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【心 de 経営】 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて 第134段 高倉院の法華堂の三昧僧

2024-10-17 12:21:00 | 【心 de 経営】 徒然草に学ぶ
■【心 de 経営】 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて 第134段 高倉院の法華堂の三昧僧 
  「徒然草(つれづれぐさ)」は、吉田兼好による随筆集の冒頭の文章です。作者は、兼好であるという明確な証拠はないようです。おそらく大半の方が、何らかの形で、この文章に接しているのではないでしょうか。
 徒然草といいますのは、清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』とならび日本三大随筆の一つといわれています。
  高校生時代に戻った気分で、また、社会人として人生を歩み、自分の高校時代には理解できなかったり、誤解していたりすることを発見しながら、独断と偏見に満ちた、我流の解釈を僭越ながらお付けしました。
 徒然なるままに、日暮パソコンに向かいて、よしなしごとを、そこはかとなく書き付けてまいります。
 お届けも、徒然なるままにアップロードしますので、読者の皆様も、日暮パソコンに向かいて、末永く、徒然にご覧下さるよう、お願いします。
◆第134段 高倉院の法華堂の三昧僧
 「自分自身を知る」ことを兼好は説いています。
 自分の弱みを知り、それを補い、強みを活かしていくという生き方を熟考する契機となる段と考えます。
 それにしましても、「好ましくないこと」に対する兼好の指摘は厳しいですし、読む人の背筋をピンと伸ばさせるような何かを感じ取らせてくれますね。
【原文】 高倉院の法華堂の三昧僧
 高倉院の法華堂の三昧僧、なにがしの律師とかやいふもの、ある時、鏡を取りて顔をつくづくと見て、我がかたちのみにくく、浅ましきことを余りに心うく覚えて、鏡さへうとましき心地しければ、その後長く鏡を恐れて手にだに取らず、更に人にまじはる事なし。

 御堂のつとめばかりにあひて、籠り居たりと聞き侍りしこそ、ありがたく覚えしか。

 賢げなる人も、人の上をのみはかりて、おのれをば知らざるなり。我を知らずして、外を知るといふ理(ことわり)あるべからず。

 されば、おのれを知るを、物知れる人といふべし。

 かたちみにくけれども知らず、心の愚かなるをも知らず、芸の拙きをも知らず、数ならぬをも知らず、年の老いぬるをも知らず、病の冒すをも知らず、死の近き事をも知らず、行ふ道のいたらざるをも知らず。

 身の上の非を知らねば、まして外の譏(そし)りを知らず。
 但(ただ)し、かたちは鏡に見ゆ。
 年は数へて知る。
 我が身のこと知らぬにはあらねど、すべき方のなければ、知らぬに似たりとぞ言はまし。

 かたちを改め、齢(よわい)を若くせよとにはあらず。
 拙きを知らば、なんぞやがて退かざる。
 老いぬと知らば、なんぞ閑(しづか)に身を安くせざる。
 行いおろかなりと知らば、なんぞ茲(これ)を念(おも)ふこと茲にあらざる。

 すべて、人に愛楽(あいぎょう)せられずして衆(しゅう)にまじはるは恥なり。かたちみにくく、心おくれにして出で仕へ、無智にして大才(たいさい)に交り、不堪(ふかん)の座に列(つらな)り、雪の頭(かしら)を頂きて盛りなる人にならび、況んや、及ばざる事を望み、かなはぬ事を憂へ、来らざることを待ち、人に恐れ、人に媚ぶるは、人の与ふる恥にあらず、貪る心にひかれて、自ら身をはづかしむるなり。
 貪る事のやまざるは、命を終ふる大事、今ここに来れりと、たしかにしらざればなり。

【用語】
 高倉院の法華堂: 洛東東山区清閑寺の法華三昧堂(さんまいどう) 高倉院は第80代天皇で清閑寺に葬られています。
 三昧僧(さんまいそう): 三昧(専念・専心により心を集中し雑念のないこと)をする三昧堂に住んで念仏などの勤めをする修行僧
 律師: 僧正・僧都につぐ位の僧官名
 浅ましきこと: あきれるほどひどいこと
 うとましき心地: 厭(いと)わしい気持ち
 更に~ない: 否定語を伴って「まったく無い」という意
 御堂のつとめ: 法華三昧堂で法華経の読経などに専心するおつとめ
 あひて: 参加して

 行う道: 仏道の修行
 すべき方: 対応策、何をなすべきかの方法

 愛楽(あいげう:あいぎょう): 愛し好かれる 楽:好むことを行う
 衆: たくさんの人々
 心おくれ: 心が劣っている、思慮が足りない
 出で仕ふ: 仕官する
 大才(たいさい): 博識な人
 堪能: 諸芸に通じている
 不堪: 堪能の逆意、拙く下手な
 恥: 無能である醜態
 貪(むさぼ)る心: 貪欲な心
 はづかしむ: 恥ずかしくする
 命を終ふる大事: 死
【要旨】
 高倉院の法華堂でお勤めをしている三昧僧で、○○律師という人がいて、ある時、鏡を持ち、自分の顔をつくづくと見たそうです。自分の容貌があまりにも醜く、あきれるほどであることをあまりにも情けなく、その醜さを映す鏡さえも疎く思え、その後、ずっと鏡を恐れ、手に取ることもせず、人との交流も避けていました。

 法華堂でとり行われるお勤めだけに参加して、あとは自分の坊に引きこもっていたと聞きましたのは、滅多にない心掛けだと思いました。

 賢そうに見える人も、人の身の上ばかりを推し量ったりしますが、自分のこととなりますと意外とわかっていないのです。自分すらわかりませんのに、他を知るという道理がなりたつはずはありません。

 もし、それが正しいことだというのであるのでしたら、自分を知っている人のことを、物を知っている人といってよいのではないでしょうか。

 容貌が醜いのに見にくいことを理解できなかったり、心が愚かであることも知からなかったり、芸の拙(つたな)いのもわかっていなかったり、自分の身分が取るに足らないことをわかっていなかったり、自分が年をとって老いていることも知らなかったり、病が体を冒していることにも気がつかなかったり、自分の死が近いことも知らなかったり、自分の修行が不十分で、最後にまで至っていないことにも気がつかなかったりと、自分のことがわかっていないのです。

 自分の欠点を知らなかったりするならば、他人からの非難がなされていることすら知らないでしょう。
 しかし、容貌は鏡を見れば映し出されます。
 年は、数えればわかります。
 すなわち自分のことを知らないわけではないのですけれど、たとえ自分を叱咤からといって、対応策があるわけでありません。ソナ和知たとえ、その様にして自分を知ることができたとしましても、実は、自分自身のことを知らないのに等しいといえるかも知れません。

 このような人達に、容貌を良くし、若作りしろといいたい訳ではありません。
 自分の拙(つた)なさを認識できたのなら、どうしてすぐに引退しないのでしょうか。
 自分が年老いたことがわかれば、なぜ静かにして身を安静にしないのでしょうか。
 修行が不十分であるとわかったならば、どうしてこれを、他人事ではなく、自分自身の問題として反省しないのでしょうか。

 すべてにおいて、人に可愛がられることがなければ、多くの人と交わるのは恥ずかしいことです。
 容貌が醜く、思慮が足りないのもかかわらず出仕したり、無智であるにもかかわらず学問才能の博識な人をいわれる人と交わったり、芸が拙いにもかかわらず芸達者な人たちの座に連なったり、雪のような白髪頭で壮健なる人と肩を並べたり、ましてや、力量不足で及びもしないことを望んで、それを実現できなからといって嘆いたり、来ないことを待ち続けたり、ほかの人に気兼ねをしたり、人に媚びたりすることは、他人が与える恥ではなく、自分自身の貪欲さに起因しているのであって、それらはみな、自分自身を辱めているのに過ぎないのです。
 このように、貪(むさぼ)ることが止まないのは、命を終えるという大事が、今すぐそこに来ていると、実感としてわかっていないからなのです。
【 コメント 】
 専念・専心により心を集中し雑念のないことをするという、念仏などのお勤めをする修行僧である三昧僧が、鏡に映る自分の写像を見て、その醜さを憂いたというお話です。三昧僧のように、修行中の身とはいえ、私達から見ますと賢そうに見える人でも、その容姿が気になり、引きこもりまで行うのでしょうか。
 兼好は、このお話で、世俗を離れた修行僧の、この行いそのものを責めているのではなく、その根底に流れている考え方、物の見方を指摘しているのであろうと思います。
 また、契機をつかめますと、自分自身の生き方に対して反省する機会となりますので、その契機を的確につかむ必要性を説いているように思えます。

 僧たる者、いかにあるべきかを示し、自分自身の置かれている立場を理解していないという、基本的なことに過ちがあることを指摘しているのだろうと考えます。それを「自分の欠点に気がついていない」というように、私達にわかりやすく表現してくれています。
 では、その「欠点をわきまえないで行動をしている」というのは、何が原因なのでしょうか。兼好は、「心が貪欲だからであり、その貪欲を止められないのは、無常を知らないからである」といっています。

 この段で、私が考えさせられましたのは、兼好の指摘とはズレているかも知れませんが、経営コンサルタント業に成功している先生と、そうでない先生との違いが何かということです。
 ある有能な経営コンサルタントの先生です。
 広い分野に、広い知識を持っているのですが、経営コンサルタントとしての実績を中々上げられないでいます。「一芸にひいずる者は多芸に通ず」というがごとく、その先生は、いろいろなことができますので、いろいろなことに興味や関心が行ってしまいます。
 それらに熱意を込めて取り組むのですが、取り組んだ分野を専門としている経営コンサルタントを超えるまでには行かず、苦戦をし、結果として顧問契約が持続できないでいるのです。
 逆に、元気に活躍している経営コンサルタントを見ますと、自分の専門性を活かし、その分野に特化した形でクライアント開拓に切り込んでゆきます。その上で、関連分野のアドバイスや支援をするようにして、一つのクライアントにおきます、経営コンサルタントとして、自分の立ち位置を拡げてゆきます。
 それが成果となりますと、そのクライアントが新しいクライアントを紹介してくれるのです。
 前者のような経営コンサルタントは、「器用貧乏型」といえましょうか。後者のような先生を「一点集中切り込み型」とか「ランチェスター弱者の戦略型」と呼ぶようにしています。
 この知見から、若手コンサルタントには、「専門分野を明確にし、それを武器にしてクライアント開拓をせよ」とアドバイスをするようにしています。
 すなわち、当段で兼好が言いたい「自分自身を知らなさすぎる」ということを逆手にとって、自分の強みを知り、それを武器にしていくことが、成功への道なのではないかと私は考えます。
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