藪下雅治 プロフェッショナル「きっと心得帖」
第5章 リーダーシップ 50-51頁より
5-1 リーダーとは変化を起こす主役のことをいう。
5-2 タイムリーな情報が人を動かす。リーダーとは、人々にとって必要な情報を、適切に伝える人である。
5-3 リーダーは目標を明示せよ。くりかえし、くりかえし明示せよ。全員が同じ方向に進むとき、最高のチームワークとなる。
5-4 教育とはくりかえしである。くりかえしによって、やっとよい習慣が身につき、それがやがて伝統になる。
5-5 部下に無能者はいない。部下を使いこなせない、無能なリーダーがいるだけだ。
5-6 発言する前に、まず、現場で事実を調べよ。本当はどうなっているかも知らずに、意見を述べたり、命令すれば、部下はついて来ない。
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29才で東亜特殊電機を退職し、早稲田大学のシステム科学研究所で1年間、システム設計を勉強し、
30才で再就職したのが今は無き、衣料中堅卸商社のホワード株式会社(本社は大阪)の東京店(通称は東京ホワード)だった。
最初は子供服の担当などしていたが、私にファッション関係の仕事が不向きなのは明らかだった。
今から30年以上も前の事である。
東京ホワード勤務の時に、突然、子供洋品課の課長からシステム開発室に移動になった。
名前はシステム開発室だが、当時のコンピューター部門とは何の関係も無かった。
役目役割が不明確で会社の中での位置づけもはっきりしない妙な部署であり立場だった。
つまりは、体よく主戦力から外され閑職の身になったというわけだ。
当時の東京ホワードは、Tという沖縄出身の人物が総責任者だった。店長という肩書である。
何の取り柄も無い男なのだが「会社創立以来で最初の大学出」ということで上からの評判は良かった。
えてして潰れる会社というものは、このような優柔不断のイエスマンが気に入られるものだ。
優柔不断な人物が、とんとんと出世してトップになり、結局時代の変化に乗れずに会社を潰してしまうのだ。
当時、サチコクラブというブランドが無茶苦茶に売れていた時期でもあり、
物流センターを郊外に持ちたいとの構想があったらしく、
「どこかに良い物件が無いか探してきて欲しい」とT店長に命じられた。
私は「何でもやります課」みたいな立場だった。
今でこそインターネットで何でも調べられる時代だが、
当時は不動産屋の情報や業界紙、実際に地元を回って足で調べるしか無く、
郊外の物件を調べるという作業は、けっこう大変な労力であった。
特に条件を出されなかった(というのも妙な話なのだが)ので、
自分なりに勝手に会社の物流の内情を考え、
東京の日本橋から車で1時間圏内、坪数150坪前後、駅からバスで行ける・・・などを想定して調べた。
良さげな物件があれば地図を片手にバイクで現地に足を運んだ。
実際に現地に行って、地元の不動産情報を閲覧し、見取り図を描いたり写真を撮ったりしたが、
季節は真夏で、アスファルトの照り返しの暑さに耐えきれず、ふらふらになった記憶もある。
(バイクでの出張は禁止されていたので、ほとんど休日を使って行動していた)
(バイクでしか迅速な調査は不可能だったということもある)
横浜、町田、八王子、千葉、我孫子、水戸、大宮など、候補はいくつかあがった。
大宮の物件が手頃だと思ったので、写真や図面と一緒に提案書を提出すると、
「近過ぎるなあ・・・」とだけ言われて却下された。
「近いと何が悪いんですか?」と尋ねたら「家賃が高いと思う」という。
大宮の物件は他よりも安かったので内心不満だったが、
「これより安くとなるとかなり遠くになりますがよろしいですか?」と聞くと「かまわない」と言う。
またもや物件探しの作業が始まった。調査範囲は遠方に延びた。
再度報告書を提出し、やっと決まったのが、栃木県の佐野市大橋町の元ダンスホールの建物である。
建物が150坪程度あり駐車場も200坪で、家賃も100万もしなかったと記憶している。
元の建物は「大橋ダンスホール」として戦後ずっと使われてきた物件だった。
言われたままに探して決まった物件。
これをT店長は持て余した。
遠い。電車で2時間以上、車で1時間半以上はかかる。
ブランドのサチコクラブも勢いを失い、佐野物流センターは閑古鳥だった。
佐野物流センターの責任者と2名のパートさんは毎日、倉庫の掃除ばかりしている始末だったのだ。
ある日、「あそこで物販出来んやろか?」とT店長に言われた。
「出来ないことは無いですが、卸が物販やるには卸団地の中でしか成功しませんよ」と答えたが、
「何でもいいから、佐野で物販やるよう考えてくれ」と言われた。これは命令だった。
(卸団地の中で、問屋が、素人向けに販売会をすると格安さが演出出来るのである)
で、佐野で衣料や雑貨を中心に2か月に1回の販売を行った。
その都度、ちらしを作ったり、商品の値付け、梱包、そして現地に持っていって陳列し、
終れば後片付けして梱包して東京に戻すという考えてみたらすごい作業量をこなさなくてはならない。
そのくせ、客単価1000円~2000円の安物売りでは全体の売り上げも伸びない。
たしか1日せいぜい100万円の売り上げではなかっただろうか?
「労力の割りには売り上げも利益も出ない」と幹部の間では文句たらたらだったが、
それに対してT店長は「あれは粕井部長がやってることやからなあ」と答えたのだ。(とウワサで聞いた)
結局、彼のやり方は「成功したら自分の手柄、失敗したら部下の責任」だということだ。
曖昧な命じ方をし、決断はせず、業を煮やしてこちらが「こうしましょうか?」と言うと、それで良いと言う。
彼の中では「自分が決めたことではなく押し切られたことなのだ」となってしまうのだ。
私のせいにされたと聞いたので「戦略的に方向が見えませんからもう止めましょう」と具申したら一発でOK。
その後、このT店長は会計のミスと、サチコクラブの不良在庫の隠ぺい工作がバレて失脚し退職した。
退職してホッとしていたら、当時の会長(伯父で大株主)に泣きついていたらしい。
数年後に、今度はホワードの社長に返り咲いた。これには本当に驚いてしまった。
その後、当たり前のことだが何をしても失策が続き「社長室で居眠りばかりしている」と評判になった。
結局最後、ホワード株式会社は断末魔の悲鳴を上げ、他社に身売りして解体し今は無い。
無責任な者がリーダーになることほど会社に取って不幸なことは無いのだ。
もともとサチコクラブというブランドも、
「売れている今こそ、ホワードから切り離して原宿で育てませんか?」と提案したのだ。
「そんなことをしたら売り上げがガタ減りしてしまう」と却下された。将来よりも今しか見ていなかった。
あれは今思っても残念だった。東京ホワードが大化けする絶好の機会でもあったのだ。
変化を起こせず手柄は独り占め。
「馬鹿な大将、敵より怖い」という実例でもある。