稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

藪下雅治先生の訃報(2020年9月9日)

2020年09月09日 | 藪下雅治「きっと心得帖」

(藪下雅治先生のお写真が手元に見つからず、ネットから拝借し加工しました)

今朝、昔の知り合いから「藪下先生、今年の2月に91才でお亡くなりになってた」と連絡があった。
ホワード勤務時代は年に1度はセミナーでお会いし、毎年年賀状のやり取りを20年近くもしていたが、
閑職に追い込まれ、経営と無関係の立場になった頃からと思うが、お付き合いは絶えてしまっていた。

今から35年も前だが、ホワード株式会社に入社したすぐだと思う。
藪下先生のセミナーに、半年間だったか1年間だったか、月に1回、2泊3日で、
名古屋市中区千種の藪下研究室に行って、主にポケコンを使った計数管理を学んだ。

余談だが、この時使ったポケコンはシャープ製で、一式8万円以上もした。
業務命令でセミナーに参加したので、当然、会社から購入資金が出ると思って、
当時の上司、ホワード東京店店長のTに言ったら「出せない」という。
「なぜですか?」と聞くと、「貴方の勉強のために行くのだから貴方が出しなさい」とのことだ。


(SHAP PC-1501 本体・他にプリンター部がある)

入社(30才で途中入社)したばかりで遠慮もあり、「んなアホな」と思いながらも諦めた。
このポケコン、セミナーが終わったら特に使い道も無く、自宅の倉庫に眠っている。
当時の私は1年間無職だったので蓄えが無く、8万円は大変大きな出費であり痛手だった。

しかしながら藪下先生のセミナーは価値があった。
人生の考え方、仕事への取り組み方、数値の捉え方、自己啓発への取り組み方、
そして数字から必要な数値を導き出す方法、KJ法やABC分析などを学んだのである。

セミナーのあとに受講生全員でスナックに連れて行ってもらったこともある。
そのスナックがそうなのか、藪下先生の好みだったか忘れたが、
藪下先生は日本陸軍の軍歌を何曲も歌い、私も競うように日本海軍の軍歌を歌った記憶がある。
あれはとても楽しかったがセミナーでの写真を探したがどこにも見つからない。

あの頃学んだ事は、その後の仕事でも少なからず役に立ったし、
密かに作っていた幻の「ホワード再建計画書」の骨子作りにも役立った。

ホワードは今は無い。

ひとことで言えば、ホワードは経理の数字管理は出来ていても、
数字から数値を導き出して、経営を根本から見直すことは無かったということだ。
経理が力を持ち過ぎている会社はダメになる。経営者に知恵と想像力が無くてもダメになる。
経理が権力を持ち銀行のほうだけを見、経営全体は真の意味で顧客を見ていなかった。
現場の第一線の社員だけが各個で涙ぐましい奮戦努力をしていたのだ。



きっと心得帖はとても良い冊子で、このブログでもいくつか紹介した。
しかし改めてよく見ると「無断複製・転記を禁ず」とある。
先ほど「ブログでいくつか紹介してもよろしいでしょうか?」と聞くために、
記載された電話番号にかけたら「この電話番号は現在使われておりません」となってしまった。

今まで書いた分はお許しいただこう。(今後は未定)
今夜はお世話になった藪下雅治先生を偲んで黙祷し献杯する。
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ホワード回顧録 佐野物流センターから「無能なリーダー」を述べる。

2020年08月05日 | 藪下雅治「きっと心得帖」


藪下雅治 プロフェッショナル「きっと心得帖」 
第5章 リーダーシップ 50-51頁より

5-1 リーダーとは変化を起こす主役のことをいう。
5-2 タイムリーな情報が人を動かす。リーダーとは、人々にとって必要な情報を、適切に伝える人である。
5-3 リーダーは目標を明示せよ。くりかえし、くりかえし明示せよ。全員が同じ方向に進むとき、最高のチームワークとなる。
5-4 教育とはくりかえしである。くりかえしによって、やっとよい習慣が身につき、それがやがて伝統になる。
5-5 部下に無能者はいない。部下を使いこなせない、無能なリーダーがいるだけだ。
5-6 発言する前に、まず、現場で事実を調べよ。本当はどうなっているかも知らずに、意見を述べたり、命令すれば、部下はついて来ない。

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29才で東亜特殊電機を退職し、早稲田大学のシステム科学研究所で1年間、システム設計を勉強し、
30才で再就職したのが今は無き、衣料中堅卸商社のホワード株式会社(本社は大阪)の東京店(通称は東京ホワード)だった。
最初は子供服の担当などしていたが、私にファッション関係の仕事が不向きなのは明らかだった。
今から30年以上も前の事である。

東京ホワード勤務の時に、突然、子供洋品課の課長からシステム開発室に移動になった。
名前はシステム開発室だが、当時のコンピューター部門とは何の関係も無かった。
役目役割が不明確で会社の中での位置づけもはっきりしない妙な部署であり立場だった。
つまりは、体よく主戦力から外され閑職の身になったというわけだ。

当時の東京ホワードは、Tという沖縄出身の人物が総責任者だった。店長という肩書である。
何の取り柄も無い男なのだが「会社創立以来で最初の大学出」ということで上からの評判は良かった。
えてして潰れる会社というものは、このような優柔不断のイエスマンが気に入られるものだ。
優柔不断な人物が、とんとんと出世してトップになり、結局時代の変化に乗れずに会社を潰してしまうのだ。

当時、サチコクラブというブランドが無茶苦茶に売れていた時期でもあり、
物流センターを郊外に持ちたいとの構想があったらしく、
「どこかに良い物件が無いか探してきて欲しい」とT店長に命じられた。
私は「何でもやります課」みたいな立場だった。

今でこそインターネットで何でも調べられる時代だが、
当時は不動産屋の情報や業界紙、実際に地元を回って足で調べるしか無く、
郊外の物件を調べるという作業は、けっこう大変な労力であった。

特に条件を出されなかった(というのも妙な話なのだが)ので、
自分なりに勝手に会社の物流の内情を考え、
東京の日本橋から車で1時間圏内、坪数150坪前後、駅からバスで行ける・・・などを想定して調べた。

良さげな物件があれば地図を片手にバイクで現地に足を運んだ。
実際に現地に行って、地元の不動産情報を閲覧し、見取り図を描いたり写真を撮ったりしたが、
季節は真夏で、アスファルトの照り返しの暑さに耐えきれず、ふらふらになった記憶もある。
(バイクでの出張は禁止されていたので、ほとんど休日を使って行動していた)
(バイクでしか迅速な調査は不可能だったということもある)

横浜、町田、八王子、千葉、我孫子、水戸、大宮など、候補はいくつかあがった。
大宮の物件が手頃だと思ったので、写真や図面と一緒に提案書を提出すると、
「近過ぎるなあ・・・」とだけ言われて却下された。

「近いと何が悪いんですか?」と尋ねたら「家賃が高いと思う」という。
大宮の物件は他よりも安かったので内心不満だったが、
「これより安くとなるとかなり遠くになりますがよろしいですか?」と聞くと「かまわない」と言う。

またもや物件探しの作業が始まった。調査範囲は遠方に延びた。
再度報告書を提出し、やっと決まったのが、栃木県の佐野市大橋町の元ダンスホールの建物である。
建物が150坪程度あり駐車場も200坪で、家賃も100万もしなかったと記憶している。
元の建物は「大橋ダンスホール」として戦後ずっと使われてきた物件だった。

言われたままに探して決まった物件。

これをT店長は持て余した。
遠い。電車で2時間以上、車で1時間半以上はかかる。
ブランドのサチコクラブも勢いを失い、佐野物流センターは閑古鳥だった。
佐野物流センターの責任者と2名のパートさんは毎日、倉庫の掃除ばかりしている始末だったのだ。

ある日、「あそこで物販出来んやろか?」とT店長に言われた。
「出来ないことは無いですが、卸が物販やるには卸団地の中でしか成功しませんよ」と答えたが、
「何でもいいから、佐野で物販やるよう考えてくれ」と言われた。これは命令だった。

(卸団地の中で、問屋が、素人向けに販売会をすると格安さが演出出来るのである)

で、佐野で衣料や雑貨を中心に2か月に1回の販売を行った。
その都度、ちらしを作ったり、商品の値付け、梱包、そして現地に持っていって陳列し、
終れば後片付けして梱包して東京に戻すという考えてみたらすごい作業量をこなさなくてはならない。
そのくせ、客単価1000円~2000円の安物売りでは全体の売り上げも伸びない。
たしか1日せいぜい100万円の売り上げではなかっただろうか?

「労力の割りには売り上げも利益も出ない」と幹部の間では文句たらたらだったが、
それに対してT店長は「あれは粕井部長がやってることやからなあ」と答えたのだ。(とウワサで聞いた)

結局、彼のやり方は「成功したら自分の手柄、失敗したら部下の責任」だということだ。
曖昧な命じ方をし、決断はせず、業を煮やしてこちらが「こうしましょうか?」と言うと、それで良いと言う。
彼の中では「自分が決めたことではなく押し切られたことなのだ」となってしまうのだ。

私のせいにされたと聞いたので「戦略的に方向が見えませんからもう止めましょう」と具申したら一発でOK。
その後、このT店長は会計のミスと、サチコクラブの不良在庫の隠ぺい工作がバレて失脚し退職した。

退職してホッとしていたら、当時の会長(伯父で大株主)に泣きついていたらしい。
数年後に、今度はホワードの社長に返り咲いた。これには本当に驚いてしまった。
その後、当たり前のことだが何をしても失策が続き「社長室で居眠りばかりしている」と評判になった。

結局最後、ホワード株式会社は断末魔の悲鳴を上げ、他社に身売りして解体し今は無い。
無責任な者がリーダーになることほど会社に取って不幸なことは無いのだ。

もともとサチコクラブというブランドも、
「売れている今こそ、ホワードから切り離して原宿で育てませんか?」と提案したのだ。
「そんなことをしたら売り上げがガタ減りしてしまう」と却下された。将来よりも今しか見ていなかった。
あれは今思っても残念だった。東京ホワードが大化けする絶好の機会でもあったのだ。

変化を起こせず手柄は独り占め。
「馬鹿な大将、敵より怖い」という実例でもある。
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何も決定しないことは、誤った決定よりもなお悪い。

2019年05月08日 | 藪下雅治「きっと心得帖」


ちょうど1年前に、経営コンサルタントの藪下雅治先生の事を書いた。

籔下雅治(やぶしたまさはる)きっと心得帖
https://blog.goo.ne.jp/kendokun/d/20180508

何か書こうと思って1年が過ぎてしまった。
時々は何かしら書いていきたいと思う。

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プロフェッショナル きっと心得帖 5章「リーダーシップ」の19番。
何も決定しないことは、誤った決定よりもなお悪い。

以前の職場(衣料問屋、F社)で部長になり、初めて会社の役員会の書記をした。
30代の終わり頃だったと思うが、かなり張り切って参加したことを憶えている。

内容は拍子抜けで、レジュメ(発表用の要約)以上の内容は無く、
最後は数名のウンチク自慢で終わってしまう事が多かった。
方針も何も無い。叱咤も激励も無い。

当時、特に気になって心配していたのは、
「いちばん商品」というブランドらしきものを、
全社をあげて開発しようという時期であったことだった。


(写真はF社の肌着部門の「いちばん商品」の一つ)

全社一丸で取り組むべきもののはずなのに、
実質は、商品開発を各部門の商品担当者個人に任せっきりで、
総合的統合的に商品群を組み立てようという具体的な計画が無い。

あまりに不安になって営業担当のYという常務取締役に、
「いちばん商品はブランドですよね?」と聞いたら「ブランドでは無い」と言う。
少なからず驚いたが、ようするに「ブランドは作るのではなく、
育っていくとブランドになる」ということらしい。
頑張っていれば強くなるという発想だ。

何を言ってるのかさっぱりわからなかったが常務には歯向かえない。こっちは部長だ。

そんなわけで、せっかくのブランドに成るべくして取り組んだ「いちばん商品」も、
タオルはタオルの部門、肌着は肌着の部門、靴下は靴下の部門、
それぞれ、てんでバラバラに開発してしまった。
客層も価格帯も品質も不明瞭な商品群が出来が立ってしまったのだ。

商品開発者ごとに、想定する消費者や生活シーンがバラバラなのと、
依頼するメーカーに偏りが有りすぎるので、
適当に商品化してしまった感が否めないのである。
商品化の時期も、ロットも価格帯もバラバラで、
会社として売り込めるようなものに育たなかったのである。

その頃のF社の役員会議の最終結論は社長の訓示で終わるのが通例で、
「それぞれが、それぞれの立場でよく考え頑張ってください」だった。

もしあの時、社長が本気で取り組んで、

「いちばん商品を何としてでもブランドとして育て上げる」
「いつまでに対策室、もしくは委員会を発足させ、いつまでに商品化せよ」
「生活シーン、そして客層、グレードを明確にして統一しろ」
「対象とするお得意先(小売店)はこのような店を想定しよう」
「売り場のレイアウトや陳列、広告はこのようにしよう」
「イメージ、カラー、コンセプトを練り直せ、妥協するな」

などと具体的に議論を重ね、決定し、尽力を注いぎ、状況を見て修正し、
継続した努力を続けていれば、急速に落ち込んだF社の低迷は無かったのだろうと思う。
そのあと私が役員になって発言権を得たのだが、何をしても手遅れの状態だった。
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籔下雅治(やぶしたまさはる)きっと心得帖

2018年05月08日 | 藪下雅治「きっと心得帖」
商業界という小売、流通などに関する出版社がある。
30才になったばかりの時にホワード株式会社に再就職し、
商業界絡みで籔下雅治(やぶしたまさはる)氏のセミナーに参加した。
もう30年以上も前の事である。

その時の教材かと思うが「きっと心得帖」という冊子がある。
手帳ほどの大きさで手元に5冊ある。
先日の事務所の片付けの際に机の奥から出てきたのだ。

いま読み返してもとても面白い。
面白いし「なるほどなあ」と思える事がたくさんある。


(籔下研究所、籔下雅治きっと心得帖)


(ある1ページ)

付箋の付いている箇所がいくつかある。一部だけ紹介する。
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どんなことでも100の事例を知っていたらベテラン。
200の事例ならエキスパート。300の事例でオーソリティ。
500の事例があれば本が一冊書ける。

周囲の人に自分の存在を認めさせる第一歩は肉体的な努力から始まる。

自分を他人と比較しても進歩はあまりなく、悩みが増えるだけ。
自分を比較するのは、自分の目標とだけにせよ。

あなたでなくても出来る仕事を、あなたがやっているから、
あなたでなければならぬ仕事が、出来ないのではないか。

何でもその場で覚えよ。あとでもう一度やってみればいいと思うな。

知っていることと実際にそれができることとは違う。その間隔は想像以上に大きい。
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身近においてもう一度読み直したいと思う。
籔下雅治先生はまだお元気でおられるだろうか?
先生、私はまだまだ頑張ります!


籔下雅治(やぶしたまさはる)
昭和3年生まれ。旧陸士を経て新潟大学経営学専攻研究生修了。
経営コンサルタントとして藪下研究室主宰。
チェーンストアを中心とした計数分析・能力開発・人材教育など、
多岐にわたり多数の会社を指導中。
パーソナルコンピューター・写真・仏像鑑賞・古寺巡礼等々、趣味も幅広い。
著書多数。
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