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■【きょうの人】 0522 相馬 哲平 日本の実業家、政治家、貴族院議員、北海道の多額納税者のひとり

2021-05-22 08:46:00 | 【話材】 きょうの人05月

■【きょうの人】 0522 相馬 哲平 日本の実業家、政治家、貴族院議員、北海道の多額納税者のひとり

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

■ 相馬 哲平(そうま てっぺい)

 初代相馬哲平は、1833年6月22日(天保4年5月5日に生まれ、1921年(大正10年)6月6日)に歿しています。

 日本の実業家、政治家、貴族院多額納税者議員で、北海道の多額納税者のひとりです。

 函館貯蓄銀行頭取、相馬合名代表社員等、北海道屈指の豪商で、箱館の発展に寄与しました。

  写真 函館・相馬邸
  http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/hokkaido/hokkaido-hakodate-motomachi2.htm

 

 

◆ バックナンバー

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

 

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■【きょうの人】 0521 ■ 孫 権  三国時代の呉の初代皇帝 ■貞慶 鎌倉時代前期の法相宗の僧  ■ 真宗本派親鸞聖人誕生会

2021-05-21 08:46:00 | 【話材】 きょうの人05月

■【きょうの人】 0521 ■ 孫 権  三国時代の呉の初代皇帝 ■貞慶 鎌倉時代前期の法相宗の僧  ■ 真宗本派親鸞聖人誕生会

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

■ 貞慶 鎌倉時代前期の法相宗の僧

 じょうけい
 久寿2年5月21日(1155年6月22日)- 建暦3年2月3日(1213年2月24日))
 号は解脱房 勅謚号は解脱上人 一般に笠置の解脱上人と呼ばれます。

 11歳で出家し、「貞慶」と名乗りました。
 鎌倉時代前期の法相宗の僧であり、祖父は藤原南家の藤原通憲(信西)、父は左少弁藤原貞憲です。

 法相宗を興福寺に学び、20年余そこで過ごしました。

 釈迦如来、弥勒菩薩、観音菩薩、春日明神を深く信仰し、戒律の復興に努め、法相教学の確立に大きな役割を果たしました。

 その一方で朝廷の信任も厚く、勧進僧と力を合わせ、由緒ある寺社の復興にも大きく貢献してきました。また、興福寺奏状の起草者として、興福寺の衆徒が法然らの提唱した専修念仏の禁止を求めて朝廷に奏上しました。(【Wikipedia】を基に作成)

■ 真宗本派親鸞聖人誕生会

 しんらん
  旧暦     承安3年4月1日 - 弘長2年11月28日
  ユリウス暦  1173年5月14日 - 1263年1月9日
  グレゴリオ暦 1173年5月21日 - 1263年1月16日

 浄土真宗の開祖「親鸞(しんらん」は、鎌倉時代承安3年4月1日に京都市伏見区日野に生誕しました。

 現在の新暦では、5月21日にあたることから、この日に誕生会(たんじょうえ)の儀式が行われます。

「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという浄土宗の開祖と仰がれた法然を師と仰いでいました。

 その教えを継承し、さらに高めて行くことに力を注いだといわれています。

 独自の寺院を持つ事はせず、各地に簡素な念仏道場を設けて教化する形をとりました。

 親鸞に関する文書がほとんどないことから、その生涯は不明確なことが多く、史実か伝説か判別できないのです。



■ 孫 権  三国時代の呉の初代皇帝

 そん けん
 光和5年(182年)-神鳳元年4月26日(252年5月21日)

 三国時代の呉の初代皇帝で、字は仲謀です。

 張昭に師傅の礼を執り、父や兄から引き継いだ家臣の周瑜・程普・呂範らをまとめあげて、積極的な人材登用を行います。その巧みな人心掌握術で家臣の心を掴んで、内政を整え、巧みな内政手腕を発揮して治めました。

 有名な赤壁の戦いは、後漢末期の208年、長江の赤壁において起こりました、曹操軍と孫権・劉備連合軍の間で行われました。

 宿敵・劉備は荊州南部の武陵・長沙・桂陽・零陵の四郡を併合して、着々と地固めをしています。

 もう一人の宿敵曹操は、劉備にも救援を要請して、孫権を責めることを提案しましたが、劉備は拒絶します。

 このようにして、三者三すくみとなり、三国時代、すなわち三国鼎立の時代になるのです。

 小説『三国志演義』では、孫権を表して「碧眼紫髯 堂堂一表」と堂々とした風采の持ち主として描写されています。巷では「碧眼児」(青瞳の童)と呼ばれました。

 度量が広く、柔軟な物腰ともいわれ、質素倹約を好んだそうです。

 三国の三人は、それぞれ個性があり、人により評価は異なりますが、劉備が評価されがちで、孫権は悪く言われる傾向があるように思えます。

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■【きょうの人】 0520 貞慶 法相教学の確立に大きな役割を果たす

2021-05-20 08:46:00 | 【話材】 きょうの人05月

■【きょうの人】 0520 貞慶 法相教学の確立に大きな役割を果たす

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 貞慶 法相教学の確立に大きな役割を果たす

 じょうけい
 久寿2年5月21日(1155年6月22日)- 建暦3年2月3日(1213年2月24日))
 号は解脱房 勅謚号は解脱上人 一般に笠置の解脱上人と呼ばれます。

 11歳で出家し、「貞慶」と名乗りました。
 鎌倉時代前期の法相宗の僧であり、祖父は藤原南家の藤原通憲(信西)、父は左少弁藤原貞憲です。

 法相宗を興福寺に学び、20年余そこで過ごしました。

 釈迦如来、弥勒菩薩、観音菩薩、春日明神を深く信仰し、戒律の復興に努め、法相教学の確立に大きな役割を果たしました。

 その一方で朝廷の信任も厚く、勧進僧と力を合わせ、由緒ある寺社の復興にも大きく貢献してきました。また、興福寺奏状の起草者として、興福寺の衆徒が法然らの提唱した専修念仏の禁止を求めて朝廷に奏上しました。(【Wikipedia】を基に作成)

 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

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◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。

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【あたりまえ経営のすすめ】 ユーチューブで学ぶ経営 経営資源の良質化が企業を拡大スパイラルに繋げる B515

2021-05-20 07:12:46 | 【経営】 ユーチューブで学ぶ元気な経営者になる法

【あたりまえ経営のすすめ】 経営資源の良質化が企業を拡大スパイラルに繋げる B515

「あたり前のことがあたり前にできる」ことの重要性を理解できていても、どのように進めたら良いのかわからないことが多いです。
40年余の経営コンサルティング経験をもとに、やさしくご紹介します。
「経営資源」という言葉をしばしば見聞しますが、なぜそうなのかを再考すると経営が見えてきます

https://youtu.be/dXf35qyYARI

  ↑ クリック

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■【きょうの人】 0519 ■今川 義元 桶狭間は知っていても海道一の弓取り名人は? ■隠元隆琦 明末清初の禅宗の僧で、日本黄檗宗の祖

2021-05-19 08:46:00 | 【話材】 きょうの人05月

■【きょうの人】 0519 ■今川 義元 桶狭間は知っていても海道一の弓取り名人は? ■隠元隆琦 明末清初の禅宗の僧で、日本黄檗宗の祖

 気になる人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

■ 隠元隆琦 明末清初の禅宗の僧で、日本黄檗宗の祖

 隠元隆琦(いんげん りゅうき)
 万暦20年・文禄元年11月4日〈1592年12月7日〉-寛文13年4月3日〈1673年5月19日〉
 特諡として大光普照国師、仏慈広鑑国師、径山首出国師、覚性円明国師
 勅賜として真空大師、華光大師、

 明末清初の禅宗の僧で、日本黄檗宗の祖です。隠元自身は、「臨済正宗」と称していたそうです。

 独特の威儀を持ち、禅とさまざまな教えを兼ね併せる、当時の「禅浄双修」の念仏禅や、「禅密双修」の陀羅尼禅を特徴とする明朝の禅である「明禅」を日本に伝えました。

 また、道者超元と共に当時の禅宗界に多大な影響を与え、江戸時代における臨済・曹洞の二宗の戒律復興運動等にも大きな貢献をしました。

 明代の書をはじめとして当時の中国における文化や文物をも伝えています。隠元豆の名称に名を残していることは広く知られています。

 日本における煎茶道の開祖ともいわれていますし、能書家としても知られ、木庵性とう、即非如一とともに「黄檗の三筆」といわれるほどです。

 承応年には江戸で将軍家綱に拝謁し、後に宇治に地を与えられ万福寺を建てました。

 

■ 今川 義元 桶狭間は知っていても海道一の弓取り名人は?

 いまがわ よしもと
 永正16年(1519年)-永禄3年5月19日(1560年6月12日)

 戦国時代の駿河国及び遠江国の守護大名・戦国大名で、今川氏第11代当主です。義元の姉妹が、政略結婚していますので、武田信玄や北条氏康とは義理の兄弟にあたります。「海道一の弓取り」の異名を持つ東海道の広大な地域の支配者でした。

 寄親・寄子制度という合理的な軍事改革等により、たくみな領国経営をしていました。また、外征面でも才覚を発揮して、今川氏を戦国大名へと転身させました。

 所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで領土を拡大させたのです。

 戦国時代における今川家の最盛期を築き上げ、一方で、京都志向が強く、都の雅な文化を取り入れていたことも知られています。

 桶狭間の戦いで大群を引き連れていたにもかかわらず、織田信長軍の奇襲戦に敗れたことは、あまりにも有名です。毛利良勝(新助)に討ち取られて、その生涯を閉じました。

 

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■【きょうの人】 0518 ■道了(妙覚道了)曹洞宗・修験道の僧 ■感誉上人 増上寺の第10代法主

2021-05-18 08:46:00 | 【話材】 きょうの人05月

■【きょうの人】 0518 ■道了(妙覚道了)曹洞宗・修験道の僧 ■感誉上人 増上寺の第10代法主

 気になる人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

■ 道了(妙覚道了) 曹洞宗・修験道の僧

 みょうかくどうりょう
 生没不詳

 室町時代前期の曹洞宗・修験道の僧で、妙覚は字です。出生地などについては不詳です。道了大権現・道了薩埵・道了大薩埵・道了尊などとも称されます。

 1394年(応永元年)曹洞宗の僧了庵慧明が、最乗寺を開創しますと、慧明の弟子でありました道了は、その怪力により寺の創建に助力しました。

 師の没後は寺門守護と衆生救済を誓って神通力により小天狗となって空高く消えていったと伝えられ、相州南足柄・曹洞宗最乗寺の守護神として妙覚宝殿に祀られています。

 道了大菩埵と尊崇され、最乗寺境内に、小天狗の狐に乗った像も祀られています。

 関東屈指の霊場の一つとして、庶民の間でも信仰を集めて講が結成されたり、また、江戸の両国などで出開帳が行われたりしました。



■ 感誉上人(感誉存貞) 増上寺の第10代法主

 かんよぞんてい
 1522年(大永2年)3月-1574年6月7日(天正2年5月18日)

 室町時代の浄土宗の僧で、増上寺の第10代法主となり、檀林の掟制三十三条を定めた他、大長寺など、各地に浄土宗の寺院を建立しました。

 感誉存貞は、後北条氏重臣、大道寺政繁の甥で小田原に生まれました。

 小田原の伝長寺で出家した後、弘経寺で修行し、修行後は、小田原に戻り伝肇寺の住職となりました。

 感誉存貞は北条一族の信仰を集め、1548年(天文17年)には、北条綱成の開基により、東郡岩瀬村(現在の鎌倉市岩瀬)に、大長寺を建立しました。

 翌1549年(天文18年)には大道寺政繁の母、「蓮馨」の開基により、川越に蓮馨寺を建立するなど多数の寺を開きました。

 1563年(永禄6年)、増上寺に移り法主となり、増上寺では檀林の整備を行いました。3年後、増上寺の法主を大長寺二代目住職雲誉円也に譲り、その後は、地方を放浪し、1574年(天正2年)に大長寺へ戻り、同年5月18日に黄泉の国に行きました。

 

 

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■【きょうの人】 0517  臨済 臨済宗の開祖、中国・曹州南華県(山東省)出身

2021-05-17 06:33:00 | 【話材】 きょうの人05月

■【きょうの人】 0517  臨済 臨済宗の開祖、中国・曹州南華県(山東省)出身

 気になる人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

 臨済 臨済宗の開祖、中国・曹州南華県(山東省)出身

 臨済義玄(りんざい ぎげん、諡号:慧照禅師)
 ?-867年

 中国唐の禅僧で、臨済宗の開祖。曹州南華県(山東省)出身

 深く仏教を好み、諸方に遊び博く、経論を探り、最も戒律を究めた人です。

 彼の言行は、弟子の三聖慧然によって「臨済録」としてまとめられています。


「語録の王」というあだ名がつくほど、いろいろな言葉を残しているようです。

 人の上に立つ人や経営コンサルタントなど、変革を定着させ、企業の成長を願う人は、「口癖を持つ」ということが大切だと考えます。

 私事で恐縮ですが、「ウラを取れ」というのが私の口癖言葉のひとつです。

 物事というのは、多面性を持っています。噂を鵜呑みにして、それを真実だと思い込んでいる人が多いです。

 あるビジネスパーソンが、濡れ衣を着せられ、左遷されることになりました。

 というような話は、三文小説にもよく出てきますが、そのきっかけが根も葉もない噂であったなどというのもざらにあります。

 私達経営コンサルタントは、顧問先の社員さんからヒアリングをし、それを経営アドバイスの材料にすることがあります。

 その中には、フェイクもあれば、推量もあり、その人の個人的な見解であることもあります。これらをそのまま判断材料にしては、アドバイスの方向が間違えてしまうことがあります。

 そのために「ウラを取る」とか「現場百遍」という、刑事物語に出て来る言葉を、経営現場で私は使います。

 

 

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■【きょうの人】 0516 呂尚(太公望) 釣り人でなくても知っている人

2021-05-16 08:46:00 | 【話材】 きょうの人05月

■【きょうの人】 0516 呂尚(太公望) 釣り人でなくても知っている人

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

■ 呂尚(太公望)

 

 ょしょう
 生没不詳

 

 紀元前11世紀ごろの古代中国春秋時代・周国の軍師としてしられ、後に、斉の始祖として現在の山東省を中心にした国です。

 呂尚の姓は姜、氏は呂、字は子牙とか牙、諱は尚です。軍事長官である師の職に就いていたことから、「師尚父」とも呼ばれます。

 謚が「太公」であることから、斉太公、姜太公の名でも呼ばれます。

 呂尚は、釣りをよくしていたことから「太公望(たいこうぼう)」と呼ばれ、日本では、釣り好きの人達を表す代名詞として使われます。

 

 呂尚は、後世の兵法と周の権謀術数を論じる人間の尊敬の対象とされています。兵法書『六韜』は、呂尚の著書とされていましたが、『六韜』は後代の人間による著作であることがわかりました。その内容から実際に書かれた時期は、戦国末期以降と考えられています。

 また、このような伝承もあります。

 後秦の王嘉が編集した『拾遺記』に収録されている有名な説話として、呂尚が斉に封ぜられた時に昔別れた妻がよりを戻そうとやってきたときに、これを拒んだという話があります。「覆水盆に返らず」と言ったといいますが、『漢書』に収録された朱買臣の逸話など、中国には、これに類似するエピソードが多く存在することから、この説話の信頼性も確かなものではないようです。(【Wikipedia】を基に作成)

 

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■【きょうの人】 0515  摩訶迦葉 仏教教団で釈迦の後継者 第2祖と呼ばれる

2021-05-15 08:46:00 | 【話材】 きょうの人05月

■【きょうの人】 0515  摩訶迦葉 仏教教団で釈迦の後継者 第2祖と呼ばれる

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

 摩訶迦葉 仏教教団で釈迦の後継(第2祖)

 まかかしょう
 生没不詳

 摩訶迦葉、摩訶迦葉波、迦葉、迦葉波、大迦葉と呼ばれる、釈迦十大弟子の一人です。

 仏教教団で釈迦の後継(第2祖)とされていて、釈迦の死後、初めての結集(第1結集)の座長を務めました。頭陀第一といわれ、衣食住にとらわれず、清貧の修行を行った人として知られています。

 迦葉は古代インドではありふれた名であったといわれ、仏弟子中には三迦葉という三人兄弟や十力迦葉という名前も見受けられるますが、摩訶迦葉とは別人です。

 生い立ち等、伝説が多く、諸説あり、その一つによれば、マガダ国の王舎城付近の摩訶波羅陀(マハーハーダラ)村のバラモンである尼拘律陀羯波(ニグローダ・ゴーパ)の子で、畢鉢羅樹(ピッパラ=菩提樹)の下で生まれましたので、幼名を畢鉢羅耶那(ピッパラヤナ、ピッパリ)といったそうです。

 8歳でバラモンに入門し修行してすべてを得て、さらに出家して求道したいと考えました。

 迦葉は出家してもバラモンの修行をしていましたが、王舎城と那荼陀(ナーダダ)村の間にある一本のニグローダ樹下に坐していた釈迦と出会い、ついに仏弟子となり名前を正式に迦葉と改め竹林精舎に到りました。

 釈迦に入門したとき、すでに32相中、7相を具えていたとされ、8日目に阿羅漢となったと伝えられています。

 

 

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■【きょうの人】 0514 江藤 新平  幕末明治初期の佐賀藩の藩士「佐賀の七賢人」

2021-05-14 08:46:00 | 【話材】 きょうの人05月

■【きょうの人】 0514 江藤 新平  幕末明治初期の佐賀藩の藩士「佐賀の七賢人」

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■ 江藤 新平  幕末明治初期の佐賀藩の藩士「佐賀の七賢人」

 えとう しんぺい
 天保5年2月9日(1834年3月18日)- 明治7年(1874年)4月13日

 幕末から明治時代の日本の佐賀藩士で、政治家です。幼名は恒太郎・又蔵、諱は胤雄・胤風、号は南白です。

 朝臣としての正式な名のりは、平胤雄(たいら の たねお)で、「維新の十傑」、「佐賀の七賢人」の一人に挙げられています。

 文久2年(1862年)に脱藩し、京都で活動し、長州藩士の桂小五郎(木戸孝允)や公家の姉小路公知らとの接触があります。

 15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行って、幕府が消滅した慶応3年(1867年)に、郡目付となりました。

 薩摩藩と長州藩は、公家の岩倉具視と結び、慶応3年12月9日(1868年1月3日)王政復古の大号令を行い、新政府が誕生しますと、佐賀藩も参加し、新平は副島種臣とともに京都に派遣されます。

 戊辰戦争で、江藤は東征大総督府軍監に任命され、土佐藩士の小笠原唯八とともに江戸へ偵察に向かいます。薩摩藩の西郷隆盛と幕臣の勝海舟の会談で江戸開城が決定しますと、江藤は城内の文書類を接収しました。

 京都へ戻り、大木喬任と連名で岩倉具視に対して江戸を東京と改称すべきこと(東京奠都)を献言しました。

 旧幕臣らを中心とする彰義隊が活動していた問題では大村益次郎らとともに討伐を主張し、軍監として上野戦争で戦い、彰義隊勢を寛永寺周辺に追い詰め、さらに佐賀藩のアームストロング砲を遠方射撃する戦術などにより彰義隊は瓦解しました。

 江藤の献言が通って明治天皇が行幸して、江戸は東京と改称されました。

 明治6年(1873年)には、朝鮮出兵を巡る征韓論問題から発展した政変で西郷隆盛・板垣退助等と共に下野(表舞台からおりる)しました。

 佐賀の乱で、江藤は急設された佐賀裁判所で司法省時代の部下であった河野敏鎌によって裁かれ、処刑されました。

 

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