稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

剣道、六段審査(2018年、4月29日、京都)

2018年04月30日 | 剣道・剣術
長正館から2名、なんば養正会から2名受審。午後の部。
結果は全員不合格。他の知り合い3人も不合格。難しいものだ。


(審査会場の雰囲気1)


(審査会場の雰囲気2)


(長正館、K芦先輩の立合い、右側、ビデオからのキャプチャから)

K芦先輩にしては上出来だったが、まだ相手が動くのを待っている。
最初は相面だったが相手のほうが速い。
間合いに入ったから打つというのでは遅すぎる。
返し胴でも、打たせて返すのではなく、打って来たのを返している。
出小手も待ち小手になっている。前に出るような小手は無い。
全体的には勢いが無かった。


(長正館、Kさんの立合い、右側、ビデオからのキャプチャから)

長正館のKさん。試合剣道なので相手が打ってきたら避けてしまうクセがある。
キャプチャの面は、攻めて打ったのではなく、意表をついて打った面。
この面、当たったように見えたが動画で見ると当たってはいない。
鍔から右拳が離れてしまうのも感心できない。
勢いはある。元気一杯である。しかし見栄えはしない。
有効打突があれば受かっていたかも?という感じ。


(なんば養正会のKさんの立合い、左側、ビデオからのキャプチャから)

なんば養正会のKさん。まず姿勢が悪い。猫背になってしまう。
構えは左拳が下がりすぎている。意識していても直らないクセである。
相手が動くのを待つ剣風。待ってる間に身体の軸がブレる。
打ったら打ったで勢いが無い。
後半は相手の面に対しての待ち小手ばかりだった。


(なんば養正会のKさんと結果発表を待つ)
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正眼の構え(長正館小野派一刀流定例稽古、4月26日)

2018年04月29日 | 剣道・剣術
月に4回の長正館小野派一刀流の定例稽古。
土曜日の17時から19時まで。
大阪市東住吉区中野中学校格技場。

時間前に剣道六段審査の二人が剣道形。
言いたいことは山ほどあるが一応は合格レベルだ。

稽古は初心者の稽古。
5月2日の京都大会演武者の稽古。
一般の稽古の3つに分かれた。

相方と軽く2回の演武稽古。まあ良いだろう。
あとは打方をずっと務めた。汗が止まらない。







稽古終了後にPさんから剣道の構えについて質問を受ける。
「真っ直ぐ構えなさいと指導されるんですが正眼じゃ駄目なんですか?」

彼は三段か四段か持ってるから「気にしないで正眼に構えたら良い」と答えた。

同じ道場(剣友会)の中で、段位が上の者から指導を受けるのは仕方が無い。
しかしその内容を取捨選択せずに、それぞれの指導を鵜呑みにしていたら、
いつまでたっても悩むばかりで自分の剣風は育たない。

体系だった指導をせず、先輩剣士が好き勝手に後輩を指導する。
これはよくあることだが名剣士ではなく迷剣士が生まれるばかりだ。

初段二段の初心者レベルの正眼は、左拳が安定せず剣先の攻めが効かなかったり、
横から腕だけ伸ばして打突したり、打突の際に左腰が逃げてしまったりする。

だから出来るだけ真っ直ぐ構えなさいと指導するし、
真っ直ぐ構えたところから真っ直ぐ正しく打てるように指導する。

しかし一定レベル以上になれば、正眼の構えからでも真っ直ぐ打てるようになるのが正しい。
「正眼の構え=三角矩(さんかくく)の構え」である。この構えで剣道は変わる。


(佐藤武道具店のサイトより拝借)

私も愛用している佐藤武道具店の甲手「夢玄」のページ
http://mugen.osaka/SHOP/freepage.php?id=1

三角矩(さんかくく)の構えとは
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自分の眼と丹田、切っ先を結ぶ三角形を三角矩(みすみのかね)に
見立て、相手側から距離感を悟られにくくする中段の構え。
三角矩の構えは、 守りにも、攻撃にも適した構えと言われています。
山岡鉄舟が開祖の「無刀流」にもまずは「三角矩」に構えよと説いています。
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甲手の修理

2018年04月28日 | 剣道・剣術
「器用ですね」って時々言われるがそんなことは無い。
お金に不自由してるから修理するのに慣れただけである。
細かく見ると粗が目立って本職には遠く及ばない。

実は本日、土曜日も朝から出荷があった。
朝の生駒の稽古に行きたかったが無理だった。

時間が無いのでブログは甲手の修理の写真。
27日の夜、仕事が終わってから事務所での作業。
時間は夜の9時過ぎかな?当然、養正会の稽古も行けなかった。
一日中パソコンを使うので目がショボショボする。これは職業病。

売り物の「いぶし革」は使わずに竹刀の柄革を使った。
適当に切って、革用ボンドで仮止めして針で縫う。
本当は革の断面を斜めに切ったりすれば良いのだがそんな事はしない。

この甲手はあまり好きじゃない甲手だった。
嫌いなので早く潰そうと一番良く使ったわけだ。
使ううちに慣れてきたのか一番調子が良くなってきた。
愛用の品って、そういうもんなんだろう。


(針が通りにくい時はラジオペンチで強引に通してます)


(これ以上の修理は本職に任せます)
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1分半の互角稽古、相面で負ける!稽古(木曜会、4月26日)

2018年04月27日 | 木曜会(誠先生の剣道教室)
今年16回目の木曜会稽古。
四條畷の市民活動センター。30名ほど。

書き込む時間が無いため重要な部分のみ。

発声を変えると剣道が変わる。
普段から開始線を意識して稽古をすること。
立ち上がっていきなり交刃になるような稽古をしていてはいけない。

立ち上がって、自分の肺の中の空気を、ぜーんぶ完全に吐き出す(発声する)。
吐き出した分だけ息が入ってくる。この空気を「氣」に変える。
中途半端に吐き出す(発声)すると中途半端にしか入ってこない。
その結果、中途半端な「氣」しか作れない。

氣を充実させて間境に入ると相手は堪え切れなくなる。
相手は息を吸っても吐いても打たれるという気持ちになる。
その状態で相手が打とうとした瞬間に技が出せたら一番良い。


(最後は1分半の回り稽古)


(K本七段の出頭面)

1分半稽古の終わりのほうでK本七段と当たった。
初太刀はお互いに決まらず、途中で相面で打たれ、後半で出小手を打たれた。

打たれた原因。

そもそも若いK本七段とはスピードが違う。
スピードが違うのに教科書通りに一足一刀の間から右足出して打ちに出た。
その部分でK本七段は気が充実し「いつでの打てる状態」であった。
間境を越えた時の勢いはK本七段のほうがはるかに上だった。
こちらも真っ直ぐ打ったつもりだが途中で逸れてしまうのを感じた。

教科書通りに打つのが悪いわけでは無いが、
少し形にとらわれ過ぎてしまった感は否めない。
本当に大切な、気の充実、勢いというものが疎かになっていたように思う。

昨夜(4月26日)の木曜会の稽古は良い稽古だった。
改めて「初心に戻って稽古しなければ!」と反省した次第。
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相面について思うこと(長正館矢田中学校、4月25日)

2018年04月26日 | 剣道・剣術
矢田中学校体育館。
19時前に来たが井上館長と弟子と私の3人だけ。
何やら近鉄南大阪線が動いていないのだとか。
JR奈良線も人身事故で遅延してるだとか。
列車テロでなくて良かった。

取りあえず弟子と剣道形稽古。大太刀5本まで。

3本目の入れ突きになやす部分。
4本目の打太刀の構え。仕太刀との呼吸の合わせ方。
脇構え、八相から、いったん、左上段になっての正面打ち。
5本目の仕太刀の残心の取り方。

以上が特に指導したところ。

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稽古は最終6人。
人数が少ない分、中身の濃い稽古になる。
けっこうハードな稽古だった。

昨夜は弟子との相面勝負を少しやってみた。

弟子との相面についての考察。

F六段が弟子に「粕井さんとの相面で負けても気にしてはいけない」、
「粕井さんは横から打ってくるけど、Sさんは真っ直ぐ打ってるから負けても良い」
との指導をしていた。

うん、ある意味正しい。
まずは真っ直ぐな正しい正面打ちが打てること。
しっかり打ち込んで真っ直ぐ速く打てる稽古が大事である。
勝つとか負けるとか考えずにひたすら真っ直ぐ打ち込む稽古だ。

しかしだ。
私が横から打つ(正しくは相手の頭頂部の1寸左右を打つ)のは、
そのほうがきちんと面に当たるからそうするだけなのだ。それだけ。
真っ直ぐ打とうが横から打とうが速く打てるほうが勝つ。

そして、同じ打つなら真っ直ぐ打ったほうが絶対に速い。
横から打つほうが速いという理由は無い。
基本的には横から打ってはならない。

「粕井さんは負けないようにと横から打っている」と言ったけど、
ここはF六段が間違えているところ。
同じ条件なら横から打つと負ける。

昨夜の横からの面というものは、
特に切り落として打っていたわけでは無いし、
右手で相手の竹刀を打ち殺して打ってるわけでは無い。

お互いに真っ直ぐ打つと竹刀と竹刀がぶつかり合ったり、
時に鍔や拳がぶつかり合って怪我するのがイヤなだけである。

相面で大事な事は「相手より先に打つ準備が完了しているか否か」である。

特に振り返ってすぐまた面を打つような相面勝負の稽古の場合、
スピードでは無く、先に振り返って、相手を良く見て、
打つ体勢が相手より先に出来ていたほうが面で打ち勝つのである。
間境を越える部分で打つ準備が完了しているかどうか・・である。

昨夜の弟子への指導で言いたかったのはこの部分。
安易に間境(虜点)を越えてはならないという部分である。
あとは右手の冴えの部分。これが出来れば確実に強くなる。

弟子は中学生なので体移動のスピードは速い。
速いのでどうしても遠間から飛び込んでくる。
しかし速いだけでは「飛んで火に入る何とやら」になってしまう。
中学生同士なら早い方が強い。女子は分が悪いのは仕方が無い。

相手がガンガン飛んでくるタイプなら、
迎え打つような技も身に付ける必要がある。
これは今後の課題。

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私が打つ時は真っ直ぐ打てる時は真っ直ぐ打ち込む。
相手の左面を狙ったほうが良い場合は右足僅かに右方向に出して左面、
相手の右面を狙ったほうが良い場合は右足僅かに左方向に出して右面を打つ。
切り落とす場合は相手より少し遅らせて打ち込む。

これらは瞬時に判断して出す技である。
最初から決め打ちするわけではない。

人に稽古をつけている場合も自分の稽古はするものだ。
弟子との稽古でも、必ず自分の課題を稽古している・・というわけだ。


(基本稽古、井上館長はK芦五段の足を気にしておられる)


(基本稽古、必要以上に右足を前に投げ出すようなクセが抜けない)


(基本稽古、K部五段は力を抜いた打ちが少しずる出来るようになった)


(K芦五段とF六段の地稽古)


(井上館長)


(K部五段は昨年五段を頂いてから構えが良くなった)


(K芦五段とK部五段、お互い打ち負けないようにと右手に力が入り過ぎる)


(K部五段は、相手の打ちを避けようというクセを無くせば良くなる)


(弟子とF六段の相面稽古)


(F六段の指導、「負けてもいいから真っ直ぐ打つことが大事!」)
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NEX-C3 猫三様

2018年04月25日 | うちの猫の写真
いよいよムカデの最盛期です。
「ムカデが出たので最短で送って下さい」の声多数。
15時までの注文は当日出荷を目指すので大変です。
稽古にも行きたいのでこの時期は独楽鼠のように働いてます。

そんなわけで、忙しいので猫の写真で誤魔化します。

SONY NEX-C3 固定焦点レンズ、35mm焦点距離24。


(三男の膝の上のみーちゃん)


(ツンデレの月ちゃん)


(ちょっとぶさいくな星ちゃんは懐っこくて一番かわいい)


(星ちゃん、束縛されるのはイヤだけど、いつも身近にいる)
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昭和56年(1981年)の思い出

2018年04月24日 | つれづれ
忙しいので昔の写真の紹介。
昭和56年(1981年)のもの。


(昭和56年5月3日、連休中に奈良に帰省した時のもの)


(次兄はこの時、風伝流の槍術をやっていたように思う)

その頃は岩手県盛岡市に居住し、新明館橋市道場で剣道を再開し、
剣道二段を頂いたばかりで有頂天になっていた頃だ。
奈良の実家の庭で、兄(隆)や従弟(扇田智司君)と古武道か何かで戯れていた時の写真。



(昭和56年7月、東亜特殊電機、秋田駐在所の前で)


(この赤い車が、当時営業で使っていたトヨタカリーナ1600バン)
(大雪で、この車がこの場所で、すっぽり埋まって見えなくなった事も数回あった)

弱電機器(放送設備)の営業で秋田県を担当していた。
1週間、秋田県内を営業し、週末に盛岡に帰ると500キロ前後になる。
冬期の深夜の山越えなど、危険な事も多かった。

東亜特殊電機株式会社(現TOA)に、
駐在所という制度は正式には無かったが、
往復の時間がもったいなくて駐在所を作ってしまった。
高速道路も新幹線も無かった時代である。

秋田では奥山京助範士八段が指導される興陽館道場に通い始めた。
仕事も剣道も、何をするにも新鮮で全力投入で楽しかった時代だ。
親から自立し、独りで生きていくんだと実感できた時期だった。


(3DKの小さな駐在所は、翌年、そのまま新婚の家となった)
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仕事だがバイクも楽しむ(日記4月22日)

2018年04月23日 | バイク・クルマ
22日は日曜日だが4月5月は休み無し。
出荷こそしないが出荷の下準備で忙しい。
少し遅いめに起きて家を出る。

気候も良いのでバイクにした。
交換したメーターの調子も見たかったのもある。

途中で前から気になっていた田原城祉に寄った。
四条畷の生駒側にある城跡である。
上までは登らない。写真を撮っただけ。
ここは昔の街道沿いなんだそうな。


(田原城祉を望む)


(アップ画像)


(古堤街道、中垣内越えの説明文)


(アップ画像)

ここから山越えするとすぐ事務所だが、
仕事をする気にもならず上本町の粕井の墓までバイクを走らす。
粕井の紋が、杭全神社から頂いたと聞き墓の紋を確認したかったからもある。
急に思い立って行ったのでお花も線香も無しで水かけだけである。


(粕井家の菩提寺の顕考庵、大阪市中央区中寺、鴻池家の菩提寺の中にある)


(祖父、粕井信一の墓、唐花の紋)

粕井信一(号 豊誠) 徳壽院信契豊誠居士 昭和48年9月17日没
粕井きみ(旧姓 古瀬)清光院菊相妙白大姉 昭和15年10月27日没

私の紋付は「丸に唐花」である。まあ、分家の分家だからあまり気にしなかった。
ただの唐花よりは「丸に唐花」のほうが格好が良い。


(丸に唐花、とんぼ堂の家紋データより)


(右隣は鴻池家の撃剣指南役兼用心棒、旧姓岡本改め粕井秋五郎の墓、こちらは紋無し)

粕井秋五郎(旧姓 岡本)秋山心月居士 明治38年11月9日没 
粕井マス        芝蘭妙秀大姉 昭和26年2月18日没

撃剣指南役なんて書いたが、明治の時代だから本格的な剣術ではなくて、
鴻池の奉公人相手に剣術の真似事を教えていた程度だろうと思う。
背が高くて腕っぷしも強く用心棒も兼ねていたというのは祖父から聞いた話。
いや、用心棒が本業かも。

関連記事 2016/12/15「曽祖父・粕井秋五郎(かすいあきごろう)」
https://blog.goo.ne.jp/kendokun/d/20161215


(帰りに昼食、なか卯の親子丼、山椒は昔は瓶入りだったが、今は頼めば小袋をくれる)

途中で梱包用の袋を買おうとシモジマに寄った。
お目当てのものは在庫切れ。最近のシモジマは品切れが多い。
品切れが多いのでネットで買うことが多くなった。
少しぐらい高くても良い。わざわざ買いに行って品切れは困る。

けっきょく夜の8時過ぎまで仕事。
夜道もバイクのメーターは支障無い。


(メーター、少し左に傾いているが、違和感は無いのでそのままにしておく)

帰りにガス欠。
メーターを交換した時にすでに減っていた。
おまけにコックを予備タンク側に倒していた。
走行距離50キロでガス欠したので「何で!?」って少し驚いた。
ガソリンスタンドが近くにあって良かった。
もし手前の国道163号の清滝トンネル内だったら焦っただろうなあ。
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長正館、小野派一刀流定例稽古(4月21日)

2018年04月22日 | 剣道・剣術
月に4回、土曜日の17時から19時まで。
長正館、小野派一刀流の定例稽古。
大阪市東住吉区中野中学校格技場。

暑い土曜日だ。
午前中から出荷で忙しくギリギリまで事務所でバタバタしてた。
そうそう、新人の木刀も用意しなくっちゃ。
なんば養正会には平野剣道協会さんが出稽古らしい。
行きたいが土曜日、特に第3土曜日は一刀流に専念と決めている。

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相方M氏と5月2日の京都武徳殿での演武内容を決める。
一ツ勝、本生、上段霞、拳之払、浮木、切返、左右之払、逆之払。
久々に合わせてみた。まあ良いだろう。
演武の場合は比較的ゆっくり大きく使うので緊迫感は無くなる。
相方とはもっと速く荒々しく実戦的にやりたいのだがそうもいかぬ。

一刀流の面白いところは真行草の使い分け。
演武は真行草の真しかしないので教科書的である。
演武だけ見て一刀流を理解したつもりになってはいけない。

5月2日の京都の次は6月10日の伊勢神宮の予定である。


(I氏は左手首の故障のため、打方を務めてもらった)


(吉田正氏は大病を患ったが何とか稽古に復帰しておられる)


(K先輩は長正館のブルース・リャン・・・らしい)


(RS氏の構えが良い、これは中段から下段に変わるところ)


(M女史は唯一の女性剣士である)


(後半は構えの稽古から、1)


(後半は構えの稽古から、2)


(井上館長とTさんの演武稽古)


(故障にも関わらずI氏は最後まで打方を務めた)
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体力の無さを感じる(4月20日、なんば養正会)

2018年04月21日 | 剣道・剣術
途中から参加したにも関わらず、暑いせいもあるのか何だか疲れ倍増で、
最後のほうは足が動かず手だけで誤魔化してしまったような稽古だった。

養正会は二段~五段が多い。
その分、剣先での攻防というものが少なく、
間合いに入ったらすぐ打ってきたり、待っていて小手を打ってきたりする者が多い。
どんどん攻めかかって動かして打てば良いのだが体力が続かない。
水木金と稽古が続いたのか、暑いのか、仕事が忙しくて疲れていたのか、
いまいち乗りの悪い稽古内容になってしまった。

両足が筋肉痛である。
年のせいにはしたくないのである。


(基本稽古のあとの回り稽古)


(自由稽古の1コマ)


(黙想)
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気迫、気勢、間合い、打つべき機会の捉え方の稽古(木曜会、4月19日)

2018年04月20日 | 木曜会(誠先生の剣道教室)
今年15回目の木曜会稽古。
四條畷の市民活動センター。
体育館半分、最後のほうで全部。30名ぐらい。
今回の稽古も盛りだくさん。本当に勉強になる。

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3人組。
まずは切り返しから。
1)大きくゆったり伸びやかな切り返し。
2)遠間でしっかり構え、肺の中の空気を吐き切って声を出す。そこから大きく切り返し。
3)呼吸法で切り返し。肺の中の空気を吐き切って声を出すのは同じ。
4)一呼吸での切り返し。数は制限無し。

気迫、気勢を自分の中にいかに作っていくか。
切り返しによってこれを作っていく。
一呼吸の切り返しをすると、技が途切れない剣道が出来るようになる。

次は横一列になって足捌きの稽古。
1で右足出し、2で左足を引きつけ、3で右足少し出す。
1の動作は左足で右足を押し出すように。1のみ、すぅ~と大きく。
先日の八段選抜の石田利也も、この足捌きで見事な面を打った。
寸田(上丹田)と下丹田を結んだ線がズレながら前に出ると攻めが効かない。
体軸がブレない攻め、打ちが有効打突に結びつく。

次は正面打ちの稽古。
1)遠間で気合、先革交差部分で一回止まる、そこから打ち間に入って打突。
打ち間から打突する時は、五せいがんを攻めながら打つ。
--------------------------------------
せいがん(五つのせいがん)について
正眼=喉
青眼=左目、「あおせいがん」
晴眼=眼と眼の中心、「はれせいがん」
星眼=額の真ん中、「ほしせいがん」
臍眼=臍、「へそせいがん」
--------------------------------------
2)自分から間合いに入り止まる。相手が動こうとした瞬間を打つ。
3)誘いを入れた出頭面。

位取り、位詰めのある打ち。一足一刀の間合いで「さあこい」という体勢。
気が詰まってしまった場合(どちらも打てない状態)で誘いが効く。
誘いを作って、虜点、間境を越える。

出小手、相小手面、小手に対する応じ面、返し胴、相面(互角)の稽古。

winwinで相面を打ってもどちらかが勝つ場合がある。
自分だけ勝ちたいと思うと防ぎながら打ったりすることになる。
胸襟を開いて「さあ打ってきなさい」「こちらも打ちますよ」という剣道は、
捨て切った気持ちの良い剣道になる。

審査対象者の立ち合い稽古組と一般地稽古組に分かれ時間まで。
切り返しをして終了。

------------------------------

気迫、気勢、構え、間合い、打つべき機会の捉え方。
一番大事なのは「間合い」であり、間合いは左足が基準となる。
間合いがわかったら名人である。(西善延範士の言葉)

左足が基準、基点となって、いつ打てるのかがわかる。
間合いを切る、間合いを詰める、そこから攻めて打つ。
これは左足を基準とした一挙動の打突が出来ていることが基礎になる。
こうなると打つべき機会は相手が教えてくれる。


(最初の礼が終わり面を着けるところ)


(手前は審査対象者グループ、奥はその他の地稽古グループ)


(地稽古の様子)


(審査対象グループは立合い稽古と地稽古)
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長正館矢田中学校での稽古、4月18日

2018年04月19日 | 剣道・剣術
矢田中学校体育館。
19時過ぎから弟子と剣道形稽古。大太刀5本まで。
一般の四段程度のレベルまで打てるようになった。

特に注意したいこと2点。
4本目の剣先の流れは打太刀仕太刀とも左上段まで振りかぶって面を打つ。
5本目仕太刀の残心は、剣先を顔に付けてから上段となること。

構えや気の合わせ方などが次の課題。

剣道形は本当に奥が深いと思う。
先日の選抜八段でも形演武があったが大いに不満があった。
どこが不満なのかはあえて書かない。(問い合わせには応じます)

-----------------------------

稽古は途中でC六段が久々に参加して計7人。
7人いるとかなり良い稽古が出来る。嬉しい嬉しい。

C六段、F六段は二人とも試合巧者なので、
崩さないでおこうと思っていても崩れてしまいがちになる。
ここは自分自身への課題である。


(K新五段の基本打ち、右肩に力が入り過ぎている)


(K旧五段の基本打ち、右手に力が入り過ぎだが、これでもかなり良くなった)

右手に力が入り過ぎるとどうしてもコントロールが悪くなる。
立ち合い稽古もしたが、せっかくのチャンスも面を外して打つことが数回あった。


(F六段の基本打ち、身長もあるので遠間から打ち込めるがやや前傾になってしまう)


(弟子の基本打ち、打ったあとにバンザイになる、悪くは無いが治せるなら治そう)

打ったあとにバンザイになるのは試合中に良く見る光景である。
試合用の残心と言っても良いのだがこれを快く思わない先生もいる。
出来るなら治し、場合によっては使えるようにしたら良いと思う。


(五段2名、六段2名、七段2名なので、初段の弟子にとっては良い稽古になると思う)

高段者が多い場合、アドバイスがそれぞれ違って戸惑う場合がよくあるものだ。
違うアドバイスも突き詰めていけば同じ事を違う角度から言っている事が多い。
どのアドバイスも正しいと考え、優先順位を決め、自分の課題として順番に克服すると良い。


(六段試合巧者同士の稽古)


(同じく)


(弟子とC六段)
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No.9(昭和59年11月5日)

2018年04月18日 | 長井長正範士の遺文
○剣道は精神の発露から考えなければならない。
ややもすると気を抜いた近間での叩き合い技術の末に走り易い。
これでは剣道とは言えない。
競技本意なら近間で当て合いしてもよいがそうではない。
剣道と言う限り先ず心得なければならないのは気合が大切であると言うことである。

気合とは心と肉体の合一(ごういつ)したものを言う。
例えば幼児がプールにはまりかけた時、危い!と思った時、
また自転車で角を曲がる出合いがしらに人が来た時、
危い!と思った時など「ハッ」とする。これが気合である。

掛け声は気合と似ているが少し違う。
即ち掛け声は心と肉体(気合)と技の三つが合一したものである。
さてそこで構えた時は下腹にうんと力を入れて一杯の掛け声を出す。
そうすると無我の境に入る。そこから勇気が生まれ集中力が備わる。
気合が一杯に入っているから邪念が無くなり、充実した気剣体の打ちが出る。
こうでなければ剣道とは言えないのである。

○掛け声の出し方について。
構えた時は下腹から出す。
甲手を打つ時は咽喉から出す。
面を打つ時は上腹(水月=みぞおち)から出す。
突きを突く時は下腹から出す。
胴を打つ時は腹一杯から出す。

(以下続く)

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父、貫次の事

2018年04月17日 | つれづれ
父、貫次は4月7日土曜日の深夜1時に亡くなりました。
深夜1時ですから6日の夜と言っても良いでしょう。
満94歳と4ヶ月。本当に長生きでした。

数日前から体調を崩し、寝ていることが多くなったと聞きます。
それでも夕食に、甘くした牛乳を2杯飲み、
そのあと自分で缶ビールを冷蔵庫から取り出し飲んで寝たようです。
そのあと息をしていないことに義姉が気づきました。
眠ったまま亡くなったという事です。

海軍航空隊で生き残り、
高度成長の波に乗って繁栄し、
斜陽が見えた時に引退し、
趣味に生き、好きなお酒を楽しみ、
そして眠るように死んで行ったのです。

父から教えられた事はたくさんありますが、
一言で言うならば、

損得より善悪
粗にして野だが卑では無い

という事になるだろうと思います。
直接教えられた言葉ではありませんが、父の言動から学んだ事です。

何よりも感謝しているのは丈夫な身体に産まれ育った事。
粕井家の家系病とも言える痛風や高血圧を除き、大きな病気もありません。
そして、出来が悪いにも関わらず大学まで行かせてもらった事。
中卒で働きに行っても良いとまで思いつめてた私が、
大学まで行き就職も出来たのはやはり父のお陰です。

父とは30才から52才まで同じ会社にいました。
この時期の私の立ち位置や状況は複雑で説明は難しいのですが、
この22年間は忍耐努力我慢我慢我慢・・そして臥薪嘗胆なる思い。
精神的に本当に強くなりました。そういう意味では感謝しています。

感謝すると同時に、父の経営に対する甘さと、
引退したあと、私を含め、残された社員達に対する心配も無しに、
自由奔放に老後を送ったことへの憤りが、
晩年の父との距離を一方的に作ってしまいました。

そんな気持ちよりほんの少し前、
父と母がまだ元気なうちにと、
2005年に伊勢志摩、2007年に金比羅山に家族で旅行に行きました。
豪華な旅行に慣れた両親からしたら慎ましい旅行だったろうとは思いますが、
貧乏な私にとってはかなり思い切った旅行でした。
親との最後の旅行でした。とても楽しく過ごせた良い思い出です。

父も母も幸せな人生だったと思います。
そして私の親に対しての不満なんてのは、
結局は親に対しての「甘え」なんだと思っています。
子としてもっともっと甘えたかった。ただそういうことなんです。

ありがとう。
生んでくれてありがとう。
育ててくれてありがとう。
叱ってくれて励ましてくれて褒めてくれてありがとう。
この世に生まれた喜びを胸に感謝の気持ちで生きていきます。
ありがとう。安らかにお眠りください。


(昭和35年頃、天橋立や玄武洞へ家族旅行、手前、左から隆、誠、滋)


(2005年1月、伊勢神宮詣で)


(2005年1月、伊勢志摩の民宿泊)


(2007年3月、金比羅山詣で)


(2007年3月、金比羅山の湾曲鏡の前で、父と)


(2007年3月、金比羅山の門前町の旅館で一泊)


(2007年3月、香川県多度津の桃陵公園、「一太郎やーい」の銅像の前で)
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父、粕井貫次のお別れのご挨拶

2018年04月16日 | つれづれ


粕井貫次 お別れのご挨拶

皆様、本日は、私の告別式にご参列を頂き、ありがとうございます。
昨年、9月11日に妻睦子に先立たれてから、めっきりと気力・体力が弱まりました。

睦子からは、「私はあの世でゆっくりしたいから、
お父さんは、皆に迷惑を掛けないようにしながら、この世を十分に楽しんで下さい。」
「お父さん、早く、あの世にこないでね。」と言い残されました。

しかし、12月10日に満94歳になったのを機に、
近づく、お迎えを考え、隆と相談しながら、川柳を織り交ぜて、
貫次らしい「お別れのご挨拶」を作っておく事にしました。

【私の生い立ち】
私は、大正12年(1923年)12月10日に大阪市東区内久宝寺町に、
父:信一、号は豊誠、母:キミの次男として生まれました。
本名は、完。完成と言う言葉の「完」の字を「たもつ」と読みます。

海軍で姓名判断に詳しい上官から、粕井完では、総画数が良くないと言われ、
戦後、「貫次」を通称に使い始めました。
そして、昭和54年に、戸籍上も、貫次に改名しました。

粕井家の先祖は、河内平野郷で、
鴻池家の配下にて河内綿の加工・販売に従事していた家のようです。
屋号は糟屋。綿の糟を扱っていたのでしょうか。
この糟屋の屋号が家名:粕井の由来です。

家紋は、唐花。これは、平野の郷社である杭全(くまた)神社から
ご先祖が頂いた紋であると聞いています。

明治維新により、洋綿が日本に流入して、我が家は没落しました。

祖母マスは、鴻池家に拾われて、奥女中として
お嬢様の稽古事のお相手などを務めていました。
その鴻池家に、長州士族の岡本秋五郎も勤めており、
やがて、秋五郎が祖母マスと結婚して、粕井家に婿養子に入りました。

父、信一は、若い頃は日本画家を目指していましたが、
私が物心ついた頃には、平版印刷の版下を描いていました。

仕事は住み込みの弟子達に任せ、本人は、謡、郷土玩具集め、
旅行と趣味が多彩で、川崎巨泉など、大阪の文化人と広く交流がありました。
「浪華趣味道楽宗三十三所」や「娯美会」という趣味人の会にも参画していました。
子どもの躾には大変厳しく、よく「勉強をしろ」と叱られました。

母、キミは明石の古瀬家の出身。
優しい人でしたが、昭和15年、47歳の若さで亡くなりました。
父、信一は、長生きをして、昭和48年に、84歳で亡くなりました。
父は亡くなる年の春にも台湾旅行を楽しんでおり、
元気な老人で、当時としては大変な長命でした。

この父の長命筋を、幸運にも、子供が引き継ぎ、
今や兄弟4人全員が、父の亡くなった年を、めでたく越えました。
私は、男ばかりの4人兄弟の次男です。
長男:宏は私より2歳上、弟の寛は3歳下、末弟の實は8歳下です。
宏兄さん、寛さんとは、戦後、フタバヤ、後のホワードを創業し、
長らく仕事を共にしました。

これについては、後で話をします。
實さんは、私が睦子と結婚した当時は、まだ学生でした。
幼い頃に母を亡くし、兄弟も男ばかりだった為か、睦子になついてくれ、
睦子の家事を「姉さん、姉さん」と、良く手伝ってくれました。
粕井家で公務員になる者が少ない中で、實さんは、神戸大学経済学部を卒業後、
陸上自衛隊に入隊し、陸将補まで、昇進しました。

さて、兄弟の性格は4人4様です。
隆に最近、兄弟4人の性格を聞いてみました。隆の言葉です。

「玉手山の宏伯父は、おおらか。生駒の寛叔父は、理知的。東京の實叔父は、優しい。」
「そして、お父さんは、頑固で勝手者。」
「え~」と思っていると、「でも、とっても努力家」と付け加えてくれました。
そう言えば、私は小さい頃、「ごてたも、ごてもんのたもつ」と呼ばれていました。
大きくなっても、この性格は変わらなかったのだと思います。

さて、川柳です。
◆「有難く 僕の兄弟 みな存命」
◆「兄弟が 揃って八十路 うまい酒」

【海軍飛行予備学生、そして、特攻へ】
東商業学校を卒業後、軍需工場の山階鉄工所に勤めながら、
夜は大阪専門学校(今の近畿大学)で学んでいました。
当時の徴兵年齢は、満20歳でしたが、それより1年前、19歳で志願をして、
昭和18年9月に、第十三期海軍飛行予備学生として、三重航空隊に入隊しました。

徴兵前に海軍を志願したのは、
体力のない自分が御国のお役に立てるのは飛行機だと考えた事と、
陸軍恒例の新兵への「しごき」に比べ、海軍にはスマートさを感じたからです。

また、家を継ぐ長男の宏兄さんが、川西航空機で技術者として働き、
弟2人がまだ年若の中、男兄弟4人の中で次男の自分が戦場に行かねばという、
若者としての心の高ぶりもありました。

当時は、本土空襲こそまだないものの、日本の劣勢を国民が重く感じており、
また、ご近所でも、年輩者の出征が相次いでいました。

予備学生としての三重航空隊での訓練を終え、
海軍少尉に任官。予科練の指導教官になりました。

当初は、零式水上偵察機に乗っていましたが、特攻編成になり、
九十三式中間練習機、世にいう『赤とんぼ』での特攻訓練を、
鹿児島国分航空隊、熊本人吉航空隊、香川観音寺航空隊、で積み重ねました。

昭和20年8月10日、つまり、終戦の5日前に、
鹿児島国分航空基地で、特攻出撃30分前を体験しました。
12機編成の神風特別攻撃隊「乾隆隊」の一番機です。
天候不良により、出撃は中止。命を長らえました。

今から思うと、生と死が紙一重でした。
予備学生同期の34パーセントが戦没しています。
私は思い掛けず、命を長らえ、戦後、幸せな人生を歩めました。
特攻出撃、散華した同期や部下と、私の戦後の幸せとの違いを考えると、
何時も、感謝の気持ちと、申し訳ない気持ちで一杯です。

一方、海軍で、19歳から21歳の若さで、
少尉・中尉として部下を指導・統率する立場・経験を得た事が、
会社経営者としての基礎と心構えを、自然に形成してくれました。

川柳です。
◆「特攻の 一番指揮機 名乗り出る」
◆「特攻隊 出撃止めで ある命」
◆「こみあげて 同期の桜 歌えない」
◆「目に浮かび 貴様と俺が 歌えない」
◆「冷房の部屋 靖国へ 手を合わす」
◆「戦友の 4倍半も 生かされて」

【起業、フタバヤからホワードへ】
戦後、闇市で、まず、パンやイースト菌の販売をしました。
これから商売として何が当たるかを考えて、繊維・衣料品販売に目をつけました。
そして、あちこちを探し回り、大阪市南区順慶町心斎橋筋に
間口九尺二寸、奥行き二間の店を見つけました。

開店は昭和22年1月10日、商売繁盛の恵比寿さんの本祭りの日です。
屋号は、フタバヤ。
当初は、兄:宏さんと2人でしたが、その後すぐに寛さんが参加しました。

睦子と昭和25年に新婚生活を始めたのは、この店の小さな奥の間でした。

フタバヤは、最初は素人相手の小売店でしたが、
地方の衣料品店の求めに応じて、衣料品卸売業に転換、
業界で最初にセルフ販売を取り入れ、社名もホワードに改名しました。
初めは、社長:宏、専務:貫次、常務:寛、
後に、宏:会長、貫次:社長、寛:専務の経営体制でした。

高度成長時代に上手く乗れ、東京店を出店するなど、社業は順調に拡大しました。
実際は、兄弟の意見が異なる事も多かったのですが、
業界からは、「ホワードが強いのは、三本の矢、
宏:経営、貫次:営業、寛:経理」があるからだ、とよく言われていました。

また、倉本長治郎先生に箱根の商業界ゼミで商売の心を教わった事、
船井幸雄先生に経営の鉄則を学んだ事、ダスキン創業者の鈴木清一さんに、
先輩経営者として親しくご厚誼を頂いた事、今では良き思い出です。

川柳です。

◆「大阪中 駆けずり回り 店見つけ」
◆「九尺二寸 開店の日が 本えびす」
◆「商売の まなこ開けた 箱根ゼミ」

【妻:睦子】
睦子とは、昭和25年に戦友の古沢龍介君の仲人で見合い結婚をしました。
睦子は、正に才色兼備、料理も上手く、気難しい私とは違い、
気さくで、思いやりのある性格で、広い交友関係を持っていました。

一方、さっぱりとした性格で、夫である私には、甘える事などまったくなく、
その意味では、そっけない妻でした。

しかし、お互いが老年になり、いたわり合ってから、
新たな夫婦の関係が芽生えたと思います。
睦子が、昨年、私より先に旅立ったのは、残念な思いで一杯です。

川柳です。

◆「わが妻は 時には天女 時に夜叉」
◆「来生の 契を妻に いなされて」
◆「手を握り 妻につれなく ほどかれて」
◆「あっちこち いたわり合って 老夫婦」
◆「お互いに 病院通い 老夫婦」
◆「この僕を 見送ってから 逝ってくれ」
◆「早朝に 妻の寝息を 確かめる」
◆「人生に 波風あった なあ妻よ」

【子供と孫・ひ孫】
昭和27年に滋、昭和28年に隆、昭和30年に誠の3人の男子を得ました。
滋は、未熟児で生まれたので丈夫に育って欲しい。
隆は、隆々たる人生を歩んで欲しい。
誠は、誠実で信頼される人になって欲しい。
という願いで、それぞれ名前を付けました。

特攻が中止となり、生き長らえた私の命ですが、
子3人、孫10人、ひ孫7人、我が子孫が20人に、広がりました。
ひ孫は、これからも増えると思います。

幸せな事に、隆の長女さやか、が、7年前から、ひ孫3人を引き連れて、
月曜日から金曜日に掛けて、同居してくれるようになりました。

3人のひ孫達は、貫次・睦子・隆・みづほ、の4人生活に咲いた、
正に枯れ木に花の存在でした。
身体が不自由になった睦子と私にとって、さやか、が日々の生活の頼りであり、
ひ孫の進太郎、みのり、あかり、との触れ合いが、
外に出る事が少なくなった老人二人の生きがいでした。

川柳です。どうしても、可愛い、ひ孫の句が多くなっています。

◆「何とまあ 子から孫から お年玉」
◆「わが血引く 二十の命 生き生きと」
◆「ひ孫たち 大ばあちゃんを 放さない」
◆「ご飯でチュ 末のひ孫が 言いに来る」
◆「二歳半 ひ孫パタパタ 呼びに来る」
◆「三人目 ひ孫を膝に 飲むビール」
◆「三人の ひ孫に読書 乱される」
◆「ひ孫たち 可愛さ八で うるささ二」
◆「小生の ひ孫は行儀 それなりに」
◆「入院を 心配ひ孫 した涙」

【ホワード引退と東邦でのエルダー人生】
平成の世になり、ホワードの業態、前売り衣料問屋は、
地方でのショッピングストアの台頭、「しまむら」の多店舗展開、
衣料品産地の海外シフト等の中、徐々に商売が厳しくなってきました。

平成9年、ホワードが創業50周年を迎えた年に、
経営陣を刷新する為に、私は社長を退任し、経営を離れました。

その折に、次男:隆の勧めに甘え、
隆の会社:東邦ビジネスコンサルタントのエルダーとして、
毎日、東邦の事務所に出勤する事にしました。私が、74歳の年です。

東邦は、若い女性スタッフが多く、社長:隆の親父として、
特別待遇で大事にしてくれました。
昔話の相手や、パソコンの指導を快く務めてくれました。
90歳を過ぎて、足腰が弱って、電車で通えなくなるまで、
東邦で過ごす時間が、現役引退後の私の楽しみでした。

川柳です。

◆「引退後 柔らか席が 待っていた」
◆「ネクタイを 毎日替えて 新事務所」
◆「居るだけで 良いと言われて 居る至福」
◆「エレベーター 前まで今日も 見送られ」
◆「ボク好み 美人の席が 斜め前」
◆「パソコンの ベテラン嬢も 頼れそう」

【学業と趣味】
東邦を大阪での活動の拠点とし、東邦の顧問料を軍資金として、
若い頃、現役時代に適わなかった学業と趣味を楽しみました。

まず、学業です。
平成11年:産能大学 経営情報学部 学士
平成13年:佛教大学 文学部 学士
平成15年:大阪商業大学 大学院 地域政策学 修士
平成19年:放送大学 大学院 文化科学研究科 修士

学位は、昭和27年に働きながら夜学に通った、
近畿大学商学部と合わせて、合計5つになりました。
私の勉強好きの血は、残念ながら子と孫には伝わりませんでした。
ひ孫達には、是非、私の勉強好きが遺伝して欲しいと、曽祖父として願っています。

趣味は、川柳、謡曲、絵手紙、写真、太極拳、水中歩行、
気功、リズム体操と、多くを楽しみました。
気功やリズム体操では、男性は私一人。嬉しい事に、
美人の先生が、男一人の私に個人レッスンをしてくれました。
その頃、個人ブログ「粕井貫次の最近感じること」を立ち上げました。

川柳です。
◆「学生証 老春手帳と 使い分け」
◆「修士論文 まとまるように かしわ手を」
◆「学位記が 五つ目自分 よくやった」
◆「僕以外 気功教室 みな女性」

【特攻体験を語る】
平成18年頃から、戦争体験、特攻体験を世間に語るようになりました。
特攻の真実、国を守りたいという当時の若者達の心を、
少しでも戦争を知らない世代に知って貰いたいと考えたからです。
私の戦争体験・特攻体験は、
「雲流るる果てに ~出撃30分前 特攻隊員の戦争体験~ 」
「特攻 最後のインタビュー」
として、まとめ、残しました。貫次家の子孫の家で、家の記録として、長く伝えて下さい。

【健康・リハビリ、そしてヘルパーさん】
90歳を超える頃から、身体が徐々に弱まり、耳と目も悪くなりました。
デイサービスでのリハビリ、家に来てくれるヘルパーさんを川柳に読みました。

まず、健康の川柳から
◆「ケイタイも スマホも無用 目と耳が」
◆「スカタンが 多い痴呆の 先触れか」
◆「いやな事 聞かない様に 遠い耳」
◆「マイナスの ことは聞くなと 遠い耳」
◆「故障は ここだと思えば あっちこち」
◆「長生きも 痛いしんどい あっちこち」
◆「広告の サプリメントを つい買って」

次に、リハビリの句です。
◆「リハビリの お蔭か杖を 置き忘れ」
◆「快調で 次のリハビリ 待ち遠し」
◆「すみません 有難さんが 多くなる」
◆「トレーニング 過ぎたか食後 うとうとと」
◆「手も足も 苦労を掛けたな 有難う」

そして、毎日家に来てくれるヘルパーさんと、
世話になっている訪問看護婦さんを読んだ句です。
◆「ヘルパーさん 心優しく みな天使」
◆「ただ感謝 訪問看護 ヘルパーさん」
◆「楽しみは 今日のヘルパー どなたかな」
◆「親切な ヘルパーさんに つい甘え」

【お酒】
お酒は、私の生涯の友です。
入院中の病室にワンカップ日本酒を持ち込んで、看護婦長さんから、
「お酒を飲むなら退院して下さい」と、厳しく叱られた事もありました。

お酒を読んだ川柳です。
お酒の句は、絞るのが難しく、多くの句を聞いて下さい。
◆「幸福な 人生でした うまい酒」
◆「運の良い 人生だった うまい酒」
◆「缶ビール あと酒一合 おらが春」
◆「こんなのが 幸せだろうな 酔い心地」
◆「晩酌の 睡眠薬が 待っている」
◆「楽しみは 晩酌だけで 欠かせません」
◆「何時退院ですか ビールが 待ってます」
◆「晩酌は うまいが睡魔 連れてくる」
◆「年かなあ 晩酌の量 また減って」
◆「卒寿来て 不義理してます 夜の酒」

【人生を読む】
粕井貫次の人生を読んだ句です。
中身が重なっている句もありますが、聞いて下さい。
◆「禍福あり 福多かった 九十年」
◆「生と死の 境を越えて 七十年」
◆「これからの 生き方すべて 自然流」
◆「助かった 命素直に 生きてます」
◆「長生きの 見本をせめて 子や孫に」
◆「百寿まで 生きてみようか 手術終え」
◆「有難や 孫十人に ひ孫七」
◆「何もかも 欲なくなった 九十四」
◆「ふりむけば 七転びなり 運をつれ」

【お別れに臨む心】
94歳を迎えた今の気持ちを、川柳に読みました。
◆「大往生 呼ばれるまでは 生きようか」
◆「お迎えに 南無観世音 喜んで」
◆「お迎えが 来たら素直に 参ります」
◆「やり残し この世未練は ありません」

【感謝の気持ち】
まず、みづほ、へ
ありがとう。隆と結婚してからの長きの同居。孫、ひ孫との交流。
特に、睦子への長い間の介護、自宅での看取りと、
身体が不自由になった私の日々の世話。
何時も、食事は家族みんなで一緒でした。
私の好物を食卓に揃えてくれました。
贅沢な家族旅行にも、賑やかに行きました。
振り返って見ると、隆夫婦と同居して、私達夫婦の幸せがありました。
みづほ、健康に留意して、将来、隆と楽しい老後を過ごして下さい。

さやかへ
孫に大事にお世話をして貰った、日本一幸せな祖父母です。
父:信一は男兄弟4人、私:貫次も男4人兄弟、
そして、子供は滋、隆、誠の男ばかりの3人。
睦子も4男1女の男家庭。
さやかは、そんな男環境の中で初めて得た、可愛くて心優しい女の子でした。
さやか、そして、ひ孫達の幸せを、あの世で仏様に、睦子としっかりお願いします。

妙子さん、妙ちゃんへ
睦子の弟、昌司君の嫁と言う、粕井家とは遠い関係の筈なのに、
本当に長らく我が家を支えてくれました。
睦子が30台で、長らく肝炎で入院した折に、
ワンパク盛りの息子達がグレずに育ったのは、妙子さんのお陰です。
そして、睦子が自由に暮らせたのは、妙子さんの存在があったからこそです。
ありがとう。末永く、お元気で。

恵美子へ
何時も私の話し相手になってくれて、ありがとう。
誠と孫達の事、宜しくお願いします。

そして、本日ご参列頂きました皆様方に、それぞれ、大変お世話になりました。
感謝しております。

【最後に】
そろそろ、お別れの時間です。子、孫、ひ孫達に伝えたい事を話します。

海軍五省、海軍時代に教え込まれ、私が現役時代に、心の支えにした教えです。

一 至誠に悖るなかりしか
一 言行に恥ずるなかりしか
一 氣力に缺(欠)くるなかりしか
一 努力に憾(うら)みなかりしか
一 不精に亘るなかりしか

子、孫、ひ孫達も、この五省を人生の支えにして、
「長さ、強さ、広さ、深さのある未来」を、楽しく生きて下さい。

私の最後の川柳です。
◆「いい人生 だったさようなら 子や孫に」

どうか、皆様、運の良かった私の人生のおすそ分けを貰って下さい。

では、さようなら、お元気で。

粕井貫次






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