駅の改札に居ます。妙に混雑して前に進めません。時間は朝の6時半。
売り出しの初日なので7時15分には出勤しなければなりません。ぎりぎり間に合う時間です。
改札からホームに進みますがなぜか前に進めません。電車が入って来て扉が開きます。
焦ります。無理やり前に進もうとしますが進めません。目の前で扉は閉まってしまいました。遅刻です。
会社の前まで来ました。時間は7時21分です。
遅刻した言い訳をあれこれ考えながら裏口から中に入ります。
なぜかタイムカードが見当たりません。照明も薄暗く、というか真っ暗のような感じです。
困ったなあと思いながら近くの売り場に入ります。暗く、なぜかガランとしています。
空き箱やゴミなど散乱してます。椅子や陳列棚も捨てられたように転がってます。
部屋の隅で、スポットライトが一個だけ、ぼんやり暗く光ってます。
根元のスイッチをひねって消そうとしますが回しても消えません。
スイッチを回しながら「そうか、もうホワードは潰れたんや・・」と気づきました。
夢はここまで。
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ホワード株式会社は大阪の船場(せんば)心斎橋にあった、
暮らしの衣料を中心とした現金前売り問屋の中堅で、同業に大西衣料や丸光がありました。
最盛期は大阪東京を合わせて社員で300名、パートを入れて400名を超える社員が居ました。
私が入社する数年前までは、臨時ボーナスが何回も出たほど景気が良かったらしい。
同業の大西衣料や丸光がある船場からは、ホワードは少し離れた心斎橋の位置にあり、
現金前売りという業態だと少しばかり分が悪い立地だった。
その分、小売り向けの立地であると言える。
ホワードを辞めた(正確には会社都合退職、つまりクビ)になったのは平成19年(2007年)3月31日。
役員も誰も私の前には来ず、人事担当の課長が「辞めてもらえませんか?」と3月31日の19時過ぎ。
「会社都合なら辞めてやっても良い」と返事して、「自分の荷物は後日分けて運ぶ」と退社した。
当時はお元氣ハウスという屋号で楽天にショップを出していたが、
辞めるのを予測していたので事前に閉店しておいた。直属の部下も居なかった。
ホワードの事業を引き継いだ鈴花(佐賀県本社)の社長だか専務は、
「インターネット事業はどうなったんだ?」と、激高したとあとで聞いた。
私の上司である山内という口先だけの無能な役員は、ほぼ5年間も私の前に顔を出さず、
私が何をどのようにしていたのかも知らなかったはずだ。
そんなこんなでお元氣ハウスは名前を変えて「とんぼ堂」となり現在に至る。
ホワードの夢は退職してから10年間は時々見てた。
場所は東京であったり、大阪であったり、場面は売り場だったり会議の場であったり。
最近見ないなあ・・・と思ってたら今朝の夢。
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東亜特殊電機を辞めて、東京に出てきて、一年間、
早稲田大学ビジネススクール(早稲田大学 大学院経営管理研究科)で勉強し、30才で東京ホワードに入社した。
社長(粕井貫次)の息子という事で、腫れ物に触るかのような、でもしかし
「世間知らずのバカ息子らしい」というイメージは皆に持たれていたように思う。
入社してすぐに「現金前売り問屋の業態はもう駄目だ」ということに気づいた。
今はまだ良いが、近い将来、絶対にダメになると確信した。40年近く前の事だ。30才過ぎだ。
メインのお客である地方の小さ波洋品店に将来性は無いと判断したのだ。
あれやこれやと社長(父親)に言うが相手にしてもらえない。
「まずは自分の部門(子供洋品課)の数字を上げてから言え」と散々に叱られた。
ここの数字は上がらない。もともとファッションなど無縁な人間である。
相談する相手も無く、悶々として腐りきった日々を送っていたのだ。
黙って服従して10年間が過ぎた。少しは意見を言えるようになったのは40才過ぎ、
大阪に転勤になって、やっと経営の仲間入りが出来ると思ったのも束の間、
社長(粕井貫次)は株主(兄弟連合)に潰され社長の座を奪われたのだ。
(名刺では部長という肩書だが給料は減らされ続け、主任レベルにまで下げられた)
そうなると息子である私は居場所は無い。
「お前は苦労知らんから一度苦労してみたら?」と伯父の粕井宏に言われて役員からは外された。
「あんたどれだけ48才の俺の人生知っとるねん?」とは思った。それほど伯父とは接触が無かったのだ。
こうなると誰の助けも無い。何をやっても低評価しか無いのである。
人間関係のいやらしさ、持って行きようの無い怒り、悲しみ、無念さ。
朝5時半に起きて7時過ぎは出社した。
まずは店頭の浮浪者を追い払い、会社の回りのゴミを拾い掃き清めた。
そこそこ大きい敷地である。30分間はかかったであろうか。
時には酔っ払いの吐しゃ物や排泄物も処分して洗い流した。
それから屋上で半時間、木刀の素振りと居合刀による抜刀の稽古。
洗面所で汗を流し、それから仕事にかかったのだ。
夜は「剣道ばかりして仕事しよらん」と非難を浴びながら(週3回だけ)19時半に会社を出て難波まで稽古に行く。
21時半には会社に戻って残業した。23時に退社施錠して自宅に戻って夜12時過ぎに寝る。
そんな生活が何年も続いた。まるで修行僧のような生活である。
ある日、休日に、自宅で、時間をかけて愛刀の寝刃を合わせた。
給料が下がり続け手取りで20万を切り、もうどうしようも無くなってしまったのだ。
会社に愛刀を持って行きロッカーに置いた。本気で人を殺す事を考えてた。
結局、家族の事を考えると実行できなかったのだが、あれは50前後の頃かな?
家族が居なかったら今の自分は無かったと正直思うのだ。
剣友に「粕井さん、最近、目つきが変やよ」と言われたのもその頃だ。
立場を利用して、弱い者を追い詰め続けたら駄目である。本当にそう思う。
ネットショップを任され、ゼロから年商1000万まで伸ばした。
「本気で取り組めば大化けしますよ」と提言したが平良守というバカ社長は鼻で笑うのみだ。
そこで方針を変えた。自分のため、いつでも独立できるように変化させた。
いや、腐っていたばかりでは無いのだ。
密かに会社再建の道を模索してた頃でもあった。
当時は土地バブルの真っ最中、でも終わりも見えていた頃。
みずほ銀行を始め、弁護士、不動産屋など、いくつかの協力も得ることが出来たのだ。
そして住友銀行からの多額の負債を、合法的にチャラにする手法も学んだ。
まず不動産鑑定を行った。
鑑定には22万円もかかったが背に腹は代えられない。
ホワードの土地を処分したら、いくらぐらい手元に残るかを査定したのだ。
弁護士には30万円を支払った。これで貯蓄も無くなった。背水の陣。
あとは株主である、伯父、叔父、父親を説得すれば良いだけだ。
ホワードの優良な部門を残し、あとは解散する。
辞めてもらう社員には充分な退職金も配分できるように配慮した。
残ったホワード本体は基本的に不動産業で生き残るのだ。
社員も株主も皆ハッピー。悔しがるのは住友銀行だけとなる。
そういう案を具体的な計画として外部各所と相談しながら作り上げた。
心斎橋筋北商店街、船場心斎橋筋商店街の両方の活動と付き合いの中で、
生き残るには不動産の活用しかないと徐々に思い始めて研究した結果だ。
しかし株主への説得は出来なかった。
みなもう自分の責任逃れしか考えていない。
株券を、何も知らない鈴花に無料譲渡して、代わりに経営責任を逃れようとしたのだ。
鈴花は住友銀行から「大阪で事業の拡大が出来ますよ」と言われて騙された。
住友銀行だけが濡れ手に粟で、まだ相当の資産価値があった心斎橋の土地を手に入れた。
ホワードに入社して10年間の30代は自分自身が腐りきっていた。死のうと思った事もある。
その頃、部下や家族など、回りに迷惑をかけた事も事実だ。今も痛恨の思いである。
次の40代は臥薪嘗胆だ。男の仕事人生で一番輝ける40代を何もしてこなかった。
そして50代は切羽詰まって開き直ったような人生を歩んだ。
経営を引き継いだ鈴花も赤字を出し続け、間もなくホワードは解散した。
ホワードが創業した土地には、今ではダイソー心斎橋店がある。
30才から52才までのホワードでの経験は今でも夢を見るほど尾を引いている。
いちどは楽しいホワードの夢でも見たいものである。
(書きなぐった書き込みなので、あとで加筆訂正する場合があります)