稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

笠置山でボタン鍋(2021年1月10日)

2021年01月12日 | 旅行や街角メモリー




水族館のあとは真っすぐ京都の最南端の木津まで下って笠置を目指す。
笠置山の細い山道を登る時は真っ暗で対向車が来た時は少々慌てた。

宿泊はキジ鍋で有名な松本亭。
最初はgotoトラベルで予約していたがキャンペーンの中止で全額支払いになった。
食事はキジ鍋ではなくボタン鍋。ボタン鍋は鉱物で毎年のようにどこかに食いに出かける。
ここは一人500円払えばお酒の持ち込みOKであるのは呑み助にはありがたい。

ぼたん鍋の写真を撮るのを忘れてた・・・







貸切のお風呂に入ってパソコンいじってたら早めに寝てしまった。
翌朝も風呂に入ってから朝食。ここは二組限定のお宿である。朝食は貸切状態だった。



チェックアウトのあとは笠置寺拝観。
ここはぐるっと回ればけっこうな岩場で距離もある。



この案内板の猫は笠置のキャラクター「笠やん」。



笠やんは地元で愛されていたトラ猫らしい。



摩崖仏。



お堂の中には再現写真があった。



山頂付近からの絶景。見下ろすは木津川。



天気が良くて良かった。



笠置山の戦い(かさぎやまのたたかい)は、鎌倉時代後期の元弘元年(1331年)9月に山城国相楽郡笠置山(現在の京都府相楽郡笠置町)において、鎌倉幕府打倒を企てる後醍醐天皇側と、鎌倉幕府側との間で行われた戦いである。幕府側は9月1日(10月3日)に宇治において75,000の兵を集め、翌日には笠置山を包囲してこれを攻撃し始めた。天皇側の兵は3,000余と戦力の面では圧倒的に不利な状況ではあったが、笠置山は天然の要害ということもあって幕府側相手に善戦していた。ウィキペディア(Wikipedia)より抜粋。

多勢に無勢の戦いはドラマがある。
当時の攻防の様子を想像してワクワクしてしまった。



お昼は家の近くで外食チェーンで簡単に済ませ、時間があったので大和文華館に半世紀ぶりに寄って見学。
二日間、遠出の旅では無かったが、その分、時間的に余裕があってのんびり過ごせた。
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京都鉄道博物館と水族館(2021年1月9日)

2021年01月11日 | 旅行や街角メモリー


週末は往馬玄武会の稽古を休んで京都の鉄道博物館と水族館に行った。







昔、大阪の九条に交通博物館があって何回か行ったことがある。
てっちゃんとまでは行かないが私は機関車好きである。
小さな頃は蒸気機関車の運転手(機関士)になるのが夢だったのだ。





ここは蒸気機関車の運転台で、動いている音も汽笛も再現出来る。





時間もトシも忘れて楽しんでしまった。





水族館は少々値が張ったがついでに行ってみた。
なかなか見ごたえがある。イルカショーも見たが寒かった。



寒いのにソフトクリームを買って食べた。





最後は市電の車内で休憩。
そのあと短い古い市電で数百メートル乗った。
ほとんど一日中、子供のように楽しんでしまった。
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大和郡山の石木トンネル

2020年11月03日 | 旅行や街角メモリー
奈良市の南には隣接した大和郡山市がある。
ここには高校時代からの古い友人がいて、先日頼まれものを持っていった。
(竹刀無い?って聞かれたので、使い古しの竹刀と木刀をプレゼントしに行ったのだ)

昔から通い慣れた道、富雄川沿いを下って南に下りる。
登彌神社から古い街並みを抜けて給水塔の脇を通っていく。
高校時代から通い慣れた道・・・のはずだった。

もうすぐ登彌神社の前を通る狭い道だな。
混んでいなければいいなあ・・と思っていた。

すると見慣れぬ道路案内が見えた。



真っ直ぐ行こうと思ったら、大和郡山市街は左とあった。

あれ?こんな道出来たんかな?
それにしても方向が違うがな・・・
と思ったが案内通り左に進んだ。



間もなく「石木トンネル」が見えてくる。
どうやらバイパスが出来たようだ。どこに通じているんだろう?

200mほどのトンネルを出て300mほど走ると左に向かう広めの道路に出る。
ああ、きっと、これが昔からの道だと見当をつけて左折した。
途中、記憶にある道とは違う道を通って見覚えのある交差点に到着する。

渋滞していたらどうしよう・・と思っていたのに、あっと言う間に到着してしまった。



上の図の、赤い線が通い慣れた昔からの道、
青い線が今回のトンネルを抜けてきた新しい道。

調べてみると、2年9か月前の、平成30年1月28日に開通したとある。

いやはや、なんだか、浦島太郎になった気分だ。
旧道(上の図の赤い線)は道が狭く、昔のことだが一度、大きな車が擦れ違えず、通り抜けるのに30分もかかった事がある。
今回も余裕を見て家を出たので、友人宅には30分も早く到着してしまった。

きっと注意していなければ、知らずに旧道を通っていただろう。
知らない間に街も道路も大きく便利に変わっていくのだなあ。

高校時代は寝る間も惜しんでバイク(50ccの商業バイク)を乗り回していた。
主に奈良市とその周辺だが、楽しくて楽しくて仕方が無かったのだ。

最近はあまり奈良県内を走らないが、また新しい発見があるかも知れない。
カメラを持って、またバイク(バンバン200)であちこち出かけてみよう・・と思った次第。
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大阪市平野区の居酒屋「三日月」

2020年10月30日 | 旅行や街角メモリー


毎週、多い時は週に2度通る平野の道路沿いに「三日月」という居酒屋があった。
長正館の稽古に行く時、この前を通って、赤い「三日月」という看板を見ると、
「ああ、もうすぐ到着するなあ」というホッと一息する看板でもあった。

今は無い。

コロナ騒ぎで業績が低迷していたのか、
今年の6月いっぱいか7月いっぱいで閉店してしまったようだ。

大阪の平野郷は、粕井の先祖が代々住んで、江戸時代までは綿問屋を営んでいた。
屋号は糟屋で、なんでも綿の滓(かす)を扱っていたそうな。
代々、糟屋庄左エ門を名乗っていたと聞く。明治になって粕井に改めた。
粕井の紋は「唐花」という紋だが、これは平野の杭全神社から戴いたもの。

そういうわけで、他の道はなるべく通らず、
毎週毎週、この「三日月」の前を通ってきたわけだ。

平野郷は歴史があり、昔は堀で囲まれた環濠集落だったそうである。
まあ、それは、この周辺の喜連や、八尾の久宝寺も同じであるが・・・

いつかゆっくり平野の街を歩き回って、写真を撮ったりしてみたいなあ。
その時は、あの「三日月」で、冷たいビールでも飲んでやろう。

そう思っていたのに店が無くなった。

一度も行ったことの無いお店だが、とても残念である。
印象的な夜の看板でも撮影しておけば良かったと、今更ながらちょっと後悔もしている。


(写真はgoogle mapからの戴き物)
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饒速日命(にぎはやひのみこと)の三本の矢を訪ねて(奈良県大和郡山市)

2020年10月05日 | 旅行や街角メモリー
ニギハヤヒノミコトは、日本書紀では饒速日命、古事記では邇藝速日命と記される。
神武天皇の東征にて、大和の登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)が奉じた神である。
 ※登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)=長髄彦(ながすねひこ)。
 ※神武天皇より先に大和に来ていた天照大神の孫にあたる。

その饒速日命(にぎはやひのみこと)が、交野の磐船神社に降臨し、
宮を築くところを決めるため3本の矢を放ち、矢が落ちたところが矢田の3つの矢塚である。



上は3つの矢塚の位置。
場所は奈良県大和郡山市矢田町。


【一之矢塚】



これがわからなくて、バイクを置いてから炎天下を約1時間歩き回った。
行ったのは5月だが、地元の農作業中の方に聞いても「知らない」と言われた。
さんざん探して諦めかけた頃、ひょこっと目の前に現れた。

探す目安を説明する。
近鉄郡山から見て、奈良県道189号矢田寺線を西(矢田寺方面)に進む。
矢田寺の入り口、横山口歩道橋の手前約60mの農道(車が1台進める道幅)を南東に200m。
ここから畦道。地図上で、一之矢塚の上の矢印方面に撮った写真が下。



赤〇印の中に小さく写っているのが一之矢塚。
細い電灯柱の脇の畦道を下に降りて行くとたどり着く。



この電灯柱は「市・通学路灯・200433」とある。これを目印とすると良い。


【二之矢塚】



これは神社の中にあってわかりやすい。
矢田坐久志玉比古神社(やたにいますくしたまひこじんじゃ)は別名「矢落(やおち)神社」という。
所在地は奈良県大和郡山市矢田町965。祭神が饒速日命(にぎはやひのみこと)。
饒速日命が天磐船に乗って空を飛び降臨したというので航空祖神として崇められている。



久志玉比古神社の楼門にはプロペラが奉納され吊られていた。


【三之矢塚】



二之矢塚より500mほど北に行くと邪馬台国想定地の碑があり、その脇にある。



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伝承 邪馬台国想定地(三の矢塚)
旧事本記によると古代豪族物部氏の祖神饒速日命が「天神の詔(みことの)りを受け天磐船(あまのいわふね)に乗りて大虚空(おおぞら)をかけめぐり、この郷を巡りて天降ります。即ち虚空(そら)見つ日本国(やまとのくに)というは是か」とあります。
この時天神より「天の羽々矢(はばや)」「天の羽々弓」を賜り祝(ことほぎ)て三本の矢を射放ちて其の落ちた所に宮居せんとのたまいしと伝えられている。この三の矢塚は三番目の矢の落ちた所で土地の人々も昔からこの地を「みやどこ」(宮所)と呼んでいる。二の矢は五00米南の矢田坐久志玉比古神社の境内に磐船(いわふね)の破片といわれる磐座のあるところ、更に五00米余り南方には今も小字「一の矢」と呼ばれている土地がある。
物部氏の祖神饒速日命を祭神とする矢田明神社を中心に南方はるか三輪山、大和三山などを一望できるこの要害の地こそ、物部王朝邪馬台国説による、女王卑弥呼の宮居した伝承地にふさわしいと考えられる。
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 ※矢田明神社=久志玉比古神社



邪馬台国想定地の碑の前で。(スズキバンバン200)


【感想】

無事に三か所を確認出来て良かった。
このあと南下し、王子から柏原市を抜け、北上して職場に向かう。

通勤途中にちょっと寄って写真を撮るつもりが午前中いっぱいかかってしまった。
汗だくになり、くたくたに疲れたが、目的を果たせて大満足である。
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思い出「淡路島を歩いて一周しようとしたこと」

2020年09月02日 | 旅行や街角メモリー

(googlemapより)

確か高校2年生(1972年=昭和47年)の夏休みだったと思う。
夏休みも終わる頃に、なぜか急に思い立って「淡路島を歩いて一周しよう」としたのだ。
地図と言えば学校の授業で使う日本地図だけで、他に何の情報も持たず、
それでもなぜか「やる気になれば何でも出来る!」と、
リュックに米と缶詰、簡単なキャンプ道具を詰め込み、重いテントを持って出かけた。

期間は一週間の予定。「一週間あれば歩いて回れるだろう」と気楽に考えていた。
米さえ持っていけば何とかなる。確か全部で5千円も持たずに自宅を出た。
(当時の私の小遣いは月1,500円だったと記憶している)

今でこそ道は繋がっているが、当時の淡路島は完全な島である。行くには船に乗るしか方法は無い。
大阪から南海電車に乗り深日港(ふけこう)まで行き、そこから連絡船に乗って淡路島の洲本まで行った。
連絡船を下りてすぐに歩き始めた。時計と反対回りに北を目指す。

荷物は米を5合ほど。飯盒とコッヘルと懐中電灯、最低限の衣類など。
問題はテントで、米軍放出品の無茶苦茶に重いテントだった。
分厚い帆布製で支柱は木製2本、テントだけで5キロ以上の重さがあったと思う。

歩き始めて数分経って「これは容易では無い」と後悔した。
真夏の炎天下のアスファルトは歩くには不向きだ。「暑い!」というレベルをはるかに超える。
帽子を持ってなかったので途中で安いカウボーイハットを買った。
休み休み10キロほど歩いたがとうとう根をあげた。
水を飲むところが無いのが何より痛手だった。

コンビニなどまだ無い時代で水分補給がままならず、
道端には自動販売機しかなく、缶ジュースでは財布が持たなかったのだ。

もう一歩も歩けない。。。

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ここからは記憶が曖昧である。
以下は数日間の記憶である。

海岸の砂浜にテントを張った。
翌日から歩けるだけ歩いて疲れたらバスに乗った。
適当なところに降りてテントを張った。

海水浴場で海水浴も楽しんだ。
沖へ出て仰向けに浮かんでいたら、いつの間にか潮に流された。
岸を見たら、憶えている風景とまるっきし違うのだ。
驚いて無我夢中に泳いで岸に戻ったらトンでもなく遠くまで流されたようだ。
方角の検討をつけて元の場所まで歩いたがかなり遠かった。不安で心細かった。

夕暮れに、砂浜のテント脇で、ボーと海を見ていたら知らないオジサンが声をかけてくれた。
「風呂に入っていけ」と言われてお風呂に入らせてもらった。
ちょっと不安だったが嬉しかった。

バスで移動していると所持金が少なくなって来た。
飯盒飯ばかり食っていて無性に家が恋しくなってしまった。

バスで一気に洲本まで行った。
連絡船に乗り深日港(ふけこう)まで。
南海線と近鉄線を乗り継いで一気に帰宅した。
南海電車の冷房が強く、鳥肌が立つほど寒かったのを覚えている。

けっきょく3泊か4泊しただけで、へとへとになって帰宅すると
「なんやもう帰ってきたんか」と母親に言われた。
「実はバスで回った」とも言えず、口惜しさと挫折感を味わった。

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下は昔のアルバムに貼ってあった写真。


(この米軍放出のテントがやたらと重く、肩にずっしり食い込んだのを覚えている)


(米はあったが、おかずは缶詰中心、“おでん”は近くの海の家で買ってきたもの)

当時はキャンプ用のストーブなど思いも寄らず炊事は拾った木切れを薪に使った。
お金が無いので外食は一切しなかった。ファーストフードなど無い時代だ。
「飯さえ炊ければ何とかなる」と思っていた。


(googlemapで探しら、どうやら多賀の浜付近から撮影した風景のようだ)


(夕日からみて西側にある「おじんば礒」だと思うが微妙に形が違うので別の岩なのかも知れない)


(上の写真が「おじんば礒」だとすれば、この岬は「雁子岬」のはず)


(淡路島の最南端の鳴門岬、向こうに見えるのは四国徳島である)

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写真の数字の「72」から1972年、計算して高校2年生の夏休みだと考えたが、不思議なのは、
バイク(原付50cc)の免許をったのが高校1年生の12月なので、なぜバイクで無いの?という疑問。
もしかしたら高校1年の夏休みの撮影で、現像したのが翌年なのかも知れない。

それとも、バイクを買ったのがこの旅のあとなのかも知れない。
そうでなければ、当然、バイクで淡路島を一周していたはずだからだ。

淡路島は一周約150キロ。
真夏で無ければ歩いて回れていたかも知れない。
こんど、バイクで日帰りツーリングしてみようと思う。

リベンジにはならないが・・・
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饒速日命(ニギハヤヒノミコト)墳墓(奈良県生駒市白庭台)

2020年08月12日 | 旅行や街角メモリー

(赤が本来の道、青が私が進んだ間違いのケモノ道)

近鉄けいはんな線の白庭台駅から直線距離で500m程度でそう遠くない。
地図上では住宅地のすぐ近くだし、ちょっとバイクを停めて気楽に行けそうな感じがした。
で、遊歩道でもあるのだろうと休みの日にバイクで出かけてみた。

饒速日命(ニギハヤヒノミコト)は神武天皇より先に大和を治めた天照大神の直系(孫?)であり、
のちの物部氏の始祖、祖神である。(このへんは諸説がありご自分で調べられたい)
部下の長髄彥(ナガスネヒコ)が有名である。

※長髄彥(ナガスネヒコ)は別名、登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネビコ)とも言い、
 我が町、登美ヶ丘や、富雄(昔は鵄の邑と言った)などと縁がある。

ともかく、鵄(とび)調べを始めて興味が尽きない。

バイクで走って調べたが住宅地からは行けない。
最短の住宅地からも行けそうな気もするがフェンスで囲われているし道も無い。
饒速日命墳墓に行くには、まず生駒市総合公園体育館(奈良県生駒市小明町1807-1)を目指す。

生駒市総合公園体育館の奥にテニスコートがある。
私は間違ったのだが、このテニスコートの東側(地図の右側)から入っていくのがわかりやすい。
擁壁があって登りにくい。その場合、グランド側に迂回して少し東側から入ると良い。


(この小屋の左脇の擁壁を登ると小道に繋がる)


赤が饒速日命墳墓への正しいルート。
間違って私は青いほうへ進んで汗みどろになり(大げさだが)遭難しかけた。

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さて現地で・・・

何となく地図を見て、テニスコートの脇から池づたいに進むと行き着けそうに思ったのだ。
駐車場にバイクを停め、カメラを持ってテニスコートの周辺を探った。
すると西側(地図で言うと左側)に遊歩道があったので、迷うことなく進んだ。


(青の点線の出発点・・・ここは大失敗だった)

遊歩道は登っていくと思ったのに予想に反して下っている。
饒速日命墳墓は高い位置にあるので「おかしいなあ」と思いながらも進んでみた。

最初の溜池に出る。道はT字路。左はさらに下る。右は登りなので右に向って進んだ。
けもの道のような坂を登ると2番目の溜池にたどり着いた。もう汗だくもいいとこである。
池の手前を左方向に進んで、道と、かすかに判断できる獣道を進む。

さらに進んで3番目の溜池に出た。もう道らしきものは無い。
池の手前の藪を、適当に検討をつけて強引に上に向って進んでいく。
クモの巣が、汗まみれの顔や手に張り付くのが気持ち悪い。

藪をかき分け、かき分け強引に進むとようやくまともな小径に出た。(この時は正直ホッとした)
最後の藪を進む頃は「遭難するかもしれない・・・」と思ったほど。
元来た道は藪の中でもう戻れなかったのだ。
何か飲み物でもあれば余裕はあったかも知れないが、咽喉は乾くし、
セミの音しか聞こえないし、とんでもない山奥にいるような錯覚に陥ったのだ。


最初の溜池


2番目の溜池(3番目の溜池の時は疲労困憊でカメラを構える気力は無かった)

本来の道に出た瞬間、間違っていたのだ・・と初めてわかった。
頭の中で、上の地図を思い出し、池の位置から左方向と検討をつけて進んでみた。

最後、道は二股に分かれているので、迷ったが右へ進むことにした。
饒速日命墳墓は、赤い大きな鉄塔の脇にあるので迷ったら参考にすると良い。


(ここで右に進む)(左がどこへ続いているか知らない)


(石碑の左側、木立ちの向こうに赤い鉄塔が少し見える)

ようやく饒速日命(ニギハヤヒノミコト)墳墓にたどり着いた。
もうへとへとで、汗だくで、気力もつきた。
涼しい時なら良いのだろうが、今の季節に山に入るものでは無い。

気候の良い時期に、まともに行けば、ちょっとしたハイキング気分になれるかも。
しかし、生駒市も、もっと観光地として整備すれば良いのに。。
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王龍寺(奈良市二名)の鵄神社(とびじんじゃ)を確認した

2020年07月01日 | 旅行や街角メモリー
奈良市二名にある王龍寺は父母の墓のある菩提寺である。
ここに鵄神社(とびじんじゃ)があることは知っていたが行ったことは無かった。
王龍寺の公式サイトにも何も書かれていない。

王龍寺公式サイト
http://oryuji.com/

鵄神社は、初代天皇、神武天皇の東征のおりの金鵄(きんし)、つまり金色の鵄(とび)に由来がある。

グーグルマップで調べてみると鵄神社の場所は地図上に示されている。
しかし、この鵄神社をクリックすると、画像は「寿大明神」の画像なのだ。
おまけに「今は寿大明神と書かれお稲荷さんになっています。」とコメントがある。

んなアホな!



(地図上の鵄神社をクリックすると寿大明神の写真が出てくる)

どういうことなんだろう?

こうなると、いてもたってもいられなくなり、さっそく出かけてみた。
下に、王龍寺内の寿大明神と鵄神社の位置を明確にしておく。


(今回の位置関係、赤い点線は山門から本堂への道、青い点線は鵄神社への道)


(山門前の駐車場の入り口に「石佛観音岩屋大黒天 王龍寺」の石柱)


(本日もスズキバンバン200)


(下の駐車場から見る山門)


(山門の手前から参道を望む)

本堂の南側にも駐車場はあるが、下の駐車場に車を停め、歩いて参道を登るほうを強く推奨する。
案外、それほどきつい上り坂でも無く、奈良の里山の原風景を満喫出来るのである。


(山門をくぐると左手に「寿大明神」がある)

この「寿大明神」を「鵄神社」と紹介するサイトがいくつか存在するが全部間違いである。

さらに参道を前に進む。


(参道の途中、右手にある地蔵)


(なかなか趣きがあって良い)


(この小さな谷川で沢蟹をいくつも見た)


(本堂に向かう最後の石段の右手前にある小さな石橋が鵄神社への道である)


(この石橋は注意していないと見落としてしまう)

この小さな石橋を渡って、細い道を進む。
途中で上り坂になり右に折れ、少し進むと左に折れる。


(けもの道のような道を登っていくと鵄神社が見えてくる)


(思ったよりも小さな鵄神社)


(参道に戻り、最後の石段を上ると本堂が見える)


(本堂には磨崖仏がまつられている)


(本堂の格子の隙間から中を撮影してみた)


(池の端から大黒天に向かう)

大黒天へは少し坂を上る。
石段が濡れていると滑りやすいので注意しなければならない。


(大黒天)

大黒天の坂を下り、本堂の前を通って墓地に向かう。


(半年ぶりの墓参り)


(大阪は平野の杭全神社から頂いたのが粕井家の唐花紋)

杭全は大阪難解地名にも出てくる地名で「くまた」と読む。

粕井の先祖は大阪平野の綿問屋で屋号を「糟屋」といい明治維新で屋号を元に粕井の性にした。
頂いた唐花紋は近年、勝手に「丸に唐花紋」に変えた。恰好が良いから。
分家だからまあいいや・・・という調子。

墓参りも出来たし、疑問に思っていた鵄神社と寿大明神の混同もはっきりした。
googoleマップの画僧の変更を申請してみたが初めてなので方法が合っているかはわからない。
いくつかのサイトでも寿大明神を鵄神社と紹介している。
順次訂正をお願いしようと考えている。

とりあえず一件落着。
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長髄彦(ながすねひこ)本拠と、鳥見白庭山の碑。

2020年06月13日 | 旅行や街角メモリー
毎日、通勤で横を通っているのに「いつでも行ける」と思って行かなかった場所。
長髄彦(ながすねひこ)本拠と、鳥見白庭山の碑。通勤途中に寄ってみた。


(毎日、この「ならやま通り」を通って東大阪に向っている)


(ならやま通りを西に進むと白庭台で右手に見える小さな岩山とお堂)

稲葉谷の石佛と、地蔵堂。
上に昇って石佛を見たかったが通勤途中なので諦めた。


(この上に石佛があるらしい)


(地蔵堂の中の説明文)

稲葉垣内、鳥浦池北西の路傍に地蔵堂がある。堂の後方の岩を登れば行者磨崖仏がある。
かつては堂の後方は鬱蒼とした樹林であったが、南北田原土地区画整理事業にともない改修工事が行われ、
磨崖笠行者像や石灯籠などは遠くからも拝めるようになった。と書いてある。


(長髄彦・ながすねひこ本拠の石碑)


(同じく)


(白庭山の石碑)

このお堂の前の道は、今でこそ分断されているが、
かっては大阪から繋がる古堤街道の延長線上にあるのだ。
区画整理され、住宅地が出来る前は、ここから鵄山(とびやま)まで道が真っすぐ続いていた。

太古の昔、ここで長髄彦(ながすねひこ)は、
鵄山(とびやま)の神武天皇(磐余彦・いわれびこ)と対峙したのだろうか。

日本書紀、読んでみようかな・・・と少しだけ思っている。
長髄彦(ながすねひこ)が少し好きかも。
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降臨伝承、大阪府交野市「磐船神社」

2020年06月11日 | 旅行や街角メモリー
真っすぐ職場に向わずに、バイクだと寄り道していくことがある。
この日はいつも横を通るがお参りしたことの無い「磐船神社」に寄った。
登美(鵄・トビ)の探索の延長で饒速日命(ニギハヤヒノミコト)への興味が出たわけだ。

いつもは、ならやま通りを西に進み、南田原の出店で国道168号を越えて真っすぐ阪奈道路に向かう。
時々、国道168号を北上して、北田原大橋で左折して国道163号を西に向かう。
たま~にバイクで、西に向かわず国道168号を北上して交野に向って遠回りする。
2キロも北に走ると橋を渡る旧道があり、旧道沿いに磐船神社がある。


(駐車場はもっと手前にあるのだがバイクなので前に停めた)


(磐船明神社の石柱)


(「本社祭神 天孫饒速日尊命」の石碑)

天孫とは、天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫のことを言う。
この孫には神武天皇の祖父である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が有名であるが、
饒速日尊命(にぎはやひのみこと)も瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の兄弟であるから天孫なのである。


(御神体の舟形巨岩を望む)


(社務所に言えば白装束を来て岩窟拝観が出来るそうな)


(岩窟を上からのぞき込む)


(舟形巨岩)


(同じく)


(磐船明神社の石柱)


(天野川河川トンネルと神社の幟)


(天野川河川トンネル)

天野川河川トンネルは、1997年(平成2年)11月に完成したそうで、
それまでは磐船神社のすぐ脇を流れていた急流難所であったと言う。

通勤途中にちょこっと寄ったミニトリップ。
しかし苔むした神社は趣きがあり霊気を感じてとても良かった。
いわゆるパワースポットというものかも知れない。

天孫、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)探索はまだまだ続くのである。


【参考】

概要(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)より)
磐船神社(大阪府交野市私市9丁目19−1)
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交野市の南端、天野川の渓谷沿いにあり、「天の磐船」(あめのいわふね)とよばれる天野川を跨ぐように横たわる高さ約12メートル・長さ約12メートルの舟形巨岩を御神体としている。 本殿はなく、巨岩の前に小さな拝殿があり、南側(上流)に社務所がある。

神社の起源は不明であるが、天照国照彦天火明奇玉神饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと = 饒速日命)が天の磐船に乗って河内国河上の哮ヶ峯(たけるがみね)に降臨されたとの伝承が先代旧事本紀にもある。 交野に勢力を保っていた肩野物部氏という物部氏傍系一族の氏神であり、一族が深く関わっていたといわれている。 中世以降は、山岳信仰や住吉信仰の影響を受け、現在も境内には垂迹神の住吉大神の四体が連なる本地仏の石仏や不動明王石仏を初め神仏習合の影響が色濃く残されている。
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生駒市高山町の「金鵄発祥之処」石碑

2020年06月09日 | 旅行や街角メモリー
地元の地名の「登美」という名前からの探索の続き。
投稿が断続的になるのは、通勤の行きと帰りに探索するから。
きょうは鵄山バス停の写真を撮って、次の機会に鵄山を探そう・・みたいなことをしている。


(奈良交通「鵄山バス停」・これは富雄川西岸の北行き・左のほうにお寺の屋根らしきものを発見)

ここから北西のほうを見るとお寺(六角堂)のようなものが見えた。
「こんなとこにお寺あったっけ?」と行ってみたら違っていた。


(日本伝統瓦保存研究所という看板があった)

周辺を探るが、鵄山(トビヤマ)はここでは無いようだ。

対岸(東側)のバス停近くに高山郵便局がある。
その横の旧道の脇に「鵄山 従是東二丁」の石碑がある。
つまり「トビ山は、これより東に二丁(200mちょい)です」という石碑である。

で、また別の日に、帰宅前に寄ってみた。
時刻は19時で、日は沈み、そろそろ暗くなるころである。

パワー生駒店の駐車場にバイクを停め、石碑から100m東の小さな山を目指す。
これが鵄山なら、鵄山は周囲から20mか30mほどの小高い丘ということになる。

田んぼの畦道を登って行ったら小道があったので進んでみた。
くもの巣をかき分け、道なりに進んで登ったら「金鵄発祥之処」の石碑があった。


(鵄山の「金鵄発祥之処」の石碑)

ここが神武天皇(磐余彦・いわれびこ)の陣地だったのだろうか?
とすると、白庭の長髄彦の陣地との対峙など想像するとまた面白い。


(生駒市高山の鵄山周辺)

石碑へは、コメリ パワー生駒店(奈良県生駒市高山町7744番地)を目安にすれば良い。
これは余談だが、コメリ パワー生駒店の中にあるマルエスペット店の社長も、
高山と言えば、かきもちで有名な高山製菓の社長も生駒高校の同級生である。


(石碑から推測して登っていった道)


(あとから考えたらこちらの方が数倍楽である)


参考「地名探索・・登美、富雄、登彌、鳥見」
https://blog.goo.ne.jp/kendokun/d/20200512/

参考「地名探索・・登美、富雄、登彌、鳥見(続き)」
https://blog.goo.ne.jp/kendokun/d/20200513/
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え!確かに福知山城へ行った・・はず(2015年10月)

2020年06月03日 | 旅行や街角メモリー
今朝のニュースで、
本能寺の変が6月2日だったからか、大河ドラマで明智光秀が主人公だからか、
明智光秀が織田信長を討った原因は何かなどとやっていた。

ニュースの背景に福知山城が映ったので「福知山城、な~んも無かったなあ」と女房に行ったら、
どうやら福知山城の記憶が無いらしく怪訝そうな顔をしている。

行ったのならブログに書いているはずと検索したが書いていない。
「あれ?誰と行ったんやろ?」と少しうろたえながら過去の記憶を探っていく。

パソコンを調べてみたら、2015年10月に定例の旅行で、
出石で蕎麦を食べ、豊岡を越えて切浜ビーチで日本海を見て城崎に戻って一泊、
翌日は福知山城だけ寄って、あとは真っすぐ帰ってきたことがわかった。
女房も福知山の印象は薄かったらしく憶えてなかったようだ。

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毎年10月は結婚記念日と女房の誕生日祝を兼ねての夫婦旅行が定番である。
もう40年近くも続いている我が家の恒例行事となっている。

この時の城崎旅行がブログから抜けているには訳がある。

ホワード株式会社を退職したのが2008年3月末で、
当時使っていたメールアドレスが会社のもので、それが5月に失効した。
パスワードも忘れ、そのメールアドレスで管理していたブログには入れなくなったのだ。

手続きは大変だったがブログは2016年4月に入れるようになった。

そんなわけで、7年と11ヶ月間の書き込みは無い。
(2014年8月の記事はあるが、これは2016年4月に書いて日付訂正したもの)

ブログが無いとあまり思い出すことも無い。
ポッカリ忘れていた2015年の旅行だが、今朝のニュースで思い出したのだ。

下は2015年10月17日-18日のもの。
カメラは現在、メモ用として使っている、SONY WX350 なので画質はイマイチ。


(出石の時計台の見える通りにて)


(近又の出石そばを食す)


(食後のソフト)


(切浜海水浴場から淀の洞門を見る)


(風で髪の毛が飛んでいる・・・いまは飛ぶほど無い・・・)


(城崎温泉)


(同じく)


(帰りは福知山城に寄った)


(この時、福知山が明智光秀のものだと初めて知った・・・ひろこさんって誰?)

昔の写真を見る事はほとんど無いがブログに抜けているのは心外である。
今後、空白の8年の写真など見直し、紹介する機会もあると思うので悪しからず。
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奈良県生駒市上町、夫婦塚(御炊屋姫の塚)

2020年05月30日 | 旅行や街角メモリー
中学でも高校でも歴史の授業は大嫌いでノートや教科書に落書きばかりしていた。
名前や地名や年号の暗記ばかりでつまらなかったのだ。
日本の教育は間違っていると思う。
受験勉強のためなのか歴史に対する興味を削ぐことばかりしているように思う。
丸暗記など必要も無くなった今になって自分が歴史好きなことに気づいたのだ。

さておき、この年になって、地元の地名の「登美」という名前から、
神武天皇の金鵄(きんし)に始まり、ご近所の史跡巡りをするようになった。
古代のことなど永い間興味は無かったが、少し興味が出てきて気楽に調べるようになった。

参考「地名探索・・登美、富雄、登彌、鳥見」
https://blog.goo.ne.jp/kendokun/d/20200512/

参考「地名探索・・登美、富雄、登彌、鳥見(続き)」
https://blog.goo.ne.jp/kendokun/d/20200513/

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自宅の近く、富雄川の川筋、生駒市上町にミカシキヤヒメ(御炊屋姫)の塚がある。
生駒市と言っても、奈良市二名との境目近くにある。
漢字は読むのも書くのも大変なので、下の3人はカタカナで書いてみる。
まずはこの3人の立ち位置を知らねば始まらない。

ミカシキヤヒメ(ナガスネヒコの妹でニギハヤヒの妻)
『古事記』では登美夜毘売(とみやびめ)、『日本書紀』では三炊屋媛、鳥見屋媛、長髄媛(ながすねびめ)と記する。
また御炊屋姫、櫛玉姫命、櫛玉比女命、櫛玉比売命などとも表記される。

ニギハヤヒ(神武とは別系統の神、物部氏の祖先)
『古事記』では邇藝速日命、『日本書紀』では饒速日命、『先代旧事本紀』では饒速日命の名称以外に、
別名を天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)、
天火明命(あまのほのあかりのみこと)、天照國照彦天火明尊、胆杵磯丹杵穂命(いきしにぎほのみこと)と表記される。
他の別名として、天照御魂神(あまてるみたまのかみ)、天照皇御魂大神(あまてらすすめみたまのおおかみ)、
櫛玉命(くしたまのみこと)、櫛玉神饒速日命(くしたまのかみにぎはやひのみこと)がある。

ナガスネヒコ(ニギハヤヒの家来でミカシキヤヒメの兄)
『古事記』では那賀須泥毘古、また登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネビコ)、登美毘古(トミビコ)とも表記される。
神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として描かれている人物。

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ニギハヤヒは天照大神から分かれた神武天皇とは別系統にあたる。、のちの物部氏の先祖になる。
ニギハヤヒは神武天皇より先に天磐船に乗って大和に天降り、長髄彦(ナガスネヒコ)の妹三炊屋媛と結婚して可美真手命を生んだ。
ナガスネヒコはニギハヤヒに忠誠を尽くそうとしたが、ニギハヤヒは神武に帰順して、邪魔になったナガスネヒコを殺した。

ともかく自宅の近くで、
はるか昔の縄文時代に、神武天皇とナガスネヒコが対峙していたというのが面白い。
それが今も地名となって残っているというのがまたスゴイ。

で、生駒市上町、夫婦塚(御炊屋姫の塚)だが、
田んぼの畦道にポツンとある夫婦塚は、有名でも何でもなく、
おそらく地元の有志の者が建てたのだろうが、その謂れ(いわれ)もはっきりしない。

本当は先にニギハヤヒの墳墓に行くべきなのだが、
出勤の途中に寄るのは時間が無く今回は、夫婦塚のみのご紹介。


(上町高樋バス停、右奥の森は神武天皇聖蹟鵄邑顕彰碑のある場所)


(googole map に赤丸で示した、水色の表記2つがバス停)


(田んぼの畦道を歩いていく)


(上の赤線の始点)(ここから赤線の折れ曲がる地点まで170歩だった)


(夫婦塚、御炊屋姫の塚とされる)

実物は「夫媍塚」である。調べてみると女編に負と書く媍の字は「よめ」と読むらしい。
「負」は、意味ではなく音をあらわし同音の「婦」と同義の字であるという。
グーグルマップに登録を依頼したので、いずれ地図上で表記されるかも知れない。

以下は自分の勉強用である。
合っているかどうかは知らないが、位置関係がわかりやすかったので。



古代皇統の系図(天照大神を中心とした系図より)
https://rokuzigenkai.com/genealogy/

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大東市住道界隈をバイクで散策

2020年05月25日 | 旅行や街角メモリー
昔から旧道をなぞりながらバイクで走るのが好きである。
東京勤務だった頃は、日本橋小伝馬町から千葉の自宅まで、
わざわざ昔の海岸線を時間をかけてたどっていった事もある。

この日は財布の中からコーヒー無料のサービス券が出て来たので、
使用期限の切れる前に大東市新田旭町の「となりのごはん」という定食屋に行った。
ここの定食はボリュームがあってお腹の空いた時には重宝する。

食事が終わって、真っすぐ帰る気にもならず、何気なく旧道に寄ってみることにした。
昔の古堤街道、野﨑街道の大東近くのみ・・・だが。

野崎街道は、大東市野崎にある曹洞宗時慈眼寺(野崎観音)へ参拝する道で、
江戸時代の延宝の頃から明治時代まで大変な賑わいを見せたのだそうな。
正式には古堤街道の一部としての名称が野﨑街道である。
いずれにしろ定食屋から事務所までの帰るだけの、ほんの寄り道である。


(聖徳太子を祀った太子堂前にバイクを停める )


(とりあえず1枚自撮り)


(太子堂のかわいい本堂)


(となりの太子田大神社の説明文 )

説明文を読むと、もともとこの付近に善根寺という寺があり、
その寺が明治6年に廃寺となったおりに善根寺にあった聖徳太子像を安置したとある。

これを見て驚いた。
善根寺は10数年前に、とんど堂が事務所を構えていた東大阪市善根寺町という地名に残る。
この太子堂からは数キロ東側になり、この地の善根寺と何か関係があるのだろうがわからない。
善根寺に事務所を構えていた時、善根寺という寺はどこにあったのか気になって調べたこともあった。
いずれこの善根寺との関連性を調べてみたい。


(名前の割りには小さな太子田大神社)

大東市公式サイトの「だいとう新今昔物語」というページから拝借



太子堂の敷地内の善根寺の石碑は見なかった。
こんど時間のある時に、京橋あたりから古堤街道を走ってあちこち確認するつもり。


(北野神社)


(泉勝寺)

上の2つは通りかかったので撮影してみた・・・だけ。

ちょっとした寄り道的な旅が好きである。
仕事の合い間の、ほんの気晴らしである。
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真弓山長弓寺と真弓塚

2020年05月18日 | 旅行や街角メモリー
家の近所の歴史的なことを調べるのがマイブームで、
神武天皇聖蹟鵄邑顕彰碑に初めて気がついて行ったのであるが、
その神武天皇聖蹟鵄邑顕彰碑の北500mほどに長弓寺というお寺がある。

すぐ横の道はバイクで何度か通ったことがあるが参拝はしたことが無い。
ということで、ことのついでに訪問してみた。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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長弓寺(ちょうきゅうじ)は奈良県生駒市上町にある真言律宗の寺院。山号は真弓山。本尊は十一面観音。開山は行基と伝える。国宝の本堂は鎌倉時代の密教仏堂の代表作として知られる。
長弓寺の創建についてはいくつかの説があり、定説を見ない。『長弓寺縁起』によると神亀5年(728年)、鳥見郷の豪族である小野真弓長弓(おののまゆみたけゆみ)が聖武天皇]に随行して狩りに出た。同行していた長弓の息子・長麻呂が不思議な鳥が飛び立つのを見て矢を放ったところ矢は誤って長弓に当たってしまい、長弓は亡くなってしまった。不運な長弓父子を哀れんだ聖武天皇は僧・行基に命じて一寺を建立させた。行基は十一面観音像を安置してこれを本尊としたという。十一面観音像の頭頂には仏面が乗っているが、これは聖武天皇の弓を刻んだものだという。なお「鳥見(登美)」は長弓寺の位置する生駒山東麓を指す古い地名で、神武天皇東征神話にも登場する。現在の奈良市西部から生駒市にあたる。
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この近くは生駒市真弓という地名であり、わが登美ヶ丘と同じように歴史的な名前を付けた地名であることがわかった。
いい加減に「〇〇ヶ丘」とか付けた地名で無いことがわかって嬉しくなる。


(長弓寺の前にバイクを停める)


(バイクだと、どんなとこにも入っていけるので散策には重宝する)


(長弓寺本堂の左右のひさしの張り出しが見事である)

地図を見てると長弓寺の東700mに「真弓塚」の表示がある。目印は給水塔。
給水塔の横の階段を上ると見晴らしが良く、少し右手の木立ちの中に真弓塚があった。



ええ古都ならのサイトに説明文があった。
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小野真弓長弓(おののまゆみたけゆみ)の墓といわれる塚。真弓長弓は富雄の豪族で、息子の長麻呂を連れて聖武天皇の鳥狩に従っていたところ、運悪く長麻呂の射た矢に当たり、命を落としてしまう。その墓が当地に造られたとの伝承が残っている。また、真弓長弓の墓とする説のほかに弓を埋めたとする説もある。真弓塚は聖武天皇が真弓長弓の冥福を祈るために建立した長弓寺の飛び地境内であり、寺ゆかりの地と考えられている。
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ええ古都なら
http://www.nantokanko.jp/

これは面白いサイトを見つけた。

ネットが無かった頃は、知らないことは自分の国語辞典か、
家にあった現代用語の基礎知識と百科事典で調べるしかなかった。
学校の図書館で調べる手もあったが、そんな面倒なことはしなかった。
今は、わからなければすぐに調べられるすこぶる便利で興味が尽きない時代である。
本当にありがたい時代である。


(真弓塚の階段上から生駒山を望む)

繁忙期なので、なかなか充分な時間が取れない。
まだまだ近所には行きたいが行けてない場所が多い。
おいおい廻ってみようと思う。
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