稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

餅つき・年末のご挨拶(2019年12月31日)

2019年12月31日 | つれづれ
恒例行事である12月30日の餅つきも無事に終了しました。
今年も本当にお世話になりました。

本日は餅つきの写真です。
母方の扇田家から受け継いだ推定100年以上の伝統ある行事です。



































来年が、本当によいお年になるよう心から祈りまして、
年末の挨拶に代えさせていただきます。

今夜は年越しそばでも食べておとなしくしております。
一年間、ありがとうございました。
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件名「アカウントとオファーは一時的に禁止されます。」という詐欺メール

2019年12月30日 | 詐欺、迷惑、防犯、防災、危機管理
下記のようなメールが届いた。
件名は「アカウントとオファーは一時的に禁止されます。」とある。
これは詐欺メールである。間違いない!
個人情報の再登録という文字にはリンクがしてあるが、絶対にクリックしないように!



テキスト表示だと下記のようになる。
-----------------------------------------
不正なユーザーがAmazonアカウントにアクセスした可能性があると考えています。したがって、アカウントへのアクセスを一時的にブロックし、オファーを無効にします。相手がどのようにあなたのアカウント情報を取得したのかわかりませんが、次の方法が考えられます。
-マルウェアを使用して、ユーザーのキーボード入力アクションを検出します。
-頻繁に使用するパスワードを使用します。

したがって、個人情報を再登録し、私たちにIPおよびログイン環境の監視を許可する必要があります。その後、不正なログインがブロックされ、パスワードを変更せずにAmazonアカウントを安全に使用できるようになります。

<http://cert-account-recovery-support-amazn.com/>個人情報の再登録

Amazonに対する信頼に感謝し、より良いサービスの提供に努めていきます。
よろしくお願いします。

xZP
-----------------------------------------

リンク先はフィッシングサイトで、決して個人情報など入力してはいけない。
似たようなメールは件名を変えて毎日のように来る。

決して信用しないように!
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道場での座る順番について

2019年12月29日 | 剣道・剣術
この文中の用語説明:
上座(道場の位置としての上座)
上(かみ)は、同じ列の上座、下(しも)は同じ列の下座

1例:長正館
長い間、高段者が固定化していて決まりは無かった。(と思う)
私が五段の頃、若手のN村さんが先に六段に受かった。
いつもの通りN村さんの上に座っていたら「そっちに座られるんですか?」と言われ下に下りた。
しばらくして同じ六段になっても順番はそのままで私が下に座っていた。
私のほうが先に七段となり「すみませんが上に座らせてもらいますよ」と断り上に座った。

2例:宝剣会
七段以上は先生だということで上座に座るのが決まりだった。
私が七段に受かった時に「まだ教士では無いから」という理由で下座のまま。
教士に受かったら「まだ若いから」という理由で下座のまま。
全員いっしょに年を取る。きっとこのまま変わらないと思う。

3例:なんば養正会
私より若い七段が入会してきた。
20年以上も在籍している会なので、道場では私が先輩だし年上だし、いつも通りに上に座る。
師範から「八段を受けている七段が上だ」と言われ下に座り直す。

4例:往馬玄武会
上座(先生の席)は無い。同じ一列での上・下(かみ・しも)のみ。
段位や在籍に関係なく年上が上に座る。出稽古の人も同じ扱い。

5例:木曜会
私は古参だが七段を取ったばかり。そこに私より若いベテラン七段が入会する。
師範は迷わず、即座に若いベテラン七段を上に決めた。

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考察

道場の席順は実に悩ましいもので、
段位、称号、年齢、その道場での在籍年数、段位に関係なく実際の強さ、
道場への貢献度、師範との関係、剣道界での地位などが微妙に複雑に絡み合い、
お互いがあれこれ忖度しながら自分の位置を決める場合が多い。

特に段位や称号は、その合格した年までは把握出来ない場合が多く、
だからと言って、お互いが確認しあって位置関係を決めるものでも無い。
お互いに気を使い過ぎるのもおかしいし、変に気まずくなってもつまらない。

1例のように、段位が抜きつ抜かれつする場合が一番難しいと思う。
同じ段になったら、若手のほうが「どうぞどうぞ」と譲り、
年上のほうが「いえいえこのままで構わない」と遠慮するのが良いと思うが、
気まずい気持ちもあるので年上のほうが上に座ったほうが道場としては落ち着く。

まあそれにしても決まらない場合や、妙に気まずい雰囲気になった場合は、
第5例のように、師範が順番を決めてしまうのが、全員一番すっきり納得すると思う。
新しい人が来たら、その時その場で即決するのが望ましい。

個人的には、細かい順番など、どうでも良いのだと思う。
稽古の中では下に座っていた人を上に立ってもらって稽古をお願いしたりもする。
順番がどうであれ誰にも劣らない気位のある立派な剣道をすれば良いだけだ。


(2017年7月、長正館での集合写真、記事とは関係ありません)
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なんば養正稽古納め・チャンピオンのぎょうざ(2019年12月27日)

2019年12月28日 | 剣道・剣術


大阪は難波駅近くのエディオンアリーナ大阪(府立体育会館)。

なんば養正会のホームページ
http://doujyou.net/youseikai/

本日、養正会の稽古納め。自分にとっても稽古納め。全員で30名ほど。
自由稽古(地稽古)から参加した。10人ぐらいと40分の連続稽古だ。

気迫と構え。打つ前のスイッチ。これが本日の課題である。

小手を打ってくるのを摺り上げて打つ機会があったが、
どうしても受けっ放しになってしまう場面が多かったと思う。
摺り上げずに「受ける」という形になっている。

少しでも「待つ」という気持ちが強いと出遅れる。
力が入りすぎているのと手首が固いせいなのかも知れない。

終了後に太田師範から並び順について注意を受け並び直した。
道場での並び順についての一般論はまた別の機会に述べてみたいと思う。


(基本稽古)


(稽古終了)


(終礼後の残業稽古)

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帰りに深江橋のぎょうざ専門店「チャンピオン」にギョウザ2人目を注文する。
難波から深江橋までが車で約20分。焼きあがりを受取れるのだ。
自宅は奈良なので冷めてしまうのだが、ここのギョウザが一番好きである。
暖めなおすのも面倒なのでそのまま食べる。冷めてもムチャ美味い!お勧めの一品!


(チャンピオンのギョウザ)

ぎょうざ専門店チャンピオン
今里本店 大阪市生野区中川西1-17-13 電話 06-6716-0089
上新庄店 大阪市東淀川区小松2-4-34 電話 06-6326-5945
小路店 大阪市東成区大今里南6-24-11 電話 06-6977-6666
深江橋店 大阪市東成区深江北1-1-29 電話 06-6974-


(2人前で630円だが、電話代ということで10円返してくれたので620円)


(これから一杯飲むところ)
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木曜会定例稽古(2019年12月26日)

2019年12月27日 | 木曜会(誠先生の剣道教室)

(早く来た者は自主的に剣道形の稽古)

四條畷市立四條畷西中学校の体育館。
20時過ぎから21時15分まで。
今年43回目。稽古納め。参加人数15名ほど。

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---素振り---
構えたままの形で振りかぶること。
振り上げた時に脇が空かないように。
振り上げた時に首が前に出ないように。
左のヒカガミを伸ばしたままで前後すること。
足と手の動きを一致させること。

---面を着けて---
相手の未発未萌(みはつみぼう)のところを打つ。
間合に入るには右足はゆっくりでも良いが左足の引き付けは速くする。
入るときに身体を垂直に保ち頭を上下させないこと。
入った時は中心を割っておく。すぐ打つのではなく溜めを入れて打つ。

●中心を取って面を打とうとする→相手は面を防ごうとする→そこを小手
最初から小手を狙うのでは無い。面を狙いながら(防がれるので)小手。
(右手で打とうとしないで左手を上げ始めて面を打とうとしたところから小手を打つ)

相手が出よう、打とうとしたところしか勝機は無い。
鎬で感じながら攻め返して打つ。
出るところを攻め入る。出ようとしたところを攻め返す。
押さえないでそのままの形で中心を取る。
相手が出てきてからでは遅い。スイッチは入れておく。

●イ~チ、イチ、ニの稽古
残心が速いと見栄えがする。余裕が感じられる。

●歩み足(相手を呑みながら)で打ち間に入って返し胴
相手をなめきった気持ちで間合に入るぐらいの余裕を持つこと。

●面4本に対するイ~チ、イチ、ニの技
自分から間合に入ること。中心を取ること。


(稽古終了)


【感想・反省点】

お相手が高段者だと元立ちになっても勉強になる。
最後の面4本に対する応じ技は考えていると遅れるのでともかく入る。
入ったあとは身体に任せる・・・
のだが、技のバリエーションが無いのと未熟なせいでうまく行かない場面多し。

きょうも攻め返しの部分を繰返し何回も出来たので非常に良かった。
何回も何回も繰り返すことによって自分のものになるのだと思う。
来年もより一層頑張りたい。


(稽古終了後の「袴の着装アドバイス」もまた勉強になった)
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捨てる牛乳やパンを持って帰ったら罪になるのか・・・

2019年12月26日 | 食べ物の話など


【2019.12.25 19:00 産経新聞】
給食の残りのパン、牛乳31万円分を持ち帰る 堺市教委、高校教諭を減給処分
https://www.sankei.com/affairs/news/191225/afr1912250034-n1.html
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 堺市教育委員会は25日、廃棄予定だったパンなど学校給食の残食総額約31万円分を自宅に持ち帰っていた60代の市立高校教諭を減給3カ月の懲戒処分としたと発表した。教諭は同日付で依願退職した。

 市教委によると、教諭は平成27年6月ごろから今年6月にかけ、廃棄予定だった給食の残食(パン約千個、牛乳約4,200本)を自宅に持ち帰っていた。用務員の男性に自分のカバンやあらかじめ用意した発泡スチロールの箱に詰めるよう指示していたという。

 今年6月、市教委に告発文書が届き発覚。市教委の調査に、教諭は「廃棄するのがもったいないと思った」「用務員が廃棄する手間を少なくしようと思った」と動機を話した。教諭は11月、持ち帰ったパンと牛乳の実費分約31万円を市に弁済している。
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【2019.12.25.19:42 ABCテレビ】
「家族で食べた」廃棄処分の給食の食パンと牛乳 高校教師が31万円分持ち帰り減給処分
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191225-00024457-asahibcv-l27
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給食で廃棄処分されるパンと牛乳、約31万円分を4年間にわたって持ち帰ったとして、62歳の男性教師が減給処分を受けました。

堺市教育委員会によりますと、市立堺高校に勤めていた男性教師は、2015年6月ごろからことし6月まで、4年間にわたり、廃棄される給食のパン約1,000個、紙パックの牛乳約4,200本を自宅に持ち帰って、家族で飲食していたということです。男性教師は「もったいない」と思う気持ちから廃棄処分を担当する業者に依頼し、1回あたりパン5、6個、牛乳10本程度を用意した箱やかばんに入れて持ち帰っていました。堺市教育委員会は「学校教育の信用を著しく失墜させた」として、男性教師を減給処分にしました。男性教師はすでに持ち帰った給食の代金約31万円を市に返還していて、25日付で依願退職しました。
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う~ん、これはどうなんだろう。
確かに一見卑しい行為には違いないが、捨てる運命のパンや牛乳を持ち帰ったこと自体は、
それほどの悪いことには思えない。私も同じ立場ならやってると思う。

私の小学校(奈良女子大学文学部附属小学校)では給食だった。
給食当番は各自のアルマイトの食器にひしゃくで惣菜を配分する。
これがなかなか難しく、最初は少なめ、あとのは多目となりやすい。
途中で足りなくなったら大変だからと余裕を持って配分する。
最後のほうが多くなるのも不自然なので惣菜は余る。たくさん余る場合もある。

いつの頃からか「余った分は欲しい人が貰って良い」ということになった。
私と、親友のO村君、F川君などは大食らいなので、毎日おかわりを貰った。
給食を残すという事は恥だという時代だった。
食べ切れなかったパンなどは紙に包んで持って帰るのが当たり前だった。
食べ物を捨てるなんてトンでも無い時代だったのだ。

この先生の行為は、行為自体はこれと同じことである。
しかし隠れて(かどうか知らないが)、自分だけ持ち帰るような行為をしたため、
報道だけ見ると一見卑しい行為になってしまったことは否めない。


(第13回全国学校給食甲子園で優勝した兵庫県、養父市学校給食センターの給食)

給食だって少なくとも税金の補助があるはずだ。
余ったからと言って捨てて良い道理は無い。
これは納税者としても納得がいかない。

いやその前に、食べられる食べ物を捨てるという事自体がどうなのか?
日本には食事の前に「いただきます」と言う。これは食物の命への感謝だ。
自分が生きていく上で、他の生物の命を奪ってしまう事への感謝が「いただきます」だ。
そこには「食べ物を粗末にしてはならない」という思いがある。

余ったパンや牛乳があるなら自由に持ち帰って良いルールにすれば良い。

食中毒など問題が起こったらどうするのだとか、
厚かましい一部の者だけが得をするから良くないだとか、
持って帰って再販する者も出てくるのではないかだとか、
必ず文句を言うヤツが出てくるのだが、それは枝葉末節の議論である。

依願退職した62才の男性教諭と言えば私と同世代である。
この男性教諭の親は戦中戦後を育ち、食べ物のありがたさ、大切さを、
小さな頃からこの男性教諭に厳しく教えてきたはずだ。

私の小さい頃はご飯粒一つ残しても叱られたものだ。
教育とは何だ?ただ単に読み書き勘定を教える場では無い筈だ。

余って捨てる物を持ち帰って何が悪い?と言いたい。
堺市教育委員会の「学校教育の信用を著しく失墜させた」は的外れだ。

食べ物に対する感謝を忘れ「もったいない」という美徳を忘れた教育は教育では無い。
ともかく、堺市教育委員会は、この件で、今後どうするのかを示して欲しい。
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デリカスターワゴンの不具合で修理代が21万円超え!

2019年12月25日 | バイク・クルマ


調子の悪かったダイナモ(交流発電機)の交換をした話は以前(10月19日)に書いた。

デリカ、スターワゴンの警告灯が点きっぱなし
https://blog.goo.ne.jp/kendokun/d/20191019/

その他、車検時にもウォーターポンプとイグニッションノズルに漏れが見つかり交換することに。
合計すると、修理費は 21万4,920円にもなった。車検もあったので支払額は30万円を軽く超えた。
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2019年10月18日、ダイナモ不良交換・他:65,230円
2019年12月6日、バッテリー交換、ウォーターポンプ水漏れ修理・他:120,430円
2019年12月20日、イグニッションノズル関連修理:29,260円
----------------------------------------------------------------------------

ウォーターポンプ関係が高額になったのは、交換する際に、
ターボチャージャー、インマニ、エキマニの脱着作業が必要だったから。
数百円のパッキンを交換するのに、邪魔になるものを取り外す必要があったのだ。

車の修理は、部品自体は安くても、工賃が驚くほど高くなることがある。


(部品を交換するために全部バラして外す必要があった)


(外したあとのエンジン)


(劣化していたのはこの先っぽのゴムパッキン)


(パイプごと交換した)


(インジェクション関係の交換)


(この部分のパイプとの接合部分の溶接?が外れてしまっていた)

バラしてみたら別の部分の悪い箇所も見つかることも多い。
古い車を乗り続けるというのはそれなりの覚悟が必要で、
毎年のように修理代がかかってしまう。

私は、走る、止まる、曲がるが出来れば良いので、
外見的なもの(車体のサビ、穴が開きかけている)はあまり気にしないが、
エンジン関係や足回りの不調は気になる。

私のデリカスターワゴンは、25才(初度登録平成6年)の高齢車である。
調子が悪くなるごとに、いつ部品が無くなるかも知れないと思うと不安だが、
出来れば修理不可能となるまで永く乗り続けたいと思っている。
せめて屋根のある駐車場に入れてやりたいという事だけが心残りである。
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がたついた椅子の修理

2019年12月24日 | つれづれ
自宅の食堂で使っている椅子は、千葉に住んでいた頃、奈良に引越しが決まった時に、
鹿島神宮参拝の帰りに茨城県のカインズホームセンターで買い求めたものだ。
奈良の新居の食堂に新しいテーブルと椅子6脚を設置して20年以上が経っている。

確か1つで数千円の安物だが、テーブルと同じウッドハウス的な雰囲気が好きで、
猫が爪とぎにするのでボロボロになってはいるが今でも重宝している。

さすがに20年以上も使っているとガタが出てきて、 最近はギイギイと揺りかごのような動きをする。
さすがに修理が必要かな? 修理が無理なら買い換えようかな?と思っていた。

トイレの通風口の取り付け作業の合間に椅子をバラしてみた。
裏返して座板を止めている8本の木ねじを外す。

あとは木づちでトントン叩くと簡単にバラバラになる。


(バラバラにしたところ)


(愛用の木工用ボンド)

緩んだ接合部に、たっぷり木工用ボンドを付けてあとは元通りに組み立てるだけ。


(ボンドは、はみ出るぐらいたっぷりと)


(組み立てはバラした順序と逆に)


(ほぼ完成)


(少し乾いたら、上から乗ったり木づちで叩いたりして足の長さを調整する)

座板を付ける前、まだ接着剤が固まる前に、 4本の足の長さを同じにするよう木づちと体重で調整する。
これを忘れるとがたつきのある座り心地の悪い椅子になってしまう。


(はみ出たボンドは拭き取っておく)

ボンドが固まったら木ねじを止めて終了。

------------------

しかしね、慣れとは面白い。
ガタつきも無く、しっかり安定しているのだが妙に落着かないのだ。
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ニオイ対策・トイレに通気口を取り付ける

2019年12月23日 | つれづれ
トイレの換気扇を回しても、入ってくる空気が無ければ、
ニオイは外へ抜けないのだと聞いたので「なるほど!」と思ったのだ。

トイレの換気扇はスイッチを切っても5分間は回っていがニオイはさほど抜けない。
入る空気が無ければ換気扇は空気をかき回しているに過ぎないらしい。

それなら空気の穴を開けてやろう!

思いたったらすぐ実行で、ホームセンターに行って、
1個398円の円形の空気穴カバーを2個買ってきた。


(カバーは厚みがあるので半分ほどに切り取った)


(電気ドリルでカバーの直径より小さめの穴を開ける)


(こんな感じ)


(細いのこぎりで穴を大きくする)


(こんな感じ)


(廊下側からトイレを覗き込んだところ)

外見さえ気にしなければ、これで通気口の役目は出来る。


(木工用のヤスリで穴を整える)

穴は多少いびつになったが、カバーにはツバがあるので入ればOK。
なお、後から気づいたが、もう少し内側に穴を開けると木枠から外れるので作業はし易い。


(カバーを嵌め込んでおしまい)


(トイレの中から見た感じ)

換気扇を点けると、通風口から空気が入ってくるのがわかる。
ニオイも少し抜けるのが早くなったような気がする。
家族とはいえ、自分以外のクサイのはヤダからねえ。お互いに。
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往馬玄武会の稽古納め、夜は忘年会(2019年12月21日)

2019年12月22日 | 剣道・剣術

(生駒市武道館、往馬玄武会の稽古風景)

私を入れて7名。後半の稽古から参加する。
四段のH名さんから「気を出すにはどうしたら良いのですか?」と質問があったので、
後半の廻り稽古は「真っ赤に焼けた鉄の塊」のイメージを持って全員と稽古してみた。

人に指導するに、自分が出来ない事は指導出来ないと自覚している。
だから指導する場合は、必ず自分でやって見せることにしている。

時おり「口だけ八段」という七段を見かけるが恥ずべき行為だと思っている。
まだまだ未熟な私なので指導できる内容は知れてるが、四段の彼には勉強になるようだ。

良い汗をかいて稽古終了。
稽古は1時間程度がちょうど良い。
これ以上続けると、どうしても気持ちがダレる瞬間が出てくる。

夜は学園前の魚民で往馬玄武会の忘年会。集まったのは6名。
奈良尚武館、生駒一振会、雲耀館(2名)、梅門会、長正館。
時間は長めの3時間ちょいだったが話は尽きなかった。


(「おめでとう」の文字はA藤先生の80才の誕生日記念も兼ねてのもの)


(世間の色々な裏話も聞けて、世間知らずな私は大変勉強になった次第)

飲み放題の3時間(実際は3時間15分)、途切れる事無く飲み続けた。
最初の2杯はビール。それから日本酒に切り換えてラストオーダーは定番の2合徳利2本。
いつもこれでグダグダになってしまう。きょうは自宅に帰ってからダウンした。
ガスファンヒーターの前で横になって寝てしまい、午前をまわって猫に起こされたのだ。

きょうもまた、剣道やってて良かった!と言える日だった。
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No.87(昭和62年9月10日)

2019年12月21日 | 長井長正範士の遺文


○吉田先生が、お父さんから聞いた話だがと言って話された。
昔、四国の香川県に、うるさい喧嘩好きの相撲とりが居った。或る名の通った剣客がおって、
いつものように刀の下げ緒を柄に巻いて従容(しょうよう=ゆったりと 落ち着いているさま)
として歩いていた。

そこへ向こうから、くだんの相撲取りがやって来て、いやにからんで喧嘩をふっかけてきた。
剣客は顔色一つ変えずスイスイと体をかわしていったので、相撲取りもへとへとになって負け
去った。あとで弟子が「相手が侍で、勝負をいどんで来れば如何」と。答えて曰く「下げ緒、
解くまで待てという。待つ者は強い。待てずに斬ってかかる者は、下げ緒を解くまでもなし、
素手で充分だ」と。なるほど味わいのある言葉である。
(註:刀の下げ緒の加筆。下げ緒は約六尺で片いっぽうの紐は三寸(10センチ)長くしておい
た。いざという時、長い方を引っぱって口にくわえて襷(たすき)にしたのである。)

○引き続き吉田先生のお話を書いておきます。
内藤高治先生は親分肌のお方であった。常盤山(常陸山谷右エ門)は兄さんの子である。
兄さんは剣道家で市毛さんと言った。内藤先生がある時、店にひょうたんがあって、ひと目見
られて気に入った。「これは良い、いい品だ」とほめて包ませ、あとで「幾らですか」と値を
聞かれ、お金を払われた。普通の人は、先に値を聞くが、内藤先生はこのように、いつも買う
ときはスカーッとして、あとで値を聞き払われた。ここが良いところであると私は(吉田先生
は)感心した。内藤先生は61才の祝いの時、赤ずきんを着て“赤ずきん、三つ子となりて太刀
わざ磨かん”と詠まれた。一生死ぬまで修養だ、と。

○ちなみに吉田誠宏先生の尊敬された剣道家は、内藤先生は勿論であるが、関東では根岸先生、
関西では三っ橋先生であった。三っ橋先生は片手突きの名人で、持田先生はこの先生から教わ
った。当時、武徳会の岡田理事は堀口武舟氏のけいこを改めて貰いたい為、三っ橋先生とけい
こをして貰った。三っ橋先生は、その時、片手突き二本を出し、武舟先生を鍛えられた。
それ以来、武舟先生はけいこを改められ立派になった。

○吉田先生はいつも明治天皇の御製(ぎょせい)をお手本にして修養されていた。
「天をうらみ、人をとがむることあらじ、わがあやまちを思いかえさば」を始め次のような数
々のお歌を色紙に複写して長井に下さった。私は時々これらの色紙を観て、ともすれば邪心の
起きた自分を励ますのです。

「あやめ太刀 ふりかざしつつ あそぶ子の 目にもあふるる やまとだましい」
「国のため はげめ若人 富士のねの 高きのぞみを胸にいだいて」
等、私自身、いつの年代になっても心新たに、心打たれるのです。

然し又一方、今頃の季節に、かって鳥取の太田義人先生が、吉田先生の所へ二十世紀梨を贈ら
れた。その時、私が居合わせて運よくご馳走になったのですが、先生は早速筆をとって“形よ
し、味も又よし、匂いよし、三よしなるも、なぜなしというらん”と書かれ、礼状に副えられ、
その封筒を私が帰りにポストに入れたことを思い出しました。吉田先生は即座にこの歌を詠
まれたので関心したものです。

このように歌をよく嗜(たしな)まれた。太田義人先生は後になって、この礼状の歌をみて
大変よろこばれました。太田先生は折にふれて吉田先生宅を訪問され、吉田先生も太田先生
の真面目な、又、研究熱心な態度にいたく心を打たれ、何かと剣道の眞髄を話され、時たま、
私も同席し大いに勉強させて頂いたものです。

以下、吉田先生のお話続きます。
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木曜会定例稽古(2019年12月19日)

2019年12月20日 | 木曜会(誠先生の剣道教室)
四條畷市立四條畷西中学校の体育館。
20時過ぎから21時20分まで。
今年42回目。参加人数20名ほど。

本日も、自分で気をつけたい事のみ記す。

--------------------

素振りには右足を出しながら振りかぶる方法と、
竹刀を振り上げてから右足出す方法とがある。(ここでは前者)

顎(アゴ)の入れ方一つで打てたり打てなかったりする。
顎を入れ体勢が崩れない素振りをすることが大切。
左足の湧泉(ゆうせん)に力が加わるように。

切返しでは左足の引き付けを速くすること。
左足が右足に揃ってはいけない。(もちろん追い越しては駄目)
左足が残っていると打突力は弱まる。

間合が遠い場合も打突力は弱くなる。打ちは押さえつけては駄目。
近くまで入って打つのは「打った時の形を身体(筋肉)に覚え込ませるため」である。
打つ前、打った時、打ったあとの全てで上半身がブレないこと。

右膝攻めの時は左足の踵を少し下ろすと良い。
右膝出しても頭を出すべからず。頭を引く感じ。

右足で出るのではなく、左足で身体を送り込む意識で。
相手との間合は左足で決まる。左足の引き付けが甘いと相手との間合は遠い。

気攻めは風船を膨らますがごとく。
遠間触刃で瞬間的に息を吸って(吐きながら)前に出る。
未発未萌(みはつみぼう)の場合は一歩で入れるが、そうでない場合は慎重に入っていく。
不敗の間合(遠間)でいかに自分の構えを作れるかを意識する。気迫気勢を作る。
構えた時に左手が上下に動いていては絶対に駄目。調子を取ってるだけになる。

普段の稽古でも手順を大事にすること。
礼をする。蹲踞をする。息を吸いながら立ち上がる。構えを作る。構えを作った中から気迫を出す。
そこから、触刃、交刃、一足一刀のところまでを、いかに手順を踏んで出来るかが大切である。

構えました→触刃交刃から入ろうとしたら逆に相手に入られました・・・では駄目。
それには相手が迂闊に入ってこれないような溶鉱炉のような「気迫気勢」を作ること。
例えば「鉄の塊が真っ白に燃えている状態」のような「怖くて近寄れない」というイメージ。




【感想・反省点】

蹲踞を連続して行うと、昨日の稽古で突かれた右足太ももがだんだん痛んできた。
最後のほうでは蹲踞をするとふらついてしまう。ああ情けない。

いつもよりも重く、重心が先にある竹刀を使ったら、途中まで剣先がブレまくりだった。
構えを作り、気迫気勢を整え、自分の打ち間に入って面を打つのだが、
しかしこの面が決まらないとなると「な~んにもならない」のである。
右手打ちになっているのかとも思ったが、慣れたら打てるのでそうでも無さそう。
先重でも何でも、竹刀の調子は同じようなもので揃えるべきだと反省した。
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長正館定例剣道稽古・稽古納め(2019年12月18日)

2019年12月19日 | 剣道・剣術
大阪市東住吉区の矢田中学校の体育館で毎週水曜日19時半から。
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【長正館練習生募集中】
初心者、元経験者、有段者を問わず募集中。
レベルに応じて個別指導を行います。
詳しくは長正館ホームページまで。
http://doujyou.net/choseikan/
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今年最後。稽古納め。
先週よりは暖かいが寒いことに変わりは無い。

人数は最終16名。うち小学生3名、中学生2名。
七段4名、六段1名、五段3名。稽古は少し大幅に長引いた。
稽古納めなので、稽古終了後に集合写真を撮る。
































【感想・反省点】

道場があった頃は稽古納めは年越し稽古で、
毎年12月31日の夜に稽古して、年明け前に稽古を終了して挨拶して解散していた。
体育館ではあの雰囲気は味わえないのが残念だが、
稽古納めに大勢が集まったのでこれは嬉しいことである。
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子供の頃、勘違いしていた食べ物の一覧

2019年12月18日 | 食べ物の話など
子供の頃、勘違いしていた食べ物一覧

①きつねうどんのかやく
幼稚園に通っていた頃は心斎橋の店(ホワードの前身のフタバヤ)の二階に住んでいた。
月に一度、棚卸しの時に全社員にきつねうどんが振舞われるのが恒例だった。
全社員が全商品を1枚1枚、手作業で数える棚卸しは遅くまでかかるのでお腹が空く。
だから営業終了後に社員食堂で、社員が順番にきつねうどんを食べるのだ。
幼稚園児だった私は、時々お邪魔して、きつねうどんにありついていた。

うどんの丼には木の蓋がしてあって、その上に割り箸が置いてある。
割り箸には紙で包んだ七味唐辛子がはさんであって、
それには「かやく」と大きくひらがなで書いてあった。
大人たちが七味唐辛子をかけるのを見て「大人は火薬を食べるのだ」と思っていた。

②かやくごはん
上の続きのような話。
店の近くのうどん屋の品書きに「かやくごはん」と書いてある。
これは火薬の入った恐ろしく辛いご飯の事だと思っていた。
「かやく」は「火薬」で、火薬と七味唐辛子が同じ物だと思っていたのだ。
だから七味唐辛子を火にくべると爆発するものだと信じていた。
なぜそんな危険な物が食えるのかとずっと疑問を持っていた。

実際には、かやくごはん(炊き込みご飯)を度々食べていたのだが、
それが、かやくごはんだとは思っていなかっただけのこと。

かやくごはんと言う呼び名も関西特有の言い方だと知ったのも、
かやくが「加薬」だと知ったのも、ずっとずっと後のことである。

③たいやき
不二子藤雄の漫画(パーマンだったかな?)で、たいやきを食べるシーンがあった。
当時は関西にたいやきは無かった(少なくとも自分の周りには無かった)のだ。

マンガで見たたいやきを見て、
本物の鯛の姿焼きの、腹の中に餡が入っていると思ってしまったのだ。
味を想像して「なんて気持ちの悪い食い物なんだろう」と思ったのを憶えている。

④あんかけうどん
単純に「餡を乗っけたうどん」だと思っていた。
ああ気持ち悪い・・・

⑤すうどん
素うどん。関東で言う「かけうどん」のこと。
すうどんは「酢うどん」だとずっと思っていた。
酢の味の効いたうどんなんてまっぴらごめんこうむりたい。
で、小さい頃は、きつねうどんばかり頼んでいた記憶がある。



⑥おそ松くんの、チビ太のおでん
上の三角がコンニャク、真ん中の丸がガンモ、下の四角がナルトが標準だそうだが、
コンニャクはわかるが、真ん中はジャガイモだと思っていた。
ナルトはラーメンの具としてしか認識が無く、ずっとゴボウ天だと思っていた。

話は違うが、ちくわぶ(竹輪麩)は18才で東京に出るまでは食べた事が無かった。
元は東京の下町の庶民的な食べ物らしいがおいしいと思ったことは無い。

⑦ウインナーコーヒー
生クリームを乗っけた「ウィーン風コーヒー」のことだが、
文字どおり「ウインナーソーセージを入れたコーヒー」だと思っていた。
コーヒーはブラック専門で、ウインナーコーヒーはいまだに頼んだことは無い。

⑧メンマ
これはけっこう大きくなって(高校生の頃かな?)からの話。

メンマは竹を長時間煮込んだものだと思っていた。
竹は煮込めば柔らかくなると思っていたのだ。
剣道の竹刀の割れたのを、のこぎりで短く切り長時間煮込んでみた。
いくら煮込んでも、まったく柔らかくならないので違うものだとわかった。

⑨かつお節
小さい頃、かつお節削り器でよく削らされた。
かつお節が小さくなると指を削りそうで怖かった。
削るかつお節を見て、何か特殊な食材用の木だと思っていた。
大工さんのカンナくずも煮れば食べれるのではないかと思っていた。

⑩味の素
幼稚園の頃だと思うが、同居の祖父の粕井信一が、四角い赤い缶入りの味の素を開け、
付属の小さなスプーンで「これ食べると頭ようなるんやで」と食べさせてくれた。

小学生の頃、「味の素はなあ、石油から作ってあって食べ過ぎると頭悪うなるんやで」
次兄にそう聞かされ、確認することも無く「味の素は身体に悪い」とずっと信じていた。

NHKが番組の中で「味の素」という商品名が使えず、
「化学調味料」と言ってしまったので変な誤解が生じたという話らしい。

実際は、味の素はサトウキビを発酵して作った天然調味料であり、
いくら使っても健康にまったく影響の無い優れものである。

料理にこだわる人は味の素を馬鹿にする傾向があるが、
下手にダシを取るよりよほど美味いので私は重宝している。



⑪オリーブとカラスミ
小学校の低学年だと記憶しているが、
台所の流しの下にオリーブの瓶詰が置いてあった。
ずっと長い間置いてあるので「これいつ食べるん?」とお袋に聞いた。
「ほなら開けよか」と開けてもらって食べたら不味くて吐き出した。
今はオリーブはおいしく食べるが、子供の口には合わなかったのだ。

同じように冷蔵庫の扉の棚にカラスミがあった。
高価な美味しい物だと聞いていたので食べる時を楽しみにしていた。
お客さんが来た時か何かに薄く切ったのを一切れ食べたが、
固くて塩辛くって、ひとかじりしただけだった。
これも子供の口には合わなかった例である。

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今ならネットで簡単に何でも調べられるが、昔は誰かに聞くか、
図書館で調べるか、メンマのように自分で実際に試してみるしか無かったのだ。

しかしながら、今でも勘違いしている事は多いのだろうなあ。。。
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韓国元徴用工の肉声(週刊ポスト2019年12月20・27日号)

2019年12月17日 | 政治や歴史など
韓国元徴用工の肉声 本当に金による解決を望んでいるのか
(2019年12月13日 7時0分:NEWSポストセブン)
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191213-00000007-pseven-kr

 12月下旬、1年3か月ぶりの日韓首脳会談が実現しようとしている。そこで焦点となるのが徴用工問題だ。昨年末の韓国最高裁の判決によってくすぶり続けている問題は、実際に「元徴用工」たちの肉声を聞くことによって、違う核心が見えてくる。ジャーナリストの赤石晋一郎氏が現地取材で得た証言とは──。



 * * *

 ソウル市の郊外、城南市で待ち合わせした老人は、独りで暮らす自宅で取材に応じてくれた。

「日本人のほうが韓国人より、いい人が多かったと私は考えています。私が炭鉱で働いていた時代、日本人にはとても親切にされた思い出があります」

 こう語る崔漢永氏(91)は、徴用工として日本で働いた経験を振り返り、「私は日本人が好きでした」と語った──。

 11月22日に韓国政府が下したGSOMIA継続の決断以降、日韓関係の焦点として再浮上しているのが「徴用工問題」だ。

 昨年末に元徴用工が日本企業を訴えた裁判で、韓国大法院(最高裁)は日本製鉄(元・新日鉄住金)、三菱重工に対して、相次いで賠償を命じる判決を下した。同判決を契機に韓国内では徴用工問題は“奴隷労働”の歴史だったという議論が沸騰し、ソウル龍山駅前などの各地に徴用工像が相次いで建設される事態となった。

 そうした状況の解決を目指し、11月末に文喜相・国会議長が「記憶・和解・未来財団」の設立を提唱した。

「この文議長案は日韓企業と個人による自発的寄付金をベースとして財団を設立するというものでしたが、元徴用工に高額な慰謝料を支払うという方針をめぐっては、異論の声も出ている」(ソウル特派員)

 韓国大法院判決では日本企業が元徴用工に対して1億ウォン(約910万円)の慰謝料を支払う判決が出た。さらに文議長案では元徴用工を対象に1億~2億ウォン(約910万~1820万円)を支払う予定といわれ、慰謝料は高騰の一途を辿っている。

 しかし、果たして当事者である元徴用工たちは、本当に金による解決を望んでいるのだろうか。

◆「日本人も同じ賃金だった」

 冒頭の崔漢永氏が日本に渡ったのは15歳の時だったという。

「私は自分の意志で日本に行きました。当時、父親が傷害事件を起こして逮捕され、罰として日本での強制労働を命じられた。しかし父を失うと9人の大家族なので困る。そこで私が代理として『日本に行く』と手を上げました。年齢も18歳と偽りました。

 日本での働き先は、福岡県飯塚市にある三菱炭鉱でした。炭鉱には私以外にも何百人もの動員された朝鮮人がいました」(崔氏)

 徴用工として日本で働いた崔氏。しかし、日本人からの差別を感じることはなかったと振り返る。

「私は坑道を作る仕事を主にしていました。現場では日本人と朝鮮人が一緒に働いていた。休みは月に1日か2日でしたが、日本人も朝鮮人も同じ労働条件で、同じ賃金をもらっていました。朝鮮人だからと差別や暴行を受けるということもなかった。

 特に私は15歳と若かったこともあり、上司のサキヤマさん(日本人)に大変可愛がられた。『私の娘と結婚しないか?』と言われたこともありました」(同前)

◆「賠償裁判では何も得られない」

 崔氏は日本人に悪感情はないという。私が「徴用工に慰謝料は必要だと思うか?」と問うと、崔氏はこう語った。

「(元徴用工が)裁判を起こしても何も得られるものはないよ。この高齢でお金を手にしてもしょうがないだろう。私はお金もいらないし、補償をして欲しいとも思わない」

 そのハッキリとした物言いは、慰謝料ありきで徴用工問題を語る文在寅政権に、静かに異を唱えているようにも思えた。

 同じように差別はなかったと語るのは金炳鐵氏(96)だ。金氏は20歳のときに地元・麗水郡庁からの徴用命令を受けた(※注)。行き先は佐賀県だった。

【※注/戦中の労働力不足を解消するために1939年に制定された国民徴用令によって、日韓から多くの人間が動員された】

「私が派遣されたのは佐賀県西松浦郡のウラサキ造船所でした。私は資材課に属し、工場内で出る屑鉄を集める仕事をしていました。集めた屑鉄は、鉄工場に輸送され再び製鉄されるのです。造船所で働く2000人のうち、700人が朝鮮人でした。朝9時から4~5時頃まで働き、日曜日ごとに休みはありました」

 ウラサキ造船所とは、当時、佐賀県に存在した川南工業の浦崎造船所だと思われる。軍需工場だった浦崎造船所では二等輸送艦や人間魚雷「海龍」などが大量建造されていた。

 戦争末期ということもあり、食料事情は日本全体で厳しかったと語る。

「そこはおかずが良くて、よく美味しいブリとかトビウオが1~2匹出た。でも原則はお米と麦を混ぜたご飯を一杯しか食べられない。だからお腹が減る。あるとき、ご飯を盗み出して山中で食べた。そのことがバレて、日本人管理者に殴られたこともありました。でも、(ルールを破ったので)たいしたことではないと思っています。基本的に日本人が朝鮮人に暴力を振るうとか、虐めるようなことはありませんでした」

 金氏の証言もまた、韓国内で語られている“被害者像”とは異なるものだった。

「私は労働が強制的だったとか、奴隷的だったとは思っていません。そのときは(植民地時代なので)日本人の命令が全てですから、言う通りにするしかなかった。徴用工時代がいい思い出とはいえませんが、学校で日本語を勉強していたので日本語で職員と話を出来たのは良かったですね。ただ鹿児島や宮崎県の人だけは方言がきつくて、何言っているかわからなかったですけど(笑)」

 派遣された場所によって労働環境や実情が違うと感じさせられるのが、姜彩九氏(92)と孫義奉氏(91)のケースだ。同郷だった二人は10代の頃に徴用命令を受けて、ともに大阪のクボタ鉄工所に送られた。

「500人ほどの朝鮮人がクボタ鉄工所に送られていました。日本人から差別とか、奴隷のように働かされたという記憶はないですね。クボタでの仕事は鉄材を運ぶ仕事ばかりでした。それよりも恐ろしかったのは米軍の空襲です。夜に米機が姿を見せると、空襲警報が鳴りみな逃げ惑った。とても仕事を覚えるというような状況ではありませんでした」(孫氏)

 1945年に米軍による本土爆撃が本格化、ますます仕事どころではなくなったという。姜氏が苦笑いしながら回想する。

「空襲が酷くなってからは、工員は散り散りとなり、私は兵庫県の山中に逃げ込んで野宿生活を送っていた。だから大法院判決で元徴用工に対して慰謝料1億ウォンの支払い命令が出たと聞くと、私はその金額をもらえるほどの仕事を日本ではしていないと思ってしまうよ。補償はして欲しいけど、(高額な慰謝料の話を聞くと)私たちがお金を吸い取る掃除機みたいだと思われてしまうね(笑)」

 元徴用工の口からは、全ての人が“奴隷労働”に苦しんでいた訳ではないという事実が語られた。歪んだ歴史論争のなかで当事者たちの声はかき消されている。

※週刊ポスト2019年12月20・27日号

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事実を無視し妄想だけで他国を非難する隣国には本当に辟易しています。
実際にその時代を生きてきた証人が少なくなってきました。
ここに自分用のアーカイブ(保存記録)として収納しておきます。
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