稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

追悼餅つき(30日)と大晦日の写真整理

2017年12月31日 | つれづれ
昨日は、毎年恒例の餅つきだが、
今年はお袋が亡くなったので急きょ「追悼餅つき会」とした。


(若い頃のお袋、50代後半かと思う)

今年は控えめに4臼しかつかないので午前10時から開始。
餅つきの横で、炭火で肉を焼いてビールを飲んでる間に終ってしまった。
(餅つきを理由に集まって酒を飲むのが目的かも知れない)

大昔はお袋の実家で親戚中が集まって、20臼ぐらいついていた。
若手が居ない時は一人で手の皮が剥けるほどついたこともあった。

今年はそれぞれ予定や風邪を引いた者もいて少なめの参加。
食べ過ぎ飲み過ぎて夜まで苦しかった。


(今年の参加は少ないのが残念!)


(結局、今年も餅つきそのものの写真や餅の写真を写すのを忘れた・・・)

【追記】

事務所には、実家の古いアルバムと、長正館の資料などが山積みになっています。
今年は7月に長正館が閉館となり、9月にお袋(粕井睦子)が亡くなり、
個人的には悲しい年になりました。

大晦日の日、事務所に来て実家にあった古いアルバムなど整理しています。
整理と言っても、これといった写真を写してデータ化しているだけで、
ほとんどは捨てることとなります。

最近思うのは、アルバムというものは、その本人のためのもので、
残された者には無くても何ら困りもしないものなんだということです。
写真は数枚あれば良い。それより思い出を多く持っておきたいものだと思います。

捨てる前にここで少しは紹介したいと思います。
(このブログは親戚も見ているためです)





中央で赤ん坊(粕井伸祐)を抱っこしているのが粕井睦子57才。
下左で湯に浸かっているのが秋田五兵衛、その右が扇田善次、右端が扇田善男。
上の左端が扇田幸子、扇田雅代、粕井滋、粕井美枝子、扇田妙子、扇田智司。
下段中央の横を向いている小さな女の子が扇田寛子(久保田寛子)である。

このうち3人が昨日の集合写真(上の集合写真)に写っている。
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今朝の猫(12月30日の猫三様)

2017年12月30日 | うちの猫の写真
猫達の朝の餌やりは私の仕事である。
これは少しでも猫に好かれたいため。
猫は私のことを少しウザイと思っているようだ。
猫は猫好きが基本的には嫌いなのだ。
猫の餌やりは大切な私と猫との絆である。

本日30日は毎年恒例の餅つきの日。
今年はお袋(粕井睦子)が無くなったので「追悼餅つき会」となる。
何にせよ、集まって酒を飲むのが扇田家(お袋の実家)筋なのである。

さあ、準備しなくっちゃ。
まずは猫たちの隔離避難から。


(朝一番の食事風景、みー、星、月、SONY-NEX-C3、ISO-1600、f2.8、1/25秒、16mm固定)


(星ちゃん、SONY-NEX-C3、ISO-1600、f2.8、1/160秒、16mm固定)


(月ちゃん、SONY-NEX-C3、ISO-1600、f2.8、1/60秒、16mm固定)


(みーちゃん、SONY-NEX-C3、ISO-1600、f2.8、1/50秒、16mm固定)
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昨夜(28日)の稽古(なんば養正会)

2017年12月29日 | 剣道・剣術
今年の稽古納めは、なんば養正会。
(養正会は「なんば養正会」と名称を変えました)

前半は基本稽古。
太田欣之師範から数回の指導がある。要約すると、

1)打ち間に入ろうとして前進しながら竹刀の先端が上がり始めている。
2)それでは打つのが相手から丸わかりなので打たせてくれない。
3)遠間から打とうとして前傾姿勢になってはいけない。
4)打てる間はあんがい近いものだ。
5)右足が上がりすぎる。最後まで床を滑らすように。

奇しくも私が師匠から教わっている内容だ。
確かに養正会の基本稽古は準備運動化している。
身体を動かしていて汗をかいても理合から外れているので稽古にはなっていない。
師匠の言う「それはただの運動だ」である。


(太田師範による、最後まで剣先を外さないようにという指導)


(間合いと、右足を上げずに打つという指導)

後半は自由稽古。
初段二段には基本打ち。三段から六段までは地稽古。七段は真剣勝負。

ひとり、大道武塾の方が出稽古に見えられてた。
15年ほど前、奈良の道畑先生がたまに稽古に来られていて、道畑先生がご存命な時に、
大和郡山市の馬司町の体育館まで養正会の有志で出稽古に行ったこともある。
切り返しと打ち込み中心の厳しい稽古だったのを懐かしく思い出した。

強いのは若手の O七段。
誘いもいっさい通じず、面を打っても全部防がれる。
崩れないようにと心掛けたつもりだがどうしても崩れてくるのを感じた。
最後は面を防いだ右小手を鋭く打たれて終了。
あとで聞いたら大阪体育大学出身で38才だとか。
試合剣道タイプだが若手の七段。将来が楽しみである。

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今朝の猫(上の記事とは関係ありません)


(星ちゃん、SONY NEX-C3、F2.8、1/160秒、ISO-1600、16mm固定レンズ)
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あ々長正館

2017年12月28日 | 剣道・剣術
昨夜、仕事を終えて帰ろうとしていたら
「長正館の解体が始まった」との知らせを受けた。

たまらず長正館に行ってみた。

長正館は暗闇の中。窓ガラスは割られ、玄関も、その屋根も無くなっていた。
おそらく数日内に瓦礫の山となっているのだろう。そして更地になる。

長井長正先生が建て、愛し、多くの剣士を育てた長正館。
井上勝由先生があとを継ぎ、没後27年間、一生懸命守ってこられた長正館。
まさか長井範士も、長正館が消滅する時が来るなど夢にも考えていなかったろう。

本来なら水曜日のこの時間なら、煌煌と灯りが灯り、
竹刀の打ち合う音、気合が飛び交い、活気のある稽古が見れたはず。

何とも言えない気持ちのまま、身体が芯そこ冷えるまで、暗闇の中で佇んでいた。


(12月27日、21時41分撮影、SONY-NEX-C3、ISO-1600、f2.8、1/5秒、16mm固定)


(12月27日、21時42分撮影、SONY-NEX-C3、ISO-1600、f2.8、1/5秒、16mm固定)


(12月27日、21時43分撮影、SONY-NEX-C3、ISO-1600、f2.8、1/8秒、16mm固定)

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長正館という建物はこうやって無くなりますが長正館としての稽古は続けます。

小野派一刀流は中野中学校で毎週土曜日17時から。
剣道稽古は矢田中学校で毎週水曜日19時半から。
そして湯里小学校では月に2回(第1第3日曜日)17時から一刀流、18時半から剣道稽古。

詳しくは長正館ホームページにて。
http://www.doujyo.net/choseikan/
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名人とは(昭和62年12月1日)- 2/2

2017年12月27日 | 長井長正範士の遺文
こうしてやっと島原のいろ里に着いたのであります。

一行は宗匠を丁寧にもてなし、島原で一番人気のある若い花魁をあてがいました。
そして恐らく今時分愛情の最中であろうと時期を見まして
無粋にも部屋の襖をガラリと開け、花魁の上になっている宗匠に
「さあ、この有様を詠んで頂きたい」と言った途端、宗匠は、
「くみしいて 見れば二八の小敦盛 眉毛少々 薄毛ちらほら」と、
恥ずかしげな態度も見せずズバリと詠われたのであります。

即ち、戦場で敵の敦盛少将を組み敷いて、
よく見ると、まだ毛も生え揃ってない可愛い二八(十六才くらい)の少年であったわい、
という意味で、この花魁の上になって、よくよく見ると、
眉毛も少々でまだあどけない十六才ぐらいの可憐な娘(こ)で
小さくふっくらと盛り上がった女性自身も可愛らしくまだ毛もろくさま生えておらず、
薄い毛がちらほらと生えている程度で如何にもいじらしい娘(こ)です、
とひっかけて言ったのです。

小敦盛=小さい敦盛=小さく盛り上がった女性自身。眉毛少々の少々=敦盛少将。
薄毛ちらほら=敦盛少将の眉毛もまだまだ一人前の大人のように黒々と立派に生え揃っておらず、
うぶ毛のような薄い毛である=花魁の女性自身の毛を暗に詠んだものです。

このように何の恥じらいもなく、間髪を入れず、
花魁をいたいけない敦盛少将になぞらえ、
情をかけて一同に返礼の歌として詠んだのであります。

京の都のお歌所の自信家は勿論のこと、なみいる幕府の役人もほとほと威服し、
私共の道は宗匠様と比べまだまだ遠いことを思い知らされました、
と言って、今迄の数々の無礼を詫び、礼を熱くして帰って貰ったという話です。

さて皆さん、名人とはどんな人を言うのか、
この昔噺でご理解頂けたと思いますが、名人の域に達した人は、
このように間髪を入れず当意即妙、応変自在、転変流露、
臨機応変なること恰(あたか)も障子を開けるや否や、月光が部屋にさすように、
いずれが光か、瞬時にして光が投げかけるように対応すること自然にして、
無理なく妙を得ているのであります。

われわれ剣道を修行中の者は名人など気の遠くなるほど深遠な境地でありますが、
終生修養を積み重ねて行くところに意義があると思います。
そしてまた、名人と雖(いえど)も、これで良いということなく、
更に更に奥深く修養を続けておられるのです。

一刀流に循環端無しと教えられています。
禅の言葉に「歩々是道場(ほほこれどうじょう)」とあるように、
人それぞれ歩む道は違っても、一歩一歩を歩むにも、己が修養の場と心得、
お互いに心を一つにして修行してゆこうではありませんか。


(小野派一刀流、切落としの事、相打ちの一拍子の勝)
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稽古メモ(往馬玄武会)12月23日

2017年12月26日 | 剣道・剣術
23日の往馬玄武会での指導メモ。
(指導と言いながら自分自身の復習と心掛けてます)

この日は、子供1名、七段2名、六段1名、四段2名、熟練初段1名の計7名。

子供はA七段のお孫さん。大人の稽古に混じって一生懸命打ち掛かってくる。
ともかくしっかり真っ直ぐ構えることだけ指導した。

稽古熱心なのは四段の2名。
休憩時間も稽古をつけてくれと言うので休み無し。
五段を目指しているので自分の悪いところを直して欲しいというわけだ。

1)身構え気構え

1人は、しっかり構えないで下段気味に構えている。
もう1人は、相手の正中線から外れて構えている。
つまり相手と剣先で会話しようとしないのだ。
剣先での会話はしないで、相手が動いた瞬間に面に打ち込もうとしている。
あるいは動いた瞬間に出小手を狙って打ってくる。

打とうの「う」を捉えたいのだろうが、先に攻めて引き出して打とうという気構えと、
打とうとしたところを打ってやろうという気構えは似ているようでまったく違う。

けっきょく後者は待ち剣になってしまい審査ではガチャガチャするだけである。
たとえ出小手を決めたとしても「じゃんけんで、たまたま勝った」というのと同じ。
面を打たせて出小手を決めるという理合では無いので見栄えはしないのだ。
また正面打ちも「待つ気」が出るのか勢いに欠ける。
捨て切ってないように思う。

2)自分の打ち間

相手が動いたら打とうとするので、
蝕刃の間から少しずつ少しずつ間合いを詰めてくる。
横から見ていると、足の動きに合わせて僅かながらも頭が前後上下にひょこひょこ動く。
間合いに関係なく「相手が動いたら打って出よう」というのがミエミエ。

私が打つ気を出した際に、動かない(前に出ない)と、
相手の面打ちが届かなかったという場面も数回あった。
動いた瞬間を打とうとしているので(こちらがわざと)動かないと空を切るわけだ。

相手が動いたら打とうとするのでは無く、自分の打ち間で打つこと。
それにはしっかり打てる「自分の打ち間」がわかっていないことにはどうしようも無い。

相手が止まっている場合は、実際の打ち間は驚くほど近いもので、
自分の竹刀の先革が相手の鍔の間際までに近づかないとしっかりとは打てないものなのだ。
(これは5年近く継続して師匠に指導してもらっている大切なことだ)

止まっている相手を打つ間。次は前に出た相手を打つ間。そして相手を動かして打つ間。
これらの打ち間はそれぞれ状況によっても違うが、まずは止まっている相手の面を、
体勢崩さずしっかりと打てるのが基本である。

3)勢いで打とうとすること

止まっている相手を打つ稽古でも、勢いで打つ癖がついていると、
遠間から、左足を継いで、もしくは右足を追い越して打ってしまうことが多い。
自分の打ち間がわかったなら、構えて打ち間に入るまでは静かに入り、
いったん打つ準備を完了させてから打つのが大切な基本稽古である。
(これも継続して師匠に指導してもらっている重要な稽古である)

また、勢いで打つ癖の者は、たいていが前傾して打ってしまう。
前傾すると、打ってくるのが早めにわかるので対処し易い。
そればかりか体勢が崩れるので次の技に移れない。
身体が伸びきってしまうので返し胴や摺り上げ面の餌食になり易い。

そういうことを23日に説明した。
なかなか理解は難しいだろうが少しでも身につけて欲しいものだ。


(12月23日の生駒市武道場、往馬玄武会の稽古納め)
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名人とは(昭和62年12月1日)- 1/2

2017年12月25日 | 長井長正範士の遺文
一般的に技芸にすぐれた人、その道に深く通じている人を指して言いますが、
ここに名人とは如何なる人かを一例を挙げて申し上げましょう。

昔、江戸に歌の名人がおりまして、全国にその評判が広がってきました。
当時、都は京都にありまして、それを聞いた京のお歌どころの宗匠(そうしょう)は
一体その江戸の宗匠はどれほどの名人か一度招待して試してみようということになり
江戸の宗匠のところに使いを出しましたが、京の町奉行は皆に命じて粗相のないよう、
あちこち整備し、特に三条大橋の板が大変痛んで腐っている所もあるので、
真新しい桧(ヒノキ)の板を四角く切ったり細長く切ったりして穴の開いている所を修理させ、
準備万端整えて、今や遅しと江戸の宗匠の来るのを橋の袂で待ち受けておりました。

折りしも約束通りの期限に差廻しの駕篭(かご)に乗った宗匠が山科を通り、
三条大橋の袂に着きました。奉行一行は鄭重に長旅の労をねぎらい、
駕篭から降りた宗匠を先導して大橋を渡ろうとした途端に、
京の宗匠が「この橋を見て何と詠む」と江戸の名人に言ったところ、
間髪を入れず「来て見れば さすが都は歌どころ 橋の上にも色紙短冊」と詠んだので
一同は感嘆の余り唖然としました。

やがて大橋を渡って西へ進み、堺町通りの四つ辻まで参りましたところ、
右(北)の方から花嫁の行列がやって来ましたが、
折り悪しく左(南)の方から葬式の行列がやって来て、すれ違いになったので、
しばし一行は足を止めて待ちました。

その時、京の宗匠が「あれを見て何と詠む」と問いかけましたところ、
くだんの宗匠はすかさず「世の中は 色と恋のさかい町 しに(死に)ゆく人と されにゆく人」
と詠んだので、皆は一層感心致しまして、宗匠の俗世間に通じた粋人(すいじん)に心もなごみ、
急遽予定を変更致しまして、これから島原のいろ里へ案内しようという事になり、
一行は島原へ向かいました。

今はもうずっと家が立ち並んでおりますが、
その当時はまだ家もまばらで、すっかり田舎めいて、
今は花ざかりの菜畑のほとりを歩いてゆきますと、
路ばたにすっかり履き古して鼻緒の切れた藁草履が捨ててありましたので、
道案内の一人がこれをポンと投げ捨てました。

それを見た京の名人が客の名人に「さあ、これを見て何と詠む」と、
まあ何という無理難題を持ちかけたたものでしょう。
名人はすかさずこれに応えて
「世の中は 葉花がくれのほととぎす 血を吐くことが いやでこそあれ」と詠んだのです。

即ち、今、世の中は花盛りの好季節で、うららかなこの日に、
今まで鳴いていたホトトギスがいやになって、
葉っぱの花の中へ隠れたわいという意味ですが、何と粋なことに役に立たない、
すり切れた草履をホトトギスにたとえ、血を(地を)吐く(履く)ことがイヤでこそあれ
(役に立たなくなったのであろう)。
このうららかなよい日に一抹の哀れの風情を感じるわい、とかけて詠んだのはさすがである。
これには一同ぐうの音も出ず感服したのです。

(続く)


(写真は記事とは関係ありません。2017年12月23日撮影、大阪のbarにて)
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写真「今朝の猫」

2017年12月24日 | うちの猫の写真
遅まきながら夏用の椅子座布団を冬用に変えた。
ガスファンヒーターの前の席は猫たちの特等席となる。

しかし家猫とは幸せなものだ。
食べて寝て遊んで可愛がってもらって。
生まれ変わるなら家猫がいいかな。

きょうも仕事だ。がんばろう。


(星ちゃん、SONY NEX-5、F3.5、1/16秒、ISO-1600、24mm、モノクロ強調加工)
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豪傑について(昭和62年11月30日)

2017年12月23日 | 長井長正範士の遺文
昔、東(あずま)の国に
我こそは日本一の豪傑であると自認していた侍がおりまして、
文字通り天下に有名を轟かしておりましたが、
いよいよ死ぬ間際になって、辞世の歌を残して逝った。

その歌が奮っている。
「今ゆくぞ 鬼も閻魔も油断すな 隙があったら極楽へ飛ぶ」と。

これを要約いたしますと、
俺は今まで随分無茶なことをやってきた。
また、さんざん悪いことをして来たから、死んだらきっと地獄へ行くだろう。
しかし地獄で、鬼も閻魔も油断するなよ。
隙があったら極楽へ飛んでいってやるぞ。

と、死の直前まで強気の歌を詠んで逝ったので、
このウワサがパッと広がって世間の人々は口を揃えて
「なるほど、豪傑とはああいうのを言うのだ」と賞賛いたしました。

しかし豪傑にもライバルがあるもので、
このウワサを聞いた九州一の豪傑が

「あやつが日本一と?チャンチャラおかしい、
俺こそは日本一にふさわしい豪傑だ、
俺はあのように、そんなにまでして極楽へ行きたくないわい、
あやつは何とかうまいことを言うちょるが、本当は極楽に執着心があるから
うまく誤魔化して詠んどるが、まだまだ豪傑には程遠い、
俺は死ぬ時はそんなにまでして極楽へはゆきとうはないわい、俺ならこう詠む」

と辞世の歌として詠んだのがまた面白い。
「極楽へ さほどゆきたくなかれども 弥陀を助けにゆかにゃなるまい」と。

「俺も地獄へ落ちてゆくだろうが、
あやつみたいに極楽へさほどゆきたくはないが、
あの世で極楽往生した沢山の佛達の世話で、
阿弥陀さんが人手足りなく大変いそがしく困っていらっしゃるだろうから、
こりゃ一つ手助けにゆかにゃならん責任があるから行かんわけにはいかんのだ」と。

詠んで、「どうだ俺のほうが遙かに上だ」と威張っているという話ですが、
ちょっと待って下さい。結局、二人とも極楽へゆきたいという執着心には変わりなく、
真の豪傑と言われそうにない。真の豪傑は酒色に溺れず、嗜(たしな)んでその域を超えず、
日夜精進し、如何なる事態が起きても動じない。
心構えを養い得たすべてに並はずれたすぐれた人物を言うのであります。

それでは今度は名人とは如何に。
次に述べましょう。


(無法に襲いかかる者は 自ら突き貫かれる 一刀流の迎突の尊いところ也)
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昨夜(21日)の稽古(木曜会)

2017年12月22日 | 木曜会(誠先生の剣道教室)
木曜会としての10回目の稽古。稽古納めである。

風邪を引いていて咽喉が痛く咳も止まらない。
「まあいつもの基本稽古だから疲れたら休めばいいや」
などと甘く思っていたら「今夜は稽古」だと言われ慌てた。

面をつけ、一番に師匠にかかる。
稽古をつけてもらうのは久しぶりだ。今年初めてかも。

最近は少し自信がついてきて、
「少しは師匠との間が縮んだかな?」
・・・などという甘い希望は微塵にも打ち砕かれた。

結論から言うと師匠と私の打ち間は2寸違うのだ。
こちらが打とうと準備を始めているその前に師匠はいつでも打てる体勢にある。
打とうと始動するその起こり頭を面に乗られてしまう。胴に返される。小手を打たれる。
中途半端な間合いで「あらら、どないしよう」と思った途端に何回も打たれた。
マイッタ!まさに手の平の上の孫悟空だ。

私が普段の稽古で、三段や四段の者と相手するような感じで、
師匠は私を自由自在に使っているのだ。

ということは師匠と私の間には、まだ三、四段の差があるということだ。

自分が終わったあとは、しばらく師匠の稽古を見させていただいた。何が違うのか。
しっかりした体幹、構え、気迫、跳躍力、そして打ちが柔らかくしなやかで安定感がある。
柔らかくしなやかで安定してこそ、すべての間合いで攻防が可能なのである。

あとは時間まで地稽古をした。
出来るだけ木曜会風の剣風で稽古しようと心掛けたが、
やはり同門なので攻めが通じないことも多かった。でも良い稽古だ。
風邪引きなど消し飛んで最後まで稽古を楽しんだ。

最後に不老の剣とは?というお話が最後にあった。
「先、身構え、気構え」があってこそいくつになっても稽古は可能であると。
しっかり修行して来年も頑張ろう。うん、まずは摺りかぶりしなくっちゃ。


(20時までは子供達の稽古がある)


(身構え、気構え、体幹、間合い、そして先)


(一瞬たりとも気を抜かない、相手の起こり頭を制する)


(師走なのか参加人数は少なめだったが、体育館いっぱいに使って休み無く稽古が出来た)
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三段どまり、五段どまり

2017年12月21日 | 長井長正範士の遺文
三段どまり、五段どまり(吉田誠宏先生談、昭和62年12月1日)

三段どまり、五段どまりということ。
三段までいけるがそれ以上の段には上れない。
五段まで何とかして上がれるが、その剣道ではもう上には上がれない。
(戦前は五段まで、あと精錬証=錬士、以上、教士、範士だけであった)

現在もそうで、三段まで行けたが四段には結局なれなかった。
五段までいけたが、それ以上は難しい。

今でいう七段まで行けたが八段は到底受からない者等、
ズバリひとこと。「我が心に問え」と。


(以下の写真は本文とは関係ありません)


(昨夜、12月20日の稽古、長正館矢田中学校、最終10名が集まった)


(弟子とF六段、初段だが勢いのある六段の打ちに気持ちで負けていないのが良い)


(自分の構えを撮ってもらった、ふーん、こんな構えしてるんだ・・・
 あ、一見、左足が横を向いてるように見えますけど右足と平行に真っ直ぐ前を向いています)
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剣道具の着けかた、その他の作法

2017年12月20日 | 剣道・剣術
曲がりなりにも指導者という立場なので、
いままで何気なくやっていたことでも正しくやろうと思いつつある。
おさらいのため、普段の稽古で目にする、特に間違いやすいことをここに記しておく。
(ただし道場個々の歴史的かつ固有の作法があることは否定はしない)

1)手拭い
手拭いの表が手前になるようにつける。
(文字が書いてある場合は着ける前に目の前で読めるような向きである)
(着けた時に面の後ろから文字や柄が裏返って見えているのが正しい)
手拭いが面からはみ出さないように、頭頂部の端は折りたたんで内側に折り曲げる。

2)小手
左小手、右小手の順番につける。
外すときは右小手、左小手の順番にはずす。
小手を置く場合は、小手の頭を右外側に向けて左右揃えて置く。
(上座に小手の頭を向けるという作法もあるが一般的には右外側である)

3)座礼
両手は同時に床につけ、同時に床から離すようにする。

4)座りかた、立ちかた
座る時は左足から座り、立つ時は右足から先に立つ。
正座になる時は、つま先を立てた、その両踵の上に、いったん臀部(お尻)を乗せ、
そのあと臀部を浮かせ、静かに足の甲を床につける。
立つ時は、臀部を浮かせてつま先を立て、いったん踵の上に臀部を乗せ、
それから腰を上げ、右足を半歩踏み出し、続いて左足を半歩踏み出して立ち上がる。

5)切り返しの受け方
歩み足で受ける。
左面を受ける時は左足を引きやや右半身、右面を受ける時は右足を引きやや左半身。
竹刀は垂直にして左拳はほぼ腰の高さ、右拳は胸の高さで受ける。
上達者には手の内を効かせて打ち落とすようにして受ける。



(写真は記事には関係ありません、昨日12月19日、奈良は生駒の宝剣会の忘年会にて)

【写真補足】
生駒市武道館で稽古する宝剣会(ほうけんかい)は特に公募はしていませんが、
八段1名、七段3名、五段2名、六段1名(休会中)の少人数ながら高段者の稽古会です。
興味のある方は稽古にお誘いしますので下記までご連絡ください。

m.kasui@nifty.com (粕井誠)

名称:宝剣会(ほうけんかい)
指導者:石丸 勲 (いしまるいさお) TEL:0743-74-3839
稽古場所:生駒市武道館 (奈良県生駒市門前町9-20)駐車場有
稽古時間:毎週土曜日19時~20時
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「大和心を語るねずさんのひとりごと」より「天皇朝鮮半島渡来説を斬る」

2017年12月19日 | 政治や歴史など
「ねずさんのひとりごと」に感銘を受けたので紹介します。(粕井)

大和心を語るねずさんのひとりごと
「天皇朝鮮半島渡来説を斬る」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3604.html

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ある方から、
「天皇が朝鮮半島から渡来したという説があるけれど、ねずさんはどう思いますか?」
というご質問をいただきました。

いまだにそのような戯言にもならないくだらないことを、
公然と主張してはばからない馬鹿者がいることは驚きですが、
せっかくですので以下にその答えを述べます。
7つの理由から、この説は「あたらない。とんでもない説」であると断じます。


(元のページ、https://www.sekainorekisi.com/my_keywords/%E7%99%BE%E6%B8%88/)

1 朝鮮半島はかつて無人だった

朝鮮半島には、いまから12000年前から7千年前までの5千年間、人類が生息したことを示す痕跡(遺跡)がありません。
同じ5千年の間、日本には万をこえる遺跡(縄文時代の遺跡)があります。
7300年前に、鹿児島沖で巨大な火山の噴火がありました。
その噴火の後から、朝鮮半島では、人類の生息を示す遺跡が多数出土しています。
その遺跡では、日本の縄文時代の釣り針や土器と同じものが出土しています。
火山の大噴火後、食料確保のために大型の魚を得ようとした日本列島の人々が、なんらかの形で半島に住むようになったということです。
つまり日本から朝鮮半島に渡ったわけであって、その逆はありません。

2 朝鮮半島の古墳は日本から渡っている

朝鮮半島南部で4〜5世紀に造られた多数の古墳が発見されました。
その古墳の土木技術は、日本の古墳と同じものです。
ところが日本の古墳は、2世紀頃からはじまっています。
つまり、どうみても日本文明が朝鮮半島よりも先行していたということです。

4 古事記は朝鮮半島を黄泉の国として描いている

イザナキは、黄泉の国に向かい、追われて、成っている桃の実を投げて黄泉の国の軍団を退けています。
その桃の木をイザナキが、配下としたという記述があります。
「モモがなる」を漢字で書くと「百(もも)済(な)る」です。
つまり、百済以北の朝鮮半島を、古事記は神々しい高天原というより、まったく逆に「穢れた国」として描いているわけで、その記述からは、天皇が朝鮮半島から渡来したということの正反対の様子しか伺うことができません。

3 百済・新羅は日本への朝貢国だった

百済・新羅は国王の跡継ぎ息子を、日本に人質として出しています。
国王の息子を人質に出すということは、百済。新羅は日本の属国であったということです。
仮に天皇が朝鮮半島渡来なら、アチラが属国となるということはありえないことです。
ちなみに、韓国の古代史学会は、どうあっても日本が朝鮮半島の属国であったとしたいようですが、残念ながら日本から百済・新羅・高句麗等に人質を出したことは、歴史上、一度もありません。

5 広開土王碑文

広開土王碑文には、近頃倭人たちが百済や新羅を麾下におさめていてケシカランという記述があります。
ということは、百済・新羅は日本の属国となっていたことを高句麗も自覚していたということです。

6 新羅王は倭人の平民

新羅の国史には、新羅の王が、日本から渡ってきた平民であったことが書かれています。
つまり新羅では、倭人であるということが、たとえそれが平民であったとしても、現地の人たちよりも上だとみなされたということです。
そして我が国において、天皇の地位は平民よりもあきらかに「上」です。

7 天皇が朝鮮半島から渡来したという具体的証拠はなにひとつない。

実際、それを示す証拠はまったくありません。
ということは、天皇朝鮮半島渡来説は、根拠のない、悪意に満ちた私見でしかないと断じさせていただきます。

それにしても、騎馬民族渡来説や、縄文人弥生人入れ替わり説、あるいは聖徳太子不在説、平安時代古代説など、日本を貶めることにばかり熱心な学者やジャーナリストたちは、どういうわけか、何度、否定されても同じ主張を繰り返します。
同じことは、慰安婦強制説や、軍艦島の強制収容所説、南京虐殺説にもいえることですが、根拠のない、いわば「いいがかり」にすぎないことを、繰り返し、執拗に、しつこく毎日続けるというマインドは、完全に半島マインドにほかなりません。
普通の日本人なら、まず飽きてしまいます。

幼児には、固執性という特徴があります。
店先に欲しいものがあると、「買って買って」と、ときに号泣までして泣き叫ぶ。
最近、いい歳をした大人まで、同じように泣き叫んで号泣したり、泣き真似したり、すぐにわかるような嘘を繰り返したりと、あまりにもおかしな日本に住んでいて日本人のような顔をしていて日本語を話す日本人でない人たちがいますが、普通の日本人は馬鹿ではありません。
もうほとんどの日本人が、おかしいと気付いています。
いい加減、嘘はやめにしてもらいたいものです。
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昨夜(17日)の稽古(長正館)

2017年12月18日 | 剣道・剣術
昨夜は長正館の日曜稽古(以前で言う月例稽古)だった。

16時半に湯里小学校に到着すると名古屋のT先生がすでにお待ちだった。
T先生、居合では八段の大先生である。
日曜稽古では1時間程度の一刀流自主稽古があるのでそれに参加されるわけだ。
本当に熱心で頭が下がる思いである。(他の一刀流修行者はどうした?)

人数は7名。忘年会シーズンなので気持ち少ない。
1時間ちょっとだが、みっちりと刃引の稽古を行う。
特に摺り込む時の手の内は難しいので繰り返し行った。
手の内が効いた摺り込みを習得すると、真剣刀法はもちろん、
竹刀剣道においても一皮剥けてくる。

表の摺り、裏の摺り、摺り上げ、摺り込み、摺り上げ、後へ(跡へ)三本の浮木、裏切り、
拳の払い、先へ二本の浮木、後一本先へ二本の浮木(先へ三本の浮木)、表の払い、裏の払い

いずれも手の内を使う技で、真剣にも竹刀剣道にも通じ、見かけは地味だが実戦的な技である。
ずっと打方を努めたが、前日左腕を痛めて握力が弱く、最後は痛みが強くなってしまった。



後半は剣道稽古。まずは切返しと基本打ちの稽古。
切返しはリズム良く大きく伸びやかにするよう指導した。
左拳が上がらぬ者、左足の引き付けが出来ない者、受け方のおかしい者に指導。

あとは自由稽古(地稽古だが、基本でも何でも好きに稽古して良いと言う稽古)。
一刀流の猛者だが剣道は初心者のI氏(45才)には来年1月の初段審査を意識した稽古だ。
審査のレベルがわからないので面の打ちこみ中心、出小手はオプションとした。
井上先生とは合気から合気を外される部分を堪能させていただいた。
満91才、蹲踞もされるし待たずに攻めて来られる。本当にお元気でありがたいことだ。

あとはT四段、F六段と稽古。
T四段には「打つときは捨て切って打て」と指導。
実力があるのになかなか五段に受からないのは思い切りの良さが無いから、
どこかに萎縮、あるいは遅れ、あるいは中途半端な残心などに現れると思うのだ。

19時をまわると急激に冷え込んできたが心地よい汗をかいた次第。
残念ながら左腕はますます痛くなった。現在湿布中である。


(18日の奈良の朝は氷点下だった。SONY NEX-5、f/5.6、1/125秒、ISO-400、ズーム51mm)
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昨日(16日)の稽古(剣道と一刀流)

2017年12月17日 | 剣道・剣術
午前中は生駒で往馬玄武会の稽古に参加。私を入れて8人。
切り返し、基本稽古のあとは全員回っての地稽古を2回。


(生駒市武道館)

休憩中に「攻めがよくわかりません」と聞かれたので四段2名に説明する。
もちろん師匠の受け売りなのだが・・・

●しっかり構えること。構えた時に拍子を取らないこと。
●自分の打ち間(標準的な打ち間)がどこなのかを知ること。
●打ち間直前まではじわじわ入らずスーと入ること。力まないこと。
●触刃、交刃の、やや遠間から、勢いだけで打たないこと。
●入った時に攻めと溜めが必要。溜めた状態から右足少し出して攻め足&探り足。
●相手のタイプによってどこまで入るのか、どう入るのかは変わる。
●「いつでも打てる」という状態が攻め。打てない状態は攻めにはならない。

など説明した。

摺りかぶりも説明し、やって見せたが、どうもやはり難しいようだ。

夕方からは一刀流の稽古。
実は剣道の稽古中に左腕素肌を強く叩かれ腫れあがっていた。
少し木刀を振ると左手の痛みが激しくなる。
途中で不覚にも木刀を落としてしまった。あとは休憩した。

両手で握っているのに木刀を落としたわけは、いまの課題、
「いかに右手の力を抜くか」を意識していたので右手は握っていなかったからだ。

実は右足踵も痛む。捻挫なのか痛風の痛みなのかは不明。


(大阪市東住吉区の中野中学校格技場)
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