ある本を読んでいて、エスニックとネイションの意味が混乱してきて、
ネットで違いを調べていたら「ねずさんのひとりごと」にたどり着いた。
ねずさんのひとりごと「民族という名の危険な思想」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2903.html
Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
連絡先: nezu3344@gmail.com
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんのひとりごと」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「奇跡の将軍樋口季一郎」、「古事記から読み解く経営の真髄」などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長?倭塾 塾長。
日本の心を伝える会代表?日本史検定講座講師&教務。
(著書)
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』?
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』
『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦
『ねずさんと語る古事記 壱?序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
最新刊
『ねずさんと語る古事記・弐?天照大御神と須佐之男命、八俣遠呂智、大国主神』
ねずさんのひとりごと「民族という名の危険な思想」
先に、今日のお話を要約しておきます。
1 日本語の「民族」という言葉には、ネイションとエスニックの両方の意味がある。
2 ネイション(Nation)は、国家である。
3 エスニック(Ethnic)は、同一の文化集団である。
4 ネイションは国家だから「国民」の特定ができるが、エスニックはその特定ができない。
いきなり、硬い話でごめんなさい。
けれど、実はこのことが、沖縄問題をはじめ、世界中の様々な混乱や紛争を引き起こしているのです。
「民族」を辞書で引くと、「人種的・地域的起源が同一または同一であると信じ、言語・宗教などの文化的伝統と、歴史的な運命を共有する人間の集団」と書かれています。
ところが実はこの「民族」という思想こそが、きわめて危険な思想です。
なぜなら「民族」は、どの人なのか特定も線引もできないからです。
血族なら、誰が親なのか証明が可能です。
昔はこれを「姓」と言ったわけで、「姓」というのは女性から生まれたという字です。
同じひとりの特定の女性から生まれた血縁集団が「姓」です。
氏族も、同じ素性を持った人たちですから、これまた証明が可能です。
甲斐の武田家の家臣団であれば、誰と誰と特定ができます。
ところが民族になると、早い話が先般、沖縄の翁長知事が国連までわざわざ出かけて行って、「琉球民族は日本民族とは異なる」などと発言してきましたが、では、その琉球民族とは誰のことなのか、この特定ができません。
沖縄県出身者という意味で言っているなら、東京にも大阪にも札幌にも福岡にも、沖縄県出身者はいます。
いま沖縄に住んでいる人という意味なら、本土から移り住んだ人や、選挙工作やデモのためにアルバイトで入り込んでいる左翼の工作員たちも琉球民族です。
もちろん先祖代々の沖縄出身の方もおいででしょうけれど、ではそういう方が本土の人と結婚したら、生まれた子供は琉球民族なのでしょうか、それとも大和民族なのでしょうか。
昔、朝鮮半島が日本の領土だった頃、朝鮮半島は支那大陸と陸続きですから、当時多くの朝鮮人が支那にいました。
彼らは華夷秩序思想によって、日頃支那人から馬鹿にされ続けていたのですが、その支那の王朝である清が日本との戦争で負け、朝鮮半島が日本に併合され、朝鮮人が日本人になると、俄然、彼らは自分たちは「日本人」であるからと、支那人たちに横柄な態度をとるようになり、一方で、支那人たちの家を襲ったり、女性を強姦したりしはじめました。
怒った支那人たちは、集団で朝鮮人狩りを始めるのですが、そうすると彼らは日本軍や日本人のもとに逃げ込む。
結果、日本人まで支那人たちから恨まれる・・・とこれが実は支那事変の引き金になっています。
一部の朝鮮人たちは、民族自決・朝鮮独立と称して、日本国内でテロ活動をしていましたが、その多くはただのやくざ者であり、欲望のままに日本国内で窃盗や強盗、強姦をする行為を「民族自決のための運動だ」と自己正当化していただけの連中です。
他の多くの朝鮮人は、日本の教育を受け、むしろ立派な日本人になろうと努力をしていたというのが実情ですし、日本人と結婚し、日本人として生まれた子供も、当時もたくさんいたわけです。
要するに「民族」と言い始めると、これは支那朝鮮や沖縄問題やアイヌ問題に限らず、これは世界の、たとえばウクライナ問題、シリア難民問題、ヨーロッパの火薬庫と呼ばれるバルカン半島問題、アフリカにおける各地の民族問題等々、実はその意味するところがきわめて曖昧であるがゆえに、結果として、血を見る激しい戦いや紛争を生んでいるのです。
さらに言いますと、「民族」という概念が、国家そのものを崩壊させたという過去の実績もあります。
米国の第28代大統領のウッドロウ・ウィルソンは、第一次世界大戦の末期の1918年に米議会で「十四か条の平和原則」を発表し、この中で「民族自決」を唱えました。
このときのウイルソンの「民族自決」は、敵対する国家(ドイツ帝国・オーストリア・ハンガリー帝国・オスマン帝国)等の領土解体を目論む発言だったのですが、このときの「民族自決」の語だけが拡大解釈され、朝鮮独立派や、満州国成立への反対派にいいように利用され、朝鮮人があちこちで反日工作を行ったり、日本国内でテロを仕掛ける温床となっています。
ちなみにウイルソン大統領の発言の5年後の関東大震災では、そうした朝鮮人民族自決派が、震災を契機として首都圏のあちこちで火付け盗賊をはたらき、結果として震災後の火災によって約10万5千人の死者をもたらしています。
この関東大震災については、以前にもお話しましたが、震災による一次被害による死者は1万人程度です。
それが10万人に拡大したのは、震災後の火災が原因ですが、震災そのものによる火災は、震災直後に大方鎮火しているのです。
それが、人々が避難所に非難したあとに、なぜかあちこちから出火しています。
いまの在日の「朝鮮民族派」の方々は、関東大震災によって朝鮮人6000人が殺されたと主張してはばかりませんが、自分たちの中の独立派が、日本人10万人を殺害しているのです。しかも殺されたという6000人の具体的根拠はありません。
日本は緻密な国なので、大規模震災等においても、死者の数は何人という一桁の単位まで正確に把握されています。
残念ながら、6000人の朝鮮人の名前の特定はできません。
できないということは、「なかった」といことです。
つまり、6000人殺害事件は、まるでお話にならないファンタジーでしかないということです。
さて、ウイルソンの「十四か条の平和原則」は、まったくウイルソンの予期しないところで、多くの命を奪ったわけですけれど、実はそれだけにとどまらず、いまでも世界各地のいわゆる「民族紛争」なるものは、ことごとくこの「民族自決」という思想が元です。
ちなみにこのときに、ウイルソンが述べた「民族自決」の意味するところは、ドイツ帝国やオーストリア・ハンガリー帝国・オスマン帝国など、複数の「ネイション(Nation・国家)」を併合した巨大帝国は、それぞれの国に分割せよという意味です。
実はここが非常にやっかいなことなのですが、日本語の「民族」という語の意味するものと、西欧における「Nation)」では、語彙が全然異なります。
もともと西洋社会はたいへんに暴力がさかんで、常に上か下かの競争と殺し合いが日常的、恒常的に発生し、一般の民衆が常に身の危険に晒されていたという歴史があります。
このため中世ヨーロッパでは、平均寿命も24〜5歳だったりしています。
こうした厳しい環境の中にあって、自分たちの身を守るために、すすんで王の庇護下にはいる。
王は民衆を守る義務があり、民衆はその見返りとして税を払う。
これが、王の主権のはじまりです。
王の庇護下にある領土領民を守るために、王は進んで主権者として他国と交戦するし、領土を広げ、あるいは植民地をなし、他国から金品を奪って自国の繁栄を図ります。
いいとか悪いとかではなくて、そうせざるを得なかった事情が、西欧社会の歴史にはあったのです。
こういう次第ですから、強い王の下には、いろいろな言語を話し、様々な血縁共同体があり、またときには宗教さえも、同じキリスト教徒とはいっても、カトリックとプロテスタントでは、まるっきり教義が異なるのですけれど、そうした宗教の壁さえも越えて、自分たちの安全をはかるために、様々な地域の様々な人たちがひとつの王のもとに集いました。
たとえばフランスの場合であれば、もともとフランス語を話したのはフランス北部に発生したフランク族だけです。
英語で「フランク(Frank)」といえば、率直といった意味いなりますが、映画『指輪物語』に出てくるエルフ族のように、王が髪の毛をロングヘアに伸ばし、他の者は後ろ髪を刈り上げるといった特徴のある格好をした一族がフランク族です。
このフランク族は民族ではなくて、複数の血族が集まった戦闘集団で、これが次第に勢力を伸ばし、オック語やピカルディ語、ブレイス語、アルザス語、フラマン語など、77種類もの異なる言語を話す人々の住むエリアを次々併合し、ブルボン王朝のルイ14世の時代に最大版図となったエリアが、いまのフランスです。
要するにフランスは「国家(Nation)」です。
これに対して、フランス国内にもともとあった77種類もの異なる言語を話す人々は「エスニック(Ethnic)」として区別されます。
ただし、エスニックは、きわめて曖昧なもので、早い話が日本人でフランスに住み、フランス語を流暢に話す人は、日本エスニックなのか、それともフランス・エスニックなのか。
逆に、深く日本を愛し、日本語を日本人以上に流暢に話し、日本文化への造詣が深く、日本国籍を持っているフランス人は、日本エスニックなのか、それともフランス・エスニックなのか。
要するにフランスに住んで、フランス国籍を持っていれば、フランス語を話せなくてもフランス人だというのは、ネイション(Nation)の考え方です。
フランスに住んでいて、フランス語を話しても、日本人は日本人だというのなら、それはエスニック(Ethnic)の考え方です。
しかし、そのエスニックたちが、当該国の内外で、独立運動や自決運動を始めたら、これはもう収拾がつきません。
国家(Nation)が解体してしまいます。
かつて満州国では「五族共和」が国家的スローガンになりました。これは「5つのエスニック(Ethnic)」がともに暮らす「国家(Nation)」という意味です。
「民族自決」ではなく、異なるエスニックが、一体となって平和に暮らせる国家(ネイション)を営もうとする意思と思想が、この言葉に込められています。
ところが日本語の「民族」という言葉は、このあたりの定義が非常に曖昧です。
満州国人(ネイション)という意味でも「民族」という語が使われるし、満洲国民であるモンゴル人(エスニック)という場合でも「民族」の語が使われます。
日本語における「民族」という語は、同族意識を持ち、同種の文化・伝統・慣習を有する人間集団として用いられる用語ですから、概念としてはきわめて曖昧なのです。
問題は、「エスニック(ethnic)」が、「民族自決」を言い出したときに生まれます。
たとえば冒頭のように沖縄の翁長知事が、わざわざ国連にまで出かけて行って、
「沖縄エスニックは、大和エスニックによって、意思に反して無理やり併呑されたのだ」
などと述べます。
日本語で聞くと、さももっともらしい言説に聞こえますが、これを英語圏などの西欧諸国の人が聞くと「?」マークが点滅しますし、本来の意味合いからすれば、意味不明です。
沖縄の人たちが「国家(Nation)」というのなら、彼らは、まごうことなき日本人であり、今現在日本の一部として政治的に一体となっています。
沖縄の人たちが「ethnic」というのなら、その「ethnic」ごとに国家が独立しなければならないのなら、フランスなどは、それこそ77カ国に分割しなければならないことになります。
アメリカ合州国のように、そもそも多民族共同体としてスタートした国家も解体せざるをえません。
日本にしても、会津人、鹿児島人、上州人、関西人、関東人など、それぞれに微妙に異なる文化・伝統・慣習を持っていますが、それらを異なる「エスニック」と考えるなら、それぞれが民族自決のための独立運動の対象となります。
もっといえば、武家と農家、商家では、文化・伝統・慣習が異なります。
さらに言うなら、お隣のお宅と、自分の家では、文化・伝統・慣習が異なるし、親子兄弟姉妹においても、それぞれに個性があって違いがあります。
要するに「ethnic」を言い出したら、きりがないのです。
きりがないということは、「琉球 ethnic」が、国家として独立主権や排他性を持とうとするということは、そもそも、どっからどこまでが「琉球 ethnic」を示すのかという定義さえも曖昧なわけですから、こうなると、もはや殺し合いと暴力によって、上下と支配を打ち立てるしかなくなってしまうのです。
定義ができないのです。
ですから、誰か「これが琉球 ethnic だ」と言い出す人がいて、その人が認める者が「琉球 ethnic」であり、そうでない者を排他するなら、血で血を洗う決着しか出来得なくなってしまうのです。
つまり、翁長知事のいう「琉球民族自決」というのは、実は、たいへんに暴力的で危険な思想であるということなのです。
「民族」というものが、血族を示す言葉であれば、「何親等までを血族とする」という線引も可能です。
あるいは氏族であれば、「◯◯家の人々」として特定できます。
けれど「ethnic」は、文化・伝統・慣習を同一にする人々という意味であって、特定ができないのです。
コリアンも同じです。
コリアンは、かなり血の密度が濃い人々であって、血族性の高い人たちであると言われますが、では、どこからどこまでがコリアン・エスニックなのかというと、これまた曖昧です。
もともとコリアンというのは、単一民族でもなんでもなくて、語族そのものが6種に別れ、民族的にも扶余系、濊族系、高句麗系、百済系、新羅系、済洲系と、まるでエスニックが異なる人々でした。
これを、ひとつの語族、ひとつの文化、慣習にまとめあげたのは、実は日本で、日本統治時代に、朝鮮における標準語を確立し、ハングルを日本が復活させ、服飾文化や住居文化、あるいは食文化なども、日本がひとつにまとめあげました。
それまで、朝鮮半島には李氏朝鮮王朝がありましたが、その李氏朝鮮王朝は、朝鮮半島内にある異なるエスニックの頂点に立って、エスニック相互の交流を分断することで、政権の安定を保っていたわけです。
これを日本は、彼らに朝鮮人としての誇りをもてるように、朝鮮半島の歴史が始まって以来、はじめて、朝鮮人という文化意識を彼らに植えつけたわけで、こうして生まれたのが、実は「朝鮮人」という民族です。
これを「民族」という用語で語ると、たいへんにわかりにくいですが、ネイションとエスニックに分けて考えると、たいへんにわかりやすくなります。
もともと朝鮮半島では、李氏というひとつのエスニックが、朝鮮半島内にある他の5つのエスニックを束ねて王朝(ネイション)を築いていました。
ところが朝鮮半島を併合した日本は、李氏朝鮮王朝を正統なネイションとして扱い、朝鮮半島にある異なるエスニックもまとめて、ひとつのエスニックとして統合しようとしました。
朝鮮半島がネイションではなく、日本ネイションの一部となったわけですから、日本はそのようにしたわけです。
こうして日本統治によってはじめて生まれたのが朝鮮エスニックです。
つまり、日本がやってくるまでは、朝鮮には、朝鮮エスニックは存在していないのです。
それまでの朝鮮半島は、さきほども述べましたように6つのエスニックが、ひとつのネイションに統合されたところだったのです。
その意味では、これは私の個人的見解ですけれど、日本の朝鮮統治は失敗したと思っています。
むしろ朝鮮は、ひとつのエスニックに統合するのではなく、半島を6つの県に分解して、それぞれのエスニックの文化を蘇生、復活させ、それぞれのエスニック毎に郷土愛を育むべきであったのではないかと思っています。
多くの日本人は、いまでも、このエスニックとネイションの区別がついていません。
「民族」という便利な用語で、エスニックとネイションの両方をひとまとめにしてしまっていることに安住し、エスニックの独立という言葉の持つ恐ろしさに気付いていません。
それどころか、「国家(Nation)は民族(ethnic)ごとに独立しなければならない」などと、まったく意味不明の論理のパラドックスの中に入り込んでいます。
この理屈は、戦前の朝鮮独立派の不逞朝鮮人のバカ者どもとまったく同じ発想にすぎません。
同じ会社で働くA君とB君が、それぞれエスニックを言い出したら会社組織は成立しません。
「お前とは生まれや出身や信仰や生活習慣が違うから、一緒に仕事ができない」などという、そんな主張を真に受けていたら、まともな経済活動など成立しません。
同様に、同じひとつのネイション(国家)の中にあって、互いにエスニックが異なるから一緒にやっていくことはできないなどと言い出したら、これまた国家など成立しえません。
日本語の「民族」には、ネイションという意味と、エスニックという意味の両方が内包されています。
このことを明確にしないで、ただ「民族」を言い出すのは、国家解体を唱えているのと同じことなのです。
※今日のお話は、新しい歴史教科書をつくる会主催「日本史検定講座」における、宮脇淳子先生、倉山満先生の講義をもとに、私なりに考えをまとめたものです。
2016/01/29(金)