幼子のことについてきっとしゃべりたかったことだろう。だが彼女が姿を消したことによってそれらのことは永遠の闇の中に消えた。

 こう言うことを自分が体験したり、見聞したりするに及んで、僕は自分なりのある仮説を立てるようになった。
 肉体的存在である人間は、一方では魂の存在でもある。そして肉体は滅びても霊魂は不滅なのである。そこで霊魂があまりにも傷つくような、苦しい目にあうと、他に救助を求めて何らかのサインを現世の人に送る必要がある。しかも人に何らかの強烈な印象を与える為には尋常の事ではダメである。
つまり効果のある事をしなくてなならない。そのためには人を驚かせたり、こわがらせたり、することである。すなわち、蔭だけのような幽霊に姿を変えて、人々にうったえるのである。
 
四谷のお化けの話も、今回のこの話も、源はそこから始まる。
この世で何らかの事情で怨念を持ったまま、この世を去った人たちは、現世の人々の力を借りて苦しみを解き放とうとしている。そのためには幽霊という姿形をとらざるを得ない、と言うのが実態みたいである。
 話はそれたが、僕が四谷でみたあの女の幽霊は、僕には何も要求してこなかった。
ひょっとしたら姿だけ見せれば、僕のことだから何の催促かと考えてくれるだろうと思って、あえて何も言わなかったのかもしれない。だから、目と目が合うところまでで、それはそれっきりになったのだろう。

 彼女は具体的には何を僕に訴えたかったのか、わからないので、僕としても手の打ちようがない。そう言うわけで30年も昔のことだけど、未だにペンデイングになっているのである。